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時代劇の水戸黄門とは、権中納言である江戸時代の水戸藩主・徳川光圀の別称かつ、徳川光圀が隠居して日本各地を漫遊して行なった世直し(勧善懲悪)を描いた創作物語ですが、実際の水戸黄門はどんな方でしたか?

A 回答 (6件)

大日本史編纂を開始した人。


水戸家のみ参勤交代は無く、江戸詰めだったので、徳川光圀も江戸から離れる事は出来ず、諸国漫遊なんてあり得ません。
また、大名が勝手に諸国漫遊は出来ません。
他家の領地へ出向く場合も幕府の許可が要ります。

大日本史編纂の実務を取りまとめたのが安積覚兵衛(あずみ かくべい)で、その配下の1人が佐々宗淳(さっさ むねきよ)で俗名が介三郎(すけさぶろう)です。
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ほとんど巷談で作った娯楽時代劇。


実際は水戸黄門は柳沢より、先に亡くなっている。

全国漫遊などしていない。
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> 実際の水戸黄門はどんな方でしたか?



No.1の回答の通りでしょう。
https://komonsan.jp/gosaijin/
   「黄門」とは… 中納言の唐名。
元来は中国古代の宮廷の門の扉が黄色に塗ってあったことから、王宮の門の異称でしたが、秦・漢代には、この門の中にあって執務した侍従職の官職名として「黄門侍郎」の名がありました。
日本で中納言の異称とするのは、その職務内容が類似するためです。

   「水戸黄門」は7人いた!!
徳川光圀公を「黄門様」の愛称でよぶのは、光圀公が権中納言で「水戸黄門」と称されたことによります。
水戸藩には権中納言に叙された歴代藩主が7名居り、従って「水戸黄門」と呼べるのは、光圀公を含めて7人ということになります。

水戸光圀は、ネットで、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D …
藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、「快風丸」建造による蝦夷地(後の北海道石狩国)の探検などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業に力を注いだ。さらに、徳川御三家の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。
同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が確立している。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(「水戸黄門」参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海(新編鎌倉志参照)を除くと、現在の関東地方の範囲から出た記録はない。
光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のため(「徳川御三家」参照)、頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらしたとの指摘がされている。
光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
  ~~~~~~   人物イメージ   ~~~~~~~~~
日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。亡命してきた明の儒学者朱舜水を招聘し教授を受けている。朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録も残っている。 ラーメンも光圀が最初と言われてきたが、光圀が食した時期より200年以上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンのルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが平成29年(2017年)に判明した。
鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだ。
肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は将軍・綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれた。
オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲したりするなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。
当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。
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ちょっとへそ曲がりの偏屈な人。

歴代黄門様の中では、初代の東野英治郎のイメージに近い。
 生類憐みの令で有名な将軍綱吉に、冬は寒いでしょう。これを着なさいと、犬の毛皮を贈ったほどの、反骨精神の持ち主。
 悪い家臣をねじ伏せてという逸話もあることから、見かけによらず怪力の持ち主と評判。
 家系的には、少し複雑。
大日本史で天皇を必要以上に神格化したことが、幕末の水戸学=尊王思想→倒幕に繋がる。徳川家からみれば、どんでもないはねっ返り。
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現実には 時代劇にあるように、諸国漫遊は出来なかった筈。


藩主は 他にやることが 山ほどあった筈です。
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水戸黄門とはそもそも徳川光圀の別称ではなく「中納言ないし権中納言に叙任された水戸藩主の唐名別称。

」なので、頼房(初代)、光圀(2代)、綱條(3代)、治保(6代)、斉脩(8代)、斉昭(9代)、慶篤(10代)の7名が水戸黄門です。
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