牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

ある程度の年齢以上で、子供の頃に親や親以外の大人から殴る蹴る等の暴力を受けないで育つ人っているんでしょうか。
確かに子供の体にあざをつくるくらいなら虐待と言えるかも知れませんが。
子供に殴る蹴るをやり続けていればすべて虐待になってしまうんでしょうか。
虐待ってどの程度で虐待って言えるんですか?
悪意を含んだ言葉の暴力も入るでしょうか?

A 回答 (9件)

せっかく目に入りましたので、違う視点からご回答いたします。



例えばレスリング?などの格闘技を習っているお子様にビンタしたところで、お子様は虐待だと感じられるのでしょうかね。
逆に一度も叩かずに溺愛していたお子様が悪い事をした為にビンタをしたら大きなショックを受けるのでないでしょうかね。

虐待かどうかを感じるのは本人である事に間違いないと考えます。
また、虐待の内容にはある程度の指標があってよいとも考えます。

別視点からですが、親御様が日頃からどのような教育をされていらっしゃるかどうかが肝ではないでしょうかね。
当然体罰に限度はあるにせよ、虐待を虐待と捉えないお子様はある意味で立派なお子様だと思いますけど。
そのお子様も実は知らず知らずにストレスで組織内で人間関係を乱しているかも知れませんけど。

感情的になって夕飯の量を減らす親御様より、正当な理由を持って竹刀で叩く親御様の方が親らしいと思いますけど、いかがでしょうか。
お子様への虐待のご心配より、真っ当な教育をなされているかを重要視すべきでないのかな~とね。
小さな事でも幸せを感じられるお子様は大人らしいと思ったりします。

ちなみにワタクシは母親から感情的にテッシュ箱を投げられて育った子供でちた。
こんな大人じゃ説得力ないかな?笑
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私は親に手を挙げられた方ですが、虐待だったとは思いません。


主人はやんちゃだったようで、ケツバットの刑とか、正座の刑とか逆さ吊りの刑とか
締め出しの刑などあったようです。
聞いた時は驚きましたが、罰は約束(躾)のひとつだったようですよ。
○○をしてはいけません○○をしたらケツバットの刑5回と納得させての行為だったようです。
ですから約束をやぶれば、謝っても泣こうが喚こうが約束ですから○○の刑は必ず
執行されます。
この約束に対して罰は何か・・・としていれば、それ以上の回数は虐待となるように思います。
感情的に行うのも虐待のうちではないでしょうか。

>悪意を含んだ言葉の暴力も入るでしょうか?
=もちろんです。言い聞かせる対象に悪意を含んだ言い方では意味が伝わらないし、
間違った事を正すのを目的としているなら、お互いが冷静でいる時に話しをする方が
最善だと思いませんか。(幼い子でも繰り返すと解ってきますよ)
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>子供に殴る蹴るをやり続けていればすべて虐待になってしまうんでしょうか。


当然でしょう! もしや ならないとでも思ってんですか??
(上記の表現は「何分間にもわたって」というイメージを持ちましたので)

>虐待ってどの程度で虐待って言えるんですか?
これは 虐待と躾の境目の話ですよね?
「愛情をもって」が躾で、「自分の感情にまかせて」が虐待だと思います。

がしかし どちらにせよ「やってる方の理屈」であって 受け手側が どう判断するかで
愛情を受け取れるか受け取れないかが分かれてくるのでは ないでしょうか。
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この回答へのお礼

やり続けるというのは、何か子供が失敗やいう事が聞けない事情があった場合に叩く、蹴るという事です。

>「愛情をもって」が躾で、「自分の感情にまかせて」が虐待だと思います。
ということはかなりの率の子供が虐待を受けて育つ事になりますが。半数以上が虐待を受けている事になるんじゃないでしょうか。

お礼日時:2008/04/26 07:45

回答になっていなくて、すみません。



私、親や親以外の大人から、殴る蹴る等の暴力を受けた記憶はありません。
「駄目でしょ!」ってな感じで、母親から頭をハタかれた事はありますが
これが「殴る蹴る」に当たるのでしょうか?

「殴る蹴る」って、一度に何回も立て続けに、殴っているようなイメージを抱く言葉なのですが
もしそうなのであれば、それは躾ではなく、虐待なのではないのでしょうか・・・。
躾というより、子供に恐怖心を持たせ、個性や意思を殺してしまっているだけなのでは。

また、躾といえど、「蹴る」って、アリでしょうか。
足で、蹴るんですよね・・・。
親から蹴られたら、一生忘れられない傷になると思います。
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 世間や社会の後押しを以って、その行為の正当性が成されるものだと思います。

手を挙げる者とそれを受ける側との相互関係によって「正当な体罰 vs 虐待」のどちらかに転ぶ、というものではないと思います。
一発のビンタでも「虐待」、又はボコボコに半殺しでも「教育」となるケースがまちまちなのは誰もが認めるところですが、これらの基準や正当性の根拠となるものは実は周囲の後押しと社会全体で漠然と了承されてきた観念として根着いていただけであると考えられます。それを打ち壊して相当領域を「虐待」だとその論拠を積み上げてきたのは戦後の左傾した教育による「人権」と「ヒューマニズム」至上主義による、一種の弊害なのだろうと僕は考えています。
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それが自分の為か相手を思っての行為かで変わるんじゃないでしょうか。


実際私が小さい頃(小学校低学年くらいまで)は、親の言う事を聞かず毎晩のように母親に怒られて頬を引っ叩かれていました。
でも、ある日母がいつものように言う事を聞かない私の頬を叩こうと腕を上げた瞬間私が両腕で顔を覆ったのを見て「これは躾じゃなくて、虐待なんじゃないか」と思ったという話を母から聞いた事があります。
それ以降は滅多な事で叩かれなくなりましたね。

lokker manさんも書かれている通り、親とは言え人間ですから感情に流されてしまい思わず手を上げてしまうという事もあるんでしょうね。
ただ、それを「躾だ」と思うか「自分が感情的になってしまった結果」と思うかの違いで変わってくるんじゃないでしょうか。

悪意を含んだ言葉はどう考えても虐待だと思います。
それが自分の子供であろうと、先生から生徒へ向けられた言葉であろうと、悪意が含んでいる時点で虐待じゃないでしょうか。
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これはねぇ、親になれば、多分、わかるんだと思うんだよな。



まぁ、本当にどこかおかしい親もいると思うけど、普通は、やってる親は、だいたい心の奥底でわかってるもんなんだよ。叱って子供を叩いているのと、「あぁ、今、オレはただ腹が立って叩いてるな」ってのとね。

自分が、客観的に少し離れたところからその状況を見ている感じで、「ここは、叩いてでもことの重大さを教えないといけない」と思っているなら、そんなにひどい叩き方はしない。お尻を叩くとか、ほっぺたでも大きな音はするけれどそれほど痛くない叩き方をするとか。だけど、腹が立っていると「痛い思いをさせてやる」てな感じになっちまってることがある。これは完全に虐待だな。

言葉で「これこれは虐待です」とうまく定義はできないだろうけど、実は親になればたいていは区別はつくようになる。そういうものでないか。ただ、人によってその境界にばらつきはあるだろうけどな。
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この回答へのお礼

親限定ではなく、先生や親戚などはどうでしょう。
やりすぎて暴力教師として職を追われるとか。

お礼日時:2008/04/25 10:12

体罰と虐待の境目ですね。


これは難しいですよ。
犬などの躾けなどでも同じなのですが、

間違えた体罰のやり方をし続けていると、
躾けのつもりで殴ったり叩いたりしていても、
言うことを聞いてくれなくなり、
体罰がどんどんエスカレートしていきます。
結果、虐待になるわけです。

本来は、本人にその気があるかないかによって
虐待であるかどうかという判断基準になりそうですが、
その気のない、悪意のない虐待というのもありえますので、
やはり、世間一般からみてどうかということが
一つの判断基準になりそうです。

過剰な、継続した、悪意のある、躾けによる改善を期待しないもの
は虐待といえそうです。

体罰、言葉の暴力、無視、放置など、
虐待といえると思います。
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過剰な体罰はもちろん虐待です。


言葉の暴力も虐待、無視するのも虐待です。
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