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古今東西の知性が常に「読むべき」本として名前をあげる「カラマーゾフの兄弟」。その中でもとりわけ根源的な問いをつきつける「大審問官」については解説を試みたものも少なくありません。しかし、私にとってはすべて一般化しすぎた結論に終わっているように感じられ、しっくりいきません。特にキリスト教(カトリック・プロテスタント問わず)を信じる方々はこの問いをどのように自身の内で処理されているのでしょう。ご意見お聞かせください。たくさん聞きたいことはありますが、今回お尋ねしたい問いの部分は以下のとおりです。(原文どおりではありませんが)

・人間は「神」よりも、まず「奇跡」を求める
・おまえ(キリスト)は選ばれた者のためだけにやってきたというのか
・強い人たちが堪え忍んだことに、それ以外の弱い(しかしおまえを愛している)人たちが堪えられなかったからといって、何が悪いというのだ。人間はおまえが思うよりも遥かに弱く作られているのだぞ

以上、よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

こんにちは。

一応クリスチャン的な立場からお答えします。

・人間は「神」よりも、まず「奇跡」を求める

 人間の弱さというか信仰の弱さを皮肉った言葉でしょうか。見えないものよりも、見えるものにすがってしまう弱さですかね。イワンはそれを「人間というものは」と言って一般化しようとしていますがそんなことはないと思います。聖書には「信仰は聞く事柄から生じる」(ローマ10:17)とありまして、正確な知識や理解があれば奇跡がなくても強い信仰を持つことはできますよ。
 また、奇跡は信仰を強めるもことありますが、興味本位の好奇心だけで終わってしまう人もいます。
イエスの奇跡を見たユダヤ人の中にはそんな人々もいました。
「コラジンよ、あなたは災いです! ベツサイダよ、あなたは災いです! あなた方の中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたなら、彼らは粗布と灰の中に座ってずっと以前に悔い改めていたからです。したがって、裁きの際には、あなた方よりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。そしてカペルナウムよ、あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。あなたはハデスにまで下るのです!(ルカ 10:13‐15)
そして十二弟子のトマスですらも、初めイエスの復活を信じず、実際にイエスを見て触れるまでは信じないと言い張ったことがありました。それに対しイエスはトマスの前に現われ「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見なくても信じる者は幸いです。」と諭しています。このことから、人にはそうした信仰が可能であり、また勧められていることがわかると思います。(ヨハネ20:29)
 

・おまえ(キリスト)は選ばれた者のためだけにやってきたというのか

 そのくだりでは、黙示録の7章の14万4千人の記述が引用されていましたね。ですが同じ章の9節からでは選ばれた彼ら以外にも「すべての国民と部族と民と国語の中から来た、だれも数えつくすことのできない大群衆」が救われる者として記れています。また使徒パウロはクリスチャンだけでなく、キリストの教えに接したことのなかった人たちにも救いの機会が公平に与えられることを示し「わたしは神に対して希望を持っておりますが、その希望はこれらの人たち自身もやはり抱いているものであり、義者と不義者との復活があるということです。」と語っています。使徒24:15。


・強い人たちが堪え忍んだことに、それ以外の弱い(しかしおまえを愛している)人たちが堪えられなかったからといって、何が悪いというのだ。人間はおまえが思うよりも遥かに弱く作られているのだぞ

聖書には「すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しない」(ローマ3:23)とあります。ですが不完全で弱い人間に対する神やイエスの見方は以下のとおりです。

神はわたしたちの罪に応じてわたしたちを扱うことをされなかった。 わたしたちのとがに応じて、当然受けるべきものをわたしたちにもたらすこともされなかった。・・・・・父が自分の子らを憐れむように、 エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。神ご自身がわたしたちの造りをよくご存じであり、 わたしたちが塵であることを覚えておられるからだ。(詩編 103:10、13、14)

わたしたちは、わたしたちの弱いところを思いやることのできない方ではなく、すべての点でわたしたちと同じように試され、しかも罪のない方を、大祭司(イエスを指す)として持っているのです。それゆえ、時にかなった助けとして憐れみを得、また過分のご親切を見いだすために、はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか。(ヘブライ 4:15‐16)
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docomomo10さんの投稿が参考になりました。


私はロシア文学を良く読みますが、そんなに論理的に論じません。

もし、ロシア語の原文を読むことがあったら、ご参考まで書いておきます。
日露・露日オンライン辞書です。
http://www.yaku.ru/
無料で使えますよ。

また、Solov'yov(Соловьёв)というロシアの哲学者の本も参考になるのではないかと思います。

参考URL:http://www.yaku.ru/
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ANo.1への再質問がありましたので、その続答です。



地獄というものは、神がお造りになったものではなく、地獄に堕ちるようなものが自ら好んで作り出し、またそこへ自分から好き好んで赴いて行くところです。だから彼らにとっては少しも地獄ではないのかも知れませんし、彼らにしてみれば一種天国のようなところだと思っているのかも知れません。それは現実の世界でも、またインターネットの世界でも、そういった類いの場所(サイト)がありますから、そこを創り出した人、そこへ頻繁に通う人のことをお考えいただければおわかりになるかと思います。この世でも『類は友を呼ぶ』ということは言えますが、この世では魂の修練上、善人も悪人も交歓可能な状態にありますが、あの世でははっきりと善霊と悪霊に分かれます。魂の性質に応じて、自ら好むところに従って自然と色分け(グルーピング)されるということです。それは最後の審判(第一の審判・第一の復活)の後の、この世の至福千年王国についても言えることです。

また、信教上の類別ということで言えば、「サマリアの女との問答」(ヨハネによる福音書第4章21節~24節)にありますように、『イエスが言われる、「女の人、わたしの言葉を信じなさい。間もなくあなた達が、この山でもエルサレムでもなくどこででも、父上を礼拝する時が来る。ただ同じ神を、あなた達は知らずに礼拝し、わたし達は知って礼拝している。救いはユダヤ人から出るので、わたし達だけに神が示されたからである。しかしユダヤ人もサマリア人もなく、本当の礼拝者が霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。いや、今もうきている。父上もこんな礼拝者を求めておられるのである。神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。」』ということです。形式ではなく内容だということです。『結ぶ実(=信条ではなく実際の行動)によって知れる』のです(ルカによる福音書第6章43節~45節/マタイによる福音書第12章33節~37節)。あたりまえのことですが、わかりにくいでしょうか。

神が『生めよ増やせよ地に満てよ』と言われたのも、過去地球に輪廻転生した魂を一同に会して、「入学の募集案内(=福音)および入学試験の実施要項(=『イエスは言われた。「心のかぎり、精神のかぎり、思いのかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。これが最大、第一の掟である。第二もこれと同じく大切である。隣の人を自分のように愛せよ。律法全体と預言書と聖書は、この二つの掟に支えられている。』マタイによる福音書第22章37節~40節)を等しく公平に周知徹底せしめるためかと、個人的には思っております。またそうでなくては最後の審判もあり得ないですよね。あなたがもし裁定者の立場に立ったとしたなら、キリスト教徒といわれる人の中からだけでメンバーを選んで「理想の国」を作るのか、それともレッテルやブランドにかかわりなく、広く心優しい善男善女の中から本当に佳いものだけを選び抜いて「それ」を作るのかとお考えいただければ、それは明らかなことかと思います。「これはフェアじゃないよな」とか「これは無理筋」とかいう、あなたが普通に抱かれる疑問や当たり前の正義感覚を、大切にされたらよいと思います。


今回のお尋ねに際し、久しぶりに『カラマーゾフの兄弟』を読んでみましたが、「ゾシマ長老」のところは「使える」と思いましたが、「大審問官」の方は「さっぱり」でした。私はアリョーシャではないので、もし私がイワンに声をかけるとしたら、「ま、がんばってください」といったところでしょうか。それは、ドストエフスキーに対しても同様であり、「ご苦労さま」って言ってあげたいですよね。小説は所詮小説です。小説とは「小人の説」の謂いであり、小人とは君子の対義語です。「ロマンス」というものは、〈こども大人〉のお伽噺・ファンタジーだということです。物語形式の宗教説話では、旧約聖書に『ヨブ記』がありますが、『カラマーゾフの兄弟』がロシア正教のカノン(正典)に登録される可能性は、今後ともゼロかと思います。宗教から宗教小説へというアプローチは可能かと思いますが(ドストエフスキーの辿った道ですね)、小説から宗教へという道はないと思います。オリジナルからコピーは作れても、コピーからオリジナルへは復元出来ないということです。

私は二十歳前後に『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』を立て続けに読んで、「日本の小説」とは全然違うじゃないかと衝撃を受け、そのとき「もう小説はいい」と感じて、それ以後ほとんど小説というものを読まなくなりました。小説を解説した文芸評論は読みますが、「作り話」というジャンルでいえば、子供向けのファンタジーやマンガ(最近のお気に入りは『のだめ』デス)を専ら好むようになりました。小説とは99%の真実(リアリティ)を積み重ねて、1%の嘘(結論ないしは主目的)をつくものです。「作り物」なら始めから終わりまで、「これは作り事ですよ」と正直に「警告表示」してある『商品』の方が害がなくてよいということです。立派な世界文学といわれる一種深刻で本物めいた「作り話」を真に受けて悩むのは、〈子供〉が余所で悪いおじさんから怖い話を聞かされて、夜一人でトイレに行けなくなり、それで一緒について来てぇーとねだるようなもので、〈親〉にしてみれば笑いながらも、半分困ったものだなぁと思っているということです。あなたのお尋ねは、スーパーマンの映画を見て感化され(次男イワンの哲学は超人思想かと思いますが... )、風呂敷をマント代わりに二階から飛び降りて、足を骨折することに似ているのです。

映画『マトリックス』のモーフィアスの言葉を借りれば、「知ることと歩むことは違う」のです。霊界にも「魔法学校のようなもの」はあるでしょうが、『ハリー・ポッター』を読んで、「魔法学校ってどんなところなんですかあ」と訊かれても、「はあ、あれは〈子供〉向けのファンタジーだから」と笑って答えるしかないのが、〈大人〉の正直な気持ちです。キリスト教のことを本当にお知りになりたければ、「正統な型」から学ばれた方がよいと思います。宗教にかかわらず、あらゆることに関して『学問に王道なし』ということが言えるかとも思いますが、もしあなたが、八百万の神々とともにある汎神論的な立場、あるいは無神論的な立場を固守し、正統な形での一神教に近接する道を忌避されるのであれば、ドストエフスキーよりも宮崎駿のコミック版『風の谷のナウシカ』(全7巻)を熟読されることをお勧めします。それは、キリスト教的福音から取り残された人々の、つまり最後の審判(第二の審判・第二の死)の後の至福千年王国崩壊以後もこの地球世界に取り残される人々への、「ポスト千年王国的福音」となりうるものです。実際そちらを勉強された方が(真に受けられた方が)、魂を陶冶し真に善男善女になる(自分自身の魂を救う=『神は自ら助けるものを助ける』)には、その方が役に立つかと思います。

以上「大審問官」のような大問題に対するお答えとしては、はなはだ心もとなく、また私の至らなさから失礼な言葉もありましたでしょうけれど、こんなところでよろしいでしょうか。なにかございましたら、また。
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この回答へのお礼

再三にわたり詳細なご回答感謝いたします。しかし「小説」をそこまで貶めなくても、とも思うのですが。。(その割に俗っぽい映画や漫画の話がたとえにでてきたり・・・。霊界にも魔法学校のようなものがあるのですか??)。私は別に汎神論や無神論に固執しているわけではありませんが、キリスト教的な「全知全能の神」に危うさを感じているだけです。とりあえず漫画はあまり読んだり見たりしませんので、参考になりました。私の方こそ、失礼な点が多々あったと思いますが、未熟者ゆえ何卒ご容赦ください。

お礼日時:2008/05/04 16:56

あなたの質問に、回答するのを迷いました。

それはこの質問が難しいからでもあり、またある意味、カトリック教徒である私にとっては、答えが簡単でもあるからです。それはこういうことです。宗教から宗教哲学へと至るアプローチは可能ですが、哲学から宗教に至る道はないということです。なぜなら、いい意味でも悪い意味でも、宗教は理屈ではないからです。

キリスト教をひと言でいえば、「お互いに愛し合いなさい」ということです。そして、ユダヤ教からキリスト教が生まれたということは、神もまたイエス・キリストというひとりの人として受肉されたということですから、神と人もまた同じように、お互いに愛し合うようになれたということです。私の敬愛する神父様は、よくこんなことをおっしゃっておられました。「クリスマス(降誕祭)の日に、我々の主が、人である聖母マリアを囲む人々の間にお生まれになったということは、か弱き幼子への絶えざる気遣いや優しさをもってしなければ、我々の神が死んでしまうようなものとして誕生したということであり、我々の神への信仰もまたそのように、弱き者をケアするような愛をもってしなければ、絶えてしまうものなのだ」と。

人が人を愛するのは、相手に何かよいことをしてあげたいという隣人愛からであり、キリスト教の神への信仰(神への愛)もまた、それと同様のものです。ですから哲学的には、あるいは文学的には、「大審問官」のような疑問(哲学的命題)は面白い問題なのかも知れませんが、キリスト教徒にとっては、それはなんら問題ではないのです。解決する必要もない疑問という意味です。キリスト教徒が神を愛するのは「愛さずにはいられない」からであり、それは恋することに似ています。たとえ恋が、好みの異性のタイプという「予備審問」をクリアして始まるものだとしても、母親が子供を愛するのはそうではありませんよね。我が子をどうしても愛せない母親もいますが、逆にそれが母性愛が純粋な本能でないことを示唆していますし、一般的に母親が子供を愛するのは、是非ともそうしたいから、それが喜びだから、あるいはそれが義務だから、つまり「愛さずにはいられない」からと言ってよいでしょう。

ですから、人と人が愛し合うようになった後、さまざまな現実的困難に直面して、いわば愛が試練を受けた時、愛に疑いが生じることはあり得ますが、しかしその「哲学的審問」は、自分の愛の不全に対して向けられるのが、相手を愛そうとする者にとっては自然だということです。たとえば、相手に幻滅したからといって、愛をささげる相手の選択を間違えたのではないかと(離婚したりして)「予備審問」をやり直すようでは、相手を愛しているのではないということです。つまり愛の不調に際して、愛の対象である相手への疑問として「審問」が立ち上がるようでは、実際は自分を愛しているに過ぎないということです。「大審問官」の「審問」のベクトル(疑問や疑いの眼差しを向ける方向)が、自分ではなく相手(キリスト)の存在論的条件へと向かっているようでは、自分の神への愛し方の不調を問うているのではなく、自分が相手(神)を計りにかけた審級(=知性的な選択眼=哲学)を問うているに過ぎないということなのです。結局「大審問官」(の作者である次男イワン)は相手を量る秤で、自分が神から量られているのだということです。神への愛である宗教は、哲学的問題ではないがゆえに、神を愛する者、あるいは神を愛そうと思っている者にとっては、「愛さずにはいられない」からそうするのであって、「大審問官の問い」を解決してから愛するのではないということです。

恋をしたことのない人に、恋するときめきをわかってもらうのが難しく、また鰻(うなぎ)の蒲焼きを食べたことのない人に、その美味しさを説明することが困難なように、宗教を哲学すること(知性的にアプローチすること)もまた難しいのです。あなたが、一般的な「大審問官」の解釈に満足されずに、カトリックやプロテスタントのキリスト教徒に(ドストエフスキーはロシア正教だと思いますが...)回答を求めて来られたのも、あなたがどこかでこの疑問の解決に対して、哲学的アプローチではなく、宗教的アプローチを志向されたからかも知れません。つまり、恋を恋愛論として知りたいのでなく、実際に恋を体験してみたいと思い始めたから、いわば恋に恋する年頃になっておられたからかも知れません。だとしたら、どうか私の答えに満足されることなく、ご自分の疑問を簡単に片付けないで、これから長い時間をかけて、ご自分でその答えを見つけていっていただきたいと思います。最初にこの質問に回答を寄せることをためらったと私が申し上げたのは、そういう意味合いにおいてです。神の御恵みと平安があなたのもとにありますようにお祈りします。

この回答への補足

昨日お礼を書かせていただいたばかりですが、やはり貴方にこの質問に対する答えを真正面から聞いてみたくなりました。ご迷惑でない範囲で結構ですので、お考えをご案内いただけましたら幸いです。たとえばキリストを信じていないとはいえ、何の罪もない心優しい善男善女は、最後の審判の日には地獄に堕ちても当然だとお考えでしょうか。(もちろん、キリストを信じないということだけで罪があるといわれればそれまでですが)。こういう人は、無宗教(神を信じない)でも奇異の目で見られることのない日本には特にたくさんいらっしゃると思うのですが、これが「おまえ(キリスト)は選ばれた者のためだけにやってきたというのか。強い人たちが堪え忍んだことに、それ以外の弱い(しかしおまえを愛している)人たちが堪えられなかったからといって、何が悪いというのだ。人間はおまえが思うよりも遥かに弱く作られているのだぞ」が提示している問いです。そういう方を一人でも無くすためにキリスト教徒の方は日々努力されているのでしょが、自然神を中心とした多神教を伝統とする日本では限界があると思います。神を愛さずにいられないキリスト教の方々からみて、やはりそういった人たちは獣に等しい(欧米では無宗教というとそう見られることが多いそうですね)、ということになるのでしょうか。

補足日時:2008/05/03 20:25
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この回答へのお礼

詳細なご回答、感謝いたします。ただ、冒頭に「宗教は理屈ではない」といわれた時点で、この議論は成り立たないものと納得いたしました。確かにこの問いは、私の様に神の存在とその意味自体に懐疑的、つまり「大審問官」にある「跪拝の統一性」を求める人間によって作り出された対象ではないか、と危ぶむ者にとって意味があるのであり、全面的に神(キリスト)を信じる方にとっては、この問題は存在しないに等しいですね。ありがとうございました!!

お礼日時:2008/05/02 23:35

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