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学生の頃、友達が読書感想文の題材でライトノベルを使っていました。
作文は高評価だったのですが、ラノベが題材ということで先生に苦い顔をされたらしいです。
それを思い出して疑問に思ったのですが、読書感想文=純文学(一般文学作品)ってイメージが強いですよね。ラノベで書く子もいますがそれって少数だと思いますし。

この扱いの差って何だろう?と疑問に思いました。
ラノベと一般文学の違いを比べたら、表紙のイラスト(萌え絵かどうか)・文体・題材がファンタジーが多い等色々出てくると思います。
でも表紙がイラストに関して言えば「仏果を得ず」「夜は短し歩けよ乙女 」「十二国記」なんかもイラストですよね。でもこれらの作品はラノベじゃなくて一般文学作品に括られてます。表紙の「イラスト」が問題ではなく「萌え絵」(アニメや漫画をあまり見ない人が見てオタクぽいと感じる絵?)かどうかなのでしょうか。
最近だと桜庭一樹の作品がハードカバーになりましたが、文庫版にあった可愛いイラストはなくなっていましたし。

あとちょっと話がずれますが、乙一・桜庭一樹・小野不由美等もラノベを書いていましたが、最近では文学作家に分類されてる気がします。これは賞をとったから?

私の母はアニメや漫画は手塚治やジブリくらいしか詠まない人ですが、小説は沢山読んでいます。ですがラノベに関しては読みたいと思ってはいるけど手はでない、と言っています。
ラノベを読まない人はどうして読まないのでしょう?
読書感想文でラノベを題材にすると顔を顰める人は多いと思いますが、何故でしょう?
疑問符が多くてすみません。
うまい質問文が思いつかないのですが、ようは上記のような扱いの違いって何故なんだろう?ということです。

私はラノベも読みますし好きですが一般文学で育っているので、どうしても贔屓目で考えちゃいます。
なのでラノベ愛読家(そうでない人でも!)の皆さんの意見が聞きたいです。
よろしくお願い致します。
ちなみに「ラノベだって面白い作品あるよ!馬鹿にするな!」という回答ではなく、ラノベと文学の扱いの差(?)についてでお願いします。

A 回答 (9件)

この問題を論じるにあたって、必ず踏まえなければならないと思われる、古典的な文章があります。



横光利一「純粋小説論」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2152_ …


ここで「通俗小説」とされているものと、現在のライトノベルは、時代の変遷による違いはあるにせよ、位置づけとしては似た物として考えて差し支えないと思います。

僕は、ライトノベルと呼ばれるものはほとんど読みません。
一番の理由は、「知的刺激」が僕にとってあまり感じられないということが挙げられます。
語彙、漢字の使い方、前提となる知識、そういうものが「薄い」のが現在のライトノベルの特色だと考えています。
酷いいい方をすれば、何も知らない無教養な人間にも理解可能な文章。
これは、一定水準以上の教養のある人間にとっては、つまらなくて当たり前です。

とはいえ、ストーリーがわかりやすく、読みやすいと言うのも、モノ書きの腕の見せ所ではあります。
しかし、例えばトルストイがアンナ=カレーニナで見せつける、あの圧倒的に精緻な人物表現力、洞察力を目の当たりにしてしまうと、いかにも「偽もの」「薄っぺらい」と感じないわけにはゆきません。

■ラノベと文学の扱いの差(?)について…

敢えて、強引に分類すれば

●読むために前提とされる教養の差
●人物・状況の描写の精緻さ、洞察の差

むしろ、伝統的に言われてきた「偶然性」と「感傷」という問題は、あまり重要ではないように思えます。
そして、横光氏もかって論じた通り、通俗性、わかり易さもない文学は、本当の意味で優れたものとは言えません。
この技術的な二律背反性を、その作家なりに以下に克服するか?そして、問題意識を文章に織り込むか?
この
●「志の有無」
こそが、本来の純文学とライトノベルを区別するポイントであると、僕は思いたいです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「純粋小説論」読みましたが大変興味深かったです。
確かに私も一般小説を読むときは知的好奇心が刺激されるものが多いですが、ラノベの場合は純粋に娯楽小説として読んでいることが多いです。

お礼日時:2008/07/14 16:20

それこそ一昔前までなら、イラスト入りの本だって一段低く見られていたんではないでしょうか。


イラストと漫画、同じようでいて、心理的にもかなり落差がありますよね。

肝心な中身についてなんですが、はっきり言って、これはジャンル名「ライト・ノベル」の通り、
中身の薄い、読んであきたらない、食い足りない、翌日にはすべて忘れてしまっていて一向差し支えない小説群のことだと一人決めしています。
すべてがそうではない、なかにはピカピカ光る小説もあるだろうとは、他の経験から推して当然想像がつきます。
けれどもそうした光る小説を千冊のなかから一冊見つけ出す努力も趣味も時間の余裕も自分にはない、
それよりは一般の小説のなかで、まだ読んでいなくて興味がある小説がごまんとあるのだから、
必然、そちらのほうに先に目が行ってしまうのは私にとっていたしかたありません。

また、読んだ本のなかからでも、折があったら読み返したい小説も山ほどあります。
どうせ読むのなら、何らかの意味で、あとに残るような小説に出会いたいと願っています。

ライト・ノベルの書き手だけでなく、現在の一般の小説の若い書き手にも言えることは、
自分の今ある感性だけで書き綴っている人が多いのではないかということです。
古来、よい書き手は必ず多くを読んできた人です。例外はありません。
夭折した作家でも、実年齢以上に多く読み、他者の書いた作物を深く解した人々です。

(逆は真ならず。多く読む人→よい書き手とは限らない、ですけれども)
(ついでに。多く読む=早く読む、ではありません。これは別々のことがらです)

自分の持ち駒には限りがある。
限りがある自分の持ち駒がどれほどすぐれていても、
それだけでは継続も変貌も大化けも、成熟することもむずかしいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>イラストと漫画、同じようでいて、心理的にもかなり落差がありますよね。
最近で言うと、夏目漱石などの文学作品の表紙イラストもその心理を利用した戦略ですね。

私もライトノベルを読むときは一般文学と比べてそこまで高度なものを求めてなく、気軽に読めるのが利点だと思っています。
ラノベの中でも良い作品はもちろんありますが、一般文学と比べると少ないと言うか、やはり娯楽目的で読む人が多い気がします。

お礼日時:2008/07/25 13:39

私はとある文学サークルに所属しているのですが、


私のサークル内の「ラノベ」と「純文学」の違いに関する意見を一言申し上げます。

読み手の意識の違いの話なのですが、
うちのサークルの人々によると、
両者の違いは「思想の有無」にあるようです。
「純文学」を好む人は、本に対してなにかしら崇高な思想を求め、
「ラノベ」を好む人は、本に対して純粋に娯楽を求める、という理屈です。

純文学派の人にすれば思想性のない本は読む気がしないのですが、
ラノベ派の人にすれば思想性は逆に余計な要素とみられるようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「思想の有無」は確かにそう感じます。
私の場合、ライトノベルは純粋に娯楽目的で、一般文学は何かしら知識を求めていることが多いです。

お礼日時:2008/07/25 13:36

最近ですが、文学作品に人気漫画家の表紙を描かせたものが売られ始めました。


要は読まずにお堅いと思われて敬遠されていただろうものを読んでもらおうとの試みらしいです。
結構売れてるみたいですよ。
http://blog.livedoor.jp/onisoku/archives/6471715 …
これを見ると、いかに見た目や世間の評判に踊らされる人間が多いのかと思いますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
最近だと森鴎外の「舞姫」も表紙が変わっていますし、こういうのは今後増えていきそうですね。
面白い試みだと思いますが、川端ファンの私としては「伊豆の踊り子」はないって感じですが(苦笑
やはりイラストが大きな原因なのかもしれません。

お礼日時:2008/07/14 21:16

monet0102さんはケータイ小説にどういった印象を持っているのでしょうか? 私は「……ごめんムリ」と思ってしまうのですが(別にケータイ小説が悪いわけじゃなく、個人的な嗜好の問題として)、ライトノベルを読まない人がライトノベルに持つ印象も似たようなものじゃないかなと思っています。



ライトノベルは確かにレベルも高く面白い作品も多いです。が、やはり表紙にキャラ絵を使うことで、それに馴染みのない層やそれなりの年齢の人は手に取ることに抵抗を覚えると思います。
また、ストーリーや文章のテンポも一般文学とはどこか違うものも多いですし、読んでみてもそれで苦手意識を植え付けられている可能性もあります。
それとやはり、対象読者の違いは大きいと思います。以前は私もコバルト文庫とかが大好きでしたが、今は昔から読んでいる一部の作家以外には手が出なくなりました。これは単純に、年齢を重ねることで嗜好が変わったためでしょうね。

まあ、昔はSFとかもかなり地位が低かったですし、新しくできたジャンルはどうしても下に見られるのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
携帯小説というと「恋空」のようなものでしょうか?
幾つか読みましたがいまいちでした…。悲劇のヒロインのよろしく主人公に様々な障害が起こりまくり点が^^;
考えると私が携帯小説に感じるこの気持ちは、ラノベを読まない人の気持ちと同じなのかもしれませんね。
表紙の絵は想像するとき、キャラが出来ているので考えやすいっていうのがありますね。でも一般小説の場合挿絵もないものが多いですから、そういう点でも違うもかも。

お礼日時:2008/07/14 16:24

極論かもしれませんがラノベと一般小説の違いって


本の表紙に描かれているイラストが全てではないかと思います。

残念ながら今の日本ではアニメやマンガの地位が非常に低いです。
マンガは低級なもの低俗なものと多くの人が考えています。
そのため小説の内容に一切関係なく表紙にマンガっぽいイラストが描かれていると、
その小説は子供向け、あるいはオタク向けのものである
いい大人が読むと恥ずかしい物であると判断されてしまうのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに桜庭一樹のハードカバー化で絵なくなったのを考えると、ラノベと一般小説の違いはココにあるのかもしれませんね。
特にラノベは平積みにされている作品を見ると、萌え絵系が多いっぽいですし、漫画やアニメを見ない人から漫画の延長と考えていたり、手が出しにくいのでしょう。

お礼日時:2008/07/14 16:19

NO.1の補足をします。



>前者は人生や社会への問題提起をしていない。
>後者は、程度の多少こそあれ、している。

前者がラノベ(BGM)で、後者が純文学(芸術)だと、僕は思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2008/07/14 16:16

そもそも「純文学」という呼び名自体が権威主義の高いところから下を見下ろしたような表現なので、あまり客観性のあるネーミングだとは思いません。


ライトノベルを書く人と純文学を書く人に余り差はないと思います。要は人を感動させたり何かを考えさせたりすれば、読み物の価値というのはあるのですから、頭を禿らかした評論家の大先生をうならせる小説がよい!というのは時代錯誤も甚だしいと思います。
多くの若い人を感動させるものが何かあれば、立派な文学です。ただ、程度の低い若者に興味本位で読ませるだけのものであるとすれば、ちょっと問題です。このあたりが難しいですね。

ご質問の、高い評価を取った割に、ライトノベルなので苦い表情をしたという教師は、ややおつむが薄くなって脳味噌が硬化しているのではないでしょうか。よい感想文が書けると言うことは、作品としても充実していると言うことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「純文学」はラノベと区別するときどう呼べばいいのか思いつかなかったので、そう書きました。多分、私の中で贔屓な部分があってこんな堅苦しい呼び方になったのかと。

ラノベでも内容が素晴らしいのは確かにありますね。
でも漫画やアニメをあまり読まない人が手がだしにくかったり、ラノベを低評価している人がいるのは、漫画ちっくな絵が原因なのかなあ?と疑問に思っています。(桜庭一樹作品の絵なしとか)
想像しやすくていいと思うのですけどね。

お礼日時:2008/07/12 23:56

音楽で言ったら、クラシックやジャズなどの、画期的で創造的で、主張があり、どこか媚びずに、骨のある作品と、単に耳障りのよい、BGM用に書かれた音楽とがあり、両者はいちおう峻別されると思います。

でも、たとえばバッハやモーツァルトを、意味のないBGMに使うことも可能で、やはり境目は曖昧だとも言えると思います。

村上春樹も、2通りの読み方があると思います。軽く読んでも、充分に楽しめるけれど、「ノルウェイの森」や「国境の南太陽の西」みたいに、単に人生のBGMで終わらずに、読者の人生を根底から揺さぶる要素があったりもすると思います。

純文学とラノベの扱いの違いは、社会の中にうまくおさまって毒気を含んでいないものと、多かれ少なかれ、その社会ではおさまりのつかない価値観を含んだものとの違いだと思います。前者は人生や社会への問題提起をしていない。後者は、程度の多少こそあれ、している。ということだと僕は思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
音楽の例え、理解しやすかったです。
別の物で例えて考えるとまた違った見方ができるんですね。

>前者は人生や社会への問題提起をしていない。
>後者は、程度の多少こそあれ、している。ということだと僕は思っています。
私の理解力が足らず申し訳ないのですが、前者が純文学で後者がラノベ、ということで良いでしょうか?

お礼日時:2008/07/12 23:47

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