独り仏教徒です。
定年退職後、必ず教行信証を学んでみたいと思っていました。始めたのですが、教行信証がなかなか理解できません。矢張り、七高僧の著述を全て読んでから教行信証に入って行かなければならないのでしょうか?現在、浄土論・往生論注ノート(永田文昌堂 発行)を読んでいますが、なかなか理解できません。
質問です。
1) 親鸞教学を学ぶにあたり、必ずやらねばならないこと、おさえて置かなくてはならないことはなんでしょうか?
2) おすすめの学習方法、著作、学習の秘訣などありましたら、ご教示いただければ有り難く存じます。
3) 教学にお詳しい方は、上述のノート(観教疏ノートなど)を暗記してしまうのでしょうか?
一つの質問に対するお答えだけでも結構です。何卒、よろしくお願いいたします。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
「煩悩具足の身」これ以上でもこれ以下でもないか思います。
>なかなか理解できません。
最後の最後は理解する事から手を離す事ではないかと思います、と言うより自然に手が離れるのではないかと思います。
合掌。
ありがとうございます。
そうですね、頭での理解ではいけませんね。前方からやってくる「死」と、煩悩とはからいから離れることのできない我が身の両方から追い詰められて、絶対絶命の状態になって初めて本願の力が透徹するのでしょう。
>自然に手が離れるのではないかと思います。
そうなりたいと思います。よいお言葉をいただき、大変嬉しく思います。「煩悩具足のまま」。心にすっと入ってきました。
合掌
No.7
- 回答日時:
お礼を読ませていただきました。
私も>>多々、申し上げたき事はありますが、同行や他宗との争論は好みません
私もそうです。しかし、争論ということではなく私のご信心のいただき方としてもう少しだけ駄文を連ねさせていただきます。
>>ただ、口に称える念佛では、信心は絶対にいただけませぬ。口称念仏は、信心をいただいたうえでの報恩謝徳の南無阿弥陀佛。
確かにその通りです。親鸞聖人も『教行信証』において、
「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」
念仏を称えておられるから信心があるとはかぎらないということですね。
また法然上人も『常に仰せられける御詞』には、
「上人かたり給える詞には、名号を聞くというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ信じずと云うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只常に念仏すべしと。」
たとえ阿弥陀仏の名号を聞いて本願念仏の教えにふれても、信じることがなければ聞かなかったも同じことです。たとえ、阿弥陀仏を信じていようとも、「南無阿弥陀仏」と称えなければ信じないのと同じです。ただ、いつもお念仏を称えなさいと説いておられます。
このお二人のお考えは確かに念仏称えているからと言って信心あるとは限らないかもしれませんが、信心というのは念仏を称える事そのものであることを示しています。また、法然上人のお言葉の中には「只常に念仏すべし」という念仏を常に称える前提として「聞(聞法)」と「信(信心)」があるとされています。
そういった、聞法によって獲得された信心を、法然上人は「智具の三心」と「行具の三心」なる二つがあると説き明かしています。『東大寺十問答』の中で、
「三心に智具の三心あり、行具の三心あり。
智具の三心というは、諸宗修学の人、本宗の智をもって信をとりがたきを経論の明文を出し、解釈のおもむきを談じて、念仏の信をとらしめんとてとき給えるなり。
行具の三心というは、一向に帰すれば至誠心なり、疑心なきは深心なり、往生せんと思うは廻向心なり。かるがゆえに一向念仏して、うたがうおもいなく往生せんと思うは行具の三心なり。五念四修も一向に信ずる物には自然に具するなり。」
とあって、三心の内容を理解して知識として三心を具足することを「智具の三心」といって、経典や論書に明かされている教義を学ぶことで、その内容を理解して得られる信心です。これに対し、「行具の三心」のといわれるものは教義的なことは分からなくとも、ただひたすら念仏を称え続けることで自然と得られる三心のことで、念仏の実践によって得られる信心を言います。かくして、聞法を重ねることで、理論的に三心をよく理解して確固たる理論に基づいた信心を得ることを智具の三心と、聞法を重ねることで、理論的なことはわからなくとも阿弥陀仏が本願に誓われた通り素直に念仏を称え続けるうちに、自身の念仏体験が中心となって確固たる信心得ることを行具の三心という、二つの信心具足の形態を説いていますが、これはその人の機根によるもので、知識として得るほうが向いているタイプと体験として得るほうが向いているタイプがいるだけで、その三心自体に優劣の差はないものです。しかも、その二つの前提には「聞法」があって、教えを聞くということが信心の基礎にあるといえます。
つまりは、信心のないお念仏などは無い。言い換えれば、お念仏を称えさせていただいておれば、いつしかその心までいただくことができる。信心などなくともお念仏させていただける、それは『徒然草』の中で法然上人の法語として伝えられる、
「うたがひなからも念仏すれは往生す」
という言葉をいただくと、また信心獲得の姿ではないかと思えるのです。私のような知識に偏る頭でっかちで念仏を忘れてしまう愚か者には、知識などに惑わされずお念仏をいただく方々がうらやましくて仕方が無いのです。
宮川の妙仲尼という方が臨終のときに申された言葉だそうでございますが、
「私は一生涯信心欲しい信心欲しいと、信心とることに長い間かかり果てたけれども、最後まで信心くだされなかった。けれども、不足言われん六字一つを与えていただきましたから、往生させていただきましょう」
と喜び喜び御往生を遂げられたというお話もございます。つまり、信心というも安心というも六字を離れてあるのではなく、「南無阿弥陀佛」のろく字のほかに信心も安心もない。「南無阿弥陀仏」こそが聞其名号といただく姿が、ご信心であるとお示しくださったお方でございます。
質問者さんはお礼等を読ませていただくと、間違っていたらお許しいただきたいのですが、近代教学のほうに精通していらっやるようにお見受けします。私の友人に言わせれば私はどちらかといえば近代教学というような分類をしますと、伝統教学というほうね分類されるそうです(私は伝統教学と近代教学の間に隔たりは無いと思いますがね・・)。少し違和感を感じたならば、そういった差異というものがあるのかもしれません。
>>本願の不思議は有り難いものですね。
まさにまさに。その不思議を喜ぶ心が少しも無い私を南無阿弥陀佛とお念仏させていただける身にまで育ててくださった、不思議が嬉しいのです。
では、このあたりで失礼させていただきます。急ごしらえのため誤字脱字乱文どうぞお許しください。
合掌 南無阿弥陀佛
ご回答ありがとうございます。
>質問者さんは(中略)近代教学のほうに精通していらっやるようにお見受けします。
清沢満之のように、本願寺に批判的という意味でしょうか?(笑)。批判的であるために、話題となっている比較的新しい宗教法人に入ったりはしていません。独り仏教徒です。詳しくは存じませんが、同じ親鸞聖人のみ教えを信仰する者同士が、諍いを起こしてはならないと思っています。正法誹謗になりますゆえ。
私は、今は亡き両親が共に真宗の門徒であったため、小さい頃からお寺に連れていかれ、お坊さんの話を聞かされていました。子供ながらに、イヤだなぁと思っておりました。そのためか、大学は理系で、科学的なものしか信じないという頭でっかちの左脳人間でした。しかし、子供の頃の経験というのは大きなもので、不思議と人生の折々で親鸞の本を読んだりしておりました。そういう意味では、体験が先です。
>信心というのは念仏を称える事そのものであることを示しています。
私は、信心とは本願そのものであると思います。本願が凡夫の心の中に入ってくる。南無阿弥陀佛は行であり、その行が信心を得たものをして念仏を称えさせる。人間にはふたごころなき一心で帰命することはできませんから、心から助けたまえと観念したとき、本願が「時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」だと思うのです。
>言い換えれば、お念仏を称えさせていただいておれば、いつしかその心までいただくことができる。
この点は違うと私は思います。念仏は、「如来の光明智相の如く、かの妙義の如く、実の如く修行し相応」しなければなりませんから、自力の念仏を百年称えても、他力の念仏にはなりません。信心は、死を賭して阿弥陀如来から頂戴するものです。そんなに生やさしいものであれば、誰も苦労はしません。
>つまり、信心というも安心というも六字を離れてあるのではなく、「南無阿弥陀佛」のろく字のほかに信心も安心もない。「南無阿弥陀仏」こそが聞其名号といただく姿が、ご信心であるとお示しくださったお方でございます。
これはおっしゃる通りです。信心は、六字の体そのものです。その体が行となるといただいております。
このような場所で、信心について語り合えることを非常に嬉しく思います。一生懸命に書いてくださったお気持ち、大変有り難く存じます。
合掌 南無阿弥陀佛
No.5
- 回答日時:
お礼を読ませていただいて少し思うことがありまして、もう少し駄文を連ねさせていただきます。
>>教行信証を完全に理解するということは、自我を捨て、本願に帰命することであり、完全に腹に入った段階で信心獲得ということになるのでしょう。
私はそうは思いません。自我を捨てられるくらいなら、阿弥陀様は必要ありません。阿弥陀様の御本願に帰し、お念仏の心をいただいて「南無阿弥陀佛」とお念仏を称えさせて頂いている内に、自我が納まっていくということはあるかもしれません。しかしそれは、あくまでお念仏いただくことで得られる副作用・副産物です。
自我を捨てることなど到底できない自らの生様の浅ましさを知らせていただき、悟れないこと救われないことが決まった自分であるという絶望の中で、阿弥陀様は救われるものを救うお方じゃなかった、救われないものを極楽浄土へむかえとり仏にまで育て上げて救ってくださるお方だったという大安心いただいたからには「南無阿弥陀佛」と報恩行のお念仏となえずにはおれない。つまりは、ああだこうだ考えないで、ただただお念仏させていただきなさいというだけが、浄土のみ教えのです。だからこそ法然上人は『一枚起請文』の中で、
「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」
とお説きになられ、親鸞聖人もまた最晩年のものとされる「自然法爾章」の中で、
「弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんとおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。」
と説いて、自らのいろいろ考えるんじゃない「南無阿弥陀仏」と念仏させていただくことが「自然」であるとおっしゃっています。
そうやって、いつでもどこでも「阿弥陀様ありがとうございます」とお念仏させていただいていると、いつでも仏さんと二人ずれだからなんだか嬉しくて穏やかに生きていけるというのは、目指す境地ではなく自然と滲み出てくるものなんじゃないかと私はいただいております。
だからこそ、
>>鈴木大拙が、一文不知の妙好人が禅の高僧と同じ境地にいることに驚きの言葉をもって真宗の奥深さを書物にまとめているのを読んだことがあります。
一文不知かたがたでも妙好人と呼ばれるまでのお育てに預かったのは、自我だの何だのということではなく、ただただお念仏を喜び称えさせていただいたことによると思うのです。
>>念仏を申せば往生できるなどと誤解されがちな浄土の教えですが、少しでも本願を至心に味わってみたいと思っております。教学では救われないことは分かっておりますが、裏付けとしては必要なものだと思っております
いえいえ、わたしは「念仏を申せば往生できる」といただけたら素敵なことだと思います。これを、しっかりいただいていなくては先ほど説明したような副作用も得られないと思うのです。
教学を学ぶことは大切です。私も教学大好き人間ですから、学ぶことの楽しさも知っているつもりです。けれども、法然上人はこのようなことをおっしゃっています。
「学生骨になりて、念仏やうしなわずらん」
勉強ばかりしているとそれにとらわれて、一番足大切なはずのお念仏をしなくなっています。では何のために学ぶのか?法然上人はこうもおっしゃいます。
「往生のためには念仏第一なり。学問すべからず。ただし、念仏往生を信ぜんほどはこれを学ぶべし」
極楽往生するためにはお念仏称えさせていただくことが第一義であり、学問の必要はありません。ただし、お念仏称えさせていただく為なら、大いに学びなさい。この二つの言葉は浄土の教えを学ぶものは心しておかねばならないと思います。つまり、お念仏がいただけないということは、学んだことにはならないと私は考えています。
>>中村元氏の仏教語大辞典を使っていますが、もう一冊必要であると感じることがあります。坪井俊映氏の書籍は是非読んでみたいと思います。ご紹介ありがとうございます。
最後に辞書といくつかの書籍や資料などを、もう少しご紹介したいと思います。
辞書
●『望月仏教大辞典』
仏教辞典として日本で一番詳しい辞書です。しかし、辞書を読むのに辞書がいるというとんでもない辞書です。
●『浄土宗大辞典』
もうそろそろ新しいのがですはずですから、買うとしたらその後がいいと思います。
書籍
●『親鸞の本』 学研
●『響流十方』 袖山栄輝、林田康順、小林正孝
●『法然浄土教の諸問題』
『続法然浄土教の諸問題』高橋弘次
●『無宗教からの歎異抄読解』阿満利麿
浄土教学ということで私が感銘を受けたもののなかでも、手に入れ安そうなものを並べさせていただきました。
DVD
●『節談説教布教大会全記録(DVD5枚組)』
●『また又日本の放浪芸節談説教』ビクター
「節談」というのは浄土真宗独特のお説教のことを言います。落語講談浪花節といった日本の話芸の源流と伝えられています。鈴木大拙先生を驚嘆させた妙好人たちを育てた浄土真宗のお説教はこの節談であるといえるでしょう。
えー。またしても長々自説を並べましたが、急ごしらえのため誤字脱字乱文どうぞお許しください。質問者さんの参考になれば幸いです。
合掌 南無阿弥陀佛
ご回答ありがとうございます。又、たくさんの書籍をご紹介くださり、感謝いたします。
多々、申し上げたき事はありますが、同行や他宗との争論は好みません。ただ、口に称える念佛では、信心は絶対にいただけませぬ。口称念仏は、信心をいただいたうえでの報恩謝徳の南無阿弥陀佛。信心はこれ難中之難です。おおかたの同行が悩んでいることでしょう。善き知識がお寺におられないことも原因かと思われます。貴殿のように、教学をしっかり学び、本願のいわれを門徒にしっかり話せる方が多くいなければ、日本のお寺は葬式仏教のままで、人を救うことができない単なる宗教法人のままです。
本願の不思議は有り難いものですね。
合掌 南無阿弥陀佛
No.4
- 回答日時:
[自我を離れるからであり、本願力がそのまま悟りの境地に繋がると私は感じています。
これがいわゆる、現世正定聚です。]この洞察力には脱帽します。 その通りですね。親鸞の絶対他力は「無我」の境地に達しているのですね。釈迦仏教は釈尊に帰依し釈尊の教えを信じ自力(八正道)にて「無我」の境地に達し正解脱に至ることが正当な道なのですが、阿弥陀仏にすがるという外向きの絶対他力でも「無我」の境地に他することができることを示されたのが親鸞聖人ですね。
親鸞の他力、パウロの他力と仏教の自力の悟りは「無我」でつながっているということですね。さらに「無我」のその先には「妙有=妙なる有」、光明荘厳たる世界がつながっているのです。
がんばってくださいね。 尚、これに対するお礼等は不要です。
No.3
- 回答日時:
#1です。
親鸞とパウロについて、参考までにもう少し書いておきます。釈迦大如来の救済的側面、これを経典では無量寿光、不可思議光などなどいろんな表現をしていますが、親鸞聖人はこれを纏めて阿弥陀仏と呼びただひたすらに阿弥陀仏に帰依・帰命するという意味で南無阿弥陀仏念仏信仰を唱えたお方ですね。親鸞聖人は若くして叡山に学び、叡山の教学(特に誰でも仏になれるという教え)では人々は救えないと考え、叡山を降りていますね。後に妻帯をし、戒律を破ったことで罪の意識を非常に強くしていますね。性欲が制御できないほど強かったんでしょうね。自身、破戒僧といっていますから、この不思議で異常なほどの罪意識がより高い段階の他力信仰に向かわせているように見えますね。最後には悪人正機説にまでいたっていますね。常人には理解不能な段階ですね。親鸞聖人の絶対他力を深く理解するにはこの罪意識がなんたるかが理解できないと無理であるといいたいのですね。
さて、パウロ(サウロ・後にパウロ)というお方はイエスの12人の弟子の中の一人ではありません。イエスを十字架にかけた側にいたお方です。イエスの死後、弟子を捕まえにダマスコに行く道すがら光りの啓示を受け目が見えなくなってしまうのですね。その後逃げていたイエスの弟子により目が治りイエスの弟子になった方です。ダマスコの回心として有名ですね。その後、ローマでキリスト教の熱心な伝度をし、最後は殉教しています。パウロが持っていた罪意識は自身が信じた救世主イエスを屠った側にいたという罪意識ですね。弟子の一人さえ石打で殺してもいます。どうしようもない罪意識の上にイエスへの深い信仰があったのですね。パウロの回心は本当に心が一日で入れ替わったという意味です。パウロ、親鸞のお二人は罪意識を土台に絶対他力の道を切り開いたお方なんですね。その意味で似たもの同士といえるのですね。仏教的悟りとは違うものと言いたいわけです。つまり、親鸞聖人は、浄土三部教他の経典を参考にしてはいますが全ての道筋が唯一神への絶対他力信仰の説明に費やしているように見えますね。こんな見方も参考になるかもしれませんね。
ご回答ありがとうございます。
>常人には理解不能な段階ですね。親鸞聖人の絶対他力を深く理解する
>にはこの罪意識がなんたるかが理解できないと無理であるといいたい
>のですね。
仰る通りです。親鸞の罪の意識は我々が考えている罪悪感とは異なります。帰命とは本願勅命に対し、一心になることであり、これは自我を一切挟まずに本願を仰ぐことであり、寸分の自力があってはならないのです。しかし、これは人間には不可能であり、これが常人には不可能であることを悟ったからこそ、親鸞は深い罪悪感を感じているとも言えます。自身を「底下の凡夫」と呼んだのはそのためかと思います。悪人正機も宗教的意味での悪人であり、そういう意味では人間は全て悪人です。悪人であることに気づかねば、信仰心を持つことはできません。
私はキリスト教に関する知識がありませんが、パウロはそういう罪意識を持っていたのですね。親鸞とパウロの罪意識は異なるかもしれませんが、絶対他力という意味ではおっしゃるように似ているかもしれませんね。
私は、親鸞の絶対他力は、仏教的悟りの境地であると感じています。自力を完全に捨てさることに徹底するということは、自我を離れるからであり、本願力がそのまま悟りの境地に繋がると私は感じています。これがいわゆる、現世正定聚です。
パウロのことを少し勉強してみます。ご丁寧にありがとうございます。キリスト教と他力には共通点があると以前から思っておりました。私は、日本の浄土教の門徒は、キリスト教信者を見習うべきだといつも思っております。
大変ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
浄土真宗の俗に僧と呼ばれているものです。少しばかりお話させていただきます。>>始めたのですが、教行信証がなかなか理解できません。
そうですねぇ。確かに『教行信証』は非常に読みにくし書物です。引用が多く親鸞聖人の意見なのかそれとも引用なのかがごっちゃになってくるときがあります。「狂人の書」と形容されることもあるほど、読みにくいことはお墨付きがついているようなものです。私自身幾度と無く挑戦していますが、本当の意味で理解しているかは何ともいえません。それに『教行信証』のなかにまた新しい文章が発見されて、中身が変わる恐れも出てきましたしね。
>>現在、浄土論・往生論注ノート(永田文昌堂 発行)を読んでいますが、なかなか理解できません。
『浄土論・往生論注ノート』は私も読ませていただきました。たしかに『浄土論(往生論)』や『往生論註』は読まなければならないかと思いますが、最初から手を出すべきものではないと思いますよ。浄土教においても段階があり、『浄土論』や『往生論註』は分かりやすくいえば日本人風に味付けされる前のものです。理解しにくくて当然ですね。
>>1) 親鸞教学を学ぶにあたり、必ずやらねばならないこと、おさえて置かなくてはならないことはなんでしょうか?
これは私の個人的な意見かもしれませんが、法然教学を学ぶことをお勧めします。現在の浄土教において解釈の中心核にあるのはは法然浄土教です。また、親鸞聖人が目指したのも法然上人であったはずです。また、『教行信証』自体親鸞聖人は誰かに読ませるために書いたとは思えません。そういう意味で非常に読みにくいことも納得できます。それに比べますと、法然上人の主著とされる『選択本願念仏集』は九条関白兼実公の要請でかかれたもので、人に読ませるために書かれたものです。そういった意味でも、『選択本願念仏集』は『教行信証』より格段に読みやすく浄土教の要点が上手にまとめられています。
>>2) おすすめの学習方法、著作、学習の秘訣などありましたら、ご教示いただければ有り難く存じます。
学習方法としては、
法然上人(法然教学を中心に善導大師も一緒に学んでもいいと思います)→親鸞聖人→他の七高僧
という段階で学ぶほうがわかりやすいと思います。
著作を挙げますと
●坪井俊映『浄土教汎論』
です。法然教学を中心に浄土教全体をまとめた概論としては名著です。京都の仏教大学の通信の教科書としてこの本をベースに作った『浄土教概論』という本があり、値段は十分の一くらいです。仏教大学に問い合わせてみてはいかがでしょうか?
>>3) 教学にお詳しい方は、上述のノート(観教疏ノートなど)を暗記してしまうのでしょうか?
もちろん暗記している部分はあります。けれども全部が全部ではありません。一つ一つ参照しながら調べていく地味な作業を繰り返していました。しかし、最近ではパソコンソフトで『観教疏』や親鸞聖人法然上人または七高僧の著作を、簡単に調べることができるものがあるそうですよ。
最後に辞書も簡単に調べられるものと、しっかりと調べられるものの二つもっておくとよいと思いますよ。私も大きな辞書だけでは三種類くらいあります。
私の思うことはこんな所です。大雑把な説明ですので、不明瞭な点等々あればご質問ください。急ごしらえのため誤字脱字乱文どうぞお許しください。
合掌 南無阿弥陀佛
ご丁寧に回答していただき、感謝申し上げます。
僧侶の方でも教行信証は難解なのですね。金子大栄氏の現代語訳を若い頃に読んだり、星野元豊氏の教行信証講解などにも挑戦したことがありますが、本当に難しい書物だと思います。まさに、浄土教が「易往而無人」と言われる所以かもしれません。教行信証を完全に理解するということは、自我を捨て、本願に帰命することであり、完全に腹に入った段階で信心獲得ということになるのでしょう。鈴木大拙が、一文不知の妙好人が禅の高僧と同じ境地にいることに驚きの言葉をもって真宗の奥深さを書物にまとめているのを読んだことがあります。それほど難解な書なのですね。
また、浄土論、論注は確かに難しく、仰るように、龍樹から法然に向けて時系列で学習するよりは、法然から入り、法然から善導に入るような形がよいのかもしれませんね。
教学センターから聖教はダウンロードできますし、台湾のCbetaから大正新脩大蔵と卍續大蔵は落とせます。矢張り暗記されるのですね。必要な部分は書き写すことが大切かなと思っております。検索だけは確かにPCの強みであり、学習には便利です。五念門がちゃんと言えないと理解していることにはなりませんから、暗記すべき所は暗記したいと思います。
中村元氏の仏教語大辞典を使っていますが、もう一冊必要であると感じることがあります。坪井俊映氏の書籍は是非読んでみたいと思います。ご紹介ありがとうございます。
ご親切に色々と教えていただき、本当にありがとうございます。念仏を申せば往生できるなどと誤解されがちな浄土の教えですが、少しでも本願を至心に味わってみたいと思っております。教学では救われないことは分かっておりますが、裏付けとしては必要なものだと思っております。
合掌 南無阿弥陀佛
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