チョコミントアイス

産まれは関西ですが、今は東京に住んでいます。
先日、友人の友人(直接は知りません)のお母さまが亡くなったので、
その友人のはお通夜に行ったのですが、
御葬式には行きませんでした。

私が住んでいた地方では、
お通夜は近所の人や身内が行くもので、
御葬式はお知らせできた人ができるだけたくさん行くような
感じがありました。
友人の母のお通夜に行くことになったなら、その後御葬式にも参列しますが、
事情がないかぎり御葬式に参列せずお通夜だけというのは考えられません。

友人に聞いたら、
「東京ではお通夜になるべく人を呼んで、
葬儀はごくごく身内で行うものだから、
御葬式には行かないよ」
と言っていました。
…そうなんでしょうか?

A 回答 (6件)

#2です。

たびたびすみません。他の方の回答とお礼を見ていて思うことがあったのですが、お通夜がご自宅で行われるものだったら、やはりそこは身内だけの空間で他人が入り込むのは失礼と思うので、よほどの事情がない限りきっと行かないと思います。

私が東京方面で参列させていただいたのはすべてお寺とか葬儀場など自宅以外の場所でした。我が家が喪家の場合も同じです。お通夜も告別式も身内以外の方がたくさん来られます(むしろお通夜の方がおおい)。お友達がおっしゃる「告別式は身内のみ」というのは正しくないと思いますが、故人と直接面識のない方がお通夜だけ参列、というのはこちらでは普通のことだとおもいます。もちろん両方行ける方は行くのに越したことがありませんが、お友達や#1の方の感覚と行動は、東京ではごくごく普通です。
最近地方に転居して、お通夜・告別式ともご自宅でなさっていたのを見て都市部との違いを実感したので、もしかしたらその辺に認識や習慣の違いがあるかな?と思いまして。
マナー本から考えると正しくないのだと思いますが「現在の東京方面の風潮」として書かせていただきました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。つか、「そうか」ですね。アホ丸出しですいません。

儀礼に厳しいおうちの方もいらっしゃるけれども
東京方面の風潮ということなんでしょうか。
う~む。むむむ。
…お式のまえに参加するヒトたちで話しあいをして足並みそろえたり
しそうですね。

お礼日時:2003/01/13 22:15

#2です。


>喪家(これって「もか」って読んでいいんでしょうか?何となく間違ってるような気が…)

喪家(そうか)と読みます。
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「本来の通夜」という書き方の解答があるようですね。



最初にはっきり書いておくのですが、もともとの「通夜」は家族・親族だけが勤めるものではなく、大勢の人が集まるものだったのです。大勢の人間が故人の亡骸の近くに集い、酒食を共にすることがホトケの鎮魂のために最も重要であると考えられたためです。
(ここで「もともとの通夜」というのは、戦前といったレベルでなく記紀神話の昔に遡る時代から葬送儀礼が確立し始める室町時代ぐらいまでの原型のことで、日本人の宗教観の古層が仏教各宗派の教義で解釈されるようになる以前の話です)

専門的には「凶癘魂(きょうれいこん)」と言われますが、古来、新亡の魂は放置されると荒れすさびやすいもので、災厄をもたらすことさえある危険な存在として認識されてきました。このため奈良、平安時代頃までは「遊部(あそびべ)」などという、歌や踊りによって鎮魂を行う専門職があったことも知られています。

このような感覚が一般民衆の感覚の底流にあったため、大勢の衆力によって場を賑やかに保つことは、魂を鎮魂するための最大の手段であると考えられたのです。そのために振舞われた酒食は、その場に参列した者にとっては故人との「食い別れ」という意味合いも持っていました。

はっきりしなければならないのは、通夜は仏教的な教義に則って始められたのでなく、このような古来からの原宗教観に基いて続いてきたものであって、それが近代以降、仏教各宗派がそれぞれの教義に基いてそれを解釈し、独自に位置付けられるようになったということです。
また重要なのは、仏教の葬送儀礼、特に「葬儀」が儀礼として確立するまでは、民衆の中ではむしろこの夜伽のほうに葬送儀礼としてのウェイトがあったということです。

このことは、各宗派における「通夜」の位置づけが様々であったり、あるいは全く教義の位置づけを持たない宗派があることからも明白ですし、多くの研究者達の指摘するところです。つまり、仏教の教義に基いて通夜のありようを云々することは、大きな危険性をはらむものだということです。

近世ごろまで、先に挙げたような形式の通夜を営む地方は沢山ありました。通夜は別名「夜伽(よとぎ)」などともいいますが、僧侶もおらず、色々な「講」という集まりを中心にして村人達だけが集まり、念仏であれ読経であれご詠歌であれ表向きは仏教色一辺倒ですが、その心根は文字通り夜を徹してホトケにつかず離れずその側にいることで、ホトケの鎮魂を図ろうとする伝統的なものだったのです。
このような伝統がまず下地にあって、そのうえでこういった行事を専門的にリードする役目として僧侶が求められ、寺が建てられるようになったのが多くの寺の歴史的成り立ちのパターンのひとつです。

やがて葬送儀礼が確立し、教義に則った葬儀が主体になってくると、前晩よりも翌日の葬儀が中心となってきます。それが今現在までの流れとなっているわけです。

この観点で今現在の通夜をみると、通夜に多くの人が押し寄せるようになったのはサラリーマンの時間調整の都合のためであったにせよ、結果的にそれは先祖返りになっていると言えるのです。ですから、それを一概に「もの知らず」のように弾劾することはむしろ軽率の謗りに値するでしょう。
俗に「弔い」は「訪い(とぶらい)」が語源であると言われますが、通夜はまさしくその通りで、ホトケを見知った人々が沢山そのもとを訪れ、少しでも長い時間をホトケの側で過ごすことが“タマシズメ”つまり鎮魂になると考えられたのです。
それは、もちろん一部の宗派の教義にはそぐわない部分もあるでしょうが、このような伝統は歴史的経緯を踏まえずに価値判断できるものではありません。

やがて近代になりこのような古層の感覚が薄くなり、仏教的な後づけの解釈が主流になると、通夜の席でふるまわれる酒食は、「布施」の位置付けを帯びるようになります。すなわち、「我」を否定する仏教においては、亡きホトケが生前に貯めた財を飲み食いという形で広く人々の口に消費してもらうことは、仏行の実践であり、滅罪功徳につながるもの、という風に解釈されたのです。

沢山の人が来てくれて、食べ物や小銭といったふるまいを喜んで受けてくれればその分だけ、つまり提供した喜びの大きさがそのまま故人の菩提に役立つ功徳につながるとされました。僧侶もこれを奨励するようになり、鎮魂のための酒食は仏教的な布施と解釈し直され、その形が残ったわけです。

ふるまいは翌日の葬儀が主たる出番ではありますが、通夜でも多くのふるまいが行われました。アランベール「幕末日本図絵」には、「ちょっとした家の通夜では、召使を玄関に立たせて、やってくる乞食に小銭を与える習慣がある」と記している例があります。
これは貧しい人への施しを亡きホトケの功徳に振り向ける行為で、有縁・無縁を問わずに多くの人が通夜に訪れていた様子を伺わせます。乞食は一般に畳に上がらせてもらえないの通例で、その乞食すら施しにあづかれたということは、ほとんど誰でも中に入れたということに等しいからです。

戦前・戦争直後ぐらいまでをみると、通夜のふるまいに限って言えば、私の知る限りでは関西より関東の方が賑やかなように見受けられます。民俗学の資料では九州も同様のようですから、ちょうど方言の年輪型分布のように、一代前の習俗が都をはさんで残っているのかも知れません。

また、これは実際に私がフィールドスタディした関西のある村の例ですが、昭和になっても通夜には村の戸主ほとんどがお参りをしていました。そこでは家人に「通夜では客を玄関まで送り出してはならない」という不思議なタブーがあったのです。
恐らくこのタブーの意味は、「家人は夜の間ホトケのそばにいなければならない」という意味と、「弔いにきた知人を帰してはならない」つまり接待をしてホトケの側にできるだけいてもらうことがホトケの鎮魂のためだ、という感覚がない交ぜになったものだろうと解釈できます。

意外に思われるかもしれませんが、このような通夜の性格とは逆に、葬儀の方が本来を言えば多数のお参りがある必要はない場合が多いのです。
葬儀は各宗派によって位置づけは様々ですが、多くの宗派で故人が出家授戒する場とされたり、浄化される機会として位置づけられます。つまり、葬儀の主たる部分は「個人的な場」としてあるのです。宗教は本来個人の内面的な問題なのですから、これは考えてみれば当たり前のことでしょう。
しかしながら葬儀に大勢の人が集まるのは、施しの受け手という意味を除けば、それが故人との永久の別れの場だからという社会的な意味からです。人々の意識の中では、葬儀と言えど告別が主たる動因なのです。


長くなって恐縮です。結論めいたものとしては…

通夜で家人がホトケの側にいるのは当然ですが、だからといって通夜は一般人がお参りしていけないものではありません。仏教以前の、また仏教普及後の伝統に照らしても、多くの人がお参りできることがその本義にかなうものであったのです。
その一方、葬儀は逆にかならずしも大勢のお参りを必要とするわけではありません。

ただし、通夜は古宗教的なもの、葬儀は仏教的なものというわけで性格を異にしますから、本当の意味では通夜に行けばそれで済むとは言い切れないでしょう。その意味では「東京では云々」というご友人のコメントは、現状を説明してはいますが、少なくともあるべき姿ではないと思います。
しかし、さらに敢えて言えばこの姿は、現在では宗教者が思うほどには通夜も葬儀も人々に対して宗教的説得力を持ち得ていない、という証でもあります。一般人とすれば、通夜でも葬儀でも、自分なりの別れができること、つまり個人的な「告別」の決着がつけられればいいのですから。


私はむしろ、このあたりのことを自分なりに解決しないまま儀礼によりかかる宗教者が多いことのほうが反省されるべきではなかろうか、と思っています。

※私自身は研究者として仏教に関係しており、直接の専門ではありませんが興味があって宗教民俗は昔から調べています。口はばったい書き方になり、ポイントも少しずれているのは承知のうえで、多少でも役に立つ部分があればと思い投稿させてもらいます。
また急いで書いたもので、わかりにくいところは補足して頂ければと思います。
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この回答へのお礼

詳しい回答をありがとうございます。
学校で民俗学はちょっとやったので興味深く読ませていただきました。

いろいろな「マナー」や「礼儀」の本がありますが、
どうしてそうなったのかを付け加えている本は少ないです。
そしてどうしてそうなったのかを疑問に思わず本によりかかる
(これが解決しないまま儀礼によりかかる、ってことになると思うのですが)
人たちがとても多いですよね。

儀礼の簡略化によって、さまざまなことが明らかにされないまま
消えようとしています。
(私は方言をやっていたのですが、方言も本当に年配の方しか話さなくなりました)
研究、頑張って下さい。

お礼日時:2003/01/12 00:20

 本来であれば#2の方が回答されているように、お通夜は私的な行事・告別式は公的な行事であるはずです。

ですから、喪家やお坊様・神職の中にはお通夜に多くの方が押し掛ける現状を苦々しく思われる方もいるかもしれません。

 私は最近まで東京方面に住んでいた一般人です。最近身近で葬儀が続いたので喪家側の立場で書かせていただくと、家族の不幸の時に私の知人が多数お通夜に駆けつけてくれました。職場に喪服を持参し、忙しい仕事を切り上げて遠方まで夜遅く、です。その知人達と私の家族とは直接の面識はなく、あくまで遺族である私達を悼み励ますために参列してくれましたので、ありがたい・貴重な時間を使わせて申し訳ないという気持ちがあるばかりで「私的行事である通夜の場に失礼な」とは全く思いませんでした。仮に彼らが告別式に参加するために大事な有給を使い、高い交通費宿泊費を使って来てくださったとしたら、そこまでさせては申し訳ないと、ありがたい気持ちと同時に恐縮してしまったでしょう。
 社葬などでしたら意味合いは別かもしれませんが、普通の場合は葬儀そのものが「プライベートな行事」だと思います。故人の魂を弔い、遺族を励ましたいというお気持ちを持ってくださるのなら、それぞれの都合で無理のない範囲で参列していただければ私は十分と考えます。

 ですから、私自身が参列させていただくときも、故人と面識がなければお通夜の場にそっと顔を出して、告別式は失礼ながら遠慮させてもらうことが多いです。逆に遺族が恐縮しちゃうかな(私のように)なんて思うので。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
喪家(これって「もか」って読んでいいんでしょうか?何となく間違ってるような気が…)の方が
恐縮する…ですか。
宿泊費や交通費は結婚式と違って参列する方がもつ、ことが多いですよね。
気持ちが大切だ、というのはもちろんですから、
そう思うと確かになあ、と感じました。

ここ最近初七日は略式になってきていると思いますが、
そういうところから来ているのかもしれませんね。

お礼日時:2003/01/12 00:10

amida3こと関東在住の坊さんです。


本来、「通夜式」と「葬儀式」と「告別式」は別の行事です。
ただ、「葬儀」と「告別式」は続けて一緒に行われることが多い(厳密には続いているようで、分かれていますが皆さんにはわからないでしょう)ので、「葬儀・告別式」と一体に思われている方も多いようです。

その本来の意味合いからすると、質問者:wako3001さんが言われるように、
お通夜と葬儀は親族が中心で行い、告別式は一般会葬者(知らせできた人)のためのものです。
しかし、宗教上の儀式としての常識をしらない都会人は、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式に、この20~30年で、通夜式に一般の会葬者がくるような現状になってしまっています。
そもそも、通夜と葬儀が別のものであることを理解していない人が多く、同じものと考え、どちらかに出ればよいと思っている方が多いようです。
そのため、会社員の多いことも重なり、喪主親族の儀式上の都合を無視して、自分の都合の良い方(仕事帰りに通夜に出席)という風になっているのが現状です。
核家族化の影響で、一族の長老や親たちからきちんと常識を伝えてもらえなかった都会人の作り出した近年の新たな習慣になりつつあるようです。
ただ、
>「東京ではお通夜になるべく人を呼んで、
>葬儀はごくごく身内で行うものだから、
>御葬式には行かないよ」
とはまったく非常識な意見で、まことに御粗末であり、開いた口が塞がらないという感じです。きちんと知っている喪主はじめ親族から見れば、失礼極まりない人たちでしかないのも事実です。

東京でもきちんとした通夜葬儀では、当然に、葬儀当日のほうが告別式参詣者がいますので会葬者の人数は多いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「葬儀式」と「告別式」が違うものとは知りませんでした。

つまり、
お通夜と葬儀が同じ意味合いのものだという考えが何となく広がり、
だったら都合が付くのが夜が多いから、
お通夜の方に人が集まるようになり、
それがやや常識化しつつある、
ってことなんでしょうか。

何か都合が付くのが夜が多いからお通夜に参列っていうのも
おかしな話ですよね。
式をお通夜から通して見ていると、お通夜と葬儀は行われている儀式が
違うのがよくわかると思うんです。
「結婚式」と「葬儀」はお知らせがあったら断るのは
失礼なんではないでしょうか。
よほどの事情、に「通常の仕事」は入らないですし。
「結婚式」は何をおしても出席するのに、
「葬儀」はお通夜だけ、ってのは亡くなった人にとても失礼ですよね。

関東の習慣だと勘違いするところでした。

お礼日時:2003/01/12 00:01

おはようございます。



東京生まれ、東京育ち、東京での社会人生活9年目です。

お友達のおっしゃることに1票です。

知人、仕事関係で不幸があった場合で、お通夜、お葬式、どちらの
スケジュールもあいているときは、お通夜に参列します。

友人本人が亡くなったなら、お通夜・お葬式、両方参列しますが、
友人のお母様だったら、私ならお通夜だけです。
私の考えは、お友達の

>「東京ではお通夜になるべく人を呼んで、
>葬儀はごくごく身内で行うものだから、
>御葬式には行かないよ」

という意見と同じです。

あくまでも私の考えですので、ご参考まで。
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この回答へのお礼

早速ありがとうございました。
関係の深さによってどちらも行くか、どちらかにするかってことなんでしょうか?
私はお通夜の方が身内、という感じがしていたので驚きました。

お礼日時:2003/01/11 23:48

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