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本当の優しさ、本当の思いやりとは、どういったものなのでしょうか?
みなさんの考える、思う「本当の優しさ」、「本当の思いやり」を教えて下さい。
わかりやすく定義してもらえるととても嬉しいですが、実体験などから、確かに本当の優しさだったと感じたことなどでも全く構いません。また以下に私の考えを書いていますが、これと異なるものも全く構いません。みなさんの思う本当の優しさについて教えて下さい。


―私の考える本当の優しさ―
『相手の幸せを第一に考え、なおかつ自分の想像と影響の限界を常に認識しながら、それでいてなお、その限界を超えようとし続けること』

ポイント
1.相手の幸せを第一とすること
2.想像には必ず限界があると正しく認識していること
3.影響についても同じ
4.限界を認めつつ、諦めないこと

私が漠然と考えていたことをはっきり定義できるきっかけとなった質問がここにあったので、参考に載せておきます。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2956032.html
ここのNo.9へのお礼にあるのを見て、現在の考えに至りました。また内容自体も非常に考えさせられるもので、なかなか興味深いです。よろしければご覧ください。

よろしくお願いします。

A 回答 (20件中11~20件)

「優しさ」や「思いやり」は、人間が、生物として、集団として生きながらえるために、長い進化の過程で獲得した、遺伝的な性質であると同時に基本的文化の一つだと思います。


しかし、育っていく過程で、様々な障害に会い、その性質が素直に現れなくなってしまった人も大勢います。私も、その一人です。日々思いやりの不足で苦労しています。
参考書など私なりに見つけたものを下記のスレッドに書き込みました。参考にして頂ければ幸いです。
http://okwave.jp/qa5082495.html
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置かれた状況、相手の状況などで様々に違うと思いますが、一番違うのは当人が何を思って為すかだと思います。



今までの人生や経験、考えたことによって、どれが本当の思いやりかは異なると思います。

厳しく接することが思いやりの場合もあれば、端から見ていてはわからない場合もたくさんあると思います。
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こんばんは。



参考のお礼は、長すぎたので熟読しませんでした。苦手なもので。

>みなさんの考える、思う「本当の優しさ」、「本当の思いやり」を教えて下さい。

私が思うのは、救いを求められたら、我が身を捨てるつもりで、限界ぎりぎりまで手を差し伸べること。

しかし、自分がダメになったら、手を差し伸べる人がいなくなる。
ここは、状況を見ながら動かなければならない。
分かりやすく言えば、溺れている人に無闇に近づくと共倒れになる恐れがある、ということです。

自分の例を挙げると、職を失って家族が食うにも困る友人がいました。何とか職をと奔走しましたが、出来ませんでした。
そして、お金を貸しました。
自分の貯蓄はありません。それどころか、生活を圧迫するほどの借金がありました。それでも、さらに借金をして貸しました。

その後、友人は職を見つけ、今度は自分が失業しました。
さあ、どこかから助けが来たでしょうか?
来ませんでした。その友人からさえ。
その時に気づいたのです。
あの時、自分は借金を抱えていたけれど、その友人は、それがなかった、と。
自分は愚かしいことをしたのではなかったのか、と。

後日談は、友人同士の集まりに、失業中で借金を抱え苦しい生活をしている自分は行けず、その友人は来ていたそうです。

催促が来た別の友人(貸すために借りた人です)へはまた借金で返し、
何とかその分は戻ってきましたが、全額は戻ってきていません。

未だに自分の借金は減りません。でも、後悔もしていません。
あれが、あの時点で自分が出来る最大のことだったから。

優しさと思いやりには、時として、捨て身の覚悟が必要です。
そして人には、温度差というものが厳然と存在するのだということを、
苦くても飲み込まなければなりません。
自分の考える優しさや思いやりと、相手の考えるそれとは、絶対的にズレが生じる。

それを埋めるのもまた、優しさと、思いやりでしょうか。
時には痛いですけどね(笑)
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私の考えている優しさというのは、相手のためを思ってとった行動、言動なら全て優しさだと考えます。



優しさとは強さ(自己犠牲が伴うと思っているので)でもあると思っています。

真剣に相手のことを思い、相手の為に良いであろうと考えてした行動や言動が仮に、相手の意にそぐわず、かえって不快感を与えてしまった、傷つけてしまった場合なら素直に本人に謝れると思うのです。

自分のとった行動・言動に責任を取れる人というのも優しさに繋がると思いますよ。

質問者様が紹介なさっている質問も読みました。

結局この方がおっしゃりたいことは自分の命に代えてまでも相手の命を救いたいという自分の欲求を使命だと感じているんですよね。
そしてそういう意識を日本人皆が持つべきだとおっしゃりたいのかな?
そこの点については良く分からない部分ですが、もし、仮に全体の命を救うためなら自分は死んでも構わない、という人も居れば、多くの人の命を救うために自分が死んで家族が悲しむのであるのなら私は自分の命を粗末にしたくない。という人もいるでしょう。前者の考え方であれば、後者の考え方をそれは偽善だと言う人もいるかもしれないし、いないかもしれない。また後者の考え方の持ち主ならば前者の考え方を偽善だと言う人もいるかもしれないし、いないかもしれないですね。

自己肯定がきちんとできている人は他者も認めることが出来るだろうし、自分の命を大切にするからこそ他者の命の大切さも分かる、また、自分が傷ついたからこそ、同じ痛みを持った人を見ると放っておけず、何とかしてあげたいと思う。けれど自己肯定が上手く出来ない人は同じ痛みを抱えた人を見た場合、どうしてそれを乗り越えていけないのだろうかと相手を厳しく追及し非難する場合や、否定的な目で見てしまう時ってないですか。私だけでしょうか。

失礼を承知の上で申し上げますが、上記した他に優しさとはあれこれ考えて自己分析し過ぎてしまうと思ったことと行動が伴わずに優しさを行動に移せなくなってしまう場合があります。

優しさとは本当に単純に相手を思いやって出る行為そのものでもあると思います。たとえそれが後で気付いて自分で『偽善だった』と悟ったとしてもです。

人はとっさに出てしまう行為(何も考えずに手助けしてしまった)=優しさもあると私は思います。

優しさとは見返りを期待せずにただ純粋に相手のことを考えて行なう行為だと思っています。

有名なマザーテレサの「愛の反対は『無視』である」という言葉は真意をついていると思います。愛している人から暴言を吐かれるよりも無視されることの辛さを味わった経験から感じることです。

思いやりって、「行動を伴う愛情」でもありますよね。
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本物があってその他は偽物と言う意味ならば、本当の優しさ以外に偽物があることとも受け取れますが、要するに世の中には(自分も含めて)嘘つきがいるとの事でしょう。


ならば正直であることが本物です。
自分の嘘に気が付かない場合もあって言うほど簡単には自覚できないものですががんばってください。
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優しさ・思いやりは相手も一緒に感じてはじめて【本当】になるものだと思います。

自分だけでは、エゴや偽善にもなりかねません。
難しい事は分かりません。個人の意見です。
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優しさや思いやりって自分から、相手に対して思う事なので、それは、人それぞれだと思いますね。


まあ、それを行動に移した時点で、本当の思いやりや、本当の優しさと言うのは、定かでなくなるとも思いますけどね。よくあるじゃあないですか。「小さな親切大きなお世話」みたいな事。
幸せって結局個人の満足感だし。
優しさや思いやりも、自分から相手に対しての~してあげたいと言う欲望ですからね。
良い意味での。
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「自分の為にもなり他者のためにもなり生きとし生けるもののためにもなるように理性を磨きながら(理性を圧迫する欲怒無知を滅し、慈悲喜捨を育み、理性的な思索能力を育む)自己の理性を最大限に使って善しとした自己の体・言葉・思考のなす行為に注意しながら精査しながら、淡々と楽しく生きること。



です。

自己犠牲の思考で後に「怒り」や「欲」や「無知」に苛まれ苦しむ様なら、その状態自体は他者に迷惑をかけますし、理性も欲怒り無知によって圧迫され、より見当違いな自他に迷惑になるような行為をしやすくなるでしょう。

自分の理性を育む事の邪魔にならないように気をつけながら、自分に出来る範囲で自他に役にたつように注意して、身口意による行為をしていくことこそ、もっとも合理的かつ他者に迷惑をかけずに、より役立つ状態に赴く道と考えます。

それらを淡々と楽しくこなくことこそ僕の考える本当の優しさです。

「何をもって役に立つか」は
行為の前と途中と後とで本当に役に立ってるか考える必要がありますね。役に立たないと気付いたらやめてもうしないことですね。

「役に立つとは」
短・中・長期的に鑑み、問題なく悩み苦しみを減らすことが出来る
その行為で理性的な思考に導かれる、逆の道に引き込まない

何か参考になれば幸いです。
僕の考え方のベースは主にパーリ語の仏典です。
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それも本当の優しさだろうと思います。



私の考える本当の優しさ

「愛を持って生きること、出来るだけ助ける、出来るだけ人を喜ばせる。可能な限り自分を成長させて相手を幸せにするように努める。
時には自分を犠牲にしてまで相手に尽くす。自分を生かす」

これが本当の優しさだと思います。
また、本当の優しさとは苦しみを持っている人ではないと。
人に本当の優しさを向けることはできません。
自分が辛い経験や苦しい経験をしないと本当に優しくはなれません。

優しいは 人編+憂い 憂いは苦しいこと悲しいこと。
人が苦しいことや悲しいことを経験すると優しくなれるということです。

そのように優しさとは苦しいことや辛いことから生まれるものなのです☆
優しさは愛とは違います。
愛と優しさは似てるようで違いますね。

本当の優しさとは厳しさも兼ね備えていないといけません。
相手のためであれば自分自身に厳しくも相手にも厳しくも出来るのです。
それが本当の優しさでしょう☆

例えば、目の前にお腹を空かせたホームレスの人が空き缶を置いてたとします。
そのようなときにあなたが仮に今日の夕食のための1000円があるとします。
自分を犠牲にしてその人にお金を与えることが出来るでしょうか。
その代りあなたは今晩の夕食はなしです。

そこまでしなければ、本当の優しさとは言えないでしょう。
優しい人なら、500円くらい恵むことも有り得ます。
でも、本当に優しい人は1000円まるまる渡すでしょう。

それが本当に優しいということです。
苦しみ、辛いことを抱えることが優しさでもあるのです。

あなたの定義している本当の優しさ。
『相手の幸せを第一に考え、なおかつ自分の想像と影響の限界を常に認識しながら、それでいてなお、その限界を超えようとし続けること』

も失当ではないです。むしろ当たっている感があります。
私の考える本当の優しさと少し似ていると思います。

本当の優しさがすべてではない、人を愛することも必要です。
愛は奥が深いです。本当の優しさと本当の愛を持って生きたいものですネ☆

私の考える本当の優しさを話させて頂きました☆
あなたの少しでも参考になります様に。。。。。。。。
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 自由意志という門は あると思います。


 この門は じっさいには 開いていると わたしも 考えますが 無視していいものではありません。
 門を入る もしくは 戸をノックするという意識と心配りは 必要不可欠だと考えます。

 あとは 互いの話し合いになります。自由意志を尊重するということは 話し合いで 合意に達するという意味ですから。

 互いの意志の自由な発現 この一点にもとづけば おっしゃっていることは 好ましい方向へ向かうのではないでしょうか。
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