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愛することに専心し、愛されることを決して求めないものの象徴としてはどんなものがあるでしょうか?


「キリスト」なんてのはやめてください。

A 回答 (10件)

キリストの父、全ての創造者であられる神エホバです。



こうかかれています。

*** ヨハネの第一の手紙 4:7‐10 ***

愛する者たちよ,これからも互いに愛し合ってゆきましょう。愛は神からのものだからです。そして,すべて愛する者は神から生まれており,神について知るのです。8 愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。9 わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです。10 愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,[神]がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです。

実際、神の愛の結果、ある程度人生を楽しめるようになっています。
逆に神から離れた結果、不幸があり、死があり、病気や苦しみがあり、それを元に戻すためにキリストは来られ、統治されると聖書に書かれています。

参考URL:http://watchtower.org/j/
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 回答番号:No.3 補足:


 子として、親に、夫婦として相手に、友人として友人に、師弟として相互に愛されることを求めることも、大切な愛ですよ。
 愛は愛以外のことを求めない、無償。そういう愛を求めることは愛です。
 信仰は愛です。神も愛しながら愛を求めています。
 森羅万象は愛でしょう。その出てきた親がそして子が愛ではないですか?
 植物もどんな生物も。繫がりは愛です。それ以外にはありません。
 わたしはそういう勉強と精進をしてきております。
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子供の頃遊んだぬいぐるみ。


物なので自らの愛情の照り返しを受けるのみ。
それ自体は愛を求めない。

要するに自己を確認してその本質が愛であると判れば自分自身が質問のような愛の化身になれます。
たとえ話に逃げないで、象徴に対する唯一納得する方法でもあります。
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フツーの主婦です                                                                                それは、やっぱり人間を超えた存在だよね                                                                >「キリスト」なんてのはやめてください。

と言われても・・                                                                                         私、”母”だけど、もし、子供に愛されてないとわかったら、悲しいですもん、とても                                                                  主人の浮気に悩んでいた時、父に「相手(夫)が楽しい思いをしたのなら、自分もうれしい・・位の境地になれ!ばかもん」と渇を入れられました。                                                                                                  でも、お前(私)は悲しいかな、仏様じゃないからとも言ってました。                                                                        うーん。それは、天地自然でしょうか。            
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私個人の意見ですが…。


目に見える象徴というのはないと思います。

あえてその存在があるとするなら“自分自身”ではないでしょうか。

人間は,自分自身のことをこの上なく愛しています。
しかし,自分自身に対し自分を愛してほしいということは望みません。
なぜなら,自分自身が自分のことを愛しているということは無意識だとしても理解しているため自分自身にそれを望む必要がないのです。


なぜ,他に挙げられるものがないと思うのかというと…。
“求めていない”とは私には言い切れないからです。

例えば
落し物を拾ってあげたら“ありがとう”と笑顔を向けられた。
これを嬉しく思うのは心のどこかでそれを相手が与えてくれるだろうと望んでいたからです。
本当に望んでいないのなら,戸惑うかその人のその行動を疑うだけです。

この“愛”についての問いも同じことがいえると私は思います。
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幸せ。

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「愛」-「煩悩」=「慈悲喜捨」


「愛」-「執着」=「慈悲喜捨」

煩悩は欲・怒・無知にもとづき
執着は渇愛(もっと欲しい)にもとづく

共に自己の理想像を欲す。
よって「求めない」のうちにない。

「愛」から「煩悩」を滅すれば滅するほど、「執着」を滅すれば滅するほどに「求めぬ愛」なるものに近づく。「慈悲喜捨」に近づく。

「煩悩」と「執着」を根絶やしにすれば、「求めぬ愛」に達する。

…そのように感じます。


自己の煩悩・執着を絶ち、苦である心の回転の原因とその滅し方を突き止めた人がそのまま心を止めずに、その方法を他者に教えるならそれは純粋な「求めぬ愛」なるものそのものと感じます。

そのような方こそ、その象徴と感じます。

「執着」「煩悩」があればそのような「求めぬ愛」なるものとはならないともいえると思います。

お役に立てば幸いです。
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 回答番号:No.2に続き


 母の愛
  家内をみて。私の母と父をみて。四回子どもたちを出産し、ご近所をその子どもたちと、回って歩いていた三毛のお母さん(みんなが食べ終わると、自分がガツガツ残りを食べていた。やさしくて、ご近所を歌うように門付けしていた。いまその最後のちゃとってみんなで呼んでいる子、男の子が巡回してます。彼は弟と妹を、しばらく連れていました。お母さんがなくなったようです)

 親の愛:三十過ぎを一番上に、三人を巣立ちさせた経験ですが、その幸せしか思っていない。別に何も考えていない、46年も大学に居たので、生活が心配ないからかも知れない。
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これは結構個人差があると思いますが、私にとって無私の愛を注いでくれたのはやはり親です。

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愛することに専心し、愛されることを決して求めないものの象徴としてはどんなものがあるでしょうか?



太陽さんですね。 地球さんもそうですがたまに怒って地震起こすしね。身近なものでは木々や草花ですね。りんごの木だってりんごとっても100円くれっていわないものね。100円くれと言うのは人間だけだね。つまり、愛して欲しい欲しいというのは人間だけなんですね。それに気が付くかどうかだけですね。
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