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 我々が何か他者に訴えかけようとするとき、「理屈で語る」のと「物語で語る」のとどちらが効果的なんでしょうか??
 例えば嘘をつかせないようにするとき、「嘘をついてはいけません」と言うのと、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」と言うのとどちらが効果的でしょうか??
 ちょっと漠然とした質問で申し訳ないのですが、文意を読み取っていただけると助かります。よろしくお願いします。

A 回答 (25件中11~20件)

 回答番号:No.14さん関係:


 実践と経験、その労苦経験のある人には話が通じやすいことはよく経験するところです。
 更に、受け入れる胚芽というお話:
 そうなんです。これがそのことに直接関係しなくても、何か好感を盛ってくれるとか、抵抗しないとかだと、わかってもらえます。
 何よりその方が説得されたい、という状況であることがあります。
 そういう時は、思っていることの分析と根拠、そして意味づけをして差し上げるだけで、そして時々に、また最後に、結論的な標語で決めて余韻(これが後々大切です)を響かせて締めくくるのです。
 アジテーターとしての私は、相手が説得して欲しいという状況に連れ込んでいきます。
 だから落語のまくらも、イントロも大事です。
 調子のいい、いいやすい言葉でまとめて、標語になるようにして差し上げます。その方に気に入る、キャッチフレーズですね。 
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この回答へのお礼

 たびたび回答ありがとうございます。御礼が遅くなって申し訳ありません。
>>実践と経験、その労苦経験のある人には話が通じやすいことはよく経験するところです。
 確かに私の経験からもそのように感じます。
>>アジテーターとしての私は、相手が説得して欲しいという状況に連れ込んでいきます。
>>だから落語のまくらも、イントロも大事です。
 確かに、お釈迦様のお説教(または、それを基にして作られた経典)を研究していくと「法説」「比喩」「因縁談」の構造をもちます。「法説」は教義、「比喩」「因縁談」は物語、ということになるかと思いますが「比喩因縁」は余韻をのこすためかもしれませんね。
 ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/01/14 12:39

ソクラテスの産婆説でも言う通り、聞き手の心の中に既にそれを受け入れる胚芽が用意されていない者にどんなに「理屈」を言っても、また「物語」をしても、相手に訴えることは出来ませんね。

理屈にしても物語しても、そこに既に存在する胚芽を刺激して突然目から鱗が落ちる経験をさせる切っ掛けとしての役割を演じているのだと思います。
#12さんの
>「真理というものは、直ぐに心に飛び込んでくるものである」という私の経験知識です。
>「そういう真理を直ぐに受け入れられない状況では、もう少し人生の波浪の翻弄を生きることが必要だ。」という意味の気持ちです。
を私はそう理解しました。

最近の私の心に響いた「訴え」は、先日ノーベル賞を授賞した益川さんが授賞の連絡を受け取った次の日の朝の記者会見のときに起こりました。彼はその会見で、
「この問題をしばらく皆の受け入れてきた四元クオーク模型に基づいて考え続けて来ました。そんな苦しみの在る日に風呂桶から出た時に、四元では駄目だと『決めた』のです。そうしたら一気に思考の自由度が広がって、結局、六元で行けることが判るようになったのです」
という趣旨の事を述べたのです。私はその記者会見の現場に居たのですが、彼が『決めた』と言う表現を使い、『判った』とは言わなかったことにガツンと来ました。私も学者の端くれで、日々創造の営みに血の涙を流し、石に齧り付いて来ましたが、この表現はそのような苦しみを経験した人にしか出来ない表現だからです。このような創造的な営みを自分で経験した事がない方には、どんなに理屈で理路整然と説明したところで、ソクラテスの産婆説で言うようにその言葉で表現された意味を判ることは出来ません。

ただし、理屈による説明ではなくて物語による説明の場合には、その人の経験に基づいた抽象化の能力次第で、たとえ同じ経験をしたことがなくても、自分の経験の中でのそれに類する経験を重ねることによって、その一端を認識できる可能性はあります。

#11さんの言うように、理論や理屈でなくて、実践を経なくては判らない事が一杯在るわけですが、そしてほとんどの場合その方が重要なのですが、この実践の経験に訴えいる点では、物語性は優れていると思います。
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この回答へのお礼

 お礼が遅くなってしまいまして、申し訳ありません。
>>ソクラテスの産婆説でも言う通り、聞き手の心の中に既にそれを受け入れる胚芽が用意されていない者にどんなに「理屈」を言っても、また「物語」をしても、相手に訴えることは出来ませんね。理屈にしても物語しても、そこに既に存在する胚芽を刺激して突然目から鱗が落ちる経験をさせる切っ掛けとしての役割を演じているのだと思います。
 「産婆説」ありましたねぇ。なるほど。
>>彼が『決めた』と言う表現を使い、『判った』とは言わなかったことにガツンと来ました。私も学者の端くれで、日々創造の営みに血の涙を流し、石に齧り付いて来ましたが、この表現はそのような苦しみを経験した人にしか出来ない表現だからです。
 そうですねぇ。益川氏の言葉からは科学に真摯に向き合う姿勢がうかがえますね。
>>ただし、理屈による説明ではなくて物語による説明の場合には、その人の経験に基づいた抽象化の能力次第で、たとえ同じ経験をしたことがなくても、自分の経験の中でのそれに類する経験を重ねることによって、その一端を認識できる可能性はあります。
 ここが「産婆説」と少し違う所がありまして、「理屈」というのは確かに産婆説に当てはまるような気もします。また、おっしゃるように物語であっても自分が似たような経験をして始めてその物語が何を伝えたかったかが分かることがある。けれども「物語」の特性として、まったく経験もなく芽生えのないものでさえ、主人公が経験することで「同化」が起きることで、理解していくことができるのではないでしょうか。
 回答ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/01/14 12:05

 No.1&8です。



 baka-hageさん 法然の文章は 親鸞のと 主題の焦点が別です。
 親鸞は 
 ○ 信心の成るときのこととして 成ったなら その《成る》ということは 完全であり完成している。
 ☆ と言っています。
 ○ そのあと ゆらぎがあるのも 凡夫であるが そんなことは かまわない。
 ☆ ということではないでしょうか。

 ▲ 摂取不捨のゆゑに、正定聚のくらゐに住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
 ☆ 信心の始まりのときには まだ 《摂取不捨》が 部分的で不完全であるというのは 間違いである。だから 臨終のときの来迎にのぞみをつなぐなどということはないというわけです。
 しかも そうは言っていても そのようにいくら力んで言ってみても ひとは 瀕死の状態にあったり 臨終に向かっていたりするときには 心乱すことも 大いに ある。わけです。しかも あっても 何ら 問題はない。《摂取不捨》の完全は 弥陀のほうにこそ あるのですから。こちらが 死に臨んで たとえ 狂ってしまったとしても 大丈夫だというのが 親鸞ではないでしょうか。
 ▲ 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。
 ☆ これは 理論的に 言っているのだと理解します。臨終のときの人間の狼狽ぶりは 問題にしていません。

 それに対して 法然のは 読んだ限りでは 臨終に際しての心の落着きの無さをめぐって ああだこうだと言っているように理解します。つまり はっきり申せば どちらでもよいことだと理解しますが いかがでしょうか。
 つまりは 親鸞の信心の命題を 《理屈で語る》以外に 《物語で語る》のは むつかしい。引き合いに出された法然の文章も それを成功させたものではない こう 捉えました。

 ご質問への回答としましては こう考えます。
 ○ 《物語で語る》ことのほうが 多くの人に感動を与え得て 《効果的》であるように見える。
 ○ と同時に もし その感動のほかに と言いますか 感動の核として 思想が 伝えられるかと言えば それは 《理屈で語る》にしろ 《物語で語る》にしろ 効果の観点からも その基礎には 《理屈での理解》が 築かれているものだし 築かれていなければ 無理である。 
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この回答へのお礼

 あけましておめでとうございます。御礼が遅くなってしまったことお許しください。
>>(略)狂ってしまったとしても 大丈夫だというのが 親鸞ではないでしょうか。
 そうですね。この考え方は通仏教的な浄土教の思想とは一線を画します。通仏教的には臨終時に「正念」でいられたものは往生が可能であるとされています。
 しかし、「来迎」は諸行往生の者のためのものであり、真実の信を得たもののためには「来迎」はないともしています。
 この「来迎」について法然上人は「諸行往生」のもののためだけではなく、「念仏者」に至るまで往生を願うもののために「来迎」し、阿弥陀様は「大丈夫」と抱きしめんがために現われてくださると説かれています。
>>どちらでもよいことだと理解しますが いかがでしょうか。
 どちらでも良くはありません。阿弥陀仏がどのような存在か?真宗学の曽我量深氏は「私達を救う働きを阿弥陀仏と呼ぶ。」と説かれました。けれども果たしてそうなのか?「阿弥陀仏が私達を救うために働いてくれている」のではないのか?
>>親鸞の信心の命題を 《理屈で語る》以外に 《物語で語る》のは むつかしい。引き合いに出された法然の文章も それを成功させたものではない こう 捉えました。
 そうでしょうか?確かに曽我量深氏がおっしゃったことは親鸞聖人の理論を上手に表現しているかもしれない。しかし、打たれれば共に痛いと感じ悲しければ共に泣いてくれる「人」ではない「法則」では私は救われないと感じてしまうのです。
>>《理屈で語る》にしろ 《物語で語る》にしろ 効果の観点からも その基礎には 《理屈での理解》が 築かれているものだし 築かれていなければ 無理である。 
 果たしてそうでしょうか?現在分かっている脳の構造上人間の行動を決定するのは快・不快のふたつです。理性をもって理屈を理解する脳は「大脳新皮質」ですが、これは人を行動に移させる決断する機能は持っていません。つまり、浄土教に当てはめれば理屈を理解したとしても人は「念仏」をすることはない。それに対して「物語」感動を持って情動自体に働きかけることが出来るのではないかと考えたりしています。
 長々書きましたが、回答ありがとうございます。参考にさせていただきます。今年もよろしくお願いします。

お礼日時:2009/01/10 11:22

 baka-hageさん


 回答番号:No.7のお書き込み。
 私の言葉がどうも不足していましたね。
 「真理は別にある。真理で説得するには真理しかない。」ですけれども。
 これは「如上のことは、真理を扱う場合だけではなく、いろんなことの語りにおいて、観察できることです」という趣旨でした。
 そして、
 「真理というものは、真理自体の力がある。よく読めば、考えれば真理だと理解できるのは、真理ということからは遠い。『正しい、或いは間違いではない』というのは真理というのではない」という私の言い回しです。表現の仕方です。
 「真理というものは、直ぐに心に飛び込んでくるものである」という私の経験知識です。
 「真理は真理自身が説得する。力を持っている」という意味の気持ちです。
 「『ごたごた、或いは演繹や論理。』そんなのは、真理でもないし、そういうプロセスの理解は理解ではない。」
 「そういう真理を直ぐに受け入れられない状況では、もう少し人生の波浪の翻弄を生きることが必要だ。」という意味の気持ちです。
 真理と事実。真理と反・非誤謬、そして正しさとは異なると存じております。

 それにしても、回答番号:No.11の「ナラティブセラピー」に関する一連のお話は人の性(さが)を考える上でとても勉強になりますね。
 コマである。人は自分が見、紡ぐ世界が世界であり、自分なのですね。しかし、それを包含する大きな世界と何かがある。
 それをどう経験するか。これは人間を出ることですね。
 釈迦や禅家が志向したこと、達成したことですね。
 本当はイエスもそれをしているのに、西洋人ってそれがどうも苦手なのですね。いえ、インドと日本を除くアジア人も苦手なのですね。
 人間が何でも把握できるのだと思うことは間違いですね。
 もちろん人間はなんでも把握出来るのですけれども。矛盾していますか?いえ矛盾していないのです。
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この回答へのお礼

 あけましておめでとうございます。年末年始と仕事に追われてしまいまして、お返事が遅くなってしまったことどうぞお許しください。
 むー。私には難しいです。
>>「真理というものは、真理自体の力がある。よく読めば、考えれば真理だと理解できるのは、真理ということからは遠い。『正しい、或いは間違いではない』というのは真理というのではない」という私の言い回しです。
 「真理」ということがどのような性質のものかということですね。なんとなくおっしゃっていることは分かります。
>>人は自分が見、紡ぐ世界が世界であり、自分なのですね。しかし、それを包含する大きな世界と何かがある。それをどう経験するか。これは人間を出ることですね。
 これも先のお話に通じるかと思います。
 たびたびの回答ありがとうございます。参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/01/10 09:40

精神医学、心理学で


「ナラティブセラピー」という概念もあります。

人間は物事の認識おいて、「物語」と自己を
切り離すことはできない。
これをどのように治療へ役立てていくか?

ある意味「理論から実践へ」の手段として
「物語論」にも役立つと思います。
(参考URLー「物語とセラピー」を参照)

またNo6のarayata333さんの話にも少しありましたが、
映画の理論も「物語論」として興味深いのではないかと思います。
人生の想起は常にシーンの繋がりですから…。
『映画理論講義』勁草書房
は私の映画に関しての座右の書です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/ナラティブセラピー
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>「ナラティブセラピー」という概念もあります。
 「ナラティブセラピー」知らない言葉でした。サイトの方はゆっくり読ませていただきます。
>>人間は物事の認識おいて、「物語」と自己を切り離すことはできない。
 確かに文学哲学に分類される「物語論」においても人間は「物語る動物」であるといわれますから、共通点はありますね。
>>ある意味「理論から実践へ」の手段として
>>「物語論」にも役立つと思います。
 なるほど。物語って理論を実践に変えていく力があるのかもしれませんね。
>>『映画理論講義』勁草書房
 探してみます。
 参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/30 11:26

 回答番号:No.7


 ご回答を拝読しました。対応という面に為りますが、挙がってない事柄を投稿します。
 西郷が出陣の折、横整列する兵士を閲兵していた。
 好い仲の芸者が駆け込んできて「せごどん、どうか死なないでおくれ、いかないでよ」と泣いてすがった。
 せごどん、「儂もいきとうない。」
 整列の兵士は、粛然。この兵士をどう演じるか。

 垣見五郎兵衛に為りすましての(騙っての)、大石。東下りの途中の宿場。
 本物の垣見五郎兵衛が、憤懣し、化けの皮をはがしに乗り込む。
 垣見五郎兵衛、「手形をみせぃ。」
 大石、「はぁ・・・、どうぞ、おあらためを。」 三方のお袱紗の上には鷹の羽ぶっちがえの家紋ある、切腹の短刀。
 垣見五郎兵衛、「なに! うぅん。さ。うぅん。当(まさ)に垣見五郎兵衛がまことの手形。とく拝見いたしました。
 之なるは騙りものが持参せし、手形にござる。
 どうぞお収めくだされぇい。しからばご免蒙る。」

 隆盛が薩摩の自宅にいる。
 江戸からの刺客。
 隆盛、「それは遠路ご苦労にあります。今は家人だれもおりません。私の命をどうぞ。」(もっとも隆盛は剣術もだめでしたからね)

 「幕臣山岡鉄太郎である。大参謀西郷殿にまかり通る。」
 江戸から、有栖川熾仁親王の率いる本陣に単身、勝の書状を持参して馬をつけた、鉄舟です。
 途中の道中も官軍兵士がぎっしり。
 西郷の宿についた鉄舟の大音声。ずかずかと上っていったのですね。

 家にいる、隆盛に挙兵の郷党
 「なれば、おいどんの命さしあげましょう。」

 訴えることをしない、訴え、対応でない対応。
 こういう、人の動かしというのもあるのですね。

 僧との入水やいろいろありますが。
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この回答へのお礼

 たびたびの回答ありがとうございます。
 私の好きな話ばっかりですねぇ。落語・講談・講釈・浪花節大好きなんで、「忠臣蔵」や山岡鉄舟先生の話はたまんないですね。また幕末マニアなんで、かっちょいいシーンをずいぶん挙げていただきまして。ありがとうございます。
>>訴えることをしない、訴え、対応でない対応。
>>こういう、人の動かしというのもあるのですね。
 たしかに。
 参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/30 11:18

相手によるのではないでしょうか。

釈迦は相手をみて法を説いたと言いますから。

男性には理屈で。。  女性には物語で。。。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>相手によるのではないでしょうか。釈迦は相手をみて法を説いたと言いますから。
 対機説法というやつですね。お釈迦様のお説教を12に分類した「十二分経」の中で「因縁」「譬喩」などが「物語」に当たるでしょう。大乗においても『法華経』の構成も「十二分経」を参考にして「法説」「譬喩」「因縁」という形態をとっています。お釈迦様がと言うより仏教自体が「理屈」とともに「物語」をもってお話をするという形態をとっています。
 では、なぜお釈迦様はそのような形態を取られたのでしょうか??なかでも、物語がもつ力は何でしょうか??もし、ご存知でしたら教えてください。
>>男性には理屈で。。  女性には物語で。。。
 確かに男性より女性の方が脳の構造上共感能力の高い事は証明されていますから、女性の方が物語を使って伝えることは有効でしょう。しかし、男性は競争の動物ですから理屈で攻めるといや、俺はこう思うと反発を買うこともあると思います。
 この「男性には理屈で。。  女性には物語で。。。」というのは、お釈迦様のお説教がそうであるからでしょうか?でしたら私は勉強不足かその部分を知りません。また、別のことが要因にあるのでしたら教えてください。
 質問をはらんだお礼ではありますが、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/30 11:07

 No.1です。



 理屈では 物語のようには 感動を与えられないとしても 物語は 理屈のようには 意味を特定することは出来ない(しようとしていない)でしょうね。物語のあとで あるいは その話とは別のかたちで 理屈で解説して分かることが 少ないないはづです。
 物語で語るのは 基礎として 理屈を持っているからです。思想としての理屈がないなら 《訴えかけよう》としているのではなく 自身も 暗中模索であるから 取りあえず 表現してみたという程度の作品でしかないでしょうね。探究の道が広がることはあります。

 ▲ (《末燈鈔》:有念無念の事) ~~~~~~~~~~~~~~
 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。
 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。
 また十悪五逆の罪人の、はじめて善知識にあふて、すすめらるるときにいふことなり。
 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに、正定聚のくらゐに住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。
 来迎の儀則をまたず。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《正定聚のくらゐに住す / 来迎たのむことなし / 信心のさだまるとき往生またさだまるなり》 この命題は 《理屈で語る》のでなければ 伝わらないでしょう。物語において 漠然と感じることがあるのを否定したくはありませんが。
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この回答へのお礼

 たびたび、ありがとうございます。
>>理屈では 物語のようには 感動を与えられないとしても 物語は 理屈のようには 意味を特定することは出来ない(しようとしていない)でしょうね。物語のあとで あるいは その話とは別のかたちで 理屈で解説して分かることが 少ないないはづです。
 たしかに、お互いに助成しあっていますね。
>> ▲(《末燈鈔》:有念無念の事)
 ちょっと対抗しまして(笑)法然上人の『大胡の太郎実秀はつかはすお返事』の抜粋です。
 「まめやかに往生のこころざしありて、弥陀本願うたがわずして、念仏申さん人は、臨終終わるきことは、おおかた候まじきなり。そのゆえは、仏の来迎したもう事は、もとより行者の臨終正念のためなり候なり。それをこころえぬ人は、みなわが臨終正念にて念仏申したらんおりに、仏はむかえたもうべきとのみこころえて候は仏の願をも信ぜず、経の文をもこころえぬにて候なり。(こころから往生したいとは弥陀様の本願を信じ念仏する人は、死を目前にしたとしても心はまったく乱れず落ち着いて死を迎えることが出来る、などということはありえないことです。なぜなら、阿弥陀様が来迎なされることを誓われたのは、臨終を向かえ心を乱している念仏者の心を安らかにさせるためです。そうしたことを知らずにお念仏を称えて心落ち着けなくては阿弥陀様の来迎はないと心得ている人は、阿弥陀様の本願を信じていないのと同じであり、お経の意味を取り違えています。)」
どちらかというと法然上人のほうが情緒的な「物語」的要素の強い理論のような気がします。
 参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/30 10:46

 baka-hageさん


 【訴えたり、説得する】内容にもよりますしね。
 その方や環境的状況にもよりますすしね。従おう、説得されようとしている人や場合もありましょうね。

 雄弁。これは説得ですね。能弁。これは自己の立場を陳述すr能力でしょうか。
 釈尊、イエス、孔子、老子、そして親鸞。自ら書いたものって残っていましょうか?ガンディーやリンカーンはどうでしょうか?
 理屈って、誰の側のどういう次元の理屈でしょうか?
 物語、寓話。理解し画くためには有効ですし、一定の場合には説得性もあり、定着性もありますね。

 このごろアジテーターというのが居なく為りましたかね。
 私って、アジテーターで宣伝マンなんです。
 ヒットラーの乗せ方って自ら乗っていますね。
 乗ってこない人にはあまり効果が無いみたいですね。

 小さな大学のラディカルな労組の長い書記長でした。
 みんなに自ら、同じ立場で考えるように引きずり込むことの工夫です。
 一つは問いかけです。どうしたことか。何だこれは。ですね。
 そして困らせて回答を出す。そして、可能な道を提示する。

 宗教家の、私は小学校時代は宗教指導者になるつもりでした。
 宗教家の仕方は、自分の生きることが全ての方の生きることです。
 そう生きるのです。
 そしてその苦悩と思考、経験を真実に語ります。
 批判する人、乗ってこない人にはその人が立っている基盤と先行きを揺るがします。それができなければ喋れません。
 
 大道芸のがまの油。口上をしっていますか?
 歌舞伎の名科白、いろいろありますね。
 しがねぇ恋の情けが仇。どぅとりとめてか命の綱。・・・
 これを東北弁や、茨城弁でやってもしょうがない。
 流れるリズム。口調。民謡は訛りと口調が心にしみます。
 歌もそうですね。

 人の説得は論理でも、物語でもない。
 baka-hageさん、実は私も、禿ではないが馬鹿でしてね。でもこうやって、・・・・という具合ですよね。
 その人のなかに飛び込むこと、技術ですね。
 こまった。お互いに。そしてそこからお互いにはじめる。
 こういうやりかた、技術ですね。

 我々は日夜苦労し、働き続けている。
 それでも生活の不安と困難は、・・・である。
 それはなぜだ、それは彼らが・・・であるからである。
 今こそ、彼らに・・・をさせなければならない。
 なんてアジはよくやりましがが。
 がまの油みたいでしょう。人を動かすのはリズムです。

 真理は別にある。真理で説得するには真理しかない。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>【訴えたり、説得する】内容にもよりますしね。その方や環境的状況にもよりますすしね。従おう、説得されようとしている人や場合もありましょうね。
 もちろん。その通りです。
>>がまの油みたいでしょう。人を動かすのはリズムです。
 後の質問に通じる所があります。
>>真理は別にある。真理で説得するには真理しかない。
 果たして真理は別にあるのでしょうか??「物語」のなかに真実はないのでしょうか?また、真実を語るとはどのようなことでしょうか??
 まだまだ勉強がたりないようでわからないことばかりですが、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/30 10:09

狼少年の話なんかは 嘘についての理屈と物語が効果的に語られていておもしろいですよね。



「おおかみが来た、」と大声で嘘を言って村の人たちがあわてて、棒とかを持って飛び出してくるのを楽しんでいた少年が、  嘘を言いすぎて、実際に狼の追いかけられて「狼だ、助けてくれ」と大声で叫んでも誰も “また嘘言ってるよ”と思い込んで誰も助けに来てくれず、  食べられてしまったという物語です。

嘘をついたら だれからも信頼されなくなりますよという理屈のわかりやすい物語です。

本気で 何かを他者に訴えかけようとする時、 文章にしても その起承転結にその本気度が反映します。  あるいはたとえばそちらの質問文であるならば、ニックネームらしさというか その質問の虚心坦懐さが感じられ その姿勢のあたりが私などには 勇気付けられ勉強になるところだったりしますが、

最初のテーマこそが その「訴えたい気持ち」そのものが文や言葉となるところですよね。   文を起こすところ、つまり「起承転結」の「起」であるわけです。

この場合ですと >…のとどちらが効果的なんでしょうか??<までが 質問テーマとなるわけですが、

その起こりを承って、>例えば<とつづいたりする 例示の部分が「承」となるわけで ここには理屈としての結語よりも、体験談や、それを下にしたまさに「物語」による解かりやすい例示が示されたりします。

この質問の場合は、 嘘をつかせないようにする時の典型的な2つの例示ですよね。

で、その次に 非常に謙虚なまたまさに虚心坦懐な テーマの転ろがしとして書かれている>ちょっと漠然とした質問で申し訳ないのですが、文意を読み取っていただけると助かります。< と  baka-hageさんらしい誠実な独特の「転」に転じるわけです。

そして結が自然に「よろしくお願いします。」とつながっています。

この長所は、 実はそちらが訴える力を 持ってい方と私は推理します。

つまり、示されてる例示は 簡単な例ですが、  多くの人生を見ている中での重みのある質問と 私ならば逆を見ます。

私の回答の方は 最初から そちらのこの質問意図を読み取っての 即「それを承っての」例示から入っています。

意図してそう書いたというよりも、 私も そちらの質問に対して 自然にそれなりにかもしれなくても本気で対応したい気持ちが、私の経験とか読書(狭いですが)の中から出てきたのでしょう。

言いたいことは こうです。

「理屈で語る」のも「物語で語る」のも その効果を生みだすのは、それを訴える 訴えたい魂いかんによるものであり、 どちらがとはいちがいに言えないのでは? ということです。

そちらの例示自体には、二つとも理屈では矛盾があります。

「嘘をついてはいけません」というのは理屈ではなくて、そのものです。

「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」という嘘を本気で言うとしたら この嘘つきは誰に舌を抜かれるので笑。

しかし、嘘をついた子供に 泣いて嘘なんかついちゃダメだと ずばり言っても、 涙を流して「嘘つきは閻魔大王様に舌を抜かれる!」と嘘を言っても      子供にも 深く深く通じると思うのです。

そこまでの子供への訴えの情熱とかは親でなければ無理だとしても(教師も 長い間には親以上の気持ちになるときもあると聞いていますが)

その情熱って その人間が 実直で誠実で、謙虚で虚心坦懐な人であることから生まれてくるものと思います。

この質問も、またこの哲学カテでときどき見られる「質問の中にこそ深い答えがある」ということの典型でしょうか。

こちらも何かを感じさせていただきました。  なんだかよくは解からくもあるのですが、 回答してるほうも、勇気付けられました。

おそらく それとは逆に 自分に対しても嘘をつきつづけ、真実をごまかしつづけるならば、自分でも自分を信頼できなくなり、 やがては世の中自体を信頼できなくなったりもするのでしょう。

怖いところです。  狼少年の話は 子供にはそのものずばりを 人生においてはもっと深いことを示唆しているかと思います。

そして、だからこそ、そちらの質問文全体が この偽者の多き世の中にてなにかさわやかに感じられたのだと思います。

回答してるほうも、ありがとうございますという気持ちになる質問文のひとつです。

わたしは、実は映像モンタージュ(場面場面の積み重なりや組み合わせで物語効果を高める映像技術)の世界を勉強しています。 その他にも表現についてはかなり勉強してきている者です。

でも 訴える力の基本は やっぱり 基本の基本は心にあると思います。

技術はその上での技術の世界です。

モンタージュ技術の発達していない頃の映画にも優れた映画がいっぱいあるし、現代にもくだらない技術だけの映画もあると思うのは私だけでしょうか。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>狼少年の話なんかは 嘘についての理屈と物語が効果的に語られていておもしろいですよね。
 そうですね。「嘘をついてはいけません」という意味合いではいい例だと思います。
>>どちらがとはいちがいに言えないのでは? ということです。
 確かにその通りだと思います。
>>「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」という嘘を本気で言うとしたら この嘘つきは誰に舌を抜かれるので笑。
 ここに気がついていただけて非常に嬉しいです。これは「物語」自体がはらんでいる問題だと思っています。それは「狼少年」とて同じことが言えます。「狼少年」とて「嘘」をはらんでいます。しかし、この「嘘」のなかに「真実」をあらわしているのが「物語」であり、そこに大きな意味があると思うのです。ですから、それを「嘘」とは呼べない。けれども、なんて呼べばいいんでしょうね??それもこの質問の影の疑問なんですよ。
>>嘘をついた子供に 泣いて嘘なんかついちゃダメだと ずばり言っても、 涙を流して「嘘つきは閻魔大王様に舌を抜かれる!」と嘘を言っても子供にも 深く深く通じると思うのです。
 そうでしょう。映像モンタージュという世界は私は不勉強でとっぴょうしのない質問かもしれませんが、映像世界でも「ドキュメンタリー(ノンフィクション)」と「ドラマ(フィクション)」の二種類があるかとおもいます。この二つも「物語」というくくりであらわしてしまえばドキュメンタリーであっても充分に物語の要素を含んでいます。しかし、二つが分類されるということはお互いに違った力を持っていると思うのです。では、ドキュメンタリーというノンフィクションにはないドラマというフィクションがもつ力とは何でしょうか??もっと言えば、ドラマという「嘘」がもつ力とはどのようなものがあるのでしょうか??映像を学んでいらっしゃるかたにご意見伺いたく思います。
 また、いろいろほめていただいて実際の自分とのギャップに恥ずかしいかぎりです。ありがとうございます。
 質問交じりのお礼ではありますが、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/30 09:49

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