プロが教えるわが家の防犯対策術!

 我々が何か他者に訴えかけようとするとき、「理屈で語る」のと「物語で語る」のとどちらが効果的なんでしょうか??
 例えば嘘をつかせないようにするとき、「嘘をついてはいけません」と言うのと、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」と言うのとどちらが効果的でしょうか??
 ちょっと漠然とした質問で申し訳ないのですが、文意を読み取っていただけると助かります。よろしくお願いします。

A 回答 (25件中21~25件)

説得する相手が自分の子供だとすると、親の言葉に素直に従いません(苦笑)


なのに友達やメディアの情報に敏感で効果があるようです!

自立してない子供に保護者は必要不可欠なはずが、意識的に親が変わることで子供が癒される効果はあっても、子供を変える効果は無意識(自然)の領域、つまり人為の及ばないものなのかと思います。

意識的な人為が働くのは、味方よりも「憧れ」であったり「好敵手」ですね。
自分から歩み寄らせる方向は探求の出発になるような存在。
親、先輩、先生、上司といえども保険的に自分を賭けてる場合と、自分を納得させるために博打する相手がどれだけ現実を直視させる存在となりえるか。
例え自己欺瞞であろうと失念する可能性があろうと、願望が恐怖を超えさせるぐらいの効果を示している。
どうあるべきかの理論よりも、どんな「存在」であるかが、効果的な説得の条件かも。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>自分から歩み寄らせる方向は探求の出発になるような存在。
>>どうあるべきかの理論よりも、どんな「存在」であるかが、効果的な説得の条件かも。
 「物語」というのは、このような存在を想定するという意味があるのかもしれませんね。「想定」というよりも、もっと具体的にそのような存在を持つということかなぁと感じました。
 参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/30 09:11

物語だけで納得するという人は教育の普及した現在では多くないでしょうが、理屈ばかりでも疎まれるし、一方に偏るものでもないと思います。



「嘘をつくのは悪い」といっても表面的に頷かれるか反発を食らうだけでしょうし、「閻魔様に舌を抜かれる」を信じる者は今どき小学生でもいないでしょう。何しろ、調べたいことがあればすぐにある程度の情報が手に入る時代ですから。

一口に嘘といっても良いものもあるわけですし(例えば気の弱い人に癌とは言えない)、もっぱら自らの利益のためにつく嘘は悪いというように伝えたいことがはっきりとしていないと前提でつまずいてしまいます。そのうえで、嘘が相手を傷つけ自らの自由を束縛させていく(結局みなが不幸になる)具体的な例をいくつか示さないことには、なかなか説得力を持たないと思います。

それと、話の進め方とかうまさが重要でしょうね。話し方が一般調子だと、せっかく針に食いついてもすぐに離してしまいますから。途中で、ちょっと変わった話の一つ二つを混ぜたり驚かせたりという聞かせるテクニックというのも大切だと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 早速の回答ありがとうございます。
>>物語だけで納得するという人は教育の普及した現在では多くないでしょうが、理屈ばかりでも疎まれるし、一方に偏るものでもないと思います。
 もちろん。両方があって効果的であることも言えるでしょう。
>>、話の進め方とかうまさが重要でしょうね。話し方が一般調子だと、せっかく針に食いついてもすぐに離してしまいますから。途中で、ちょっと変わった話の一つ二つを混ぜたり驚かせたりという聞かせるテクニックというのも大切だと思います。
 たしかに、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれる」ということを話すにしてもどのようにもっていくかということですね。組み立てもものを言うでしょう。
 参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/28 14:42

「例えば嘘をつかせないようにするとき、「嘘をついてはいけません」と言うのと、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」と言うのとどちらが効果的でしょうか?」



どちらも効果的ですね。
理性が確立していない子供、小学生低学年程度には、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」で効果的ですね。
また、理性的に理解できるようになれば、、「嘘をついてはいけません、なぜなら・・」のように理性的に話すべきですね。
わたしなどは、幼少時に、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ。」と祖父母に教わり、よわい60近くになっても人を悪意でだます嘘はつけませんものね。効果的でしたね。もうひとつあってね。「食べてすぐ横になると牛になる。」とよく祖父母に言われましたが、確かにその通りでメタボになりましたからね。年長者は言ってみるものですよ。それなりの効果はあるものです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 早速の回答ありがとうございます。
>>また、理性的に理解できるようになれば、、「嘘をついてはいけません、なぜなら・・」のように理性的に話すべきですね。
 私はこの「理性的に」というのも非常に難しいと思います。
>>「嘘をついてはいけません、なぜなら・・」
この後に何を語るかということです。自分の体験談で「嘘をついてひどく相手を傷つけた」というのも一種の物語であり、理性で理論を理解させることではなく、物語をもって感情的に理解させる行為になるのではないでしょうか??
 また、
>>わたしなどは、幼少時に、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ。」と祖父母に教わり、よわい60近くになっても人を悪意でだます嘘はつけませんものね。
というのも、理性での理解云々を超えていると思うんですよね。
 ちなみに
>>「食べてすぐ横になると牛になる。」とよく祖父母に言われましたが、確かにその通りでメタボになりましたからね。
 これに関しても最近は身につまされる思いでございます。
 回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/28 14:28

人はほかの人に支配されることを好みません。

しかしほかの人も同じように従っている規則などには従うことが正常な人だと思います。理屈で語るというのは一見後者のようですがその理屈を語っている人に支配されるように感じてしまうことが多いと思います。一方物語でも同じ理屈が含まれていてもそれは誰でもそういう状態ならそうするななどと納得しやすいということはあると思います。ただ例に挙げられた閻魔さまに舌を抜かれるというのは理屈から言えば荒唐無稽なので、これは恫喝に類するもので体罰に近いと思います。何かをやめさせるとき理屈でするか体罰でするかというのは少し違いますが、原理は同じのようにも感じます。嘘をついて結局損をする話(イソップ物語りの中にあるかどうか分かりませんが)などが相当するかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 早速の回答ありがとうございます。
>>物語でも同じ理屈が含まれていてもそれは誰でもそういう状態ならそうするななどと納得しやすいということはあると思います。
 確かにそれが物語ることで生まれる効果の一つでしょう。
>>ただ例に挙げられた閻魔さまに舌を抜かれるというのは理屈から言えば荒唐無稽なので、これは恫喝に類するもので体罰に近いと思います。
 ただ荒唐無稽というのは難しい所で、この荒唐無稽は本当に理屈に合わないのか?という疑問がでてきます。物語の特徴としては象徴的なものであらわしたり、抽象的なすがたでものをあらわしたりします。絵画においても具象と抽象がありますが、被写体を正確に写し取る具象画のほうが、点や線などで被写体(描こうとするもの)を象徴的にあらわす抽象画と、どちらが価値が上かというようなことにはならないと思うのです。物語の中でも「創作文学」はほとんどの場合が写実的で、現実的にどのように描写することで物語としての意味を持ちます。それに対して、例に挙げた閻魔様の話にような「昔話・説話・伝説」等の物語は抽象画と同様に象徴化抽象化することで物語として意味を持つのだと思います。つまり、荒唐無稽というのも象徴化抽象化の延長にあり、それ自体で理屈から外れるようなものではないのではないでしょうか。
 ながなが、述べましたが回答ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/12/28 14:17

 baka-hageさん こんにちは。



 何も言わずに 見守っているのが いちばん いいでしょうね。
 接触は 必要ですから 世間話をするというのが 必然的に出てくる具体的なかたちだと考えます。(主題を決めずに 哲学の話でも 政治の話題でも いいわけです)。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 早速の回答ありがとうございます。
>>何も言わずに 見守っているのが いちばん いいでしょうね。
 まぁ、そういわれてしまえばそうかもしれませんが、今ちょっと気になっているのは文学研究の「物語論」というやつでして。私自身まだまだ理解が浅いのですが、どうやら人間とは「物語る動物」のようです。
それには、どのような意味があるのかな?と思ってこの質問をさせていただきました。
 参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/12/28 13:45

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!