上杉謙信が死去する頃以前の直江兼続についての詳しい経緯を記している史料があまり無いと聞いたのですが、それでは今回の大河ドラマの直江兼続の幼少期や若年期のストーリーは全くの空想ということになるのでしょうか。

A 回答 (3件)

様々な人の様々なエピソードが後世に伝えられていますが


それをどこまで信じるかということになると
それは話を聞いた人次第ということにになります。

例えば、秀吉の城の普請のエピソードや墨俣一夜城の話なんかも
どこまでが本当でどこからがフィクションなのかは
受け取る人次第なところがありますから
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この回答へのお礼

受け取る側次第ですか。大河ドラマに関しては否定的に見る方なので、多分ケチつけながら見るんでしょうね。それでも見てしまうわけですが。まあ、民放よりかは100万倍マシですが。

お礼日時:2009/01/05 19:19

まっそれをいったらちょっと前の大河ドラマの山本勘介なんざかろうじて実在の人物だということがわかる程度の人(ただし、今でも実在説に否定的な意見もあります)だったんですから。



そこは不明なのですから作家がいくらでもイマジネーションをふくらませられる腕の見せ所なわけです。空想といわずに事実に基づいたフィクションということで楽しみましょうよ。
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この回答へのお礼

期待して見ろということですね。どうも有り難う御座いました。

お礼日時:2009/01/05 19:15

上杉景勝の父、長尾政景が謙信により謀殺された可能性は高いです。

その死体には刀傷があったとか(国分威胤見聞録)
直江兼続の父、樋口惣右衛門兼豊は、ドラマにもあったように薪を扱う者だったか定かではありませんが、おそらく微禄の者なので、いかに子ども相手でも、上田長尾家の当主と口をきける身分ではありません。

結論:まったくの空想でしょう。
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この回答へのお礼

空想の方がやりやすくていいかもしれませんね。大河ドラマは主人公を必要以上に美化する傾向があるので兼続も実像以上に優秀な武将として登場するんでしょうね。確かに凡人ではないと思います。でも、対最上戦で戦略目標を何一つ達成していない上に、別働隊が大損害を被っていますから軍事的才能はイメージよりも下じゃないでしょうか。まあ、空想が駄目だとは思いません。そうでなかったら、馬を買うだの城を明け渡すだのぐらいしかエピソードがない山内一豊夫妻(奥さんの名前忘れた)を主人公としたドラマなんて出来ませんからね。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/04 23:40

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戦場で戦うので一匹(一頭)とは限りませんが。

「匹」
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLL_jaJP334JP336&q=%e9%a6%ac%e3%80%80%e4%b8%80%e5%8c%b9
「頭」
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLL_jaJP334JP336&q=%e9%a6%ac%e3%80%80%e4%b8%80%e9%a0%ad

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Playtown/2647/kanetugu.html

Q癌について記された古代や中世の史料はありますか。

先日京都の宮津へ向かう途中、長源寺というお寺を見かけたので参拝してきました。
そのお寺は癌封じの寺として信仰されているそうです。
なんでも平安時代に文徳天皇の第一皇子・惟喬親王が皇立継承に敗れて出家後、この土地(出野)を訪れた際に、村人たちに癌封じの秘法を伝承したという伝説があるそうです。

皇位継承争いというのは、藤原良房(娘=藤原明子 孫=惟仁親王)と紀名虎(娘=紀静子 孫=惟喬親王)がいずれの孫を立太子させるかで争った事件のことですね。
この勝負は紀名虎が負け、名虎の孫の惟喬親王は皇太子となることができませんでした。

惟喬親王が法輪寺にこもって虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったとか、木地師の祖であるという伝説は聞いたことはありますが、村人に癌封じの秘法を伝承したというのは初めて聴きました。

癌についてウィキペディアで調べてみると次のように書いてありました。
漢字の「癌」は病垂と「岩」の異体字である「嵒」との会意形声文字で、本来は「乳がん」の意味である。触診すると岩のようにこりこりしているからで、江戸期には「岩」と書かれた文書もある。有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」には、乳がんを表す「岩(がん)」ということばが頻出する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E6%80%A7%E8%85%AB%E7%98%8D
より引用

(1)癌について記された江戸時代以前の日本の史料はありますか。

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惟喬親王が伝承した癌封じの秘法とは、祈祷、癌封じ茶、そうめん流し(単なる接待?)などだと考えられますが、祈祷はともかく、なぜお茶やそうめんが癌封じに効果があると考えられたのでしょうか。

(3)奈良の大安寺では癌封じに効くものとして「ささ酒」を授与していましたが、なぜ「ささ酒」が癌封じの効果があるなどと信仰されているのでしょうか。

(4)その他、癌封じに効果があると信仰されているものをご存じであれば教えてください。

たくさん質問してしまってすいません~。
わかるものだけでも回答いただければ嬉しいです。

先日京都の宮津へ向かう途中、長源寺というお寺を見かけたので参拝してきました。
そのお寺は癌封じの寺として信仰されているそうです。
なんでも平安時代に文徳天皇の第一皇子・惟喬親王が皇立継承に敗れて出家後、この土地(出野)を訪れた際に、村人たちに癌封じの秘法を伝承したという伝説があるそうです。

皇位継承争いというのは、藤原良房(娘=藤原明子 孫=惟仁親王)と紀名虎(娘=紀静子 孫=惟喬親王)がいずれの孫を立太子させるかで争った事件のことですね。
この勝負は紀名虎が負け、名虎の孫の...続きを読む

Aベストアンサー

追記します。

(2)癌封じとしてのお茶と流しそうめん
お茶は12世紀に栄西が大陸から持ち帰って広まりました。
当時から万能薬として伝わっており、そこからきているの
ではないでしょうか。

尚、お茶の効用として実際に癌に効果があるといった研究
結果もあるそうです。治癒が見込めるかどうかは別問題だと
思いますが。

(3)ささ酒(笹酒)について
大安寺の紹介にこうあります。以下抜粋です。
こういった「あやかり」的なものはよくありますね。

>光仁天皇は不遇な白壁王時代に、しばしば大安寺の竹林にて
>浄竹を伐り、酒を注いでお召しになり、中国の故事にいう
>「林間酒をあたためる」風流を催されて無病息災を保たれました。
>実に六十二歳という当時破格の高齢で帝位につかれ、七十三歳まで
>在位されたのです。この帝にあやかって悪病難病を封じ、健康に
>過ごそうと催されるのが笹酒祭りです。

(4)その他の信仰について
上記(3)の事例では「高名な人物が難病に冒されることなく天寿を全う
できた」という言い伝えからきています。

実際に癌と思われる症状が治ったという伝説からきているものでは、
長源寺と同平安期に建立された、湯殿山信仰をもととする「金錫山
地蔵寺」の「延命の水」などがありますね。

あ、現代のあやしい信仰宗教団体とかは別ですよ。同様に「飲む
だけで癌が治る奇跡の水」がペットボトル1本数十万円なんてよく
聞きますよね。

学生時代に宗教学もかじりましたが、信仰の芽生えとは超自然的な
現象など目に見えないものを畏れ敬うアニミズム的な原初の感覚から
きています。何を感じて信じるかは結局人それぞれです。

癌センターのお医者さんなども化学療法以外の方法については、
否定も肯定もしない方が多いそうです。

追記します。

(2)癌封じとしてのお茶と流しそうめん
お茶は12世紀に栄西が大陸から持ち帰って広まりました。
当時から万能薬として伝わっており、そこからきているの
ではないでしょうか。

尚、お茶の効用として実際に癌に効果があるといった研究
結果もあるそうです。治癒が見込めるかどうかは別問題だと
思いますが。

(3)ささ酒(笹酒)について
大安寺の紹介にこうあります。以下抜粋です。
こういった「あやかり」的なものはよくありますね。

>光仁天皇は不遇な白壁王時代に、しばしば大安寺の竹林にて
>...続きを読む

Q豊臣秀吉が直江兼続を引き抜こうとしたが、他にも引き抜きをしていたのですか。

天地人で、豊臣秀吉が直江兼続を直接の家臣にしようと砂金をばらまいたり、刀を振りかざしたシーンがありました。あのシーンはドラマの演出としても、実際、一代の成り上がりで譜代の家臣を持たないので引き抜きはあったのだと思います。

さて、同様な引き抜きは他にどんなのがあったんでしょうか。おしえてください。

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・毛利は、本家輝元のほか、安国寺えけいや毛利秀包、小早川隆景を別家でとりたてていますが、これも直江兼続同様に引き抜きで成功した例ですか。
 逆に引き抜きできなかったほかに例はありますか。
・伊達政宗の片倉小十郎も引き抜こうとしたのですか。

Aベストアンサー

立花宗茂
引き抜きというか独立の大名になりましたね。

島津兄弟
兄の義久が薩摩、弟の義弘が大隅とそれぞれ所領安堵されている。結果として義弘の息子が兄の義久の養子になったので統一されているが、義久に実子がいれば、別家扱いになっていたかもしれません。

津軽為信
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真田
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Aベストアンサー

>>一般書籍ではなく史料を一定のジャンルによってまとめた資料集はどちらの区分になるのでしょうか?

二次資料


>>史料だけ抜き出して利用すれば一次史料、書籍として引用すれば二次史料なんですかね?

どっちの場合も二次資料


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Q直江兼続と大一大万大吉

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そうそう忘れていました。

徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

家康を五大老の筆頭にしたのは、秀吉ですが、上杉に会津120万石を与え、関東東北の要としたのも、秀吉です。豊臣家が、秀吉の政策を継続するなら、秀頼が「上杉の会津(佐渡、出羽)120万石はそのまま」っていえばよかったんです。
天地人でのせりふの「上杉を潰すな」くらいじゃ、全然だめです。

会社の東北支店長だったのに、解任されて、米沢出張所に飛ばされ、一生出世なしって待遇されたら、恨みますよね。首にしなかったから、恩を感じろなんて、めちゃくちゃじゃないですか?

上杉は、京都との交易による関銭が大きな収入源です。アメリカと貿易して関税でもうけるみたいなものです。北の関が原で、出羽に出兵したのは、直江津港に代わる、もらったばっかりの庄内の港を最上から守りたかったからです。

上杉が越後から出たのは、直江津港(当時は今浜)の代わりに佐渡の港と、庄内の港をもらえるからでした。それを、反故にされし、港の無い米沢に押し込められちゃったんですよ。豊臣家を恨みませんか?

そうそう忘れていました。

徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

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Aベストアンサー

http://omattya.com/maccha-about/koicha-usucha.htm

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