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大阪はいつの時代から「天下の
台所」と呼ばれたのですか?
その経緯を是非教えて下さい。

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A 回答 (1件)

江戸時代あたりからです。




「商業の中心地であった大坂を指した異名として使われる用語。
全国の藩が大坂に蔵屋敷などを設け、生活物資の多くが一旦
生産地より大坂に集められて再度全国の消費地に
送られたからであると言われている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B% …

その素地は石山本願寺の時代にはすでにあったと思われますが、
本格的にすすんだのは太閤秀吉の時代でしょう。

瀬戸内海航路を利用して九州、四国はもちろん、
北前船が日本海経由で北海道、東北の物産を
一旦大阪に集めるようになったといいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%89%8D% …
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この回答へのお礼

ご回答有難う。

お礼日時:2011/03/04 14:28

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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q江戸時代、なぜコメを大阪まで?

江戸時代の、西廻り航路/東廻り航路…について調べています。

東北諸藩などが、コメや特産物などを、大阪に輸送していた、とありますが、なぜ「大阪」なのでしょうか?これは、大阪に大きなマーケットがあったため、コメを売りさばくには大阪で…ということなのでしょうか?

年貢を納めるための輸送ならば、江戸に持っていくものでもないのか? と思ったのですが…・。

Aベストアンサー

>年貢を納めるための輸送ならば、江戸に持っていくものでもないのか? と思ったのですが…・。

年貢は、領民が地元の藩主様に収めるのであって
藩や藩主が幕府や将軍様に収めるのではないんですが・・・・

>大阪に大きなマーケットがあった
消費地としてのマーケットという面もありましたが、どちらかというと流通の拠点であり相場形成を行う市場があったと考えるべき
各藩は、国元や江戸屋敷で必要となる多額の金品を必要としていた
しかし各藩の収入のほとんどは、金銭ではなく年貢米であった
そのため、年貢米をより有利な条件で金品に変える必要があった

今現在もそうだけど、地方の農家が生産した農産物を地元の市場よりも築地などの中央の市場に優先的に出荷するのは、より有利な条件で売買するため

確かに江戸も大きな消費地ではあったのだが、流通業とその取扱量では大阪の方が規模が大きかった

そのために上方へ物資は集積された
という感じ

Q戦前は、なぜ経済の中心は東京ではなく大阪だったの?

戦前は、日本最大の経済地域は大阪だったと知りました。

私は、明治時代ころから今日まで、東京が経済の一番中心だと思っていました。

戦前は、なぜ経済の中心は東京ではなく大阪だったのでしょうか?

アメリカでいえば、ニューヨークとワシントンの関係みたいなものだったのでしょうか?

すみませんが、お教えくださいますよう、お願いいたします。

Aベストアンサー

戦国時代を通じて、国内の各国の交易が盛んになりましたが、経済をキーに自治都市で栄えた堺を潰す形で、豊臣秀吉が大坂に居を構えて、経済を振興しました。

江戸幕府ができても、この経済の拠点は動かず、政治は江戸、商業は大坂が中心でした。

これは、明治になっても変わらず、戦前まで続きました。

財閥系の古くからある会社の多くは、大阪やその近くに本社を構えていましたが、高度成長期に、官公庁の力が増すとともに、東京に本社を移転する会社が増えました。
経営のトップが東京にいないと、役人や政治家との接点が作りにくい、というデメリットが大きくなったんですね。

Q京都・奈良はなぜ文化の中心になったのか?

京都は、なぜ古くから文化の中心となり、栄えたのか?
奈良は、なぜ古くから文化の中心となり、栄えたのか?

Aベストアンサー

う~ん この質問に答えるには、とても短時間にかいつまんで、説明する自信は正直いってありません。日本史の中でも、奈良・平安が一番未知が多く、謎めいているからです。専門の大学教授ですら、いまだわからないことが、いくらでもあると思います。まず、このあたりから説明する必要がありそうです。なぜ、未知が多く、謎めいているのか。現在この時代を知る、一番の手がかりは、日本書紀にほかありません。日本書紀は、大化の改新に、かかわった 中臣鎌足のちの藤原鎌足ですが その鎌足の子、藤原不比等によって、作られました。しかし、この肝心の日本書紀が近年、かなり製作者の都合のいいように、改竄(かいざん)されているということが わっかってきたからです。
なぜ、かいざんしたのか、一言で言えば、その当時の大国、いまの中国を意識し、また 恐れていたからです。
ちょっと 話がよこ道にそれそうなので、質問の本題に戻りたいと思います。
奈良の前日本を統治していたのは、大和朝廷です。この大和朝廷もいまだ、九州説と、畿内(今の近畿地方)説の二通りありますが、いまだわっかっていません。
ここで難しい話をしても無駄だとおもいますので、・・・奈良は、なぜ古くから文化の中心となり、栄えたか。
それはずばり、蘇我氏の存在が一番です。蘇我氏の先祖は今の奈良県飛鳥地方だとされています。大阪市太子町あたりと言う説もあります。いずれにせよ、今の奈良地方を中心とするということには、まちがいありません。
その昔、日本は蘇我氏と物部氏の2大勢力があり、物部氏は、神を信仰し、蘇我氏は、その当時日本にはない、まったく新しい中国はたまたインドの輸入ものの仏教を信仰し、(蘇我氏が輸入した)天皇をまきぞいに、勢力争いをしており、最終てきに蘇我氏が物部氏を滅びしたことで、天皇の一番の側近が蘇我氏がにぎったことが大きい理由だと思います。(日本はその当時天皇を中心とする国家でありました。)
こうして勢力をもった、蘇我氏が天皇により近ずくため自分の娘または、それにちかい肉親を天皇家に嫁がせ勢力を維持・拡大したことにより、また蘇我氏が信仰した仏教を、天皇家が受け入れたことにより、奈良がその当時の文化の中心となり、栄えた一番の理由だとおもいます。
次に、京都なんですが、これも話が長くなりますので、簡単に説明します。
こうして繁栄した、奈良時代も後半になり、あちこちで、飢饉、干ばつ、疫病などの病気が流行り、国自体がおとろえはじめました。
昔のことです、こうしたことは、国家の場所が悪いとか、誰かの たたりだとか、
思うほかありません。そこで、その当時の天皇が国を、別の場所に移せば、この飢饉からのがれられ、国家を滅ぼさせずにすむといろいろあれこれ、考えたと思われます。新たな場所に、都を移すにあたり、一番参考にしたのが、中国の陰陽五行説。あるいは、風水を参考にしたと思われます。
陰陽五行説といえば、最近ブ-ムで映画化もされた、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明もこの陰陽五行説をとりいれています。
この陰陽五行説に基ずき、一番理にかなった、場所がたまたま、今の京都であったと思われます。こうして、都を京都に移し、藤原鎌足、不比等の子孫 藤原一族と
天皇家の密接な関係が永遠700年あまりもつづいたことが、京都が文化の中心となり栄えた理由だと考えます。
もっとも、奈良から京都に都を移す前に、今の滋賀県長岡・近江に移したことがありますが(長岡京・近江京)ながつづきしませんでした。なぜか、方位が陰陽五行説の理にかなっていなかったいう説がありますが、さだかではありません。
それと、最後につけくわえるならば、その当時の日本は今の中部地方から東はまだ未開拓地でほとんど、人が住んでいません。
それは、日本人の祖先はもともと、中国、朝鮮(韓国)から、九州をへて渡ってきたということらしいからです。(さだかではありませんが)。
日本の東が栄はじめたのは、江戸時代以降のことです。
osakoさんの質問の回答になったかどうかは、わかりませんが
参考にしてください。

う~ん この質問に答えるには、とても短時間にかいつまんで、説明する自信は正直いってありません。日本史の中でも、奈良・平安が一番未知が多く、謎めいているからです。専門の大学教授ですら、いまだわからないことが、いくらでもあると思います。まず、このあたりから説明する必要がありそうです。なぜ、未知が多く、謎めいているのか。現在この時代を知る、一番の手がかりは、日本書紀にほかありません。日本書紀は、大化の改新に、かかわった 中臣鎌足のちの藤原鎌足ですが その鎌足の子、藤原不比等によ...続きを読む

Q日付変更線は必要ですか?

日付変更線は、東経(西経)180度の位置にあって、地球上の日付を東経側が西経側より1日進んでると定義するために決めた線だと思います。つまり、東経側が2月1日なら西経側は1月31日になっているわけですよね。
もし、日付変更線がないとすると、どう日付をつければいいかというと、経度0度(グリニッジ天文台)の西側から、地球の太陽と正反対の位置(時刻が0時のところ)、までを、例えば2月1日にして、地球の太陽と正反対の位置(時刻が0時のところ)から西の経度0度までを、1月31に定義してもいいんじゃないでしょうか。
ただ、そうすると2月1日の地球上に占める範囲が変化していくわけです。
日付変更線があれば、地球の日付は西半球(西経)と東半球(東経)で固定されているのに対して、日付変更線がないと、日付の範囲が狭くなったり広くなったりするわけです。でも、これでも問題ないと思うのですが。
問題点を教えてください。

Aベストアンサー

z-roです

すみません、間違えました。
正確にいいますと、そのとおり、問題ないと思います。
国ごとに日時を決めて、空港で暦あわせをすればいいことですね。

こっちが勉強になりました。

Qアルトリコーダーの運指を教えてください

アルトリコーダー(バロック式)の初心者です。
ハ長調の簡単な曲でも吹けたらと思いつつ、ドレミファを順に吹いているのですが、添付されていた運指表の見方すら、頼りない状態です。
以下の運指は、間違っていませんか?
お教え下さいますでしょうか。

ソ … ●   ●●● ●●● ○
ラ … ●   ●●● ●●○ ○
シ … ●   ●●● ○●● ○

ド … ●   ●●● ○○○ ○
レ … ●   ●●○ ○○○ ○
ミ … ●   ●○○ ○○○ ○
フア … ●   ○●○ ○○○ ○
ソ … ○   ○●○ ○○○ ○
ラ … ◎   ●●● ●●○ ○
シ … ◎   ●●● ○●○ ○
ド … ◎   ●●● ○○○ ○

レ … ◎   ●●○ ○○○ ○
ミ … ◎   ●●○ ●●○ ○
フア … ◎   ●○○ ●●○ ○


親指(裏の穴)
◎じるしは、少し開ける

アルトリコーダー(バロック式)の初心者です。
ハ長調の簡単な曲でも吹けたらと思いつつ、ドレミファを順に吹いているのですが、添付されていた運指表の見方すら、頼りない状態です。
以下の運指は、間違っていませんか?
お教え下さいますでしょうか。

ソ … ●   ●●● ●●● ○
ラ … ●   ●●● ●●○ ○
シ … ●   ●●● ○●● ○

ド … ●   ●●● ○○○ ○
レ … ●   ●●○ ○○○ ○
ミ … ●   ●○○ ○○○ ○
フア … ●   ○●○ ○○○ ○
ソ … ○   ○●○...続きを読む

Aベストアンサー

全てバロック式のアルトの指使いで合っています。

それからこれは余計なことですが、「◎じるしは、少し開ける」とご本人が書かれているように '少し開ける’で正しいです。
昔、リコーダーを小学校などで教わった時に「半分あける」と教わった人も多いようですが、実際には1~2ミリくらいのものです。

リコーダーを始めるに当たって、アルトを選択し、しかもバロック式で始められたというのは最良の選択だと思います。がんばってくださいね!

Q江戸時代の世界各都市の人口は?

江戸時代、元号が元禄になる頃には江戸の人口は100万人を確実に超えています。
その当時、世界の各都市はどの程度の人口だったのでしょうか?

Aベストアンサー

 18世紀半ば頃、世界に知られた大都市と言えば、ロンドン、パリ、北京などでした。そして世界最大の都市は北京だと思われていたのですが、実際には、もっと大きな都市があったのです。それは、江戸でした。

 江戸の人口は、1721年に百万を超え、18世紀後半にはさらに増えています。1760年頃、ロンドンは60万、パリが70万、ニューヨークはわずかに1万4千の小さな町でした。世界第二位は、清の北京で約百万、日本では、京都、大阪が四十~五十万で、世界ベストテンの中位にありました。

 江戸百万の人口の内訳は、武家と町人ほぼ同じの五十万づつでしたが、町家の面積は二割にすぎず、武家屋敷が六割、寺社が二割を占めていました。このように、江戸は武家中心の町で、その膨大な消費を目当てに、食いつめ者も諸国から集まり、職人、奉公人、日雇い、遊芸人、売春などで稼いでいました。頭数では世界一位でも、住民の質や都市施設は最低でした。1657年、明暦の振袖(ふりそで)火事で十万人の死者を出した事件も、江戸のスラム化を示しています。

 十九世前半、ヨーロッパでは、産業革命による都市への人口集中が進み、ロンドンが江戸を抜きました。歴史上の大都市は、古代ローマとアレキサンドリアが百万、十世紀のバグダードが百五十万、十二~十三世紀の南宋の臨安(杭州)が百~百五十万といわれます。

 18世紀半ば頃、世界に知られた大都市と言えば、ロンドン、パリ、北京などでした。そして世界最大の都市は北京だと思われていたのですが、実際には、もっと大きな都市があったのです。それは、江戸でした。

 江戸の人口は、1721年に百万を超え、18世紀後半にはさらに増えています。1760年頃、ロンドンは60万、パリが70万、ニューヨークはわずかに1万4千の小さな町でした。世界第二位は、清の北京で約百万、日本では、京都、大阪が四十~五十万で、世界ベストテンの中位にありました。

 江戸百万の人口の...続きを読む

Q中国はなぜ1つの標準時時間しかないのか?

中国はあれだけ国土が広大なのに1つしか標準時間が無いですよね、ロシアとかはいくつもあるのに。
アメリカやオーストラリアでさえいくつも標準時間があって
国内で数時間は時差がありますよね
首都の北京に合わせてあるってことは
西側は日の出も日の入も早くて活動しにくいとか問題があるのですか?
あるいはテレビも北京や上海と同じ番組を見るので夕方にニュースを見るとかができないとかはありそうですけど。
なぜあれだけ巨大な国土で東西に広がっているのに標準時間が1つしか無いのですか?

Aベストアンサー

 端的な理由は中央集権的な社会主義国家だからですが、
それ以外に地理的な理由もあります。

 中国は人口 13 億人のうち、海から 1000km 以内の範囲に
10 億人が暮らしています。重慶や成都がある西南地区も含め
れば 12 億人になり、実は中国人口のほとんどは、東はハルビン、
西は成都の範囲にほとんど収まってしまうのです。

 ハルビンと成都の経度差は、約 22 度です。実はこの数字は
根室と石垣の経度差にほぼ等しいんですね。経度 15 度が時差
1時間に相当しますから、中国の主要都市では東と西の時差は
実は 1.5 時間程度しかないのです。

 となると、日本でも札幌と福岡では日の出が1時間以上違い
ますが、日本国内が統一時間であることに誰も困っていないの
が実情ですよね? 同様に、中国も国内に時差を設ける合理的な
理由がないと考えて差し支えないと思います。

 中国は東西にものすごく広く見えますが、実際には成都より
西の部分は人口が希薄で、時差が広がっても影響はほとんど
ないんです。だから、時差を設けて面倒くさくするより、全土
統一時間のほうが簡単だし、現実面でも困らないというわけです。

 これに対し、東西両海岸に大都市のある米国は時差がないと
困ります。カナダもバンクーバーとトロントでは離れすぎていま
すし、ロシアも人口の多くがウラル山脈より西に偏在している
とはいえ、東ロシアにもノボシビルスクやイルクーツク、ナホ
トカやウラジオストックといった主要都市があります。

 端的な理由は中央集権的な社会主義国家だからですが、
それ以外に地理的な理由もあります。

 中国は人口 13 億人のうち、海から 1000km 以内の範囲に
10 億人が暮らしています。重慶や成都がある西南地区も含め
れば 12 億人になり、実は中国人口のほとんどは、東はハルビン、
西は成都の範囲にほとんど収まってしまうのです。

 ハルビンと成都の経度差は、約 22 度です。実はこの数字は
根室と石垣の経度差にほぼ等しいんですね。経度 15 度が時差
1時間に相当しますから、中国の主要都市では...続きを読む

Q江戸時代の関所って関所を通らなくてもよかったのでは

江戸時代の関所ですが、別にそこの関所を通らなくても迂回することは可能ですよね?例えば箱根の関所ですが、やる気になれば街道から一歩山の中へ分け入り、そこから関所を越すという感じでやれば関所を通らなくてもOKのような気がします。もちろん道なき道をわけいるのは面倒で勇気のいることだとは思いますけど、やってやれないことはないと思います。

入り鉄砲・出女と言われますが、鉄砲商人だったら死ぬ気でやれば見つからずにできたと思います。今みたいに山の中へ入ったら装置が作動して電気が付くなんていう事もできなかったと思いますし。あと時代劇とかで出女が関所を通るときに身分を偽って顔を隠すみたいな事をしていますが、これも関所を通らずに別のルートで出て行けたような気がします。

そこで質問ですが、関所はそれなりに機能はしていたと思いますが、本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

Aベストアンサー

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるようになった頃には、関所自体、あまり取締が厳しくなくなっていた現実もあるようです。

でも、士分はそうはいかない。
入り鉄砲・出女は武士を対象にした規制ですが、例えば(こんな例はないと思いますが)、大名の妻が江戸から国へ帰った場合、関所を通ったという記録が残っていないと後が大変です。
幕府と戦をするつもりがあると見られてもしょうがない。

身分に関係なく、江戸を出る時は許可を得る必要がありますし、
大名の場合は大目付によって妻子が江戸藩邸にいるかどうかチェックされていましたので、入り鉄砲・出女は関所だけがチェック機関だったわけではないのです。

ただし、幕末になると妻子を国に返してもかまわない、ということになり、出女については意味がなくなっています。
討幕運動が一気に盛り上がれた要因の1つかもしれません。

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるよう...続きを読む

Q江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

はじめまして。
江戸初期には田畑勝手作の禁で農民は穀物以外の栽培を禁じられましたよね。
しかし江戸中期には商品作物が栽培されるようになりました、そして各地の特産品へと変貌していきます。
しかしこの頃はまだ田畑勝手作の禁は廃止されていなかったはずです。

どのような背景から、法令を破ってまで特産品が生まれるようになったのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

平和が続いたために農業生産・商品生産の技術が向上した。また、都市を中心に生活が向上し、ようような商品の需要が高まった。
米の生産力が向上し、商品作物を生産し、販売する余裕が生まれた。
より収益を上げるために農民の零細な農村家内工業の発達。
農業技術の発達により風土に適した特産物の生産。
大名財政の行き詰まりから商業作物・特産品栽培の奨励、保護、専売化。
当然のことですが、もともと畑作地はあり、年貢も現物と金納の両方であったこと。
年貢の金納化が進んだことにより、商品作物を作りやすくなった。
大坂を中心とする商品の全国流通網の整備により全国市場が成立し、商品化が進んだ。
米作より商品作物を作った方が収益が大きい例が多かったこと。綿などは金肥を使っても米の3倍以上の収益があがったといわれています。
農村の有力農民が土地を兼併し、商品作物の生産・流通及び金融の中心となり資本を蓄積し、豪農に成長する。
都市の問屋が豪農と提携し、商品作物の生産・流通を主導。また産地の農民に資金を出して、農村家内工業から問屋制家内工業に組織化し、特産化。

以上、分かる範囲で。

江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

平和が続いたために農業生産・商品生産の技術が向上した。また、都市を中心に生活が向上し、ようような商品の需要が高まった。
米の生産力が向上し、商品作物を生産し、販売する余裕が生まれた。
より収益を上げるために農民の零細な農村家内工業の発達。
農業技術の発達により風土に適した特産物の生産。
大名財政の行き詰まりから商業作物・特産品栽培の奨励、保護、専売化。
当然のことですが、もともと畑作地はあり、年貢も現物と金納の両方であったこと。
年貢の金納...続きを読む


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