プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

現在、大学で古文書の勉強をしているのですが、以下の古文書の訳が分からない状態で困っています。以下の古文書について、訳をお願いしたいです。よろしくお願いします。
また、この頃(天正18年)の時代背景はどういったものだったか、できれば伊達正宗に関連することを教えてくださるととても助かります。
どちらかでも全然いいので、わかる方よろしくお願いします。

伊達正宗書状

当月三日之書翰、今日十四日相州於藤沢之地一覧、
本懐二候、一去五日二小田原へ着陣、同九日巳刻
令出仕、同十日朝二茶之湯二而被召出、名物共御
為見、就中天下二三ツ共無之御刀腋指、直談被下候、
其外御入魂之儀共、不及是非候、扨又、為休息、被相返候、
今日従小田原、当藤沢へ相着候、二十四五日比者、
黒河へ可相帰候、奥州五十四郡・出羽十二郡、皆似
仕置等被仰付候、会津之事者、一端被仰出候条、
先々関白様御蔵所二被成候、万吉直々可及閑談候、恐々謹言

追啓
判形少違候                   亥刻
なをし候へは、                 六月十四日 正宗(花押)
いかがのまま、早々如此二候、

以上です。皆様のお知恵をお借りできればと思っています。お忙しいとは思いますが、
どうかよろしくお願いします。

A 回答 (3件)

自分で勉強してもらいたいため基本的にそのまま訳を答えることはないのですが、前の解答があまりよくないので、回答します。



今月3日の(あなたの)書状を、今日14日に相模国藤沢の地で拝見し、本懐なことです。
5日に小田原へ着陣し、9日巳刻に(秀吉に)出仕し、10日朝に茶の湯に召し出され、名物など見せていただき、とくに天下に二つ三つはない御刀・脇指を直談に(秀吉から)下されました。その他にもご懇切な対応でした。
それで、休息のため、(秀吉に)返されました(秀吉に帰ってよいと言われた)。
今日小田原より当藤沢へ着きました。24、5五日頃は、黒川へ帰るでしょう。
奥州54郡・出羽12郡はすべて仕置など仰せ付けられました。
会津についてはひとまず仰せ出されましたので、まずは関白様御蔵所になされるでしょう。
直に閑談したいものです。恐々謹言。

基本的に直訳ですので、用語などは日本国語大辞典・国史大辞典などで調べてください。
時代背景については、伊達政宗についての書籍(小林清治『伊達政宗』吉川弘文館など)を読めばわかるはずです。小田原合戦と奥州仕置に関する本でもいいですが。
大学で古文書を勉強していると言うことは、史学科かと思い苦言を申しますが、ネットの活用は結構ですけれども、とっかかりにとどめ、最終的には文献で調べてください。
古文書を通じて、自分で分からないことを調べる方法を学ぶことが一つの目的です。
ちなみに、ここの回答で得た訳を授業で答えても、自分が理解していないと(熱心な)先生には間違いなく自分で調べていないことがばれます。訳を聞いていますが、読み下しはできているのでしょうか?
    • good
    • 1

(1)伊達政宗書状の内容



十四日に、藤沢を見物し、ホッとしています。
五日に小田原に到着し、九日(午前)、(関白様〈豊臣秀吉〉から)呼び出しを受けました。
十日には、珍しい刀、脇差を拝領し、また心尽くしのもてなしを受け、感嘆しました。そのうち、関白様は、休息のため、戻られました。
今日は、関白様に従って、小田原から藤沢まで行ったのです。
二十四、五日には、黒川(会津の、政宗の城。会津若松城)に帰る予定です。
東北地方で、従わない者があれば平定せよとのご命令をいただきました。
会津の処置は、いずれ、関白様からお話があるでしょう。

 (以下、略)


 専門に勉強したわけではないのですが、だいたい合っていると思います。
 藤沢、小田原は、相模(神奈川県)の地名で、今もそのまま使われています。


(2)時代背景

 伊達政宗は、天正十二年(1584)に家督を継いでから、領土の拡大のため、主に本拠地、米沢の南側と東側、会津方面に侵攻し、天正十八年(1590)には、制圧していました。
 ところが、中央では、豊臣秀吉による、天下統一が着々と進んでいて、この年には、主だった武将で秀吉に恭順していないのは、小田原の北条氏と、伊達だけになっていました。
 政宗にも、出仕(降伏)を促す知らせが来ていたのですが、政宗は、これに従わず、領土拡大を進めていたのです。
 そんな中、北条氏の小田原城包囲が、三月に始まりました。けた違いの兵力差があり、北条氏の敗北は時間の問題で、北条氏が敗れれば、今度は伊達氏が秀吉と戦う事になります。もちろん、勝つ可能性はほとんどありません。北条氏が敗れる前に、降伏か、徹底抗戦か、決断しなければならない状況だったのです。

 政宗が意を決して、死装束で秀吉に謁見したのは有名な話ですが、これが、書状にある、九日の呼び出しです。詳しく書いてないのが、政宗らしいですね。結局、政宗は許され、翌日には歓待されています。
 千利休に、茶を習いたいと言ったのは、この時かもしれません。
 そして、十四日には、藤沢へ。死を覚悟していたのに、許されて周辺の土地を見物し、ホッとしていた事でしょう。

 小田原の戦いは翌七月に終わり、宇都宮と黒川城(政宗は、一足先に帰っていた)で、奥州(東北地方)の征伐と領地の分割(大名の、各地への振り分け)が始まったので、政宗としては間一髪の所でした。政宗の領地は減らされましたが、ギリギリまで反抗していた割には、寛大な処置で済んでいます。

 この様に、天正十八年は、政宗にとって激動の年でした。そのさなかの手紙という事になりますね。
    • good
    • 0

http://rakureki.fc2web.com/page004066.html#odawa …

小田原遅参の話ですね

秀吉にユルされちゃいました、よかった よかった
というような内容
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!