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「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。
生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。
親和欲求でしょうか。
それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。

私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。
(けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける)

皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。




教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。
その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

A 回答 (56件中31~40件)

>生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を


>総まとめにした詩的表現でしょうか。
>親和欲求でしょうか。
>いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。

とっても難しい問題だけど、種の保存の為に、
親和欲求はやはり必要かと思います。

実際、本当の孤独に人間は耐えうることができるのだろうか?

小野田さんや、横井さんは、やはり人間の存在を信じ続けていたと
思います。でなくては生きていけない気がします。

「愛は死んだ」と言われる時代が来るとするならば、
きっとその時代は、絶対的な永遠の種の保存が実現可能であり、
それに対する何ら人間の本能的な働きかけも必要となくなる
科学技術が完成する時代なのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

すみませんが、私と皆さんの感覚が思っていたより全然違っていたのと、皆さんのほうが考えられているため私はもはやわかりません。

しかし、やはり来ると思います。

お礼日時:2009/10/04 07:07

No.11です。



「神は死んだ」
については、他の方からの指摘がありますが、
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2821689.html
での良回答や
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa75125.html?ans_count …
の、No.6
での記述も参考になるかも知れません。

また、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A1% …
も、もし、読んでおられないのでしたら、一度は読んでみるべき本だと思います。

上記背景をしっていたならば、下記のジョークは面白いものになります。
>>> http://www.tsu.ac.jp/tagblocks/ouyou/news/sports …

トーマ(西川訳) 「ドイツ人のバカ笑い」   集英社新書 2004   \700

小話 2:
 「神は死んだ。―――ニーチェ」と、だれかがベルリン動物園駅の壁にスプレーで書いた。
 「ニーチェは死んだ。―――神」と、別の誰かがその下に書き加えた。
<<<

また、「愛」についてですが、お示ししたリンク先にも取り上げられている「愛の無情について」(亀井勝一郎)も、一読されることをお勧めします。部分的には、下記にて見ることができます。
>>> http://www.fit.ac.jp/~y-tanaka/
http://www.fit.ac.jp/~y-tanaka/ainomujoh/aino-mu …
 汝の隣人を愛せよと聖書は教えています。自己にもっとも近い隣人とは、家族であり親族ですが、我々は、自分の身に近いものほど愛しえないという事実に直面します。もっとも陰惨な争いは、血族間に起こりやすい。互いに親しく、愛しあってもいるのに、それと並んで憎悪はいっそう激しく起こる。むしろ遠い隣人、まったくの他人の方が愛しうるような気がするものです。
 人類愛、同胞愛を、多くの人は叫びます。その家庭、その一族の中では、深刻な内輪もめを続け、どうすることもできないのに、人類愛だけはもっている人が少なくない。汝の妻、汝の兄弟を憎みつつ、同胞の愛だけは説く人が少なくない。おもしろい現象です。つまり自分の身に直接ふれてこない対象、乃至は時々しか会わない対象、その意味で抽象的なものほど愛しやすいわけで、換言すれば、自己の観念を愛しているということになる。人類愛の名において、自己を愛しているのであります。
 我々はこうした矛盾をまぬかれない。民衆への愛を叫びながら、実際貧民窟へ行って、一人一人の民衆に接したとき、狡猾なエゴイズム、残忍、凶暴を見いだすことは少なくありますまい。社会主義は「民衆」を神聖視し、これを「神」とさえ崇(あが)める情熱をもっています。またすべての宗教も、民衆への愛と救いを説きます。しかしそれは可能なのか。現実に一個一個の人間を愛し、救うとは、どういうことなのか。民衆を見よと言いますが、我々はまず自分自身をこそ見なければなりませぬ。自分という一個の民衆ーーこのもっとも具体的な存在を凝視したとき、その口にする愛と救いの、いかに不安定でエゴイスティックであるかが明らかとなりましょう。
<<<
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

おそらく理解できないことが多いと思いますが、「ツァラトゥストラはこう語った」と「愛の無情について」はぜひ読もうと思います。
前者は、哲学的な流れや西洋の文化背景もわからないですし。。


>​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2821689.html
>での良回答や
>​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa75125.html?ans_count …
>の、No.6

これも非常に参考になりました。
後者の後半部分は特にわかりやすかったです。


漠然としていて大変申し訳ないのですが、質問に関係なくてもよいですので他にお勧めの本(読書初心者に)がございましたらお教えいただけると嬉しいです。。

お礼日時:2009/10/04 00:10

 「自分の自己愛を傷つけるものは、その言動が真実であろうとどうであろうと排除しよう」という、ナルシスト特有の偽善、欺瞞であるでしょう。


 自分の自己愛を傷つける他者を排除しようとすると、自分の目に映ったとしても、それは他者の、的を居た指摘、忠告かもしれません。自分の自己愛を傷つけたという主観により、他者を排しようとする、ナルシストを排除したい というのが、最近の私の心境です。つまり、私に限って言えば、少なくとも自己愛を傷つける人間を排除しようとしているわけではありません。

 何の根拠もなく、自分だけは守ろうとして他者を排除しようとする人間を排除もしくは罰しようとしているのです。

 これは、質問者のことではないでしょうか。

 「自分の見た感じ、自分の感性と共感するから」賛同する、同意するのは構いませんが、感性や情緒のみでいきたい、子供のままでありたい、ましてや物事をまともに考えたりしたことがないというならあまり自我を通そうとしないのが賢明です。

 なるほど、「視覚レイプ」ですか、それは 単に気に入らない、自分の感性にあわないから他者を排除しようとする人間が、「排除されるかもしれない、自分の場と自己愛を侵害されるかもしれない」と本能的に感じたから「視覚レイプ」だと思ったのかもしれませんね、しかしそれは私も同じ感想を持ちました。

>私は、「知的な実力を磨く(磨ける)」ことは自己愛なくして困難であると思います。

 そうですか、しかし、「単に気に入らない、俺を傷つけるから排除しよう」と思っているなら、智恵が備わることはないでしょう、単なる感性、感覚、本能で動物的に振舞うなら、人間としての智恵は備わらず、動物としての縄張り意識とそれに伴った嗅覚が発達するのみだと思います。。。

>考えたことがない上に、「自己愛(他者への個人的な愛)」の意味がわかりません。

 自己愛の意味が解らないのに、

>私は、「知的な実力を磨く(磨ける)」ことは自己愛なくして困難であると思います。

 と言える人間が居るとは、驚きです。だいたい、

>私を「ナルシストゆえ道理や物事を理解しない人」と言っているのであれば私にとっては褒め言葉ですが、理解に努める必要はあると現時点ではそう考えております。

 このように、自己愛=ナルシストであり、ナルシストであるゆえ道理や物事を理解しないことを正当化していますよね、従って

>私は、「知的な実力を磨く(磨ける)」ことは自己愛なくして困難であると思います。

と、言うのは、困難というより、そもそも自分が望んでいないということでしょう。

>No.21さんは色が私の好みでない

 ナルシストであるが故に、「自分の在り方の正否に関係なく、他者を排斥しようとする人間」は、私の好みでは在りません。従って、今後文章を用いての「視覚的なレイプ」と、実生活での排斥および排斥するためのレイプはお止めください。

>ただ、自分がデモンストレーションという言葉を使ったから、「従って、」  自己愛が傷つくことへの恐怖」どころか、現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言している ことには、なりません。

 いえ、これは質問者さんが

>「ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーション」ということから、回答者さんの自己愛が傷つくことへの恐怖はかなりのものと思われます。

 と断じるので、そのように言うのであれば、「自己愛が傷つくことへの恐怖どころか、現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言していると言うことにもなる」と言ったのです。

 実際、ここでの実力試しというか 実力示し が、現実世界を反映した「デモンストレーション」であるなら、「現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言している」という事になります。実際の社会で実力磨きをしているのは、本当ですが。

 とにかく、

>No.21さんは色が私の好みでない

 というなら、私の好みで、質問者さんを排斥、非難することについて、少なくとも質問者さんがそれを主張するのはお門違いかな、と思います。自己愛に酔いしれたナルシストが自分の権利を主張するものでもないでしょう。

この回答への補足

この回答も含めて、これからもですが、読み返して参考にさせていただきます。

なんというか、、、これからも頑張ってください。。

補足日時:2009/10/03 03:12
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この回答へのお礼

そういった回答をしてきた私に本題から逸れたことをわざわざ時間を使って回答するエネルギーはどこからくるのでしょうか。。。


と、誰しも思われていると思います。。

お礼日時:2009/10/03 03:00

愛とは自分で成長ができようにすることではないかと思います。



子供が成長するのを親は手助けをすると思います。
でも、親の価値観に従うようにしがちです。
それをしたら失敗したり間違えたりすることがあります。
その失敗や間違いをしないように手助けをしてしまうと、試行錯誤を
して学ぶという機会をう舞うことになってしまうと思います。

そして失敗や間違いをしないことが,未知なる問題に直面した時に
弊害として顔をのぞかせることになるでしょう。

誰かのためだからといった安易な手助けが,誰かの成長をさせない
ということで連鎖していけば,成長が出来ない人だらけの社会を
作り出していくことになるはず。
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この回答へのお礼

言及されている範囲が非常に限定的(そもそも質問が曖昧ですから仕方ないですが)ですが、限定的でないような感じもします。

また、仰ることは理解できるように思います。

お礼日時:2009/10/03 00:27

補足:デモンストレーションの意味



デモ (demo) は、本体は明示すること、論証すること、実物に即して示すことを意味する。

宣伝のための実演。

 というわけで、

>ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーションです。
は、「ここでの実力試しは、現実世界の振る舞いを反映した、デモンストレーションです。」と置き換えても構わないと思います。

従って、「自己愛が傷つくことへの恐怖」どころか、現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言していると言うことになりますね。

 ご参考まで。

この回答への補足

NO24へのお礼の補足ですが、

>そういった回答をしてきた私に本題から逸れたことをわざわざ時間を使って回答するエネルギーはどこからくるのでしょうか。。。


とは、ナルシストとしての格の違いを見せつけられてショック、ということです。

補足日時:2009/10/03 15:29
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この回答へのお礼

No.22さんが「現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言している」ことはわかりました。


ただ、自分がデモンストレーションという言葉を使ったから、「従って、」  自己愛が傷つくことへの恐怖」どころか、現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言している  

ことには、なりません。

言葉遊びをしているのではなく、別の質問である回答者さんが、「人は感情を理性で理屈づける」というようなことを仰られておりましたので、これがそうなのかなぁと思い、その可能性を指摘しました。

結果的に私が揚げ足取りをしたのであればすみません。
確かに、デモンストレーションの意味もわかっていない人間がそれを引用し勝手に一人で踊っているときに、このような補足をするのは当然と思います。

お礼日時:2009/10/03 00:18

>また、私は完全なナルシストです。


場合によっては他者を排することを遠慮しません。

 自分で言うほどだから、おそらくそうなのでしょう、間違いありません。ちなみに、私はナルシストではありません。

>場合によっては他者を排することを遠慮しない。

 やはり、そういう人が「神は何処へ言った」「神は死んだのか」という主旨の質問をするのは、当然のことのようです。そういう人間が、道理や物事を理解しないのは、ナルシストであればこそ、でしょう。

>この場合の認める、とはどういうことなのでしょうか。
私は「現実世界のための、デモンストレーション」で質問しているわけではありませんので、もし言葉遊びであれば以後の回答はご遠慮願います。

 自分が、善悪やその他のことに対してろくに考えてもこなかったと言っているのに、自分は言葉遊びをしていないと言うのですか。

 とこまでが言葉遊びで、何処からが本気 なのか、先ず明示してもらえれば、「言葉遊びの回答を控える」こともできると思います。

 ひとは、それまで余裕で生活していても、いざと言うときの修羅場で本性を表し、それによって自分を新たに、良くも悪くも創造せざるを得ないものです。私に対応した人間が、その対応しだいでその後をどのように過ごすかは、興味はありませんが。。。

>「そんなものはないさ」というのは何に対してのものだったのかが気になります。

 ニヒリズムに浸っている人 に対してのものです。特に誰かがそうであると暗に言ったものではないですが。

>全くの同感です。
「ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーション」ということから、回答者さんの自己愛が傷つくことへの恐怖はかなりのものと思われます。

 いえ、「実力試し」は「実力を磨くため」でもありますので、例えば学校で勉強をしている生徒だと思って構いません。私にはあまり自己愛はないと思われます。そうであれば、そもそもない自己愛が傷つくこともないでしょう。

 前回の回答の最後の分をもう一度載せます。

 ◇ここで逆に問いたいのですが、自己愛(他者への個人的な愛)と真実は、ひとつ(両者を個人が備え持つこと)になれますでしょうか。

この回答への補足

>とこまでが言葉遊びで、何処からが本気 なのか

定義できるものとは知りませんでした。本人にしかわからない、と。
とにかく、それを指摘する力のない私には、善意にゆだねる、としか言いようがありません。
あくまでも私はNo.21さんや他の方が何を言おうと「言葉遊びではない」として理解しようとしていますから。


>私にはあまり自己愛はないと思われます。

私は、「知的な実力を磨く(磨ける)」ことは自己愛なくして困難であると思います。
また、自己愛が(あまり)ないのであればNo18さんの回答へ反論願います。


>自己愛(他者への個人的な愛)と真実は、ひとつ(両者を個人が備え持つこと)になれますでしょうか

考えたことがない上に、「自己愛(他者への個人的な愛)」の意味がわかりません。

大体の感じですが責任を持って言いますと、
私にとっての真実はそのまま自己愛とひとつになることで、自己愛とひとつにならない真実は他人に任せる、ということです。

補足日時:2009/10/03 00:08
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この回答へのお礼

>自分で言うほどだから、おそらくそうなのでしょう、間違いありません。

そう言っていただけて安心しました。


>そういう人間が、道理や物事を理解しないのは、ナルシストであればこそ、でしょう。

私を「ナルシストゆえ道理や物事を理解しない人」と言っているのであれば私にとっては褒め言葉ですが、理解に努める必要はあると現時点ではそう考えております。

>自分が、善悪やその他のことに対してろくに考えてもこなかったと言っているのに、自分は言葉遊びをしていないと言うのですか。

当然、全くしていないつもりです。
私が言葉遊びをしても美しくないですし、何の得にもなりません。
言葉遊びをする能力が取り出せるのであれば、質問やお礼を書いている間は取り出したいです。
ただ、これまで議論のようなものをしたことがないですから自分のしていることが言葉遊びでない、と言い切ることはできません。潜在的に私の認識できていない防衛本能が現れている可能性はあります。
それに対しては責任を持って今後改めるしかありません。
No1さんの回答が言葉遊びかどうかはわかりませんが、あれはデザインとして美しいので言葉遊びでもなんでも良いです。
いや、言葉遊びの絵画だったとしても、少なくとも2回は塗り重ねたであろう色の深みがありました。
No.21さんは色が私の好みでない(それがわかったのも複数回答してくださったからで、それについてはありがたく思います)(他者を認めないことをいとわない、の例で言いますと、色が好みでない場合に「視覚レイプ」という言葉を使うことも可能です)ので「そうであればやめてください」とお願いしました。
言葉遊びでなかったなら、回答をしてくださったのに失礼なことを言いました。

お礼日時:2009/10/03 00:07

訂正:



×個人的な愛は(自分に対しての愛も含めて)、真実(愛)とは相容れない、ひとつになれない性質者ではないですか。

⇒個人的な愛は(自分に対しての自己愛も含めて)、真実(愛)とは相容れない、ひとつになれない性質のものではないですか。
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ちなみに、「神は死んだ」が何を意味しているのか知りません。



◇認識できなくなった、見られなくなった で構わないと思います。

>自分の場所と存在を主張し、他者を押しのけ、排除した人間が、「神は何処へ行った」と言うのは、ある意味滑稽です。
これはどういうことなのでしょうか。

◇他者を認めている人は、他者を排除することは出来ないでしょう、他者を認めていない人が他者(他者を認めることの出来る人)を排除しておきながら、「愛(神)は死んだ(去った)」と言うのは、自分が何をしたか解っていないと言うことでしょう。

愛の反対が 究極の悪 なのでしょうか。

◇それは、解りません。しかし、認めること が、「愛」だとするなら、認めないことが、それがない と言えるのは、間違いないと思います。

ニーチェに対してか私に対してか、何を仰っているのか理解できません。
No13さんも仰っておられるので補足願います。

 No11の回答は、No12さんの挙げたサイトを見ての感想です。「回答」をしておきながら、質問者さんに対しての回答でないことを言われても、私には返す言葉はありません。

これは回答者さん自身に言えることのようです。
私にも言えるのかは別として。

 はい、素直に物事を見る目はあるようです、ある意味、それさえあれば何も問題はないでしょう。

 実際に自分に備わっている性質を、言葉にされると解らないこともあるでしょう、言葉であえて表現されると、自分にそれが備わっていても、「良く解らない」という感想を持つことも在るでしょう。人は、ある意味、自分にないものを言葉で主張すると言う面も在るかもしれません。本質として理解し、自分がその本質をを備えていれば、言葉にされると返ってわからなくなり、自分が「理解していないかもしれない」と錯覚するケースもあるでしょう、質問者さんと私に関して言えば、それは解りません。

「他人の自己愛が気に入らないのは、自らの自己愛が傷つけられるからだ」

 しかし、自分の自己愛を守りたいが故に他者の自己愛を傷つけてきた人間に対して、嫌悪感を感じるとしたら、それは正当な感情です。質問者さんがそうである と言っているわけではありません。個人的な愛は(自分に対しての愛も含めて)、真実(愛)とは相容れない、ひとつになれない性質者ではないですか。喜怒哀楽どの感情が好ましい、どの感情は抑えなければいけない、悪である と言うことではないのは、明白です。

>「否定的優位性を得たいがために」かもしれない。それは権勢欲、征服欲が根本原因ではないだろうか

これは私に対してでしょうか。

 いえ、違います。今までの回答者さんと、自分の回答を見ての感想です。

権勢欲、征服欲 と言われるとこんなところで征服して何がしたいのか、と思いますが、「指摘がバカだ」と言われても恥をかいてもかまいませんので食って掛かるようにはしています。

 ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーションです。

すみませんが私は「神が死んだ」の意味を理解しておりません。
また、私は神を意識したことが無いかもわからないため全体的に皆さんの話についていけておりません。

 ここで質問文を見ると、質問者さんが「神は死んだ」と言っているのではなく、そう言われている、そういわれる時代が来る と言っているということに気付きました。ということで、自己愛が強く、他者を排してきたナルシスト と言うわけでもなさそうです。

 ここで逆に問いたいのですが、自己愛(他者への個人的な愛)と真実は、ひとつになれますでしょうか。

この回答への補足

>自己愛が強く、他者を排してきたナルシスト

自分の自己愛が強いかどうかはわかりませんが、私は自己愛を価値あるものとして認めているため他者の自己愛が全く気にならない(条件として、創造的な仕事をしているか、そうでないならば自らの自己愛を認めているか)ですし、また、私は完全なナルシストです。
場合によっては他者を排することを遠慮しません。


>ここで逆に問いたいのですが、自己愛(他者への個人的な愛)と真実は、ひとつになれますでしょうか。

私に質問してもろくな回答にならないと思いますが、責任を持って答えますと(批判等を自由に受ける)、

と思いましたが真実が何なのか考えたことがないためわかりません。
よい機会ですので考えさせてください。シャワーなど雑務を済ませてまいりますので。

どうも、自分(私)が質問しておいて、自分はどこまで考えているのか、とも思っておりましたので。

補足日時:2009/10/02 22:39
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この回答へのお礼

>他者を認めている人は、他者を排除することは出来ないでしょう

この場合の認める、とはどういうことなのでしょうか。
私は「現実世界のための、デモンストレーション」で質問しているわけではありませんので、もし言葉遊びであれば以後の回答はご遠慮願います。


>はい、素直に物事を見る目はあるようです

つまり、私にも素直に見る目がある(わざわざ書くくらいですから、一般レベル以上の)ということでしょうか。ではニヒリズムに関する回答、

>「そんなものはないさ」

というのは何に対してのものだったのかが気になります。


>自分の自己愛を守りたいが故に他者の自己愛を傷つけてきた人間に対して、嫌悪感を感じるとしたら、それは正当な感情です

全くの同感です。
「ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーション」ということから、回答者さんの自己愛が傷つくことへの恐怖はかなりのものと思われます。

>質問者さんがそうである と言っているわけではありません。

とありますが、
>自分の自己愛を守りたいが故に他者の自己愛を傷つけてきた人間に対して、嫌悪感を感じるとしたら、それは正当な感情です

という当たり前のことを書いていることから、私がそう、と思われているものと推測するのが妥当です。
なお、そういった配慮はややこしくなりますし、私にとっても有益ではないため今後一切不要です。
いくらでもダメ出し、論破、人格否定していただけると(それをするほうも疲れると思いますが)今後のためになり大変嬉しく思います。

お礼日時:2009/10/02 22:37

>肯定的な意味での、自己愛、ということでしょうか。



 愛の存在というのは、自分の中に愛があるということ意外にない。
 どうあがいても自分の外には愛を見出すことできない。
 自分は他人から愛されているという確信や他人の中に見出した愛さえも結局自分の感覚。

 愛の対象は、恋人、子供、親、愛玩動物、衣服、道具、楽器、家・・・そして自己。対象がなんであれ、それらを愛する才能があるのは自分であり、愛が存在する場所は自分。そういった才能をもって広く自己愛とするなら、あらゆる事象がそれに由来するとするご質問者様は正しいように思う。

 
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No.14です。



「神は死んだ」の後にまだ続くんです。

「神は死んだ。神を殺したのは我々だ」


これは教会や信者の態度を痛烈に批判した言葉なんです。
アンチキリスト教で神は存在しないと言っていたのではなく、他人に関心を持つ世界なら神は存在できるが、他者に関心を持たない世界では神は存在していないって言いたかったのだと思います。


旧約聖書でもさかんに損得抜きで敵(同胞の他者)を愛せよと神は言ったとなっています。
自分の敵 つまり 日ごろよく思っていない隣人が日没までに返済できなかったら、質に入れた服を利子を取らずに返してあげなさい とか、 敵 つまり日ごろ喧嘩している人のロバが荷物に下敷きになっていたら、敵 つまり日ごろ喧嘩ばかりしている隣人と共に助け起こしなさい とか。


新約でも道に倒れている人がいて、みな 無関心だったけど、サマリア人(イスラエル人と同胞)だけは、助け起こして、宿代も払ったってなっていますでしょ?


神とは愛なら、他者を気にかけないことは、神は死んだことになる。
他人を気にかけない人々が神を殺している。

非情で冷酷な口だけ達者で愛つまり神なき世界を実現している教会とその信者たちのふるまいを嘆いて、ニーチェが放った言葉なんです。


盗んではいけません と言いながら盗みを重ねるキリスト教会。
殺してはいけません と言いながら大量虐殺を繰り返すキリスト教会。
口で言うことと実際にやっていることが違うのは、彼らに愛などこれっぽっちも無いからできているわけです。
彼らには愛が全く存在しないんです。
自分の利益になること以外はやらない。
このような偽善者が蔓延する社会をニーチェは「神は死んだ、神を殺したのは我々だ」と言ったわけです。


何故布教で体は動かすのに、実際目の前に困っている人には無関心なのか。
だって関心が無いから。
だから 目に前に困っている人がいることすら、認識できないんです。
自分のことしか考えない、だから目の前に存在する困っている人を認識できない。


それに自分しか関心が無いから、口で愛だ なんだって言っている方が快楽だから。
言ってさえいたら、まるで自分がすばらしく善人であるかのように錯覚できるから。


朝っぱらから「悔い改めなさい 神の国は近い」って宣伝カーでがんがん迷惑行為を繰り返したところで、他人に関心が無いので、他人が迷惑しているなんて気づきもしない。



このような他人に無関心で自己愛にふけるなキリスト教信者が、神を殺しているってニーチェは言っているわけで、神自体 つまり愛自体をニーチェは否定していません。


ニーチェの言葉に信者は悔い改めたのか?
自己愛にふける人は批判の真意を汲み取る智恵など無いので、相変わらずでした。

キリスト教系の学校はどうして偏差値がものずごいく低いのか。
偏差値が低すぎる人しか、騙せないからじゃないでしょうか。
キリスト教は人々に学問に近づけさせないために、図書館を閉鎖していた。

人々に智恵を持たれたら1人天下でいられなくなるから。
ニーチェなど とんでもない 馬鹿がかわいい。


日本にやってきた宣教師達、討論で敗れまくった。
「ギリシャの哲学の討論で、一度も負けたことが無いのに」と宣教師は言ったそうです。
日本の識字率の高さに驚いていた。


だが理論では日本人に負けたが、心ではどうか?
日本は昔寺が社会から排除された人々を寺が救っていた。
いわゆるシェルターの役目を寺が果たしていたわけで、それを日本に来て破壊させたキリスト教。
無情の極み ですね。

倫理もダメ、心も無し。

ニーチェの真意を心もオツムも無い教会が理解できるハズが無かった。

ということで、ニーチェ 無駄なことをしたわけですが、、、
ニーチェとしては、人々の中に少しは心というもの つまり 他人に関心を寄せる心の存在を信じずにはいられなかったと思います。
ロボットであって人間ではない と彼は気づくべきだった。

この回答への補足

>新約でも道に倒れている人がいて、みな 無関心だったけど、サマリア人(イスラエル人と同胞)だけは、助け起こして、宿代も払ったってなっていますでしょ?

このような文章は初めて聞きましたが、倒れている人が助けて欲しいと言っているなら助け起こすのは当たり前です。
その人が悪人であれば助けるどころか殺すのも良い選択肢でしょう。

そして、宿代まで払う必要がどこにあるのか理解できません。
金を出すのは虚栄心です。
第一、自分に金が無ければ払えません。
自分の金をなくしてまで渡せば、相手も気を遣います。
相手に気を遣わせることはかなりの罪です。



キリスト教の歴史についてはとてもわかりやすく、勉強になりました。

補足日時:2009/10/02 14:54
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この回答へのお礼

ニーチェに関してとてもわかりやすく説明してくださりありがたかったですが、回答者さんの解釈ということなので参考にさせていただきます。


>日ごろよく思っていない隣人が日没までに返済できなかったら、質に入れた服を利子を取らずに返してあげなさい
>日ごろ喧嘩している人のロバが荷物に下敷きになっていたら、敵 つまり日ごろ喧嘩ばかりしている隣人と共に助け起こしなさい


滅茶苦茶です。
まず、家族全員を毎年一人ずつ殺されたから敵なのか、時々ナイフを手に脅しに来るから敵なのか、何を理由に敵になっているのかが明示されていません。
本気でこんな引用をしてくるのであれば「愛」でも何でもどうにでもしてください。

私はあっさりしているので上記のような行動を普通にしますが、その理由は、他の人ほど金に執着が無いとか、他人を打ち負かすことが何の得にならないという損得勘定とか、争う意味がわからないとか、場合によっては「放っておくと罪悪感があるから」という発想であり、それらは上記の行動をしない人間と同じ理屈が反対に作用したに過ぎず、結果が違うに過ぎません。
他人を助けるといっても自分の欲望を満たす行為であり、救った人が「助けてほしい」と思ってなさそうなら助ける必要はなく、余計なお世話です。

そもそも、隣人が助けを願っている時に隣人を助けない理由がどこにあるのですか。
ロバを隣人とともに起こさない理由は何ですか。

しかも行動の根拠が「愛」である必要がどこにあるのでしょうか。
それ以前に私はその行動を見ることが少ないときています。
奇妙、ひたすら、奇妙、です。
例のマザーテレサも自分の欲望を満たしたに過ぎません。
いや、マザーテレサの行動が「愛」だったとしましょう。
もはやどうでもよいです。
私の行動とマザーテレサの行動が同じであったことは事実です。
そして、私よりも「愛」がある人ばかりなのに、私の行動をとらない人も大勢いる。
これはどういうことですか。

行動は関係ないのならば教会の理屈は正しいことになります。
私は「愛」への幻想を持っておりませんので、回答者さん(や、ニーチェも?)と違って教会は教会の論理で正しい、ということを認める可能性も持っています。

お礼日時:2009/10/02 14:54

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