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「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。
生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。
親和欲求でしょうか。
それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。

私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。
(けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける)

皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。




教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。
その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

A 回答 (56件中41~50件)

「愛は寛容であり、親切です。

また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(第1コリント13章4-8節)

聖書の言葉です。

>私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」
と言われる時代が来ると思います。

あなたのご意見に反するようで申し訳ありませんが、私は神も愛も死ぬことは絶対にないと思います。なぜなら神も愛も肉体を持つ生き物ではないからです。

それに、私たち人間のちっぽけな頭脳で本当の愛を理解することは所詮、不可能であるように思います。あくまで私の個人的な意見です。
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この回答へのお礼

>あなたのご意見に反するようで申し訳ありませんが、私は神も愛も死ぬことは絶対にないと思います。なぜなら神も愛も肉体を持つ生き物ではないからです

もっと真剣な回答が来ると期待していた私がバカでした。

「愛」は死なないでしょう。
それに、死んでもらうと困ります。
こんなおめでたい人たちが幻想を失って難民のように溢れ返ると社会が大混乱です。
No6さんの、「放っておけばよい」に賛成です。

お礼日時:2009/10/02 15:05

「神は死んだ」は、自分とは分離されたところに、神、真理、霊、愛などはないという見方。

自分から独立した崇高な対象があるとしているならば、すでに 神も愛も死んでいる。

しかし、愛は、その愛を存在せしめているその人間の中に存在しているのであって、その存在は否定できない。
何をもって、愛を存在せしめているか、その人間が何を愛と表現しているのかは、その人間の愛を愛たらしめんとする表出に依存する。
同様に、神を信じる人間の内部にある神はいまだに生きている。

したがって、神が「神が死んだ」後も生き続けているように、愛が死んだ後も愛は生き続ける。
神は、自分の外に自分より崇高なる存在を肯定する面があるのに対して、愛は、自分の内部にその存在を認める傾向が強いので、愛は死なないと思う。もともと自分の外に自分の愛は無い。
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この回答へのお礼

私は自分の認識が甘いと思っておりますのでこういった回答は考えさせられ、参考になります。
ただ、理解力がないおかげで追いついておりません。

肯定的な意味での、自己愛、ということでしょうか。
ちなみに私は自己愛を価値あるものと考えております。
ただ、そのためにはあらゆる事象が自己愛に由来することを認めなければなりません。

お礼日時:2009/10/02 15:08

No.4です。



>>実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。

に対して私は答えることができませんでした。
何故なら、愛の反対語は無関心だと思っているから。


>愛に反対語が可能なのでしょうか?
>非常に驚きです。

と返信されたあと、さらに、「愛の反対が無関心? そんな馬鹿な」ともしあなたが驚かれたら、とってもとってもとっても難しい問題に私は直面することになってしまいます。


愛(関心を持つ・気にかける)がわからない人に愛(関心を持つ・きにかける)とは何かを説明することの困難さ。

私は愛を持っている人に「ちょっとあなたの愛を他におすそ分けしたら?」という難易度が低い方にトライすると思います。
 

マザー・テレサは教会の外に沢山の貧しい人々がいることを認識していた。
しかし人々を愛しましょう 救いましょう と売名行為をする教会はちっともそれら教会にいる貧しい人々に無関心だった。
それで、テレサは教会に対して、教会の外にいる貧しい人々の中に入ると言ったところ、教会を出てもいいが我々はあなたの活動に一切援助はしません それでもいいのか と言った。
いいと答え、テレサは教会を出た。
教会の外に対しては教会は今まで通り無関心でいるって宣言なわけです。

おもしろいですよね、愛せよと信者に言う教会自体が、愛とは何なのかこれっぽっちも全くもって検討もつかないでいるなんて。


その彼女の活動は有名になり、後で教会は「キリスト教の愛です」とか売名行為をしだした。


ところで、テレサは日本は世界一貧しい国だと言いました。
日本政府は彼女の団体に金を出さなかったから。
彼女は心が貧しいというのを勘違いしていた。
(クムラン宗団が言ってた心が貧しいというのは、無関心ってことじゃない)

日本はキリスト教会やスキャンダルを挽回するために彼女の団体に協力する芸能人のような売名行為はしなかったので、辛らつに彼女から批判されたわけです。
国民から預かった金は個人の物ではないので、政府は特定の団体に税金をばらまくという宗教団体のようなことはしなかった。
正しいことですが、テレサから叩かれました。苦笑

ま そういうお茶目で幼稚な発言もするテレサちゃんですが、一応政治活動しています。


http://74.125.153.132/search?q=cache:k0yuYOazEMw …


まっ、でかくなると傲慢になり愛とは程遠いものになってしまうってことで、チマチマと自分の身近なものに関心を向けるってのが、なるべく堕ちないで済むことにつながるんじゃないか と。
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この回答へのお礼

反対語は視点によりいくらでも変えられるため意味がないと言ったのであり、反対語そのものに「バカな」という反応をするかどうかはそのときにならないとわかりません。
今回の場合、関心には程度がありますが愛には程度は無いのか、という疑問が出てきます。


>愛(関心を持つ・気にかける)がわからない人に愛(関心を持つ・きにかける)とは何かを説明することの困難さ

確かに、こういったことは不毛と思ったほうがよいでしょう。



マザーテレサについて

>お茶目で幼稚な発言

団体に金を出さなかったから世界一貧しい国、としたのが事実だとすれば、「お茶目で幼稚」という見方は私にはできません。

>この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事

これは、必要とされたい、という欲望の強い方、また、親和欲求の高い方の発想です。
運動に参加する人もまた共通したものを持っていて共感したのでしょう。
視点の固定とはこういうことを言っております。
この場合、個々のパーソナリティーをまるで無視しています。
また、『最大の不幸』を定義させるとさまざまな意見が出ることは明白です。


>彼女自身の言葉によると1946年、汽車に乗っていた際に「最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという

この記述を見ると、必要とされたくてされたくてたまらなかったのではないでしょうか。
なかば病的であると思います。
それらを『愛』と定義し、日本政府まで批判するとは恐るべき神経の持ち主で、『愛至上主義の指導者』といえます。


マザーテレサに影響されて「反対語」の意見を出されたのであれば、根本から見つめなおす必要があるように思いますが、思われないのであればそれはそれで個人の価値観ですから正しいでしょう。



私が書いてきたようなことを思っているかは別として、このような見方も存在して当然、存在しないほうが不思議です。
マザーテレサの行動が建設的であったことは事実です。
ですから思想に共感できなくとも私も募金をしたかもわかりません。
個人的な印象としましては、マザーテレサの運動の結果というのが、鹿苑寺金閣寺の存在とどう違うのかという疑問があります。
これに関して説明は求めておりません。
不毛でしょう。

お礼日時:2009/10/02 13:53

> しかし、いいかっこしたいが故に



 そうとも限らないか「否定的優位性を得たいがために」かもしれない。それは権勢欲、征服欲が根本原因ではないだろうか

>完璧、完全な愛とは

 完璧、完全な神 と置き換えることもできる

 訂正だけではもったいないので、質問に沿った回答を試みます。

>私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。

 神が死んだなら、生き返りもするでしょう。万能なのだから。

この回答への補足

政治ではありませんので回答者さんの過去の回答を見るということをしないようにしておりますが、たまたま他の質問を見たときに回答者さんの回答を見て思いましたが、


>そうとも限らないか「否定的優位性を得たいがために」かもしれない。それは権勢欲、征服欲が根本原因ではないだろうか


これは回答者さん自身に言えることのようです。
私にも言えるのかは別として。


「他人の自己愛が気に入らないのは、自らの自己愛が傷つけられるからだ」

補足日時:2009/10/02 12:07
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この回答へのお礼

No12さんでした、すみません。

>「否定的優位性を得たいがために」かもしれない。それは権勢欲、征服欲が根本原因ではないだろうか

これは私に対してでしょうか。
否定をして優位に立つ、論法、のようなものということでしょうか?
究極の非創造的な態度ですね。
他の質問でも自分がどうも建設的でないなぁと感じておりました。
私に対してのものであれば真剣に考えなければなりません。

権勢欲、征服欲 と言われるとこんなところで征服して何がしたいのか、と思いますが、「指摘がバカだ」と言われても恥をかいてもかまいませんので食って掛かるようにはしています。




>神が死んだなら、生き返りもするでしょう。万能なのだから。

すみませんが私は「神が死んだ」の意味を理解しておりません。
また、私は神を意識したことが無いかもわからないため全体的に皆さんの話についていけておりません。
普段から異様なまでに愛という表現を耳にしますので、いろいろと解明されて愛の正体がわかった後はどうする気なのか、ということでした。
3分の1くらいは私と同じような認識をお持ちの方の回答を得られると思っておりましたが、このようなことになり私の認識の甘さに気づかされました。

いろいろと参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/10/02 04:41

 しかし、いいかっこしたいが故に、「そんなものないのさ」などとニヒリズムを主張し、言ったが故に虚無感に襲われることに対して、同情の余地はほぼありません。



 お気楽、手軽に カッコつけたいと思い、虚論を言うから、そうなるのです。自然法則、因果応報です。

 もちろん、神は人間に働きかけません。完璧、完全な愛とは喋らないこと、話しかけないこと、働きかけないことだからです。(と思います)
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この回答へのお礼

ニーチェに対してか私に対してか、何を仰っているのか理解できません。
No13さんも仰っておられるので補足願います。


最後の神のところも、追いついていけていません。。

お礼日時:2009/10/02 04:16

「神は死んだ」(ニーチェ)


「ニーチェは死んだ」(神)
。。。
と、ジョークが飛ばされるように、「神」にしても「愛」にしても、その概念の向こう側(対象)が「たとえ無であったとしても」、その概念を貫こうとするところの人々の「思いの方向性」(関連性)が存続し続ける限り、概念として消え去ることはないでしょう。。。

>>>http://genxx.com/blog/archives/000144.html
わたしたちは自分の言葉で語ることができるものに「わたしの必然的な存在理由(愛)」を求めることはない。あるいは求めることはできない。したがって、「語りえない」ことこそが愛の本質なのである。
<<<
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この回答へのお礼

ほんの一部読ませていただきましたが、みなさんとても考えられているのですね。。
こういったブログを見たことがありませんで、驚きました。

恋愛は勘違いで、恋愛ではすべてが存在する
私も同じ考えであったためか、恋愛をしてもすぐに興ざめしてしまっていました。
私とは比べ物にならない思索をしている人たちがなぜ恋愛をするのかとは思いましたが、どう捉えるかの好みや、何を捉えるかの詩的才能でしょうか。


ニーチェに関しては理解できませんでした。。。

お礼日時:2009/10/02 04:12

 もし、存在そのものを認めることが 愛 だとしたら、この世界は本来存在してないとか、個人もしくは個としての存在そのものが幻 であると主張する人間が、究極の悪 であると言えます。



 しかし、そう思うことで気が楽になるのも、一面としてはあるでしょう。余りにも背負ったものが重たく感じるなら、そう思えば確かに楽になります。

 よく、「全ては方便だ」という言葉を聞きますが、言っている意味は、解ります。しかし、そう言うなら「全ては真実だ、あらゆるものは確かなものだ」と言うのも、一方での真理であるはずです。質問に対する回答としては話がそれました。
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この回答へのお礼

愛の反対が 究極の悪 なのでしょうか。

「全ては方便だ」という言葉を初めて聞きましたが、仰るように、「全ては方便だ」というならば「全ては真実だ、あらゆるものは確かなものだ」を併せ持っていなければならず、その逆もそうだということは理解できます。

お礼日時:2009/10/02 03:59

霊魂の本能的欲求として、


自他一体や、更に神仏等を含めた三位一体、という親和的方向欲求、という面はあるかと思います。
なぜ本能的かと言いますと、
そのようになることに幸福感が伴うからだと思います。
そして、幸福感を求めるのは即ち本能的欲求だと思うからです。

他者から親切にいて頂けることにも幸福感を感じますし、
また他者へ親切にしてさしあげることで他者が喜んで下さることを自身もうれしいと感じることもできますし、
神仏からの恩恵に感謝できる心の状態そのものや、
神仏や天使のような心境境地に、自らも近付いて行けることそのものにも、幸福感を味わうことができると思います。
このような親和的あり方自体に幸福感が伴うわけで、こうした親和的あり方が愛であるわけで、そうであるなら、これは本能的欲求であるわけですから、愛は基本的には無くならないように思えます。
愛から離れると、苦しくなる、というのも本能であり、結局は苦から逃れて幸福になりたい、というのが本能でしょうから。
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この回答へのお礼

参考にさせていただきます。
ご回答ありがとうございました。



ちなみに、本能的、とありますが、親和欲求の無い人間というのはいないのでしょうか。

お礼日時:2009/10/02 03:55

 質問を読んだだけでは良い言葉が浮かばなかったので、他の回答者の回答を読んだ上で、気の利いたことを言いたく思い、回答します。



 愛は 存在そのものを認めること(認識すること) が、やはりそうなのだろうと思います。非常に近い人間関係である、家族間でさえ、人は認め合っていないケースが、多いように思います。ただ、その存在を認めていれば良いだけ なんだと思います。そうすることが出来れば、人間関係における瑣末なテクニックや、コミュニケーション技術は本来必要ないでしょう。

 神は死んだ と同義かどうかわかりませんが、「神は去った」のであれば、それは人間の存在を認め、その空間から退いてくれた、身を引いてくれたからでしょう。だからこうやってこの場で存在できているのかもしれません。これは人間関係においても言えるかもしれません。解ったものから去っていく。

 自分の場所と存在を主張し、他者を押しのけ、排除した人間が、「神は何処へ行った」と言うのは、ある意味滑稽です。
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この回答へのお礼

>「神は去った」

とてもわかりやすいです。
ちなみに、「神は死んだ」が何を意味しているのか知りません。



>自分の場所と存在を主張し、他者を押しのけ、排除した人間が、「神は何処へ行った」と言うのは、ある意味滑稽です。

回答者さんに追いついておりません。
これはどういうことなのでしょうか。



ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/02 03:52

愛は、ことばです。

愛するとは、愛情を注いで、慈しみ育てること。愛されて育つもの、子ども、作物、動物。
愛とは、対象的活動です。愛情を注ぐ対象があって、はじめてなりたちます。
愛は、目に見えません。お金で買えません。でも、信じる人には、わかるし、ほっとする場所、居心地のよい関係です。絆ですね。信頼。安心。
NHK大河ドラマ「天地人」直江兼続の「愛」のかぶと、いいですね。男がほれてしまいます。家族、越後の百姓たちと上杉家の家臣たちと上杉景勝の生き方、すべてを「愛」の一字にこめています。
兼続にも、好きな女性がいます。真田幸村の姉の初音と千利休の娘のお涼です。どんなことが起きたか、わかりませんが、好意を抱いているのは、妻のおせんには、みえみえです。
恋の至極は、忍ぶ恋。男は、やせがまんが大切です。
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この回答へのお礼

参考にさせていただきます。
ご回答ありがとうございました。


ちなみに、野暮を承知でお聞きするのですが、生物学的に(←No6さんの受け売りです)「恋」のメカニズムが解明された場合、恋は死にますが、愛は死なないのでしょうか。

お礼日時:2009/10/01 21:28

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