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子供の頃から、自分の心の中で、その時その時で少しでも信頼できそうな他人(おばあちゃんとか、信頼できる先生とか)を見立ててひたすら相談する癖があるのですが、親に変だと言われました。
直接相談するのも怖いし、信頼できる人が、心の中で都合のいい返事をしてくれて、夜は特に延々とそれをやってしまうのですが、普通はやっていないのでしょうか。

A 回答 (6件)

 タイトルにある試みは、以前していたことがあります。

私の場合は、別の人を思い浮かべましたし、否定的な答えもする人を立ててました。

 現在ではしていない理由は、所詮は自らの内面の語らいに違いなく、必要とする新たな視点が出てこないからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
意識的にと言うより、幼少時より習慣的に無意識的にやってしまうのです。
理不尽に理解されないと思ったときに、まるで電話でするように心の中で相談し、安心する癖がついてしまったんだと思います。しかも結構この習慣に捕らわれている気もします。(やめ方がわからない・・・)
心を落ち着けるためで、新たな視点を求めてやっているわけではないのですが、ただ否定的な答えをする人も立てるというのは斬新です。
参考になりました。

お礼日時:2009/10/12 18:52

精神分析学では、例えばハインツ・コフートの「親のイマーゴ」などが浮かびました。


…少し固いですね、すいません(笑)。
コフートは「誇大自己」と「親のイマーゴ」の二つのバランスが大切だ、と云いました。
ご興味を感じたら調べてみて下さい。

いずれにせよ、まずはそんなに深刻に「変じゃないか」と悩むほどのものではないと思いますよ。
日本人は一般に宗教心が薄くなっていますが、欧米人などはそうでもなく、
心の中に神様がおり、しばしばこの神様と自問・自答をしているようです。
とある欧米の人なども、夜寝る前に延々と、心の中で神様と話すようですよ。
それは非科学的とかいうことでは決してなく、自分の宗教観と自分の行動とを
照らし合わせるような作業なのでしょう。
幼児期の「親」は「神様」のようなものだ、ともコフートは述べています。

ただ、少しだけ心配なのは、ひょっとすると依存的なご性格の傾向が少しだけあるのかな、と。
神様ならきっと、実際に会って話をすることはめったにないでしょうが(苦笑)、
信頼できると思っている先生などなら、実際に会って話したりすることもあるでしょう。
そんな時、もしかしたらがっかりすることがあるかも知れません。その辺りが少し心配なのですよ。

初対面の人などに、最初は物凄く期待をして「この人は素晴らしい人だ。理想的な100%の人だ」
というようなイメージを持ち、やがて暫く付き合っているうちに、
一つでも嫌なものを見ると、とてもガッカリして、
以降すっかり信用できなくなるというような「ガッカリ体験」が多くありませんか?

もしそんなことがあれば、それは二分論的思考が強いということにもなるでしょう。
精神分析学でいえばメラニー・クラインの「良いおっぱい」「悪いおっぱい」です。
私も実はそんな傾向があり、若い頃はそれが強かったのです。
それはいわば「甘え」であることに気づいたのは、随分な歳になってからでした。
要はあまり心の中で、自分にとって都合のいい相手の理想像を創り上げてしまうと、
後でガッカリして、人間不信のようになってしまう心配もあるということなのです。

完璧な人などいません。もっと言えば、自分にとって100%完璧な人などいません。
それが前提です。それを前提として生きていく。
その上で、だからこそ人と心が触れ合えば、それは素晴らしいことなんだ、ということなのです。
自分を内省してみれば、だんだんそれが分かってきたりすると思います。
自分もいつも完璧じゃないんだよな。でも生きている。生かして貰っている。この肯定感なのです…。

貴方様が、そんなことがもし未だよく噛み砕かれていず、やや甘えっ子さんで
寂しがり屋さんの傾向のある人ならば、「人は皆100%じゃないんだ。それでいいんだ。自分もそうなんだ」
ということを考えてみる。
すると、あまり心配するほど行き過ぎない「心の中での誰かとの会話」ができるのではないか、と思ったのです。
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この回答へのお礼

心の中に神様・・・それで思い出したんですが、中高生の時はキリスト教系の学校だったため、確かに寝る前に神と話していた時期もありました。

ただ、イメージがわきにくいのと、あと実際の人間を見立てるときと使い分けて(←神様ごめんなさい・・)いました。どっちかというと神様の時は、「こうでありますように」という感じで、相談と言うより祈りに近かった。
でも卒業して、どうも心の中に神様もいなくなったようです。

ガッカリ体験に関しては、自分でも気づかなかったのですが、まさにおっしゃる通りかもしれません。ガッカリすると、すぐに話のターゲットを交代してしまうのですが、勝手に裏切られた気持ちになり信じられなくなります。まぁ自分が悪いことも認識してるんですけど。

ただこの「ターゲットに対する甘え」を悟られないよう、普段はそういう信頼できる先輩とかには近づきません。もちろん話しかけられると非常にうれしいわけですが。

いろいろと考えさせられるところがあり、また知的好奇心も沸きました。
色々ご紹介されたものについても調べてみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/12 13:22

非常に良いことです、釈尊がこれをやっていましたから。

これこそ瞑想であり、ぜんです。3000年前からやっている方法です。同志ですね。

正しいやり方(一部)を教えましょう。それは見立てを「完全、完璧、究極、絶対正義、永遠」など最高のもの「全て」に置きそれらは長すぎるので一言で「釈尊」とするのです。

一つの宗教や思想に偏ってはいけないのがみそです、「全て」ですから。どんなに悩んでも答えはあります、何故なら「全て」ですから。
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この回答へのお礼

釈尊さんだとどう受け答えしてくれるか、若干イメージわきにくいですけど、ある意味実際の人間を見立てるより安全ですね。ありがとうございました!

お礼日時:2009/10/12 13:08

時々するけど、基本的に都合のいい返事はしてくれません。


その人ならこういうだろうな、という返事が返ってきます。

しかしそれは、想像の精度の違いかもしれません。
気楽に適当に相談して、励ましてもらうってのもアリなんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
要するに、心の中での相談の人選自体、この人なら自分を認めてくれるよね、っていう人に相談していると思うんですけど、認めたり、励ましてほしいんだと思います。でも肯定的なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/11 23:32

私も仕事での理不尽なこと、落ち込んだときや失敗したときなどに心の中にもう一人の自分や他人、果ては架空のキャラクターまで創造して慰めてもらったり、怒りをぶつけたり、いろいろしています。


他人がどういおうと関係ありません。
私は心の平安は自分で作るものだと考えています。
それは趣味であったり家族や恋人であったり人それぞれです。
別に恥じることではありません。
私はそうして心を静めたり考えをまとめたりして日々がんばっています。
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この回答へのお礼

想像力が乏しいのか、さすがに架空のキャラクターは登場しないのですが、同じような方がいて安心しました。仕事の話なんか聞かされても他人だって困るし、言えないことだってあるし。
ただ、鏡を見て自分に語りかける人は、多重人格症になりやすいというのを昔テレビで見て、ちょっと近いものがあるし、心が病んでるのかと不安になっていました。ありがとうございました!!!

お礼日時:2009/10/11 23:11

私はやっていません。

多くの人間もやっていないことでしょう。

都合の良い返事をしてくれるってことは、あまり相談しても無駄ということでしょう。結局答えは変わらないのだから。
もっと客観的に色々な角度から物事を判断して、色々な考え方を身に着けた方がためになると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうですか。
ただ、いわゆる「相談」というか、悲しかったこと、辛かったことの「愚痴」を聞いてもらうといったほうが近いかもしれません。聞いてくれたらそれでいいんです。でも生身の人間にそんな弱さとか失敗を知られたくなくて、小学校入学前にはそんな習慣がついていました。
でも、参考になりました。

お礼日時:2009/10/11 23:00

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