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念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。
これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。

「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)
 したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。

 きみが自ら投げるものをとらえる限りは
 すべては たくみと任された獲物
 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき
 正確に可能にされた飛翔のなかで
 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・
 そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----
 そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば
 いや もっと不思議なことに
 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・
 あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を
 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----
 そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者
 投擲はきみに軽くもなく 重くもない
 きみの両手から流星が輝きいでて
 自らの空間を駆けめぐる・・・
           (リルケ『後期詩集』より) 」

引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書 

A 回答 (59件中41~50件)

  No.4&8&25&31です。



 ★ (No.31補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 どうされましたか。

 回答No.8 補足欄 拙文
 「たぶん和訳が原語のクリアーさを伝えていないので、ここで詩を取り立ててもあまり実りがないと思うのですが」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《詩を取り上げる》ことと《詩を取り上げたことを取り上げる》こととは 別ですよ。
 ふりかかる火の粉は払わずばなりません。

この回答への補足

火はありません。
女性という性は、自分の幼年期を抱えながら、振り返りながら、生きています。
リルケのこの詩は、女性的な、そしてこども特有の、静かな自己洞察によく呼応しています。
与えられた生とつながっている自己の、あろうとする生が、
勢いよく輝くことと、廃園の景色になることのあいだを、さまよっています。
わたしはお二人のリルケの読み方に、性差がよく表れていると思うだけです。

補足日時:2010/02/24 15:51
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「おしきせ」そういう言葉は好きではないけど、私が自閉症になったのは誰のせいでもありません。

母親は心配して、お人形を取り上げ、童話を取り上げ、ピアノに熱中すると、何かと話しかけた。なのにキャッチボールの腕前はいつまでもさっぱりだった。
ブランコで地球の揺れるリズムを感じるのは子供の主体です。子供は風に揺れている干してあるハンカチにさえ喜ぶというのに。。。

キャッチボールが苦手なのは私自身の責任です。

子供の一人の時間は大切です。
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この回答へのお礼

そうですね。
こどもの自閉症、発達障害は、確率的に発生するものですから、
誰のせいでもないですし本人のせいでもありません。

日本は、わりと早い時期から療育環境が整えられたのです。
大きな都市に住まわれた方でしたら、
お母様はきっと、専門医や先生たちとたくさん相談なさって、
いっしょうけんめい勉強なさっただろうと思いますよ。

こどもたちひとりひとり障害の特徴が違うので、
最善の療育は何かとなると難しい問題ですね
その子の「感覚の辞書」を作ってあげるのに、
しっくりとする手段なら、とりあげる必要はないでしょう。
サポートとともにゆっくりと開花する感覚もありますしね。

キャッチボールが苦手でしたか。
前荷重といわれる状態だったのかなと思います。
山登りなどの帰りに、下り斜面や下り階段でバランスがとりにくいような子のことです。
こういう子は、ひねりによる重心の交代が難しいのです。

トレーニングに恵まれた子もいれば、補佐を受けられなかった子もいるでしょう。
キャッチボールできなくても人生困らないので、後回しになってしまうこともあるでしょう。
それより、不安定でもどかしいような心を受け止めてくれる周りの人々に恵まれることが、一番大事でしょう。

> ブランコで地球の揺れるリズムを感じるのは子供の主体です。

そうですね。
そして、この感じる主体のなかにも、自分と自分の感覚のキャッチボールが含まれていると思います。

お礼日時:2010/02/25 03:05

 ☆☆ (回答日時:10/02/22 11:17 回答番号:No.4)~~~~~~~~~


  リルケの詩は
  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば
   いや もっと不思議なことに
   勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ この個所がいいですね。能天気や甘えがからんでいるように思います。(と何でも 我が田に水を引きますが)。
  ただしそのほかの部分は あまりおもしろくありません。まさに遊戯としてのごとく宇宙大の幻想を想い起こさせますが どうも修辞学の技術が勝っているように感じます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ◆ (回答日時:10/02/22 18:58 回答番号:No.7 )~~~~~~~~~
  Jeunesseの古語はjouvence。
  まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。

  あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか──
  そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と──

  ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この回答への補足

(25のご回答のお礼の続きです。)

> ★ 一人遊びなどでは時間との兼ね合いも
> ☆ これは お言葉を返しますが この場合も空観に立てば 関係の世界だと見ます。

わたしが時間といいましたのは、過去と未来の認識のことで、《現在性》の問題です。微分積分の、微分的に認識が可能になっている、瞬間瞬間のことです。また積分的に統一をもたらしている、自分を見る自分をとおして、プレザンスというものを共時的にとらえたり、同時的にとらえたりする能力にかかわる問題です。
その意味で、他者との関係やコミュニケーションに進むための大切な要素であると考えます。

> 《遊戯の主体》= 仕事や生活の主体
   《あそび=生きる》――《関係》をどのように扱っているか
    関係(かかわり)/ 交通(まじわり)における《間(ま)》
    cf. 上田正昭:浄の美意識――間と節
「触れと鎮め 鎮めと振りのけじめが《節》となり その期間が《間》となる。《間抜け》であったり《間合い》が悪いと そのみのりは《間違い》となり 《間延び》になる。」

そうですね、まず、遊戯の主体は遊戯のときにのみ形成されていると思います。遊戯の時空が終われば、霧散するのではないでしょうか。
しかし、ここで上田氏の用語を敷衍して関係の話の芯央に入りますが、
遊戯の時空で触れの経験をもったたましいは、つぎにその吸収によって、自発にして固有の〈動き・身振り・すがた〉をそなえた、振るたましいとなることができる。
それは適切な間をおいて、タイミングに乗じて、みのるものである。
つまり、遊戯をもって仕事や生活に生かし、仕事や生活をもって遊戯に生かす、節と間の良いたましいの竹のごとき成長というものについて、
わたしたちは、人間の成長だけでなく、国家の成長や社会の成長に照らして、考えることができるはずなのです。
竹の節に、間がほどよく入るのに、滋養や陽光や風向きの力がかかわるように、
たがいのたましいは関係性のうえでおよぼすところがあって、あそび、生きるという話になりはしないでしょうか。
 
 
 
 

補足日時:2010/02/26 16:51
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この回答へのお礼

どうされましたか。

回答No.8 補足欄 拙文
「たぶん和訳が原語のクリアーさを伝えていないので、ここで詩を取り立ててもあまり実りがないと思うのですが」

お礼日時:2010/02/24 14:53

No.17です。


補足の御心尽くしに、あらためて感謝致します。
拙文は取るに足らぬものと百も承知の上、御手すきの際にでもご笑覧下さい。

ただもう一作品だけ、「遊戯」に絡めて、長く記させていただきますこと、なにとぞご理解並びにご容赦下さいますようお願い申し上げます。

「或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。

 細君の方は、小脇に何かを抱えてはいって来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着附け方はまだ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。

 細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私と目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。

 もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。

 夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でビールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。

 そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。

 細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終わったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。

 異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢て言えば、和やかに終わったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。(『人形』 小林秀雄)」

元々私は小林秀雄が好きで、殊にこの作品は、何度読んでも、
この「不思議な会食」にくだんの大学生の娘と共に同席しているかのような、不思議な静謐さと心地をおぼえてとても印象深いのです。

それでは、amaguappa様のあたたかな御言葉に、ゆっくりと甘えさせていただきますね。
百花繚乱の草花のもと、日向ぼっこしをながらのうたた寝というのは、この上なく気持ちの良いものですから。
これも、他愛も無い経験則なのですけれども。
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この回答へのお礼

ちょうどこのようなご夫婦に、わたしは、やはりレストランで遭遇したことがありました。
となりのテーブルで、30代から40代と思われるカップルと等身大の人形入りの乳母車、そして年嵩の男性という顔ぶれでした。
やっぱり、予想しないので一瞬ぎくりとさせられるのですが、婦人のほうの陶酔したようなお顔と、
男性のほうの、わたしの一瞬の視線を捉えた静かな訴えるような目が、対照的でした。印象に残っています。

饒舌な小林秀雄が少し寡黙に目をふせるのは、悲しみに対してなのか、そうではないものの蓋をあけることを遠慮するからなのか、
それも問わないでと、口をつぐむ人の連鎖反応のような、包んで箱に入れてさらに沈めるかのような用心深さがつきまとうのですが、
現実にわたしなどが居合わせると、ただただ、人形で代替するに至るまでのいくつかの段階を思います。
悲しみや絶望から断固として戻ってこなかった婦人の、暴風のような情緒不安定を、
ようやく安定させることができて、心身を蝕む疲弊から解放されたご夫婦であると。
その仮構を壊さないようにしながら、悲しみはもはや向き合いようのない煮凍りみたいなものになっているでしょう。

先のご回答で、理性と遊戯の二極的なありように触れていらっしゃいましたが、
理性に帰る道を失った遊戯空間って、感情に帰る道も失うのではないかと思います。
感情は、共有できるコミュニケーションツールなのでしょうね。
遊戯空間を、共有できるものとしうるか否かは、理性に帰る道があるか、
また、感情の共有に至る道があるかどうかにかかっているのではないかなと思います。

お礼日時:2010/02/25 16:03

ひとり遊びは決して無駄ではないと思います。


>術的時空との本能的一体化
こういうことでしょう。

滑り台っていうのは、上ったから降りるっていうあたりまえの合理性をを、身をもって体験する楽さがありますが、らせんに降りてくるとか、トンネルをそのしたが通ってるとか、少し余分なこと(ちょっとした屁理屈)が刺激的なんですね。
「どおちて?」「だあって、だあって、だあって」っていう原始的なリーズン(理性)の体験が、自我であり我儘の初期となり、テクノロジー文明への源泉となり、そしてさらに、その反対側に倫理を大切にする心を知ることにもつながるのかなと。
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この回答へのお礼

お返事が遅くなり、すみません。たぶん、わたしは優先すべき理由のないものを優先しているのでしょうが、全体に御覧の調子なのです。

ひとり遊びは無駄どころか、必須です。だれだって、それを否定しないことでしょう。

テクノロジー文明と倫理の対比についての考えをお持ちなんですね。
たしか、ご自身の質問で言及なさっていたと記憶しています。
原始的なリーズンの体験、
そう。そうですね。
わたしは子供に、それを、戸外の運動と自然、質素なおもちゃの動きと手の喜び、五感の喜びから体験してほしいです。
好奇心と冒険心とくじけない心を持って。

お礼日時:2010/02/24 22:21

 No.4&8です。


 
 (α) 《関係》という視点の重要性
 (β) 《非思考》としてのタテの関係が想定されるからこそ ヨコの関係のすべてが 人間にとって意味を持つということ。
 (γ) タテの関係というのは 個人の――相対性の中にも――独立性を想定している。それは 自由意志の問題である。
 (δ) 世界はヨコの関係のみであるという完全な相対主義であればこの世は 詐欺師と殺し屋の世界である。騙しとドンパチの世界選手権が争われる中で 飲めや歌えやでおしまいである。
 (ε) 《あそび》は ここに位置している。言ってみれば 《生きる》ことの別名である。
 (ζ) あそびと仕事 あそびと生活というふうに分かれるのではない。子供と大人 童心とおとなというふうに分かれるのではない。子どもも大人も 人間である。

 ☆ 白雪姫さんについては わたしも絡みがありました。ただ一応整理がわたしの中でつきました。わたしに対しては いわゆる勇み足だったのであろうと。

 ☆ 《異界》は むかしのこと。ヨコの関係世界において 未知のものがあった。ただし その昔においても タテの関係を《かみ》と呼んだ。その言語習慣は 現代にもつづいている。とうぜんだ。だから現代では 《未知としての異界》は《かみ》ではないと分かっている。
 この前提の上で《あそび》をしないと 人びとは ヨリ(憑依)の原始心性のままだということになる。浦島太郎シンドローム?
 その意味では テーマパークは 子どもにとってそのパークに行く前に 親や周囲の人たちのこころである。マンガやアニメは 退化ではないか。
 子どもは 大人ではないけれど 人間である。

 ☆ 《天国と地獄》 これも むろんおとぎ話なのですから もし《未知の異界》として語られていたとするなら これは神とのタテの関係ではないと明らかにせねばなりません。《最後の審判》は 現在のことを言っており いま・ここなるわたしの問題です。
 ですから このように非思考のまどを心に自覚するゆえに あそぶ=生きるとなるか それとも 生きるための仕事のほかに遊びを持って それを通じてタテの関係に進むか 順序が 二通りあることになります。
 空観というのは 後者のヨコの関係における迷い(無明)の循環から 前者の明知としてのあそび=生きるの境地へ転換するときのさとりを言う。
 そのために エポケーが必要だと言った人もいた。
 プラトンの系譜は 総じてアマテラス語理論として世界を語った。

 ★ 〔わたし= bragelonne の方法は〕自分の十全さをコンパクトに表象するという開示方法のようにも思われます。
 ☆ そうですよ。その《自分》とは 《人間》ですし つねに相手に対して《あなた》だと語っています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 遊戯的《間》って、能狂言や茶道華道ではよく意識できますでしょう。それもうまいへたが天地の開きです。
 坊主が円相を描くのも、面白いのとつまらないのとがありまして、 
 遊戯であれと智に傾くとあざといので、もう本人がアホであるしか表現に至る道はないのではないかと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ しかとうけたわまりました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一人遊びなどでは時間との兼ね合いも入ってくるでしょう。
 時間。。。記憶。。。反復。。。予期。。。
 一筋縄ではいかないような気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは お言葉を返しますが この場合も空観に立てば 関係の世界だと見ます。誰か気になる相手との関係でコミュニケーションがうまく行かないとなれば 一人遊びに入る場合があります。たしかに待った無しで 時間が介入して来ており ときを俟たねばならない場合があります。でも大筋で《一筋縄》ですよ。
 先の者が後になり 後の者が先になるという時間の問題に還元できると考えます。百年かかるか 千年か。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 術的時空との本能的一体化というのは、
 作用するところの時空と結びつくようにして遊戯の主体が生まれる
 ということのようにわたしは思いました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《遊戯の主体》が 仕事や生活の主体と同じであるわけですから そのつながり――《あそび=生きる》――をどう捉えているかで 《関係》をどのように扱っているかが顕わになると見ます。

 この関係性は 一般に関係(かかわり)ですが 実際には交通(まじわり)だと見ます。この交通においては したがって《間(ま)》の問題であるのではないかと。
 ▲ (上田正昭:浄の美意識――間と節) ~~~~~~~~~~~
 外来魂との接触とその肉体化 そして内部生命力の振起(タマフリ) そのつなぎ目には《間》と《節(ふし)》とが必要であった。
 触れと鎮め 鎮めと振りのけじめが《節》となり その期間が《間》となる。《間抜け》であったり 《間合い》が悪いと そのみのりは《間違い》となり 《間延び》になる。
 日本的美意識の根底にひそむ浄の思想をてがかりとしての《たましい》の論には・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この回答への補足

ゆっくり読ませていただきます。

補足日時:2010/02/24 12:26
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この回答へのお礼

昨夕は小林秀雄よりもこちらを読むべきでしたね。いま順序はそのあたりに進んだところなのです。お待たせして申し訳ございません。

(α)~(ζ) は明快だと思います。ただ(ε)がわかりません。
あそびは、いうなれば詐欺師と殺し屋の世界に位置しているとなるのですか。しかし、読み進めましょう。

> ☆ 《異界》   関係世界における《かみ》/ 未知としての異界....現代の心性では《かみ》ではない
            cf. ヨリ(憑依)の原始心性
>  テーマパーク・・・・親や周囲の人たちのこころ
            cf. マンガ、アニメ
> 《未知の異界》としての《天国と地獄》《最後の審判》=おとぎ話=いま・ここなるわたしの問題 ・・・・非思考のまどの自覚

> あそぶ=生きるとなるか それとも 生きるための仕事のほかに遊びを持って それを通じてタテの関係に進むか 順序が二通りある。

(ここは何の順序なのかわかりにくく思いました。)

> 空観
  後者のヨコの関係における迷い(無明)の循環から、前者の明知としてのあそび=生きるの境地へ転換するときのさとり
        cf.エポケー
        cf.プラトン.....アマテラス語理論による世界

ここまでの図式によれば、生きるための仕事のほかにあそびがある状態か、または詐欺師と殺し屋という極端な言い方ではないにせよ、現代の心性における迷いのループが、いずれも非思考の窓の自覚によって、他者との関係性をあそび、またそこを生きるための、明知に転換されるべきであるということなのでしょうか。
(続きは31のお礼欄を使います。)

お礼日時:2010/02/26 16:49

素粒子


光子
ミクロでありマクロな宇宙

万物の素


玄のまた玄


´
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この回答へのお礼

人の認識の世界、また、世界の認識にとっては、
人の意識に届くべく 星 というありかたも
かけがえのない相であると思う。

お礼日時:2010/02/24 14:31

人は所詮大きなものを内包するものの掌の上で動く。







                              ´
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この回答へのお礼

わたしが、クラドニ図形 という質問に答えた時の気分はそれです。

お礼日時:2010/02/24 12:58

童心


無邪気
なかよしで

ね?
お遊戯は

この回答への補足

(補記)
回答の編集があったようです。
下のお礼はもはや意味を為していません。

が、

つなげて読むこともできるかも。。。
お遊戯は、変なものを、背負っているか?
 

補足日時:2010/03/06 05:55
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この回答へのお礼

あれは変なものを背負ってます。

お礼日時:2010/02/24 11:57

No.7です。

お礼を拝見致しました。
独断で選んだ絵本に、ご理解とあたたかなお言葉、私のほうこそお礼を申し上げます。ありがとうございます。

>落とす、放り投げるって最初の身体運動なのでしょう、少し前までさかんにやっていました。
>はじめての主権発揮?世界征服?かなと見守るしかないのでしたが。。。

はい、そうですね。
「見守る」というのは、なかなかに、匙加減が難しく、奥が深いように思われます(自戒をこめて)。
先の”かみなりちゃんのパパ”の登場は、こども二人が腕組みをして無い知恵を働かせ、挙句に泣くのを木陰から見守っていたのでしょう。

また、落とす、放り投げるを繰り返して、キャッキャッと笑う、あどけない様子をみるにつけ、
いっぱしのちっちゃなあたまの中には、楽しさ愉快さでいっぱいなのだと思わずにはいられません。

ふと、ある小説の一節が思い出されました。
それは何故か、「遊戯」ではなく「労働」のひとコマなのですけれども。

「それから、一列、一列と刈り進んで行った。長い列も、短い列もあり、いい草もあれば、悪い草もあった。リョーヴィンは、時間の観念をすっかりなくしてしまって、今は早いのか遅いのか、まったく見当がつかなかった。彼の労働にはいまや転機が訪れて、大きな喜びをもたらした。彼は仕事半ばに、ふと、自分がなにをしているのか忘れてしまって、ほっとした気分になり、そういうときに刈ったところは、ほとんどチートのと同じくらい、よくそろって、きれいだった。ところが、彼は自分のしていることを思い出して、もっとうまくやろうと努めはじめるや、たちまち、労働の苦痛をひしひしと身に感じて、その刈り後もきたなくなるのであった。(『アンナ・カレーニナ』中巻 木村浩訳 新潮社版)」

時に大人というのは、「意識的に無意識にならざるを得なく、考えるは易しで忘れるは難し」ですから、
こどもからすると「何でそんな簡単なことが出来ないの?」かもしれません。
それは「遊戯」ではなく「労働」だからなのでしょうか?
そうとばかりは言えない気もするのですが…。

>異界をかんたんに受け止めて、渾身の力で投げては受け止めてという、子供というのは不思議なものですね。
そもそもこの世界に来た最初から異界体験でしょうし、手に触れて、獲得していくことに残酷の境界はないのかもしれません。

はい、仰る通り、こどもというのは本当に不思議な生き物ですよね。
理性、理屈など持ち合わせず、あのちいさなからだの全身全霊で、ありのままに「異界」を受けとめているのでしょう。
これこそが「遊戯」と言えましょうか。

こどもの世界は夢うつつ、まるでかれらの欲望こそが主であり、現実は自らが従えている幻想のようにも映ります。
そして私たち大人は、この現実こそが自らの欲望とみなし自己満足してやり過ごしがちなわけで、
こどもの欲望に対して、時として、容赦なく厳しい現実を突き付け、理性を育み従わせていくかのようでもあり。

こどもでなくとも、合理的に現実世界を理解し得ない類のものは、非理性的な「異界」に属するものとみなしたがるものかもしれません。
それが優勢となり行き過ぎた場合、理性がそれを打ち砕く絶好の鉄杭となり得るでしょう。

しかしその逆パターンとして、仮に理性が勝り空間全てを覆い尽くしたとして、
他愛もない幻想や想像力、創作などの余地の残されていない「非遊戯的世界」を想像しますと、
ことさら無味乾燥、萎えてくるのです。

>jazzも付け加えたいところ。jojo(悪ガキ)と。
>throw and catch で世界を味わえない大人になると寂しいですね。弱くなる気がします。

ああ、なるほど、それはとても良いですね。
jojoのような昼間の強がりな童顔とはうってかわって、あの寝顔の愛くるしさといったら、何とも形容しがたいものがありましょう。
jazzって、こどもにはどのように感じられるのでしょうね。

回答者の方々が持ち寄ってこられたjoujou(回答)も増え、さしずめこのご質問は(le)Jardin secretといったところでしょうか。
いましばらく鍵穴から眺めていたい、そんな感じです。

この回答への補足

ゆっくり読ませていただいてから、お返事させていただきます。
Jardin secretの命は短いですから。。。一つ摘み逃しちゃったみたい。その点マシュマロさんの花は心配なしです。

補足日時:2010/02/24 03:54
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この回答へのお礼

 
リョーヴィンの「労働」を読んで、ふと思うのは、芸術が生業になったときの、労働のつらさというものでした。
よく芸術家が、玄人はだしの素人に向かって口にする、遊びでやっているほうが良いよという言葉、いろいろな意味を含むでしょうが、
夢中で無心だからこそやすやすと出来てしまうことが確かにあって、
義務が心に生じてくると、なぜか体が脳を超えてこなしてくれるような柔軟さや統一感や能動性を失ってしまい、
「飛翔」できなくなってしまうのですよね。
遊戯のこころは、からだをすばらしく開放的に使っているのかもしれません。呼吸や筋肉の運動にロスがなくなって。

欲望のしつけは、ひとつの課題なんでしょうね。
欲望がまだ少ないうちの可愛さを、いとおしんでいますが、
現代生活はこどもに容赦なく欲望を植え付けていきますよね。悲しいです。
でもヴォネガットだったか、田舎の堅実な靴修理職人の子が音楽家になりたいという欲望を持ったときの父親の困惑と怒り、
代々田舎で靴職人をしている家の子がそんなことを言い出すなんてありえない、
という気持ちついて憂愁含みに触れていたのを思い出すのですが、
欲望というものについては、子供の受け取っているあたらしい世界の、子供には筋が通っている道理があるのでしょうかね。

理性と遊戯は、理性が勝るようにして遊戯空間をつくりだすことが肝心なのではないでしょうか。

jazzはねえ。。。どうなのでしょうね。わたしは不協和音を嫌う子供でしたけれど、平気な子は平気みたいですね。
うちの子はコルトレーンやモンクで体をゆすって乗っていて驚いたことがあります。
北アフリカのテレビ番組をじっと見たりして、前世アフリカなんじゃないですかね。
と適当に判断停止してしまうわたしなのでした。

お礼日時:2010/02/25 01:42

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