プロが教えるわが家の防犯対策術!

 
関係のない、他人を自分の都合で殺すことは「悪」だと感じます。
しかし、これは、幼いころからの道徳教育に依存している可能性が大きいのではないかと、思われます。

では、子供に殺人の「善」「悪」を教え込まなかった場合、子供は、成長してあと殺人をどう考えるでしょうか?

殺人を何の悪意もなしに行ってしまうのでしょうか?

それとも、母が子供に母性を感じ、かわいがるように、自然に殺人的な行為を忌み嫌うようになるのでしょうか?

自由な意見をお待ちしています。
 

A 回答 (14件中1~10件)

真・善・美の三つは、時と場合で全く反対の意味を持ちます。


戦争で敵をたくさん殺したら、勲章を貰えますから、これは善い行いです。平和な時代には、例えば秋葉原の無差別殺人などは、悪い行為ですね。美についても、普通ならキタナイと思う汚物を愛する人(○○フェチとか)がいたり、廃墟の写真に魅力を感じる人も多くいます。
このように殺人でも美でも、時と場合によっては悪となり善となります。

貴方は日本人かと思いますから、今の日本なら殺人は悪いことだと教えるのが普通でしょう。

子供というのは、親だけではなく、友達同士、TVやラジオなど、様々なところから情報を入手して育ちます。
母親のみならず、ご両親、更には祖父母の愛情に囲まれて育つのが一番です。子供の頃に可愛がられなかった(親の愛情に恵まれなかった)人は、幼児虐待とか子育て放棄とか、そういうことになり易いようです。

今から三十年程前、アメリカでは幼児から10歳児に、弟を拳銃で射殺するとか、二階の風呂の水を出しっ放しにして家上じゅうを水浸しにするとか、カーテンに火を付けて家を全焼させるとかの事件が多発しました。
後で原因が解ったのですが、これらの子供は体験しながら学ぶという学習能力が欠如しており、同じ失敗を何度も繰り返すのです。
マッチやライターの火は危険だと親から教えてもらっても、再度火遊びをするとかです。先天性の病気だったのです。
この原因は胎児の時の母親の飲酒でした。妊娠を知ってからも毎晩晩酌をするとか、寝酒を飲む習慣がある米国です。食事の際にワイン一杯は普通に飲みます。これがいけなかったのです。
胎児が成長する過程で、アルコール分を含んだ母親の血液が胎児の脳の発達に影響していました。今では原因が解りましたので、妊娠中に大酒を飲む女性は減ったようです。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

問いの説明が不十分だったかもしれませんが、質問は、平成時における殺人について問うています。
戦争のように、殺さなければ、殺されるような状況を外してください。
また、脳障害の子供の例も外してください。
一般的な機能を持った、人間を想定しています。

それらが、「殺人が悪」を教えられなければ、どうなるかです。
働いて稼ぐのが嫌なために、自分の都合により、平気で強盗殺人を起こすのか?
と、いうような問いです。

再回答いただければ、幸いです。
 

お礼日時:2010/03/17 17:00

「殺人についての善悪」というより、「他人の立場に立って


考える力」でしょう。
「殺人の善悪」は単独で扱うとモラルや規則になり、それらは
例えば戦時などにおいて宣伝や流行によって容易に変形させら
れてしまいます(環境認識に根差した自己の判断が重要)。

ご質問の根底には、「殺人は悪」というお考えが先入している
ようですが、殺人が良くないかどうかは、状況によります。
古代はファミリー単位で殺し合っていましたし、日本も戦国時代
まで、県単位で殺し合っていました(殺人は善であり得た)。
織田信長は、何十万人の人を殺させたが、英雄であることに
疑いをはさむ物はいません(殺せば英雄)。
生物的に、分業化=生存単位である社会の外とは、生存競争に
よるバランスが「進化=善」なのです(それに抗しても死に
結果するだけ)。

そして、産業の分業化、流通の発達といった社会の組織性の発達
において、その内では利害が共通するので「殺すのは悪」という
価値観が生じます。
日本の食料自給率やエネルギーの石油依存からして、もはやそう
した「分業化=社会生命性」は世界に拡張しているといえます。
(産業も経済もグローバル化したが政治は遅れている)

ところが、その“助け合うために集まっている社会”において、
社会的行動を社会生命としての自覚(愛)によって導かず、
お金や出世、虚栄心といった“馬車馬の目の前のニンジン”
によって他律的に強制(お金をもらうためにイヤイヤ働いた
結果として生かし合う)する事において、個人の意識は
自己チュー化し、他人と競い合ったり、奪い合ったりし、
そのあげくにモラルが低下し、“自分の一部”である他人を
短絡的欲望や衝動的感情で殺したりする=社会の精神的荒廃が
進んでいるのです。

ここでも、本来QAサイトでありながら、『答えを得て精神的に
深めよう』という姿勢ではなく、無用な自己顕示を図ったり、
他人を攻撃したりする“その場の短絡的自己満足”にはしる例が
散見されます。
そうした社会性の低下を放置しながら、形骸的に罰や教育で
押さえつけようとするのは、“罰せられない程度は良い”という
社会の精神的荒廃と、抑圧による他律的社会行動(=非充足)
といった、生きる真の目的(精神的充足量の最大化)に反する
方向に流されることです。
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この回答へのお礼

 
>「殺人についての善悪」というより、「他人の立場に立って
考える力」でしょう。

それなら、それでもいいと思います。
では、「他人の立場に立って考える力」は、自然発生的に生じるのでしょうか?
それとも、道徳教育によって、生じるのでしょうか?

再回答いただければ、幸いです。
 

お礼日時:2010/03/17 16:53

昔見たテレビで、よちよち歩きの子が、カマをぶんぶん振り回して歩いていて、とうとう後ろ向きに座っているおじいさんの背中を何度もグザグサってやっていた。



赤ん坊の映像を見ているとおもしろい。
すべてが未知のものなので、それがなんなのか確かめるため、まずは口に入れる。
食べられる・おいしくない とか 味覚から対象を見極める。

そのうちの手が発達して、つかむ 以外に ひっぱる とかをやるだす。

ドアを開けると自然とドアがしまる。
扉という概念がまだないいので、これはひっぱると元に戻るもの という感じで捉えるのだと思います。

そのうちハイハイしてティッシュボックスに遭遇。
一部をひっぱると、なんか変化する。 もう一回やると やっぱり同じことが起こる。
これはいったいなに?と出てこなくなるまで繰返すわけです。

そしてドアに手をはさんで痛いと感じてギャーと泣くと、やがて痛みを忘れるような快感が訪れる。
ギャーと大声を出さないと、快感は起こらない。
実際は声をききつけて親がすっとんできて抱きしめてくれているわけですが、幼児はまだ自分と他人の概念ができていないので、すっとんできて抱きしめるものは、自分の体の一部だと思っているわけです。

だからぎゃーと泣くと親が飛んでくる家庭で育った子供は、すぐに何かあるたびギャーと泣くようになる。

親が反応しない家庭で育つと、痛い目にあっても泣かない子になる。


で、カマを振り回していた幼児は、まだカマがいったいなんなのかわからないので、とにかく振り回しているわけです。
ドアをずっとひっぱるって正体を確認したように、ティッシュをひっぱっていったい何なのか体験を通してそれを確認するように、ぶんぶん 振り回す。

そして人に当たると、当たった人が あわてる。
いったいなにが起こったのかはわからないが、おじいさんの表情からして、なんかよろしくないことだと学習するわけです。

で、少し大きくなって、蟻を踏み潰して遊んでいたら「殺しちゃだめ」と言われたとする。
「蟻だって小さいけど命あるものだから」と親に言われるわけです。

でも そういう親がゴキを叩き殺す。
世の中には生命が大事なものと、大事じゃないものがある と学習するわけです。

毎日の生活で、どれはよくて(蚊とか) どれは殺しちゃいけないかを徐々に学んでいく。


喧嘩して殴られると、殴られるととっても痛いものだと学習するので、人を殴ることを躊躇するようになる。

逆に子供の頃に喧嘩をしたことが無い人は、大人になってナイフで人を刺すことをなんのためらいもなくできてしまう。

痛みを体験していないので、どうすればどれほど痛いか どれほどとんでもないことか 学んでいないから。

そうやって動物に対しても、むやみに命を奪うことはよくないと学び、ただし生きるうえで殺生をすることもあると知ることになる。

そんな感じで、集団にもまれることで、集団の持つ倫理を概念を内に入れていくわけです。
そうしているうちに、体験しなくても、人は殺してはいけないものだとわかってくるんじゃないかと。


>殺人を何の悪意もなしに行ってしまうのでしょうか?

これは、、、、確かにいます、悪意なく人を殺す人は。
人によってはロボット脳と呼ばれる障害を持つと、共感するとか、人はどう思うだろうとか推測することができないんです。
だから、何のためらいもなく「死ってどういうことか知りたい」と思って、実験として人を殺せてしまうんです。

ある母親は子供が他の園児から「ばーか ばーか」と言われたのに対して「馬鹿って人に言ってはいけないんだよ」と言い返しているのを聞いて、「うちの子の方がマトモ」って言っていた。
馬鹿と言っている子は、相手がその言葉に当然傷つくと思い、痛めつける目的で放ったわけです。
自分が馬鹿って言われたら傷つくので、当然相手も傷つくはずだって思って言っているわけです。
でも、言われた側は「人に馬鹿と言ってはいけません これはルールです」と教わっているので、お友達はこのルールを破ることをしていると指摘したまで。
相手の思惑通りに心が傷ついているわけじゃあないので、いっくら馬鹿と煽られても、無傷なんです。

馬鹿といった側は相手の無理解に対してイラついて傷ついてので、仕返しをしたのだと思います。
が、心が無い人の心を傷つけるのは無理。
まあ 程度によりますけどね。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
脳に障害がある場合は、外します。
一般的な、人間の場合で考えていますから・・・

やっぱ、設定が無理なんですかね?
集団の中で暮らすと、どうしても「~を殺しちゃいけない。」を教える人が出てきますよね・・
 

お礼日時:2010/03/17 16:49

悪意もなにもありません。



「ソニー・ビーン」を検索してみてください。かなーりキツいですが。
殺人と食人の一族の話です。
この一族の子供は生まれたときから人の肉で育ち、人を殺すということに何も抵抗がなかった。
後に逮捕され死刑になったときでも後悔もなにもしていなかった。
と、いうことらしいです。
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この回答へのお礼

 
ショッキングな回答内容で、しばし言葉を失いました。
自分の推論(自然発生的に、命の尊さの感情が芽生える)と、異なっているので、混乱もしました。

で・・・検索してみました。
ソニー・ビーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%8B% …
で、内容の一部を抜粋すると、

ビーンの実在と犯行の真偽
ビーン一族に関する話はロンドンのニューゲート監獄の犯罪カタログThe Newgate Calendarに掲載された。
実際には1843年に刊行されたジョン・ニコルソンの著書が初出であり、
これ以前の資料は存在しないので、多くの歴史家はビーンの存在を否定しているが、「火のない所に煙は立たず」で、何らかの事実があった可能性も否定できない。

ということですね・・・
他の資料も当たってみましたが、真偽はあいまいなようです。

カニバリズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B% …
15世紀のスコットランドにおいて、ソニー・ビーンとその家族は山岳を通過する旅行者達を食べて暮らしていたという記録があるが、その記録は19 世紀以降のものであり信憑性は低い。

ということで、保留・・・
 

お礼日時:2010/03/17 16:43

>集団の中で暮らすと、どうしても「~を殺しちゃいけない。

」を教える人が出てきますよね・・

というか、殺す以前に「叩いたらいけない」って普通に言いませんか?

叩くというのは暴力ですよね。
そして最大の暴力は殺人ですよね。

私は<人を殺しては駄目>と一度も教わった記憶が無い。
あなたは教わったという記憶があります?
殺人事件のニュースを聞いて「なんて野郎だ」とか周りの人が言うと「ほんとひどいね」と思いませんか?
どうしてそのようなことを思ったのだと思います?

最大の暴力だからですよね。
小さな暴力を体験していれば、(例えば友達に小突かれたとか叩かれたとか)、暴力はいけないことだとわかり、ましてはその最大の暴力の殺人は憎むべきものだとわかりますよね。


小さなことで応用ができるのが人間。
応用ができないのがロボット。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
ということは、自然発生的に「殺人は悪」という感情が生じるって回答と、理解して宜しいのでしょうか・・・・
それとも、周りからの働きかけにより、そういう学習をするということでしょうか・・・・
そうじゃなくて、「どっちとも決められない」ってことでしょうか?
 
再回答いただければ、幸いです。
 

お礼日時:2010/03/17 18:17

#6の者です。



>では、「他人の立場に立って考える力」は、自然発生的に生じるのでしょうか?
>それとも、道徳教育によって、生じるのでしょうか?

簡単です。
社会生命化した自己の必要=真実を認識させることです。
「お金は価値がある」とか「殺人は悪いからダメ」といった、
先入的価値による他律的社会行動の強制ではなく、
自己の生存が世界全体の順調な運営に拠っていることを
自覚化(他我意識)させることです。
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この回答へのお礼

 
再回答ありがとうございます。

簡単です。って言ったあとの説明が、自分には、やたら難しいのですが・・・・

>自覚化(他我意識)させることです。

と言うことは、
自然発生的に生じるのではなく、他からの働きかけ(例えば、道徳教育のようなもの)で、自覚化させる。
という、解釈で宜しいのでしょうか?
 

お礼日時:2010/03/17 18:24

中々興味深い質問ですね。


明確な答えにはなってないかもしれませんが、思うところを
書いてみたいと思います。

>自然に殺人的な行為を忌み嫌うようになるのでしょうか?
という質問には、「ならない」と思います。

人間という種族は、高い知能を持ち合わせていますが、本能
というものがないようです。
ジャングルで捨てられた赤子が狼に育てられ、狼と共に狩をし
生肉を食らっていた事実もあります。
犬は人間に育てられても犬ですが、人間は犬に育てられたら
犬になるということです。

育てる側の意思(○○しちゃダメ、○○しましょう、的な教えも含)
生活している環境によって、善悪を含めた価値観が芽生えます。
子供も、産まれた後に世間に接する機会が少なく、尚親が愛情を
もって育てなければ、殺人が悪いことだと認識しないように思えます。
通常の家庭であれば、親が愛情を注ぐことによって愛される喜びを
知り、TVなどで流れている番組、CM、などの情報で無意識の内に
なにが良いことで、なにが間違っていることかを学習していきます。

ですので、外の情報を与えず育てていくことで、ルールというものを
理解できず(殺人もルール上してはいけないだけ)ある程度まで
育ち、外界に触れ、友達ができて、おもちゃを取られただけで、石で
殴って取り返すかもしれません。(そもそも独占欲すらない状態で
育つかもしれません)

独占欲で思い出しましたが、大海港時代にヨーロッパ諸国の人が
現地人に文明を伝えました。多くの現地民は、自給自足の生活を
して、みんなで採ったものはみんなのもの。という共同社会が多か
ったと聞きます。(一夫多妻制ですし)
しかし、白人が所有することの優越感を教えてから、地元民同士で
争いが起きるようになったという話があります。

狼少年の話にしても、原住民の話にしても、生まれ育った環境に
よって価値観は大きく変わってきます。
今の日本では、言い方を変えれば、社会のルールの一環とした
教育上「子供に価値観を押し付けている」ので、殺人=悪と結び
つく家庭が多いかと思います。
しかし、そのような育児をしなければ、殺意≠悪となるかと思います。
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平時の場合、『殺人は悪いことである』と教えられるのは、親からだけとは限りません。

人でなくても講演で犬を虐めるとか、飼い猫を虐待するとか、そういうことはいけないことで、その延長線上に殺してしまうという行為があります。自然発生的にという言葉を、自然に覚えると解釈すれば、自然には覚えません。親から周囲から教わるのです。また、教わるだけではダメで、子供は学ぶのです。
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この回答へのお礼

 
「異性を好きになる。」という事は、誰に教えられるわけではなく、自然にそういう感情が発生するでしょう。
僕は、「人を殺す」ことを忌み嫌うのは、恋愛と一緒で、自然発生的に生じるという考えです。

それについても、批判なり、意見の再回答を頂けると、幸いです。
 

お礼日時:2010/03/20 12:30

#6の者です。

たとえば、

>自然発生的に生じるのではなく

の「自然発生」という意味が、小生には分かりません。
「日常生活の中で放置しておいて学ぶこと」という意味なのか、
「自然に即して事実を学ぶ」という意味なのか、あるいは
その「自然」に人間を含むかどうかなど、定義をあいまいに
したままプラグマティックに用いられているのが「分かりやすい
日常の言葉」であり、こうして物事を厳密に理解しようとする
スタンスからは、小生の記する言葉の方が明快なのです。

そうした「状況に応じてプラグマティックに『XXは悪い事だから
やっちゃいけない』と道徳的に教える」のでは、その「状況」に
応じて容易に戦争に駆り出される、というのが#2の内容です。
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この回答へのお礼

 
確かに、
>自然発生的に生じる
というのは、内容が、あいまいですよね。
何が、自然かの条件設定が、なされていませんよね。
それは、感じていましたが、厳密に条件設定をするのが難しいので、あえて、質問者さんの感じる所に任せようと、そのままにしていました。
さすがに、psytexさんには、そこに違和感を感じましたか・・・・・
 

お礼日時:2010/03/20 12:22

>ということは、自然発生的に「殺人は悪」という感情が生じるって回答と、理解


>して宜しいのでしょうか・・・・
>それとも、周りからの働きかけにより、そういう学習をするということでしょう

例えば恥ずかしいという感情をどうして人は持つようになるのか?
恥ずかしいと感じる器官が発達するから?

そんな器官は無いと思う。

例えば子供の頃は、裸でいても、恥ずかしいと思わないですよね。
私小学2年の頃に身体検査があるので体操服に着替えるように言われて、時間になって教室で着替え始めたんですね。
ぎょっと周りからされたらしく、「何してるの」って言われた。
「男の子たちがいるのに」って。

え? それがなに?って思った。
今は男の人の前で服を着替えたりしませんし、密室でしか着替えませんよ。
着替えルームでカーテン開けられたら「きゃ」って隠しますよ。


恥ずかしいという神経が発達して、恥ずかしいという感情をもてるようになったのか?
ううん、 周りの人に言われるうちに、その状況になったらドキドキ感情がするよう身体が学習したからだと思う。
まわりに言われてドキドキした身体反応が蘇り、その状況になったとき、ドキドキするようになったんだと思う。


他の例だと、、、裸族っているじゃないですか。
全く前を隠していない。カメラに撮られてもぜんぜん平気。
つまり 裸でいることは恥ずかしいことだ という概念がその集団には無いので、平気なわけですよね。

だけど、そんな裸族でも、顔を赤らめることはある。
結婚が決まった女の子が周りからからかわれて恥ずかしそうにしていた。

これは小さい頃から何度かからかわれるうちに、最初は え? だったものが、からかわることで興奮を起こすようになり、それでからかわれる度自然と身体が反応するようになり、結婚をからかわれて、恥ずかしいというしぐさができるようになったのではないか と。

小さい頃 刺激を加えられる回数が少ない子だと、無表情ですよね。
たんたんとしている、表情が少ない。
からかわれても 顔を赤らめることがないのは、からかわれるということを小さい頃学習していないから。
臨界期を過ぎてから刺激を与えられも、もうその分野は伸びない。


つまり、私は学習説をとります。
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この回答へのお礼

 
裸族の例から、学習説をとっていますが、殺人を裸族の類と考える根拠が示されていないのが、十分、納得できないです。

たとえば、異性を好きになるのは、学習ではないですよね。
自分の産んだ子供に、母性を感じ、守りたいと思うのも学習ではないですよね。自然に発生するものと思います。

つまり、どうして「裸族の例」を採用したか、「異性を好きになる」礼を採用しなかったか?
この辺の、説明が論理として必要かな?・・・と思います。

再回答いただければ、幸いです。
 

お礼日時:2010/03/20 12:10

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