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あくまで1例ですが、普段読書量も少なく、傾向も偏りがちなのに、本を読むと、とにかくその本が良かった、と周囲にほぼ強引なほど勧めずにおられず、熱心にその本のことを誰彼に語り、結果、「読書家」と評価される人がいたりします。
その人の理解の内容も、少なくとも私にとっては、ですが、心を動かされるほどのものではないものです。そんな人に限り、こちらが「面白いよ」と勧める本には目もくれなかったりします。

その人のように脚光を浴びたければ、そのように振る舞えばいいだけなのですが、それはどうも自分には無理なことです。

もともと読書とは数を競うものでもひけらかすものでもなく、自分の世界を豊かにするものだとわかっています。

だから、自分からアピールすることはありません。話題の流れで自然に話すことはありますが。

しかし、こういう人を見ると、たとえ俗物と言われようと、自分も誰かに認められたい気持が出てくることも確かです。これは、読書だけに限らず、仕事上でもあることです。

あぁ、もう少しこれができることを自分から訴えたほうが得かなぁ、とか。もちろん、目立つ目立たないという問題抜きで、純粋にこの仕事がしてみたい、という点で、なんとか自分なりのやり方で打って出てうまくいったこともありました。

そういった経験があることをもってしても、最近、すっきりしない思いが増えました。

小学生や中学生の頃だと、普段は地味でも、教科別に試験の結果などの数字という「成績」が残ったことを思うと、学校というところはある程度までは、平等で正当な評価をしてくれる場だったように思えます。

社会に出ると、机の上の勉強だけできても、社会適応能力がなければダメだ、といわれます。
しかしそれには、本当の能力より、能力があることを人に知らせる、それも実際の能力以上に見せることができるほうが得なのかなぁ、という一面がもあるような気がします。

だから何でも先に大きく声を上げるほうがやっぱり得?と思ってしまうのです。

会話中、相手の話の腰を折ってしまうことって誰でもあると思うのですが「話の腰をおらないでよ」と言われ、気遣いなさを指摘される気分になったりします。相手も結構やっているのに。

しかし、先に大きく声をあげるのは自分の性格からは縁遠く、実際、少なくとも私のキャラクターとしては合いません。

だから、納得して、これからもこつこつ地道にやって、それなりの成果を待つしかないとは思うのですが、何だかつらくなる時があります。

もう社会に出て随分たち、こんな愚痴を書くのはお恥ずかしい限りです。
長文で恐縮ですが、同じ思いの方、いらっしゃらないでしょうか?
それとも世の中の人は、認められたいという思いを全く持ってらっしゃらなものでしょうか。

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A 回答 (1件)

声の大きい人の意見が通りやすいのは紛れもない事実で、日本各地にある、採算度外視した公共の建造物などは、そういう一部の声の大きい人の意見をはいはい聞いて作った負の遺産ですよね。



ただその揺り戻しが起きているようにも感じられ、日本全体が 以前ほど、声の大きい人が重宝がられず、スキル・データ重視の方向に動いているように見られます。

よって、認められたいなら自分のスキルを磨いて、データでものを言うように心がけられては如何でしょうか。
会社での評価は、あくまでも いかに顧客を満足させ かつ会社を儲けさせたかで決まるものですので、その手段は声が大きい以外にも、いろいろあると思いますよ。

読書や映画の感想などは、ソーシャルネットワークサービスなどで趣味の合う人と共有すれば、満足感が得られるのではなかろうか。
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