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一瞬のきらめきをうつくしいと思います。
いつまでも変わらず在る姿をうつくしいと見つめます。

真冬の透明な川底をうつくしいと覗きます。
春先に雨ごとに濁りを深める川をうつくしいと思います。

周囲と溶け合って共存するものをうつくしいと思います。
圧倒的な存在感で環境を一変してしまうものをうつくしいと見ます。

「ハッとする」ものでしょうか。
でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。

ハッとした後の受容、が必須でしょうか。
同じ物をうつくしいと見る人、醜いと見る人、の違いも出て来ます。
ハッとしたその「心地よさ」が、うつくしいの認識でしょうか。

「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。

Wikipediaの「美」も覗いてみましたが、
もう少しわかりやすく、と言うか、全体的な表現は無いものか?と思いました。
私が「うつくしいと思う人の心の動き」を主眼に置いているからかもしれません。

「うつくしい」は様々な感性で語られますが、それらに共通する「心の動き」は何なのでしょうか?
当たり前のように「○○はうつくしい」と書かれ、その「うつくしい」って実は何?と言うあたりは不問の場合が多い気が致します。

人間に必要だから生み出された?発生した?概念であり感覚であると思うのです。
生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか?
よろしくお願いします。

A 回答 (25件中1~10件)

美の基準とは


 人の顔立ちやスタイルの美しさ、競走馬や犬の美しさ、青く霞んだ山々や南国の澄み切った青い海の美しさ等、様々な対象に美を感じる。しかし、美の基準は一体何であろうか。
犯罪者特有の顔
 参考になる事例がある。犯罪者の顔の特徴を導く試みがあった。犯罪者特有の顔を割り出し、その顔を持つ者が、罪を犯す前に矯正し、或は用心をしようと言うのである。そこで、様々な犯罪者の眼・鼻・口の大きさや間隔等、顔の寸法のデータを集積し、その平均値を使って顔を描いて見た。
 すると、男女共にすばらしく美しい顔となったのである。つまり、美しい顔とは、全ての寸法が平均値である顔だったのである。しかし、寸法が平均の顔とは、どう言う顔なのであろうか。
美しい顔の基準
 眼の大きさや間隔は、最も機能的で環境に適したものが望ましい。鼻や口の大きさもそうである。その最も機能的寸法から、各自少しずつ外れているので、顔に個性が出る。最も機能的な寸法は環境には適するが、それでは各自の見分けが付かなくなる。また、ある程度寸法に幅がある集団の方が、環境変化に適応し易い。

 眼が大きい方にずれる人と、小さいほうにずれる人とが出る。従って、平均すると、最も機能的な寸法となる。人は、その環境に最も適した寸法に、美を感じるのである。そして、その最も環境に適した寸法の顔の人と結婚して子孫を残そうとする。よって、その集団は、環境に適した寸法を平均値において維持することが出来る。逆に、環境に適さない寸法の顔の人を好んで、その人と結婚して子孫を残そうとすると、どんどん環境に合わない寸法の顔となってしまい、その集団は弱くなる。
美しいスタイル
 体のスタイルも同様である。足の長さ、尻やウエストの引き締まり具合、長く真っ直ぐな指等に、美を感じる。獲物を追いかける為には、速く走れなければならない。足が長くヒップも引き締まっていなければ、速く走ることは出来ない。槍を投げるには、腰を速く回転させなければならない。ウエストが太いと速く回転させることは出来ず、遠くまで槍を投げる事は出来ない。石器や土器等、様々な生活用品を作るのに、指が重要となる。長く真っ直ぐに伸びた、繊細な作業の出来る器用な指に美を感じる。
 この様に、最も機能的なサイズの体に美を感じるのである。
美しい動物
 競走馬は、速く走る馬を交配して、より速く走る馬を作り出している。より速く走れる機能を持った馬の体に美を感じる。しかし、爬虫類の場合はどうであろうか。機能的な体を持った爬虫類に美を感じるか。蛇やトカゲやワニに美を感じるか。私は醜しか感じない。人が、まだねずみの様な生き物であった時、蛇やトカゲに捕まえられ食べられていた。爬虫類は哺乳類の一番の敵であり、忌み嫌っていた。従って、爬虫類から遠ざかる為に、醜を感じるのである。犬に美を感じるのは、犬は太古から人類の友人であり、犬に近づく為に美を感じるのである。
美しい自然
 青く霞んだ山々や、青く澄んだ海に美を感じるのは、その豊かな自然のある場所に止まる為である。砂漠に美を感じ、そこに止まろうとすると、その集団は自滅してしまう可能性がある。豊かな自然のある場所に憧れ、その場所を求める集団の方が、生き延びる可能性が高い。
結論
 この様に、人類にとって、望ましい自然・望ましい動物・望ましい人体のサイズに美を感じ、人はそれに引き寄せられるのである。
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No.8です


yukkin66さん、久しぶりですね。何か昔、ここの常連だった方のご回答が並んでいますね。

それにしてもyukkin66さんのNo.8のコメントは素晴らしいですね。
“人間は「価値的に生きよう」とする生き物である。その姿勢が、「何でもないもの」から価値を引き出す。それが「美」という価値性を引き出す”(一部編集)。

私は昭和二桁になったばかりの出生。
私達の三世代上の方はゾルレンとザインをマジック・タームにして思索したり、会話していました。
宗教も人生も、哲学も。一体なんだ。
ただあること、眼前の客体存在対象や状況をどう思弁論述しても損なのは人生でも哲学でもない。
やむにやまれぬ、祈り、意図、企図、生きる。
こういう当為と価値追求で世界が現れ、紡ぎ、創造となる。
これが人間たる所以でしょうね。
そして美だの善だの真理だの。それって価値追求の中のことですから、一にして多。
万物、万人の中の我と我が身。我と我が身の中の万物、万人。
そういう多と一との世界における、一なる価値の多なる見えよう。
そういうものと存じます。
ご参考に。
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私は、美しさにはまず感動します。

人であれ、自然であれ、数式であってさえも。
まさに神の御技と言いますか、美しさには驚嘆と敬虔な思いを持ちます、つまり感動します。
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こんにちは、yukkin66 さん。





「ハッ!?」――――――――― (*^^*)>〝〝〝ども。

間があいちゃいました。(^人^)ごめんね。

おっと、ことわりをひとつ。

お手伝いは嫌いではないのですが…

ただ、yukkin66さんのお役にたつかはどうか心もとないです。

ほじゃ、いきます!

2.3日まえ、船乗って、高松(香川)へ行ってきました。
神戸から高松まで往復でチケット買えば、料金大人一人3000円かからない。3000円出してお釣りが返ってくる。ただし、乗船時間は片道4時間以上かかる。それと、至る所で人が横たわっている。???ここは避難所???と見まごうことも。そそ、高松に着く前に、小豆島へ寄港するんです、この船は。夏休みともあって、海水浴に出かける親子連れわんさか。そのせいか、夜中の1時発の便に乗るつもりがチケット完売、早朝の5時40発の便に乗船。神戸から一路高松へとむかったんだけど、高松港午前10時着の予定が、着いてみれば午前10時を優に超えてた。遅刻~~~急げ急げとばかりにフェリー乗り場から無料の送迎バスに乗り高松市内まで出る。時間が予定よりも過ぎてたから、バス降りてから目的地までタクシー飛ばす。びゅん~。タクシーに乗り込めば、運転士さんがつきなみな言葉をかけてくる。


「お客さん、どこから来たの?」

「ええ、神戸からです」

「ああ、そう。高松の道は、ほれこの通りきれいでしょう」

「そうですね、一車線でも道幅に余裕ありますね」

「じき着くからね」

「ああ、はい」

「高松は、雨ふらんからね、一級河川干からびてるし、

 川もそうないから橋つくらんでええんよ。

 そのぶん、道にお金かけれるから、ずぅーとどこまでも道ができるんよ」

「ああ、そうなんですか」

「そやけどね、交通事故の発生率は高いんよ」

「えっ?こんな見通しいいのに?」

「不思議やろ」

「そうですね」

なんない会話を交わして目的地に到着。

【香川の水】
http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/
http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/kgwmizu/ka …
「「うつくしい」って何ですか?」の回答画像22
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こんにちは、yukkin66 さん。





「ハッ!?」――――――――― (*^^*)>〝〝〝ども。

間があいちゃいました。(^人^)ごめんね。

おっと、ことわりをひとつ。

お手伝いは嫌いではないのですが…

ただ、yukkin66さんのお役にたつかはどうか心もとないです。

ほじゃ、いきます!

2.3日まえ、船乗って、高松(香川)へ行ってきました。
神戸から高松まで往復でチケット買えば、料金大人一人3000円かからない。3000円出してお釣りが返ってくる。ただし、乗船時間は片道4時間以上かかる。それと、至る所で人が横たわっている。???ここは避難所???と見まごうことも。そそ、高松に着く前に、小豆島へ寄港するんです、この船は。夏休みともあって、海水浴に出かける親子連れわんさか。そのせいか、夜中の1時発の便に乗るつもりがチケット完売、早朝の5時40発の便に乗船。神戸から一路高松へとむかったんだけど、高松港午前10時着の予定が、着いてみれば午前10時を優に超えてた。遅刻~~~急げ急げとばかりにフェリー乗り場から無料の送迎バスに乗り高松市内まで出る。時間が予定よりも過ぎてたから、バス降りてから目的地までタクシー飛ばす。びゅん~。タクシーに乗り込めば、運転士さんがつきなみな言葉をかけてくる。


「お客さん、どこから来たの?」

「ええ、神戸からです」

「ああ、そう。高松の道は、ほれこの通りきれいでしょう」

「そうですね、一車線でも道幅に余裕ありますね」

「じき着くからね」

「ああ、はい」

「高松は、雨ふらんからね、一級河川干からびてるし、

 川もそうないから橋つくらんでええんよ。

 そのぶん、道にお金かけれるから、ずぅーとどこまでも道ができるんよ」

「ああ、そうなんですか」

「そやけどね、交通事故の発生率は高いんよ」

「えっ?こんな見通しいいのに?」

「不思議やろ」

「そうですね」

なんない会話を交わして目的地に到着。

【香川の水】
http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/
http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/kgwmizu/ka …
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こんばんは、yukkin66さん。




―――の「豊かさ」を向上させるための具体的な方法について、ってお題を今日中にまとめなあかん

諸般の事情により

【「うつくしい」って何ですか?】 のお題、ちょい時間おいてからなんか考えます。


読み物ひとつ置いてきます。(^人^)かんにん。


【中国古代文化の中の自然観と審美観について】
http://ci.nii.ac.jp/els/110006629159.pdf?id=ART0 …
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006629159
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 No.5です。



 もう対話は出来ないのかなと思っていました。
 三十路に向かわれた方の文章を読むと――半年前の状態とつながっている文面であり内容であるということもあって―― くそぢぢいくんは 応答を返そうという気になります。

 アウグスティヌスのいわゆるベタの美をあらわす文章を かかげます。
 ○ 【Q:きみはヨブを見たか。】 ~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5684019.html

 ▼ (アウグスティヌス:共観福音書説教)~~~~~~~
 神はヨブが試されることを悪魔に許した。
 ヨブは試された。
 悪魔は困惑させられた。

 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。

 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。

 ヨブは言っております。

   主は与え 主は奪う。
主はみこころの通りになされる。
   主の御名はほむべきかな。
       (ヨブ記1:21)

 と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ さて 文章を読み解く力ですとか。

 その前に
 ★★(趣旨説明) 生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか?
 ☆ とあったのですね。それなら やはり《ひらめき》に尽きるようにも思いますが。わたしの例示する文章は そのヒラメキのこちら側のわれわれ人間のことよりも 向こう側のナゾのことについて関心を持っていました。
 でも 美というのであれば そういった無根拠のもとにその体験(つまり ヒラメキ)が起こるようにも思われます。

 文章を読み解く力ですか。
 たぶん 何かを言い得るとすれば 人を読み解くことに努めることかも知れません。
 そこに・あるいは文章の背後に その著者がいるのだというかたちです。対面しているかたちであり 対話です。
 だとしたら 人格と人格との言わば真剣勝負です。

 わたしは 案外むしろおんなの人たちは この人格どうしの・気の置けない〔という言い方で合っているかな〕関係において互いに対話をおこなっていると思っています。
 男は おもに当面の仕事のことに耳を貸していると思われ 人間関係というものは 互いのあいだに大体の信頼関係が成っていれば あとは構わないと思っていると思います。その意味で 表層のタテマエで意志疎通をおこなっていても構わず 真剣勝負は ビジネスのほうに置いているかも知れません。


 何だか とりとめのないお話になってしまいました。
 修復をせずに ひとまづ切り上げます。
 いまも質問を挙げて けんかのようなことをやっています。
 ひとまづ それでは。
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美は面白いですよね。

いろいろな様相があります。漢字だと、大きな羊と書けば「美」になります。古代の中国人が大きな羊を美と感じた理由は何なのだろうと思いを巡らせてしまいます(争いなく羊の肉を分けられるから?大きな羊がおいしそうだから?大きいほど財産となるから?)。さて、ご質問ですが、私は美学を研究している端くれですが、ところどころ、鋭いと思いました。

>「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。

西洋の美学だと、古くは、美は、善や真という別の価値観に結びつくものでした。美しいものを見て、善や真に到達し、心が洗われることが大切でした。これは美が宗教と結びついていたからです。
真善美の結びつきを具体的にいえば、芸術作品には、自然を模倣しつつも、粗野な点を修正し、本来はその人間や事物に備わっているイデアを掘り起こして、描くことが期待されていたということになります。たとえば美しい人を描くとしてモデルを頼んで、どうも鼻の辺りだけがバランスが取れないとしたら、(鼻には潜在的にモデルが備えているイデアが発露されなかったとみなして)鼻だけ描き変えてしまうというようなことです。また演劇では、残酷な場面は自然の粗暴な側面として、描かないことが望まれました。
自然は美しいものです。しかし生々しいし、粗暴であり、恐ろしいこともあります。納得いかないものを修正し、「よいもの」だけを提示するのが芸術とみなされた時期がありました。この時、真理と善と美は一致していたのです。

しかし人の感情を刺激するという点では、危険や残酷さも有効なのです。ソフォクレスの悲劇に心打たれるのは、より強い刺激をもって、人の感覚に訴えかけてくるからでしょう。オイディプス王は残酷な劇であるだけに、観ている時は衝撃を受けますが、終わった後には心がスッとしたようなカタルシスという効果を生みます(もし経験がなかったら蜷川が演出し、野村萬斎が主演した『オイディプス王』など観てみてください。びっくりします)。

>「ハッとする」ものでしょうか。
>でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。

これは非常に鋭い指摘ですね。こうした美は結局どこに行きつくのでしょう。ボードレールの詩集『悪の華』は、私の専門だけに手前味噌なのですが、この話をする時には避けて通れない好例です。ここでは、美とはむしろ刺激に富んで、未知の世界へと芸術家を誘ってくれるものです。そして、このようにいう時、真善美はもはや一致していません。美は美のためだけにあると言えます。これは「芸術のための芸術」という態度ですが、そうすることで、人や自然をより深く認識するリアリズムへの道が開けるのです。しかし、それを推し進めて行く時、芸術と美は必ずしも一致しなくなります。醜さも含めて、芸術と呼ぶべきものになるのです。だからボードレールは「美とは常に奇矯なものである」とまで言い切り、驚きを美の重要な条件とするのです。

まとめれば美の様相には二つあります。一つには精神的な修養と呼ぶべき美です。もう一つは強い刺激であり、この場合は精神的な修養は問題ではありません。しかし私の思うに、両者には共通した心理作用があります。それは心が洗われる作用であり、カタルシスと呼ばれるものです。カタルシスの語にはちょうどよく、二つの解釈があります。倫理的に感情を純化する作用と、鬱積したものを取り除き純化作用です。この二つの解釈は言葉で表現すると別のものですが、根のところではつながった心理作用だと思えます。二つの解釈がそれぞれ、美を善とみなす態度と、美を刺激とみなす態度に対応しているということは、あらためて言うまでもありません。

「生活の視点で」ということになるかわかりませんが、ご参考までに。
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何を醜いと思うか、それは不快に感じるものでしょう。



「美しい」はその反対です。

嫉妬などは自分で不快に感じ、その心は醜いのでしょう。
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心が躍動している状態、いきいきしている状態になったきっかけの対象を


「うつくしいもの」と言います。私の場合。
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