〈こころづかい〉は見える 〈思いやり〉はだれにでも見える

最近テレビで、妊婦や老婆と若者の映像とともに、

〈こころ〉はだれにも見えない
けれど〈こころづかい〉は見える

〈思い〉は見えない
けれど〈思いやり〉はだれにでも見える

 という小文が朗読されています。

 平和な時代の教条主義の典型の様な文章にうんざりしています。

 小学校の先生がホームルームの時間にさらっとしゃべれば済むような、こんな言葉の、どこがどのように良いのでしょうか?

 それとも、日本人はこんな言葉をうれしがる程、衰退してしまったのでしょうか?

 ぜひ、教えてください。

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A 回答 (8件)

それとも、日本人はこんな言葉をうれしがる程、衰退してしまったのでしょうか?



当たらずといえど遠からずかな、うれしがるよりちょっとはずかしいとおもった人が
多いと思うな

日本は隣の大陸から遠からず近からず微妙な位置に太古からあるでしょう
消え去ることも逃げさることも簡単ではない,協調?の堆積
生まれた中国より、この日本に根ずいた儒学との出会いは
この協調?の堆積との相性がよかったのでしょうよ

平和な時代の教条主義の裏側

苦しむ人がたくさん発生すれば、それを助ける その助け方がこの形
なんでしょう。

地方(自然、風土)が死ねば、ただでさえ貯金(自然風土から学び取った技術革新)を使い果たして
どこから来たのかも忘れた流浪の民族になるか

衰退したのではなく使い果たしたのでは?
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この回答へのお礼

回答 ありがとうございます。

流浪の民族には なりたくありません。

しかし、日本社会の仕組みは 確かに 天然災害よりも遥かに 大きな災害です.

お礼日時:2011/05/22 21:19

宮沢章二な



恥ずかしいな
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

意味不明です。

もしかしたら作者の名前は 章治でなく 章一でもなく 章二なのでしょうか。
そういうことだったら 個人的には 作者への失礼を 詫びなくては成らないと思いますが こういった 多数の人の前で 行なうこととは思われません。

悪しからず。

お礼日時:2011/05/01 15:26

 この詩の不快感の正体は、善行を推奨するあまり、善意に価値を認めていないことにあります。


 善行というのは、余裕のある人ができることです。また、必要なところで的確に行う必要があります。いくら余裕があるからといって不要なところで善行を押し売りするのは良くありません。
 しかしこの詩は、思いはあっても余裕がなくて善行ができない人や、余裕があっても善行を行う場所を持たない人を「見えない」と切り捨てています。その無思慮、無神経が不快にさせるのです。

 ただまあ、この詩はそこまでまともに批評する必要もないでしょう。表現に多少の問題があるとはいえ、結局「思いやりを実行しましょう」という程度の分かり易いメッセージ性しかないですし、レトリックと呼べるほどの技術も使われていませんから、額面通り受け取っておけばいいように思います。
 悪意に満ちたプロパガンダが隠されているなら警鐘を鳴らすべきですが、あの詩や、あの詩を用いたCMにそんな意図はなく、また、あの詩に感化されて善人の面を被った無神経な人が蔓延する危険性もまずなく、むしろ詩集が売れて出版社や本屋が儲かったり、寄付が増えたりといったメリットの方が大きいはずです(それほど効果はないでしょうが)。そうこうするうちにブームも沈静化するでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

正直に言って、論旨明瞭、意味不明瞭です。

納得はできますが、…‥。
なのです。

お礼日時:2011/04/27 00:10

 ANo.1です。


 ごめんなさいね、宮沢章一と宮沢賢治を間違えるなんて初歩的なミスを犯してしまって、そして言葉足らずで。
 ただ、僕の言いたかったことは「PR(=宣伝)」という言葉の意味のことです。
「PR」と略される単語には2つの種類があって1つはNo.3の方が言われる様に「情報を大量に流す」意味でのプロパガンダともう一つ「人と人を繋ぐ」との意味でのピープルズ・リレーション若しくはピュープルズ・リレーション、の2種類があって、僕は後者を選びたくその理由として「戦争に於ける宣撫工作に近い」との意味合いであのCMを見ることはどうかな、との素朴な感性からでした。
 「押しつけ」は僕もイヤです。けれど1つの文章を余りに穿った見方はどうかな?、とも思うことも屡々あります。そういえば週刊新潮か何かに「辟易するあのコマーシャル」との扇情的な記事もありましたが、その週刊新潮の記事自体も様々な尾鰭や憶測で物事を書いては、書いた記者が「ボク、この言葉を使うことが問題だなんて“教えてもらわなかったから”」と言い訳とも弁解とも似つかない釈明を何度も掲載していたこともありますね。自分の言葉が「どう受け取られるか、分からない」なんて子供の言い訳としか思われませんね。
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この回答へのお礼

再答ありがとうございます。

宮沢章一だったのでしょうか、賢治よりは罪が少ないかな。

急に真面目にならなくても、良いのに。
前回のあなたのような、斜め上から見る視線の方が魅力的でしたよ。

お礼日時:2011/04/27 00:07

私も#3さんの意見に賛成です。



そんなくだらないことに一々目くじらを立てずに放っとけば良いことです。直に皆も飽きて、マスコミもまた別な金蔓を探すためにまた何か上っ面のことを探して来るだけです。

私達の親の世代は、こう言うようなことが起こったら「言わせて置け」と言っていたもんです。そして無視していれば良い。世間の皆さんは、貴方が心配するほど程度が低いと私は思っていません。耳に心地よいことが危ないことだと言うのは、人間成長すれば誰から教わらなくても自ずと解るようになるものですから。まあ若い連中から障害物を取り除くのではなくて、こんな程度の軽い障害物で失敗させて、成長する機会を作って上げましょう。人間は失敗したときにだけ、何か新しいことを学ぶのですから。こちらから手取り足取りすべての障害物を取り除いてしまうと、ろくな人間になれませんからね。

ここが文学欄だと言うことに絡んで、序でにもう一つ。文学の世界には古典的作品てえのがありますよね。それは時代を超えて説得力がある作品ですね。そうでない物は、放っといても消えて無くなって行きます。んで、質問者さんは、この言い回しが古典的作品として生き残ってしまうかもしれないと心配しているのですか。もし、そうじゃなかったら放っときましょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

自覚は無かったけれど、「生き残ってしまうかもしれないと心配している」のかも知れません。
どちらにせよ 彼の文章は 受験産業とタイアップしていた という印象が強いのです。

お礼日時:2011/04/27 00:02

 歴史を紐解けばわかると思いますが、うわさ話をばら撒くことで敵国を扇動する策略は、意外と効果が高かったりします。

馬鹿みたいな情報でも、大量に流れれば重要なものと錯覚してしまいがちなのです。

 たとえば、好きでも何でもない歌でも、繰り返し聞いていれば、うっかり口ずさんでしまったりしますよね。私はテレビを1日1時間も観ませんが、それでも3月末頃には「あいさつの魔法」を口ずさんでいた時期がありました。そういう状態になると、なんとなくあの歌がいい歌のように思えてくるのですよね。今では嘘のようにマイブームも去り、どうでもいいものになってしまいましたが。
 どんなに情報処理能力に長けていても、同じ情報に触れ続けると感覚が麻痺してしまうのです。まして情報に対して無防備な一般の人であれば、いとも簡単に感化されてしまうでしょう。

 件のCMは大量に流れましたから、あれに感化されて詩集を買う人が大挙しても何の不思議もありません。特にあの時期は「被災地に対して何か支援したい」と思っている人は結構いたはずで、よりあの詩が受け入れられやすい土壌があったわけです。
 あの詩が優れていたわけでも、優れていると思われたわけでもなく、純粋に流通量の問題なのです。

 逆に言うと、あの詩は問題視するほどのものでもありません。流通量がすさまじかったから害悪に見えるだけで、本質的には毒にも薬にもなりません。
 問題の本質は詩そのものにあるのではなく、情報の量が質を見えなくしてしまう点にあるのです。

 つまり、あの詩は文学の俎上で論じるほどのものでもないし、「日本人は云々」と論じなければならないほど影響力を持っているわけでもない、ということです。
 情報の制御と処理がいかに難しいかを思い知る一例ではあるでしょうけどね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

分かりやすく 明快です。
「毒にも薬にも」という言い方は 合点がいきます。
「質でなく量」明快です。

しかし僕は、量でなく質に不快感があったような気がします。

良いか良くないかは別にして、この言葉の質にも、気持を動かす種類の何かを感じるのです。
それが何かとしか言えないので、明らかにして頂けないかなと思うのです。

お礼日時:2011/04/26 09:39

>うんざりしています


そうですか。としか言いようがありません。
あかの他人の感情告白に持てる感想はこの程度です。

>どこがどのように良いのでしょうか?
わかりやすさ、でしょうね。
公共広告ですからわかりやすくなければ意味がありません。

>日本人はこんな言葉をうれしがる程、衰退してしまったのでしょうか?
いったいいつの時代と比べているのかわかりませんが、私の知る限り40年以上前からこんなものです。
教条的、なんてことを言い出したら日本の大衆芸術は戯作から現在のJ-popの歌詞に至るまで常に紋切り型、教条的なものがもてはやされていました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど 「大衆」なのですね。

お礼日時:2011/04/26 09:22

 これは宮沢賢治の「行為の意味」という作品の一節です。


“教条的な”という印象を受けられたのは個人的な感覚に基づくモノですから一概には言えません。僕の個人的な印象として“大規模な災害に遭遇して途方に暮れている方々”と“被災地以外で普通の日常生活を営んでいる人々が出会う自分のすぐそばに居る難儀している人”の姿を見比べて自分に出来ることはないのだろうか、と考えること、もっと簡単に言えば「苦しい時の友は真の友」という言葉に言い換えて「友達が辛い立場にあっとしたら、自分ならばどうするだろう。どうすることが自分にとって求められているのだろう」と想像してみたら分かるかと存じます。
 日本人は「こんな言葉の、どこが」「こんな言葉をうれしがる程に衰退してしまった」恰も他人事のように吐き捨てる様な響きのコメントに悲しさを感じます。
 少しだけ「想像力」を働かせてみては如何ですか、それとも自らが判断の主体となることすら忘れてしまったのでしょうか?。 

この回答への補足

 あなたの回答に触れて、日本中の宮澤賢治ファンが怒っているのではないかと、心配です。
 あなたは、宮澤賢治の作品を、一編でも読んだことがあるのですか?
 この文章と、宮澤賢治では言葉の質が全く違います。日本語という言語の使い方が全く違うのです。
 宮澤賢治の作品には、言葉の表面をなぞらえたような使い方の文章は全くありません。

 残念ですが、作品名は「行為の意味」で合っていますが、作者は宮澤賢治ではありません。
 宮沢章治という人です。

 宮沢章治という人の文章は、僕が中学生だった頃、高校受験向けの県下一斉テストがあって、その模範解答例の小冊子の巻頭にいつも、彼の作品が掲載されていました。

 その作品の内容は、いつも、いつでも、「青春は美しい、人間には生きる意味がある、ポジティブに生きてゆこう」という内容ばかりでした。
 その当時も今も、これほど単純な言葉を何時もいつも並べ続けている人も珍しいなー、という印象しかありません。退屈だった記憶しかありません。
 そんな文章だったにも拘らず、毎月毎月、一寸だけ違う言葉の文章をその模範解答集は掲載していました。
 まさに、退屈な受験用の勉強だけを強いる社会と、そのテスト屋さんに相応しい文章でした。
 そういった記憶と、彼の今回の文章の使われ方が一致するのです。

 こころづかい、おもいやり、ただの当たり前のことでしかありません。
 こんな時にわざわざ出さなくてはならない程、日本人の感性は麻痺しているのでしょうか?
 疲れ切っているのでしょうか?

 ちなみに、そのテスト屋さんは、「偏差値」という受験用の新しい定規を作った会社で受験業界の雄と言っても良い会社です。

補足日時:2011/04/26 03:53
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この回答へのお礼

早速の回答、ありがとうございます。

ただし、この質問は、「文学」というカテゴリーであることを自覚してください。

それを知った上でのご回答ならば、それなりのお礼をしたいのですが、作者の名前が平然と間違っているようでは、そういった種類のお礼は不要と判断しました。

「社会」などのカテゴリーならば、質問内容や、質問方法を変えねばなら無いと思います。

お礼日時:2011/04/26 04:11

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Aベストアンサー

NO3です。
蛇足です。
最近の冷害では1993年があるようです。
そのときの盛岡市の8月の気温は

平均気温20.5
最高気温25.3
最低気温16.7

です。
もう20年も前の記録にはなりますが、
現代でもたまーには寒い夏があるようです。

ついでに今年の盛岡の8月気温です。
平均26.1
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この場合の“エゴイズム”は、
辞書にある“自己の利益を最優先させる態度”と取ればよいと思います。

先生は、Kの恋愛感情を知りながら、Kに自分の気持ちを告げることなく、先回りして、お嬢さんとの仲をまとめてしまった。
この行為が“エゴイズム”なんです。

いまの見方からすると、こういうことってあるよね、という感じではあるのですが。

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『こころ』は人間の心に潜むエゴイズムを描いた小説である、と、自分の持っている文学事典にも載っていました。

この場合の“エゴイズム”は、
辞書にある“自己の利益を最優先させる態度”と取ればよいと思います。

先生は、Kの恋愛感情を知りながら、Kに自分の気持ちを告げることなく、先回りして、お嬢さんとの仲をまとめてしまった。
この行為が“エゴイズム”なんです。

いまの見方からすると、こういうことってあるよね、という感じではあるのですが。

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これはまた面倒なご質問ですね。

平仮名が使われ始めた平安時代初期では、「は・ひ・ふ・へ・ほ」は、どの位置に現れても「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」と発音されていました。

11世紀ごろになると、「ハ行転呼(てんこ)」と呼ばれる現象が起こって、文節の頭以外の位置に現れる「は・ひ・ふ・へ・ほ」は、「ワ・ヰ(wi)・ウ・ヱ(we)・ヲ(wo)」と、ワ行音で発音されるようになります。さらに後にはワ行音自体が変化して「ワ・イ・ウ・エ・オ」と発音されるようになります。このような日本語の変化にそって、「あはれ」が「アワレ」と読まれ、「たまひ」が「タマイ」、「あふ」が「アウ」、「うへ」が「ウエ」、「かほ」が「カオ」と読まれることになったわけです。

ならば、希望の助動詞「まほし」も「マオシ」になってようさそうなものですが、そうはなりません。室町時代の末期から江戸時代初期にかけて日本で活動したキリスト教のポルトガル人宣教師たちが日本語について書きしるした文献を「キリシタン資料」と呼んでいますが、そのキリシタン資料の一つである、ロドリゲスの『日本大文典』には、ローマ字表記で、
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なぜ、助動詞「まほし」がハ行転呼を起こさなかったかについての説明もやっかいです。

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助動詞「まほし」が、なぜ「マオシ」にならないか。それはひと言でいえば、「まほし」の「ほし」が形容詞で、「ほ」は文節の頭と意識されていたため、ハ行転呼が起こらなかったということになります。

参考URLも併せてお読みくだされば幸いです。No2,No3が私の過去の回答です。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=488611

これはまた面倒なご質問ですね。

平仮名が使われ始めた平安時代初期では、「は・ひ・ふ・へ・ほ」は、どの位置に現れても「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」と発音されていました。

11世紀ごろになると、「ハ行転呼(てんこ)」と呼ばれる現象が起こって、文節の頭以外の位置に現れる「は・ひ・ふ・へ・ほ」は、「ワ・ヰ(wi)・ウ・ヱ(we)・ヲ(wo)」と、ワ行音で発音されるようになります。さらに後にはワ行音自体が変化して「ワ・イ・ウ・エ・オ」と発音されるようになります。このような日本語の変化にそっ...続きを読む

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思うに、高校の教科書のいずれもが、「先生と遺書」中の先生がKを出し抜いてお嬢さんと婚約し、その後Kが自殺するという箇所を採用してきたがために、多くの読者も、

>結局、「先生」は友人を裏切った良心の呵責に耐えかねて自殺しただけなんでしょうか?

という疑問に囚われざるを得なくなるのではないでしょうか。
そして、いつまでたっても、どこか「結論に納得出来ないものを感じます」という違和感を持ち続けざるを得ないのではないでしょうか。

でも、虚心坦懐に「こころ」全体を読んでみれば、この小説には、質問者さんがおっしゃるように、まさに「将来に対する明るいメッセージ」に満ちていることが浮き彫りになってくるはず、と私には思われてなりません。

思うに、この小説の最大の謎は、先生が、妻にも明かせない、自分の最重要な内奥の秘密を綴った《遺書》を、ほかでもなく、田舎出の、世間知らずで、勝手に先生に魅了され、勝手に先生宅に押しかけ、勝手に先生を師と仰ぐ、やや青臭さく、思慮の浅い、しかし理想家肌の一青年に託そうとしたのはなぜか?という点にあるのではないでしょうか。

で、その前に「「先生」が自殺する原因は?」となると、先生がKを出し抜く形でお嬢さんと婚約したことは、大正以降の日本人の常識的な倫理規範に照らして、特に恥ずべき行為ではないにせよ、「明治の精神」(封建道徳)に照らす限り、許すべからざる行為であったが故に、乃木将軍が明治天皇に殉死したことに触発され、「明治の精神」に殉ずる形で自殺することを選んだと解しうるのではないでしょうか。

ただし、漱石自身となると、「明治の精神」を単純に賛美していたわけでも、時代遅れの旧道徳と蔑んでいたわけでもないことは、「現代日本の開化」からして明らかでしょうね。
「明治の精神」には、封建道徳だけではなく、文明開化と同時に流入してきた個人主義思想も含まれていたはずですが、かつて信頼していた叔父によって父親の遺産を横領され、その後自分を信頼してくれていたKを裏切るという経験をした先生としては、西洋近代思想である個人主義をとても手放しでは容認できなかったはずです。
となると、この自らのエゴイズムを罰するには、やはり「明治の精神」に殉じるという方法しかなかったのではないでしょうか。

その上で、先生が自殺に至るまでの生き様や経緯を告白した遺書を、主人公の「私」に宛てた動機や理由を考えてみますと、主人公がまだ思慮が浅くとも、理想家肌の青年であることからして、先生はこの青年に、自分の精神上の息子として、自分に代わって新しい時代を生きてくれることを期待したのではないでしょうか。
その意味では、先生の遺書には、大正という新時代を生きる青年の指針、成長の糧となって欲しい、という先生の切なる祈念が込められていると言えるのではないでしょうか。

また、「こころ」という小説を、より主人公中心の視点、観点から眺めてみると、主人公が来るべき新時代を自立(自律)して生きていくための、一種の父親殺し(旧思想切り捨て)に通じるモチーフが潜在していると評することもできるかもしれませんね。
さらには、同じような意味で、「こころ」は「三四郎」と同様、主人公の人間的成長過程をテーマにした、一種のBildungsroman(教養小説)に通底する基本性格を持っていると評することもできます。

もし、「こころ」に以上のような解釈の可能性が内在しているとすれば、やはり、漱石の「将来に対する明るいメッセージ」が潜んでいると解してもあながち間違いではないと思います。

思うに、高校の教科書のいずれもが、「先生と遺書」中の先生がKを出し抜いてお嬢さんと婚約し、その後Kが自殺するという箇所を採用してきたがために、多くの読者も、

>結局、「先生」は友人を裏切った良心の呵責に耐えかねて自殺しただけなんでしょうか?

という疑問に囚われざるを得なくなるのではないでしょうか。
そして、いつまでたっても、どこか「結論に納得出来ないものを感じます」という違和感を持ち続けざるを得ないのではないでしょうか。

でも、虚心坦懐に「こころ」全体を読んでみれば、この小説...続きを読む


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