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日本語における「理想」とは、どういう意味なのでしょうか。これは欲望という語と比較して考えると、およそわからないことになります。というのも、辞書を引けば、理想とは「完全なもの、最高の状態」を望むこと(大辞泉)とあります。つまり理想とは実現しえないほどの充足を望むことであって、この説明のみでは、貪欲greedの最たる状態ではないか?とさえ思われるのです。

しかし西洋の文脈でいえば、この希求される「完全なもの」とは、神に他ならなかったでしょう。実際、英語でideaといえば、そのままイデアを意味することができます。ネオ・プラトニスムとまじりあったキリスト教という背景を踏まえると、理想の追求とはイデア界の神的なもの(あるいは神そのもの)を希求する善の行いであって、自分の肉欲を満たそうとする貪欲greedと明確に区別されるものだったのです。

とはいえ、これは言ってみれば余所の文化でのことです。我々は普段何気なく「理想」という語を使っているのですが、こちらは、どのような理解に基づくのでしょうか。質問を整理すると、

(1)日本語の「理想」をどのように定義するか。
(2)理想と貪欲は、異なるといえるか。
(3)その判断基準はどこにあるか。

設問では敢えて外国人が質問するような態度をとりましたが、それは客観的に自分の国のことを理解したいと考えるからです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (33件中1~10件)

成る程、あたしから見て何でそんな頓珍漢な質問が出て来たか判ってきた。

コミュニケイションをするには余りにも端折り過ぎで、自分の生きざまと相手の生きざまが違うのだと言うことを全く無視して、自分が判っていることは相手にも判っている筈だと言う根拠のない前提に立って質問がなされるから、話しがややこしくなっちまうんだね。

先ず、あんたの理想という言葉で意味するものが物質的な豊かさの獲得という、極端に限定されたものを指しているから、あたしには何でそれが理想なのか皆目見当もつかなかった。だから、唐人の寝言みたいな頓珍漢な質問をする奴だと誤解されちまう。確かに、理想という言葉はそんなに古い日本語ではないかもしれないが、中国には桃源郷という言葉がとっくにあった。そして、そんな概念は平城、平安期の日本人に既に知られていた筈だ。また、キリスト教の神だプラトンだなんて持ち出さなくても、仏教には上下足す八方に十方浄土があり、その中でも西方の極楽浄土は特に日本人に人気があった。

今度機会があったら、惠心僧都の『往生要集』の極楽を読んでご覧なさい。それは正に理想の世界だ。でも、物質的豊かさとはまったく無関係な世界だ。この極楽が凄いんだ。どんな民族でも地獄の描写は常に面白い。何とまあいろいろな拷問を考えつくかと感心されてしまう。ところが、天国の描写となると、いきなり退屈になっている。ダンテの『神曲』の天国篇なんて、あんな所に居たら1週間で飽きてしまう気がする。ボッシュの絵の天国なんて、なんかアナーキーでヒッピーみたいな所がある。あたしは直接読んでいないので無責任なことを言うが、イスラム教の天国もキャバクラみたいなところだそうで、直ぐに飽きてしまいそうだ。

ところが『往生要集』の極楽なら、あたしゃ是非行ってみたいと思ったね。極楽以外の残りの九方の浄土に入るには、結構難しい入学試験がある。難しい教義を学んで奥義を究めなくちゃいかんとか、偉い坊さんになって出世しなくちゃいかんとか、真夏の竹やぶで1週間裸で蚊に食われる修行をしなくちゃならんとか、お金持ちになって莫大な寄付をしなくちゃならんとか、人間には一寸出来そうもない入学試験ばかりだ。ところが、極楽だけは、「阿弥陀様お助け下さい」って言うだけで良いんだそうだ。殆ど無試験で入れるってことだ。だから、極楽だけが人間用に用意されているらしい。

んで、その極楽に入ると、極楽の入門コースから始まる。そこは、絵も謂れぬ綺麗なところで、匂いも香しい。いくらでも美味い食い物が在る。まあ、超電化住宅に無料で生活を許されたみたいな物だ。そして、其処此処にある菩提樹の木の下で阿弥陀様が講義をなさっておられる。その講義の素晴らしさと来たら、超一流の学者さんの講義を聴いているようで、一言一言が目から鱗が落ちるように解っちまうのだそうだ。そして、そうだその通りだと感激するたびに、百万年寿命が延びる。

そんな感激を何度も繰り返しているうちに、知らず知らずのうちに極楽の中級コースに入っている。そこでは、最早美しい景色も香しい匂いもない。非常に質素な中で、阿弥陀様の講義を聴いている。そして、どんどんと究極への「理想」に近づいて行くそうだ。そして、その究極の状態では、あんたは最早あんたではなくなり、阿弥陀様と完全に合体融合しているんだそうだ。それが、平安末期から鎌倉時代に日本人が認識した理想の世界だ。どうだ、知的な世界だろう。だから、物質的な充足は単なる方便であって、理想でもなんでもないっちゅうことを、我々の先祖達は認識していた。

キリスト教やイスラム教の天国と比べて、あたしがある有名なインド人の物理学者にこのインド人の考えた極楽の話をしたら「そうかお前解ったか。インド人は頭が良いんだ」って威張ってた。

神道だって同じだ。お祈りのときは、ご先祖様や神様には無念無想でただ頭を下げる。決して、なんかの願い事を叶えてくれなんてお祈りしては駄目なんだそうだ。一々こちらから私の願い事はこれです何んて言わなくては解んないもんが神様であるものか。それに、こちらの願い事よりももっと重要なことを神様ご先祖様は知っている筈だ。だから、神様ご先祖様に任しておいて、何も祈るな、ちゅうことだ。んで、あんたが死んでもいきなりご先祖様になれる訳ではない。あんたのことをまだ覚えている人間が生きている間は、単なる死んだ爺さんや婆さんなだけだ。でも、その死後、時間をかけて段々とあんたの御霊が浄化されて行き、皆の記憶が無くなった頃に、あんたはご先祖様という集合体に合体する。まあ、上の阿弥陀様そっくりだ。んで、その状態が日本人にとって最も理想的だと考えて来たんだ。だから、あんたの言う理想と、ここで言う理想がどれだけかけ離れているかお判りだろう。

自分の拙い経験とその外挿だけの思い付きで理想云々するのではなくて、我々の先人達が考えて来た理想って何なのだろうと言うことも考えながらこの問題を論じないと、話しが限りなく浅く、陳腐になってしまう。

あんたは、決して木の股から生まれて来たのではなくて、日本人として日本の文化の中にどっぷりと浸かって生まれて来たことを忘れちゃ駄目だ。そして、あんたのご先祖様達はあんた並みか、あるいはあんたよりももっと優れた思考をして来たかもしれないと言うことも忘れちゃ駄目だ。あんたがどんなに西洋人の考えて来たことを学んだところで、結局あんたは日本語で考えることしかできないことを忘れちゃ駄目だ。別な言い方をすると、日本語で考えるあんたの思考法に関しては、西洋人には絶対に真似が出来ない物をあんたは持っている。幸いにも、日本人は世界から尊敬される長い歴史と、独特な深い文化を持っている。それによって、この人類の多様性に関して大変な貢献をしている。

確かに西洋の文化はその強大な軍事力の故に、他の文化に決定的な影響を与えて来た。だから、西洋の文化を学ぶことは重要なことだ。しかし、それはあんたが西洋人になるために学んでいるのではない。そんなつもりになって西洋人の土俵の上で相撲を取ったって、所詮西洋人に敵う筈がない。

しかし、そのような無視出来ない多大な影響力を持つ異国の文化を学ぶのは若いうちが一番良い。相手の手の内を知って置かないと、いよいよあんたが目覚めた後で、お前ら西洋人とはまた違った世界観もあるのだと西洋人に向って説得することが出来ないからだ。だから、今のうちは、西洋人の考えて来たことを一杯学んでいるあんたのそのやり方は、正しいやり方だ。

しかし、そのうちにあんたが歳を食ってくると、もう西洋は良い、ところで日本はどうなんだと言う気になって来るものだ。そして、いよいよ自分の土俵で相撲を取るときがやって来る。

若い故に西洋かぶれしているあんたを見ていると、そんなことを頭の片隅に入れておいて、いつか自分で何者なんだ、俺って日本人じゃないか、と言うことに気付いて欲しいと言う気になった。

まあ、あたしはあんたに一つの理想を描いているのかもしれんな。

この回答への補足

【問いを締めるにあたって】
ご回答を多数お寄せいただき、どうもありがとうございました。当初は僕の言葉の至らない点があって、問いの意義に疑問も出されましたし、なるほど、理想などその当人が良いと思えば、他人があれこれ言うことでもないような気もしました。No.1の方のおっしゃる通りです。
しかしNo.6のお礼欄を使って補足したように、僕としては何が「理想」と呼ぶに値するものかを、今一度問い直すことが、理想と欲望の見分けがつかなくなった状況を呈してしまった社会において有益に思われたのです。実際、回答者の方々からも、現状の日本で「理想」が非常に曖昧になってしまっているという同意は得られたように思います。

幸いにも文明とは何かという論点から議論は活発化し、西洋と東洋の思考スタイルを対比するというテーマ、職人とは何かというテーマ、また何をもって文化の創出とみなせるかというテーマも出ました。なかなか面白いやり取りができたと思います。しかし結局のところ、「理想=イデア」という考えを支えには文化が必要なはずです。どの回答も秀逸で僕には面白かったのですが、この点について、最も直接的に答えてくださった回答をBAに選ばせて頂きました。

参加してくださった皆様方が多様な意見をお持ちであることを考慮して、ここで僕が無理に(1)(2)(3)と立てた問いの答えを書くことはしません。しかし共通する結論としては、日本人が「理想」と呼びうるものを考えるにあたっては、自国の文化を見直すことから始めること必要があるということは言えると考えられます。その日本の「文化」と呼ぶ対象が人それぞれ違うとしてもです。皆さま、どうもありがとうございました。

補足日時:2011/06/20 23:52
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。回答内容もさることながら、期待を寄せていただいて、感謝しております。

さて、もう投稿それ自体で完成されているので、僕から付け加えることもないのです。しかし敢えて整理すると、理想の問題を考えるにあたって、ユートピアを検討してみたということですね。そして日本の主要な宗教のユートピアにおいて究極の目的は何であったかといえば、
・仏教:阿弥陀様と合体(『往生要集』)
・神道:ご先祖様に同化
であるということでした。

イスラム教のように死後という最も快楽におぼれる世界を想定してもよいところに来て、神道も仏教も、酒池肉林を退けている。かくして、欲望を垂れ流すような思想ではなかったと、(当然かもしれませんが)まず言えます。
更にこういう文化背景があるのだから、西欧の理想という言葉とその下地はなかったにしても、似たような概念があったのではないかと考えられます。実際、設問で説明したキリスト教の「理想」とは、
・キリスト教:イデア≒神を探究
ということでした。
どうやらこれは、阿弥陀様やご先祖様に同化しようとする仏教や神道とアナロジーがあると言えそうです。

かくして日本が文化的に、理想を貪欲と等しく結ぶような土壌をもっていたと言い得るはずがない。むしろキリスト教と最初から似ていたんだとも言えそうです。さて、ここで設問の3項目に沿って整理してみます。
(1)理想とは、欲望の探究ではなく、浄化され、至高の存在に近づくことである。
(2)理想とは聖に属し、俗な貪欲とは対極に位置する。
(3)この判断基準は、仏教と神道にある。

またもう少し考えを煮詰めてみます。お勧めの『往生要集』は読んでみようと思います。『神曲』を読んでいて、そちらを読んでいないのは、何とも面目がない話です。

お礼日時:2011/06/13 16:30

No.15,19,25,26です



「理想」、「イデア」という単語そのもの、いや、概念を表す単語そのものは、一種の「額縁(+無意識のフィルター)」だと考えています。

そうして、人間の思索の方向性は、そういった「額縁(+無意識のフィルター)」を置く位置や方向性と合致します。

思索するから額縁が決まるのか、最初から額縁の位置が決まっていたから思索の方向性がきまるのかについては、言葉の習得過程における先天要因+環境要因など、さまざまな要因があるため、どちらか一方だけが正しいとは言えないと思われます。

しかしながら、少なくとも、そういった「単語」と「方向性」についての概念を理解することができるのであれば、方向性を変えることも、額縁の位置やフィルターを変えることも可能なわけです。
そうして、「理想」や「イデア」が指し示すであろう【先】、ないし、その先に実体があろうと無かろうと、向かう方向性は少なくとも「ある」ので、そういった【方向性】。

そのような「理想」、「イデア」概念としての【先】【方向性】を、単純に「対象」とするならば、「主体」+「窓枠」+「対象」のセットで語るべきものになると思います。

このことは、逆に「はじめにイデアありき」といった流れであっても、同じことです。
受け手が設定している「窓枠」を通じてしか、外部からの明かりは漏れてきません。

すなわち、「主体」+「窓枠」+「対象」のセットで語ることができ、かつ、(仮想的・幻想的であれ)知的に論じ合うことができる(議論の俎上に載せることができる)ため、No.32でimantarx氏が「相対的な理想」と述べておられますが、まさに、「理想」とは「相対的概念」を越えることはないと思っています。

ただし「対象」そのものの実在性を信じ、かつ、「対象」がはじめにありきといった概念を選択する場合に限り、「絶対的概念」として扱いうるでしょう。
しかし、その場合、「対象」が形而上学的存在であるかぎりにおいて、それは宗教の世界になると考えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。理想は相対的であり、絶対的ではないということですが、問題は相対的だと言い切る時、それが個人の欲望とどう違うのかということになろうかと思います。あるいはその欲望をどうやって、目的にするに値する正しいものとみなすことができるのか。その場合について、次のようにおっしゃってくださっています。

>ただし「対象」そのものの実在性を信じ、かつ、「対象」がはじめにありきといった概念を選択する場合に限り、「絶対的概念」として扱いうるでしょう。
しかし、その場合、「対象」が形而上学的存在であるかぎりにおいて、それは宗教の世界になると考えます。

これはそうですね。だから理想という概念がある時、文化的な支えが必要になるのだと思われます。西欧にはそれがあるが、日本にはそれがあるのだろうかというのが、この問いの趣旨でした。最後に問いの意義について確認出来て良かったと思います。

お礼日時:2011/06/20 23:38

私が語ろうとしていたのは相対的な理想だったんですね。

無知無知。
失礼しました。退散します(赤面)。
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この回答へのお礼

丁寧にありがとうございます。

お礼日時:2011/06/19 07:08

宣長に関する話題は「宣長がルネッサンスした『もののあわれ』」と表記した、私の過誤です。

再発見ほどの意味で安易に使用してしまいました。それと西岡常一が成し遂げたものとはもともと別の文脈で使っていたつもりですが、「原点回帰」の意で「西岡は純粋に回帰し、宣長はイデオロギッシュに回帰を目論んだ」という批判を呼び込んだことは残念に思います。
宣長についての批評と、宣長と西岡の繋がりは、とりあえず置かせていただき、西岡の理想についてもう少し立論したいと思います。(いままでも「個人的な経験と感想」ではなく、「技術とはいったいなんであるのか」ということを述べていたつもりなんですけど、いたりませんで)

>「今の材料に過去の道具で生命を吹き込み未来に向けて再現する」ための連続的な対話

TANUHACHIさんのいう西岡棟梁の理想ですが、
「材料(木)に生命を吹き込み再現する」
と一口に言いますが、いったいどういうことでしょう?「生命を吹き込む」とは、何の比喩なのでしょう?
比喩であるならば当然解除できるはずですが、内容を理解しないでコラージュしていただけなんてことはないですよね?
また「再現」とはいったいどんな現象なのでしょう。「法隆寺を再現する」とは、色形の再現でしょうか?道具工法の再現でしょうか?それ以外に再現しなければならないものはあるでしょうか?
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Wikipediaでの説明(

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E6%83%B3)から類推しますと、
「理想」の「想」は「望む行為」と違いまして、それは「想念の世界」のことを意味している様ですが、如何なのでしょうか。
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にぎわってますね。

見たついでに回答しておきます。
(1)日本語の「理想」をどのように定義するか。
★僕は廃棄物処理場を見学した事があります。
そこには捨てられた理想たちが山の様に積み上げられていました。
その中の、ひとつひとつに生活の役に立っていた
様子がうかがえました。シールが貼ってあったり、落書きがあったり。
もし僕が理想を定義するならば、理想とは捨てられていくものである。

(2)理想と貪欲は、異なるといえるか。
★僕は異なるといいたいです。
理想とは捨てられる側であり、貪欲とはそれを、捨てる側である。

(3)その判断基準はどこにあるか
★うーん。。。意味がわかりません。とゆーか考える余裕がありません。
また、てきとーな回答で申し訳ないです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。現代の理想は使い捨てなのですね。手短な回答ながら、深いところを突いていると感じました。

お礼日時:2011/06/17 05:06

まず、議論に発言の権利は求められません。

学会やシンポジウムじゃないのですから。求められるのは広い意味でルールに則ることでしょう。失礼ながら質問者さまには「発言権」という権威主義的発想があるようですね(少なくとも私には「言葉の職人」なる隠喩の意図するところは不明でした)。

兎も角私は、西岡常一に関する議論は「職人にとっての『理想』とは何か」という、この質問スレッドにおいても有意義な議論だと思っているのです(勝手ながら)。このことは職人の国としての日本の理解にも有意義だろうとも思っています。

>imantarxさんが主張する職人としてモノづくりに集中していただけという論旨も、

『だけ』……
つくづく伝わらないものですね。初手に返って、まず質問にお答えします。

(1)理想とは、実践の中で常に想起され目標とされるものである。人は完全な理想を描くことができないが、それは常に実践のなかで研かれ、そして新たな目標となる。
(2)異なる
(3)貪欲は机上で理想を語ることで生まれ、畳の上の水練で肥大する。そして他人に語られることで増殖していく。

さて西岡常一の理想ですが、まずは私に身近なパンの事から話しましょう。戦後日本にフランスパンを指導した、フランスパンの神様の一番弟子、フィリップ・ビゴ氏の著書からです。
「おいしいパンをつくるための唯一といえるコツは、生地と心を砕いてつきあい、最大限に生かしてやること。材料や作り方ではない、パンの気持ちを理解すること。これが一番だ」
はい。「おいしいパン」とはまさに「理想のパン」であり、「パンのイデア」ですね。おいしいパンを「良い建物」に、生地の心を「木の心」に代えてみましょう。まさに西岡の言葉そのものですね。西岡が見据えていたのは、建物のイデアであり、木との対話に必要だったのが槍ガンナだったのですね。技術というものに関しては「パンは色々。昔気質のパンもあれば時代が求めるパンもある(中略)配合も作り方もいろいろだ。だが、どの場合においても、パンのおいしさを生み出す「技術」がともなっていなければならず、その技術を身につけるには『心』が必要だ。(中略)ブーランジェに必要なのは、パンに対する心だ」との言葉が全てです。職人の技術の継承がいかに行われるか、小山三夫の著書「棟梁」でも同じことを言っているでしょう?そして西岡は飛鳥の工人たちの技術を希求したから文献にもあたったのですよ。(続く)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。いくつか誤解があったようです。まず僕はてっきり、回答者さんが職人であることを特権化して、職人のことは職人にしか分からし、職人しか語れないとおっしゃっているのかと思ったのです。というのも、学究の徒と職人を明確に対立させていましたから。それで発言権ということを書いたのです。

それから「だけ」という言葉がお気に障ったようですが、僕は、西岡氏が本居宣長のようにイデオロギーに基づいて行動していたのではないという意味で書いたのです。今回の補足を読んでも、そう回答者さんはおっしゃっていると思ったのですが、違うのですか。イデオロギーというのは政治思想やプロパガンダにつながるもののことをいうので、イデアがあるということとは別です。

さて、ご自分の職業からくみ上げたことをお教えくださるのですね。どうもありがとうございます。なるほどフランスパンの名人と、西岡氏の発想には接点があるのですね。いや、西岡氏にイデアがあるとおっしゃっているところを見ると、西岡氏は西洋的な発想だという見地になっているようですね。前に日本的な発想と西欧的な発想は異なるというお話も回答者さんから出ていましたが、今回は、対立を超えて、その接点を仰ってくださったのだと解釈しています。

お礼日時:2011/06/17 05:01

> この意味で「日本の精神文化」を僕は「コピー文化」「独自に形成された文化」と呼ぶよりも「翻案の蓄積と集合による寄せ木文化」と呼ぶスタンスに賛意を示したいと存じます。



狸さんは、言葉以外に道具がないと言っておきながら、修飾語や要らん情報が途中にちりばめられ過ぎていて、物の本質に髄々と迫って行くように言葉を使いこなせていないような印象を持った。まっ、これが当たっているかどうかは知らんが、そんな印象を持っちまったのはあたしの方だから、そんなあたしの気持ちをあんたがとやかく言っても仕様がないだろうがね。

あたしは「翻案の蓄積と集合による寄せ木文化」って形で日本の文化が凝縮できたとは、とても思えないね。日本の幕府制度と言う封建制度の創出と言い、それと天皇制度の両立と言い、日本人は大変独創的な民族だった。人類史的に見ても、多分中世の西欧に辛うじてそれと類似のものはあったが、他には何処を探しても存在しないような文化を日本人は持っている。要するに、コピーだ翻案だなんてレベルで捉えられない独創的な文化を持っていた国だと、あたしは理解している。今じゃ、社会学者の間でたぶん共通認識になっていると思うんだが、この、中世の西欧と日本だけが生み出せた独特な封建制度の存在が、現在の効率の良い産業革命の遂行と安定した資本主義社会の出現の根幹を為しているんだね。

だから、そんな物外国のコピーでも翻案でもなんでもない。もともと、日本人はコピーが下手なので、お隣の韓国や朝鮮みたいに、中国から教わった律令制度に根ざした中央集権制度を千年以上に渡って保持することが出来ずに、そんな、独創的な幕府制度を自前で創り出さざるを得なかったんじゃろが。

あたしは物理をやっているが、物が判るっちゅうことは、その現象の本質を短い言葉で抽出出来るキーワードが探し出せたと言うことだ。あんたの抽出はまだ、その本質には迫っていないと見た。

後、本居宣長の花の解釈にイチャモンを付けてなさるが、そんなんじゃ、狸さんは物が出来上がる、すなわち創造の営みと言うことが理解出来ていないように誤解されちまうよ。それが誤解だったかどうかなんてことよりももっと重要で決定的なことは、宣長翁がそれを桜と解釈したことで、日本人が説得され、それにも基づいてどれだけ日本人の心の中に世界に類を見ない独特な個性、すなわち文化創り出して来たか、と言うことだ。

確かに、宣長翁は古代の原文にこだわったことは確かだ。しかし、物を創り出すと言うことは、単なる文献学的な細かいことにこだわるだけでは出来やしない。そこには、偶然を契機とした横っ飛びが入り込まなくちゃならんのだ。

我々の現在のDNAの配列にしたって、昔あるときに脳味噌の中で手の動きを司る中枢の情報に関して、間違った情報がDNAの配列の中に入り込んでしまい、そこの一部が言語中枢に変わっちまった結果、今の我々がいるんだ。だから、人類は、そんな間違いのお陰で、あんたの最も基本的な道具である言語を手に入れることが出来たんだ。それを、いや、我々を理解するには古代のDNAという文献を出来るだけ正確に読まなくちゃならない。今我々が桜だと言っているDNAの配列は実は間違いで、梅が正しいんだ。だから、梅から桜へと間違った情報を伝えてしまって、今の我々を創出しちまった宣長野郎は太てえ野郎だなんて言う奴には、「ヘー、あんたって頭が良いんだね」って言いながら無視してりゃ良いんだ。


文化なんちゅう複雑なもんは、こうあらねばならぬ、だとか、昔は本当はこうだったなんて言うのは、蘊蓄を傾けて頭の体操で楽しむ分には良いが、そんなんで文化がどうのこうのと語っても何も始まらんことだ。それよりも、こんな横っ飛びが今の我々を創っているんだちゅうことを分析して、それじゃあこの先何が起こるんだか参考にさせて貰おうってえのが、歴史学なんじゃ御座せんか?要するに、我々の今を形作っているそんな大事な横っ飛びを先人達が何処でしたかを同定するために、歴史屋さんは緻密な文献整理をやってんじゃ御座んか?

 願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

花に魅せられたのは宣長翁ばっかじゃなかったんだね。何か、あたしにも狸さんの言うことは本末転倒に思えちまった。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。タヌハチさんですが、僕は彼の文章が、なかなか読ませるものだと思っていますよ。余計なモノがないと面白くないと思うところです。僕の文章も余計なモノが多いのです。
まぁ僕のような若輩が言うのもよくありませんが、相手の値踏みはしないで、どうぞ、知的好奇心に導かれて議論しましょうよ。人間の質というなら、それはご老人の方が良いわけで、僕をはじめ若者は敵わないわけです。ご老人には、ソクラテスになっていただかないとなりません。「ふーん、君はなぜそう考えたのかなぁ、不思議だなぁ」という緩いスタンスです。

さて、日本の文化の性質とは何かという話になりましたね。他の方も読むと思うので簡単に整理すると、
・明治の西欧化以後に顕著なようにコピーの集合。
・日本には本質と呼ぶべきものがあった。
という二通りの見方が出ています。

誤解がないように書くと、これは、日本には連綿と万世一系の本質があったか、いやその本質はそもそも外来であったかというような水と油の話ではないのです。というのも、猪突先生は次のようにお書きです――「文化なんちゅう複雑なもんは、こうあらねばならぬ、だとか、昔は本当はこうだったなんて言うのは、蘊蓄を傾けて頭の体操で楽しむ分には良いが、そんなんで 文化がどうのこうのと語っても何も始まらんことだ」。また「日本の幕府制度と言う封建制度の創出と言い、それと天皇制度の両立」させたことが独創性とみなしうる、と。
先生のいう日本の本質とは様々なモノを混ぜて、成立するということです。タヌハチさんも、ただのコピーだとは言っていなくて、アレンジがあるとは認めていると思います。ここまで、主張は同じで、特に対立はしません。

しかし問題は出来上がったものが、コピーの貼り合わせであるか、新しい別のものになっているとみなせるのかという問題です。喩えていえば、水と砂糖と小麦粉とバターを練り込んだものが、依然として材料のごっちゃな塊であるのか、それとも、「ケーキ」という別モノになったのか。
タヌハチさんは、依然として材料が透けて見える雑多な塊であると主張し、猪突先生は新しい創作になったとおっしゃる。そしてその出来あがってしまったものが及ぼした影響関係に注目するべきであるとおっしゃるわけです。
同じものを前にして認識の差であるわけですが、この差がどこに由来するのか、興味があるところです。少し挑発的な指摘のされ方ではあったわけですが、「モノづくりとは何と心得るか」と本居のテーマを取り上げて問題提起なさったのは的確に思います。これに関する僕の意見は、もう書いてしまったように思うので、うるさくなってはいけないので、ここでは割愛します。

さて、最後に、僕は先生の指摘は、ここで一般論として、非常に鋭いものがあると思います。とある文献を精密に読むことは、一見正しいし、それに意地になる気質は職人的である。しかし先生が今回お書きのように、こういう批判の手法は、原理主義と同じ理屈を使っていることになります。「本来~~であったはずだ」ということですから。
文学作品のようなものを一人で読んでいるなら、それはそれでいいでしょう。しかし他人の解釈の評価をする際に「本来~~とあるべきなので、現状は虚偽である」という認識へ行ってしまうのなら、なかなか生産的ではありません。

文献学者は、潜在的には原理主義者なのかもしれませんね。バランス感覚が必要になって来るだろうなと思います。おそらく本居について考えてみるべきは、彼が独断で思想を展開したというより、その時代の風潮を顕著に体現していただけではないかという可能性でしょう。つまり本居の独創ならぬ独走ではなく、彼がその時代の空気を集約していたということはなかったのか。これは当時の文献を渉猟すればわかるわけでしょうが、なかなか、大変な仕事です。

お礼日時:2011/06/16 14:00

No.15,19,25です。



申し訳ございません。

No.19では、冒頭から「西洋哲学的」と書いてました。中程で「(西洋)科学的」としておりましたが、
こちらのミスで混乱させてしまったようです。

「西洋的、東洋的」は、「的」がついており、No.19にて記述しましたように、厳密な分類(二分)ではなく、方向性、志向性、「~しやすさ(傾向がある)」といった程度のものです。

No.25で、
>>>
対して(西洋)哲学では、ナンシーの著書(「無為の共同体」、「複数にして単数の存在」)などに、その片鱗を見ることができます。
<<<

ですが、「その片鱗」の示す先がずいぶんと離れていましたので、分かりにくい記述になっていると思います。

>>>
対して(西洋)哲学では、ナンシーの著書(「無為の共同体」、「複数にして単数の存在」)などに、「関連性を排除しない理想」という概念の片鱗を見ることができます。
<<<
になります。
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この回答へのお礼

丁寧にどうもありがとうございます。

お礼日時:2011/06/16 13:01

No.15、No.19です。



私が言わんと欲しているところの深層まで、いや、無意識の領域まで的確に踏み込んでおられます。かゆいところに手が届く思いというか、真に脱帽せざるを得ないといったところです。

まったく仰るとおりだと思っております。

ただ、少しだけ、気になる表現があるので、触れさせていただきます。

>>> No.19 お礼欄
西洋哲学は全体の一部として埋もれている本質を見抜くこということに特化し、細部を排除するものである。
<<<

私自身は(かなり慎重に)「(西洋)科学」と記述しました。広義の哲学は科学を含みますが、西洋哲学のある領域では、

>>> No.19 お礼欄
東洋思想は細部を排除しない。一部が本質だとは考えず、全体像そのままを本質であると捉えるからである。
<<<

と、同等の思索を行っています。

具体的には、たとえば(西洋)科学に関して言えば、「宇宙に法則はあるのか」(ジョン・D・バロウ 著、松浦俊輔 訳、青土社)にて、(西洋)科学的な思考の暗黙裡の九つの前提条件について、平均的な科学者の頭の枠組みということで、記述があります。

その内容は、九つの前提条件の一つ目と九つ目に要約されています。
>>>「宇宙に法則はあるのか」p.45-46
1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。
9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。
<<<

この前提条件が言わんとしていることは、「科学的・客観的に事物を見る。」といったとき、観測者である「この私」と「あなた」とが「交換可能」だという条件を持ち込んでいるということです。
ようするに、「この私」と「あなた」とが入れ替わることで変化する要因があったとして、対象に対する影響の割合のうち、そういったものの影響を「無視できるぐらい極力最小」ないし「入れ替わるときに発生する影響度を確率的に予測可能な範囲」にとどめおくことで、観測可能であるときのみ、「科学的・客観的に見る」ことが可能だということを意味しています。

こういったことが可能だという考え方は、「関連性を排除したところの理想」が成立しうるという概念に通じるところがあり、宗教で言えば唯一絶対神的な概念、科学で言えば(大)統一理論的な概念と相通じるところがあると思います。

対して(西洋)哲学では、ナンシーの著書(「無為の共同体」、「複数にして単数の存在」)などに、その片鱗を見ることができます。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/s …
http://mercamun.exblog.jp/6579346/

このような考え方の根底には、「この私」と「その他(外部、ないし全体)」とは、決して切り離すことができない(外部を切り離して見ることができない)という概念が横たわっているでしょう。

このことは、下記のような記述にも見て取れます。
>>> 「言語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91
カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰もメタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してより正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。
(上記に対する注釈欄)
そもそも認識問題の本質的動機は、単に客観的で厳密な認識が可能かどうかといった問題にあるのではなく、むしろ諸世界観の対立をいかに克服するかという問題にあった。(同、p.90)
<<<

以上、専門家では無いのですが、いままでの人生で私が得た拙い知識を総動員しての、精一杯の思索になります。
ご参考になれば、幸いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とても読み応えがありました。おっしゃるように、僕は議論をまとめるというより、話を自分の理解できる範囲での記述になっていました。失礼お詫びするとともに、的確なご指摘に感謝いたします。

前回は特に僕がお礼欄で西欧の個人主義的な傾向がイデアの発想にあるのではないかとしましたが、今回、回答者さんは、では西洋の科学と哲学において共通の認識はあり得るのか?と問い、またその手掛かりを示してくださったように思います。なるほど、いくら個人主義だといっても、どこまでも個人の主観では立ち行きません。科学は普遍的な原理を追求しているのであるし、また共同体の形成においては何らかの共通認識がなければなりません。カントを解釈した竹田の言葉を引いてくださったように、「誰も主観の外に出て客観を確認できない」にもかかわらず、「諸世界観の対立をいかに克服するか」が西欧においては重要な課題となったわけです。さて、どういうカラクリがあるのか。

回答者さんの意見を紹介してくださった浅田彰のリンクを手掛かりに、まとめさせていただけば、分有という考え方が一つのカギであると思います。分有を浅田はpartageとフランス語表記していますが、もともとはメテクシスというプラトン主義の概念です。つまり事物の本質(イデア)と本質でないものという差異はあるが、本質でないものにもイデアの片鱗はあるという考え方です。こうした考え方は、イデアの共有という考え方を導くものです。
バロウが述べる「観測者である『この私』と『あなた』とが『交換可能』」という発想はまさに自然科学の真理を共有するというメテクシスであり、またナンシーがメテクシスに基盤を置いているのは浅田彰が解説しているとおりです(無論、ナンシーの議論は細部がありますが、ここでは省略します)。

共同体を形成する共有という点では、日本的な発想と類似を見出すことはできるでしょう。しかしメテクシスは、徹頭徹尾、イデアという本質主義を前提としているものです。かくして「こういったことが可能だという考え方は、『関連性を排除したところの理想』が成立しうるという概念に通じるところがあり、宗教で言えば唯一絶対神的な概念、科学で言えば(大)統一理論的な概念と相通じるところがあると思います」とおっしゃるのは、全くそうだと思います。根本の原理としては、容易に混同できるものではないのです。

共有と一言で言っても、いろいろあり、少なくてもイデアでいう共有と日本の「理想」はどうやら違うらしい。両者の差異が、更にわかってきたという風に僕は考えています。

お礼日時:2011/06/16 12:58
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