石川啄木の短歌「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と「しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」の意味を教えてください。お願いします

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A 回答 (4件)

【不来方のお城の草に寝ころびて


        空に吸はれし十五の心】

15歳のころ、不来方城の草原に寝転で空を見ていて
私の心は吸い込まれそうだった。


盛岡城は別名不来方(こずかた)城といいます。
啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。
学校を抜け出し不来方城の草原で寝転んで
空を見ていたころを懐かしんでいる歌ですね。
啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、
16歳に中学校をやめて、この後上京します。


しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

釧路の海の水面は月の明かりでしらしらと輝いています。
夜の冬の釧路の海には千鳥はいない静寂があります。

啄木は明治40年(1907)生活の行き詰まりから北海道に渡ります。
北海道の函館、札幌、小樽、釧路と漂白生活をすごしました。
76日間の釧路時代に歌った歌でしょう。

注:私は【千鳥なく】を千鳥は夜はいない(なく)と解釈します。
夜は千鳥はいないと思います。

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/namur/takuboku/takubok …
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jakyyです。


歌は水ではなく氷でした。下記のように訂正します。

【しらしらと氷かがやき
       千鳥なく釧路の海の冬の月かな】

釧路の海の氷は月の明かりでしらしらと輝いています。
夜の冬の釧路の海には千鳥はいない静けさがあります。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。とても参考になりました^^

お礼日時:2003/10/27 18:28

 ちょっと遅かったようですね。

解釈はmartinbuhoさんのでいいと思います。私は違った角度から石川啄木を述べてみます。
 たくさんの哀愁あふれるすばらしい作品を残している啄木。そんな彼も夢に破れ、現実の生活から逃避し、貧しいにもかかわらず浪費家で、時に人とトラブルを起こし、・・・壮絶な人生といえます。

 <不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心>
盛岡時代これから社会にでる一歩手前。「啄木は盛岡中学時代、よく学校を抜け出し、不来方城跡に逃れては独り文学書や哲学書を読みふけった。その当時盛岡中学は内丸通りに在り、岩手公園から200メートルほどだった。不来方城跡が岩手公園として一般に開放されたのは明治39年のことで、啄木が中学生だったころはまだ雑草が生い茂っていた」という文章が参考URLのホームページにありました。この場所で自分の将来を夢見ながら日々を過ごしていた。こんな姿を懐かしんでいるのです。どう感じますか。

<しらしらと氷かがやき/千鳥なく/釧路の海の冬の月かな>(『一握の砂』)

啄木は明治41年1月21日から76日間「釧路新聞」の記者として滞在しました。啄木にとっては新聞社とのトラブルがあったものの、比較的安定していました。これはそうした中でで詠われたものです。
 冬の朝の凍てつく寒さと白んでいく空を反映して氷が光っている海の美しさ。冬の月とのコントラスト。そしてどこからか千鳥も鳴いている。目と耳と肌でかんじている、啄木の感性のすばらしさが伺われますね。

 啄木は27歳という短い生涯でした。そのうちの7から8年というわずかな期間で彼は輝いたのです。しかもその業績は彼の死後認められました。学んでみて興味深い人物だと思います。

参考URL:http://www.myk.iwate-pu.ac.jp/~yasmatsu/fudoki/p …
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>不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心



15才のころ不来方のお城の草の上に寝転んで大空を眺め空想にふけっていた。多感な15才のころが懐かしく思い出される。

不来方城は岩手県盛岡市に残る南部藩の盛岡上の別名です。

>しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

夜明け前、釧路の海辺に立つと海は白々と輝いている。空を見上げると冬の月が輝いている。どこからかカモメの鳴き声も聞こえてくる。


不来方のお城の草に寝ころんで、はるかなる大空に夢を託した十五歳の日よ。あの少年のころが懐かしく思い出されることだ。
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Q石川啄木の短歌について

石川啄木の短歌
不来方のお城の空に寝ころびて空に吸はれし十五の心
の口語訳と区切り方を教えてください!!

Aベストアンサー

「不来方」は「こずかた」。盛岡の古い呼び名です。
「お城の草に寝転びて」ですね。
盛岡中学の生徒だった啄木は、授業を抜け出しては、城址の
草地に寝転んで、大空を見つめながら青雲の志をはぐくんでいました。
そのころと、貧しく追い詰められたいまの生活との大きな落差。
啄木の胸の痛みがしみじみと伝わってきます。

Qくれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の

正岡子規の短歌、
・くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る
について教えてください。

特に「二尺伸びたる」はどの名詞を修飾しているのでしょうか。候補は、薔薇と芽だけれど、二尺って60センチです。だとすれば、それが修飾しているのは、芽(茎や蔓の意がある)でしょう。でも、茎が紅色って考えにくいです。

ではと思って、「くれないのバラの芽(蕾)」だと考えると、「二尺伸びたる」のがどこを修飾するかわからなくなってしまいます。

それならと思って、「くれないの」を枕詞だと考えてみるけれど、枕詞の「くれないの」は普通、「色」や「あさ」にかかるのだから、ちょっと無理があります。

正岡子規って、写実主義の歌人だったから、たぶん答えがあると思うのです。文法的に、どうしたら整合性がつくのか、教えてください。

Aベストアンサー

早蕨の質問がお終いになっていましたので、こちらに回答します。

毎年冬を越すため、ハイブリッドのバラから、去年伸びた茎を毎年スッパリと剪定します。春になるとまたそこから芽が伸びてきます。白いバラの茎は柔らかい緑色ですが、赤いバラの茎は紅色といえないこともありません。細い茎がどっしりとした根元からシューッと伸びてきます。葉は深い緑色ですから、紅色は映えます。

60センチ伸びたというから、ずいぶん大きな花のつぼみがついていたことでしょう。そのつぼみに、まるで早く咲けというように、春雨が降りかかっています。風もなく、シトシトと霧のような春雨です。

そうして、バラの花はまた今年も咲こうとしているのです。

作者がバラに見たものは希望だったか、自然の摂理だったか。散り際の美しい桜に比べると、バラの美しさは開きかけに尽きます。その、開きかけよりさらに前、つぼみの景色を歌にした作者は、柔らかな茎を伸ばして、成長してゆくものの命を暖かく包み込む、春雨を詠んでいるように感じます。

彼がつぼみで、春雨は母だったかもしれません。

Q俳句とその俳句の鑑賞文教えてください

宿題なのですが勉強が苦手でまったくやる気が起きません(T_T)
簡説でいいので俳句の題名とその俳句の鑑賞文教えてください(T_T)お願いします(T_T)

Aベストアンサー

鑑賞文でよく見られる構成は下記のとおりです。
(1)作品の情景を説明する。
(2)作品の良い点を挙げる。
(3)鑑賞者の感想を述べる。

これを使ってしまえば鑑賞文なんてものは簡単ですよ♪


例えば、この俳句ですと

☆咳の子の なぞなぞあそび きりもなや 


鑑賞文は
   「子供がかぜをひいてしまいました。寝こむほどではありませんが、咳だけはまだ残って います。外にも出してもらえない子供は、時間をもてあましています。その子供の気持ち を紛らわそうと、母親はなぞなぞ遊びの相手をします。しかし子供はいつまでも母を放し ません。母は少し困っています。 子供が放してくれず、少し困りながらも、子供をかわ いく思い、相手を続ける母親の愛情が、この句にはあふれていると思います。」        とか。

いろいろ載せておくので参考にしてくださいね(^-^)

俳句:外にも出よ 触るるばかりに 春の月 
鑑賞文:あたたかな春の夜中に、作者は外に出ていました。そしていつもよりあたりが明るいので、 ふと夜空を仰ぎ見ると、そこにはまん丸お月さまが浮ました。その月は、あまりに明 るく、よく見え、手を伸ばすと触れることができそうに近く見えます。この春の月を、家の中 にいるみんなにも見せたい気がしました。 最初の呼びかけの形に、作者のうきうきした気 持ちが表れています。手が届くほどというのは大げさだが、月の明るさがよく分かります。

俳句:金亀虫 擲つ闇の 深さかな
鑑賞文:夏の夜、部屋に飛びこんできたこがね虫をとらえ、外へ放り投げました。その時見た外の 闇の深さが強く印象に残ったというようなことが書かれていると思います。 「深さかな」と、切 れ字を用いた部分に、作者の感動が素直に、かつ上手に表現されているように感じます。 投げたこがね虫が、すうっと夜の闇の中に吸い込まれて、意外なほど闇が深いのだなあという驚きがこの句には感じられます。



どうですか?お役に立てたでしょうか??

ポイントは→  情景の説明・良い点・感想


です!!!
頑張ってくださいね(((o(*゜▽゜*)o)))

鑑賞文でよく見られる構成は下記のとおりです。
(1)作品の情景を説明する。
(2)作品の良い点を挙げる。
(3)鑑賞者の感想を述べる。

これを使ってしまえば鑑賞文なんてものは簡単ですよ♪


例えば、この俳句ですと

☆咳の子の なぞなぞあそび きりもなや 


鑑賞文は
   「子供がかぜをひいてしまいました。寝こむほどではありませんが、咳だけはまだ残って います。外にも出してもらえない子供は、時間をもてあましています。その子供の気持ち を紛らわそうと、母親はなぞなぞ遊びの相手をします。しかし子...続きを読む

Q啄木

 春風が吹くといつも下記の句を思い出します。

 不来方のお城の草に寝転びて空にすわれし十五のこころ
                     啄木

 この句の出来た経緯背景などを教えてください
 
                    minor1144

Aベストアンサー

 鑑賞のポイントを幾つか上げてみました。
1.故郷の秋空
初出は「スバル」明治43年11月号。「秋のなかばに歌へる」の題下に発表された百十首中の一首。初出歌は「不来方のお城のあとの草に寝て空に吸われし十五の心」となっている。
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_0f87.html

2.「AO」の空気の思い
啄木の「天空観」について吉増剛造「詩をポケットに」(NHKライブラリー)では、「啄木ローマ字日記」の「TSUCHI NO UE NI, TSUCHI NO UE NI, NAN NO--HUUHU TO YUU SADAMARI MO KUBETSU MO NAKI KUUKI NO NAKA NI: HATE SHIRENU AOKI, AOKI SORA NO MOTO NI!」を引用しながら、「このAOKIは、「青」でも「蒼」でもない、もの凄い深みの「AO」でっす。そんな啄木の心がしずまって、その空から視線がゆっくりと下りて来て、稀らしい時が来て、『一握の砂』は詠まれたはずです。」

3.「思いの煙」
 いにしえから煙、とりわけ「思いの煙」といえば「思い焦がれる心の苦しみ」を表わします。「オモイノ ケムリ ムネニ ミツ(日葡辞書)」(小学館「国語大辞典」)
 「青空に消えゆく煙
  さびしくも消えゆく煙
  われにし似るか」
このような「あをぞらの煙かなしも」と歌うゆえんは、青空に消えていく煙はまた「空に吸はれし 十五の心」と観じた時、それより後十年余の今の我がうちの中の「思い焦がれる心の苦しみ」へと反照されていると見えてきたら、それはこそ「病のごと」なのでしょう。

4.口笛が呼び合うもの
 「晴れし空仰げばいつも
  口笛吹きたくなりて
  吹きてあそびき」
「口笛は 十五の我の歌にしありけり」と25歳の啄木が10年前の自分に対して歌った、それに呼応するかのように、「なみなす丘はぼうぼうと 青きりんごの色に暮れ 大学生のタピングは 口笛軽く吹きにけり」と歌った宮沢賢治こそは、ちょうどで10年年下であり、あたかもその頃には先輩啄木の後を追うごとく「HELP」のあだ名を貰って、盛岡中学で鉱物採集に飛び回っていたことでしょうか。

5.十五の我
戸籍上は明治19年2月生まれなので、この処女歌集の上梓は満年齢では24歳であり、歌中の「十五の我」は満14歳のいわば「ちゅうぼう」であり、後の妻節子との出会いが「十四の春」つまり13歳になったばかりだったことになります。
啄木が満26歳で世を去った時、お腹の大きかった妻節子ですが、彼女もその一年後に同じ結核で、同じく満26歳で亡くなっています。

 鑑賞のポイントを幾つか上げてみました。
1.故郷の秋空
初出は「スバル」明治43年11月号。「秋のなかばに歌へる」の題下に発表された百十首中の一首。初出歌は「不来方のお城のあとの草に寝て空に吸われし十五の心」となっている。
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_0f87.html

2.「AO」の空気の思い
啄木の「天空観」について吉増剛造「詩をポケットに」(NHKライブラリー)では、「啄木ローマ字日記」の「TSUCHI NO UE NI, TSUCHI NO UE NI, NAN NO--HUUHU TO YUU SADAMARI MO KU...続きを読む

Qテスト直前なのに、短歌の区切れがわかりません………。

短歌の句切れ、どのように見分けたらよいのかがわかりません。
感動の助詞(けりなど)がなかったら『句切れなし』なのでしょうか?

以下の句の句切れ、自分で考えても理解できず、家族や友人に聞いてもわからないと言う返事しか返ってこなく、
ネットで調べてもよくわからないので困っています。
どうぞよろしくお願いします。

・防人に 行くはたが背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思もせず(防人歌)
・多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき(東歌)
・君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く(額田王)
・近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(柿本人麻呂)
・うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思えば(大伴家持)

すべて万葉集で、とても一般的な句なのだそうですが、よくわかりません。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような場合があります。

1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の項目で調べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本質的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「詠嘆の助動詞」です(「助詞」ではない)。

2、係り結びの結んであるところ。
係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ。

3、終止形や命令形で言い切っているところ。

4、体言止めで言い切っているところ。
ただし、体言で句が終わっていても、そこへ「を」「に」などの助詞を補ってあとの句へ意味がつながるような場合は、ここを句切れとは考えません。

5、倒置法のあるところ。

6、呼び掛け法のあるところ。

韻文の場合、芸術的に感心できませんが、一応、「解釈(分かりやすい現代語に訳す)」をしてみると、句切れも分かるかと思います。

*防人に・・・
あの九州の警備兵として徴兵されていくのは誰の旦那さんかしらね、と訊く人を、見ることのうらやましさと言ったらないよ。なんの悩み事もなくて(あの防人は私の夫なのだよ、私には危険な国境に夫を送り出すという悩みがあるのだ)。
→「ともしさ」が体言止めで、意味的に倒置法なので四句切れです。

*多摩川に・・・
多摩川に晒して作る布を見ていた。その「さらす」という音でふと思い出したが、さらにさらにどうしてあの子がこんなに恋しいのだろうか。
→「多摩川にさらす手作り」までは、「さらさらに」を導くための「序詞(じょことば)」で、和歌の解釈としては内容的な意味はなく、「手作り」は体言止めで、二句切れです。

*君待つと・・・
恋人のあなたの訪れを待って私があなたを恋い慕っていると、私の家の簾を動かして、あなたの代わりに秋の風が訪れ、あなたはまだ来ないのだった。
→順当な流れのうちに結句まで言い切っている歌で、句切れなし。ちなみに、古今集以降だと、「秋風」を「飽き」との掛詞(かけことば)と考えて、恋人の訪れがないのを、恋人とが自分に「飽き」たからだ、と、別れや失恋を暗示するのですが、万葉集だとそこまで読むのは深読みと考えられるでしょう。単に季節がほんとに秋だっただけ。女心の寂しさは詠み込まれているけど。

*近江の海・・・
琵琶湖に夕方立つさざ波に群れ遊んでいる千鳥たちよ、お前が鳴くと、私はひどくしみじみと悲しくなって、昔のことが偲ばれてならないよ。
→「夕波千鳥」を呼び掛け法と考えても、単なる体言止めと考えても、いずれにせよ二句切れ。

*うらうらに・・・
うららかに照っている春の陽射しに雲雀が空高く舞い上がり、私の心はいっそう悲しいなあ。一人ぼっちで物思いに耽っているので。
→「心悲しも」の「も」は、上代特有の助詞で、詠嘆を表すので、ここで切れて四句切れ。春の憂愁(メランコリー)を詠い、万葉集としてはかなり進んだ、中古的美意識をもって詠んだ歌。雲雀の楽しそうなさえずりと、自分の憂鬱な物思いとの対比。

万葉集の和歌には、二句や四句の偶数で句切れのある歌が多いのです。
五七/五七/七
と「五七」のリズムが強調されるので、「五七調」と呼ばれます。
(古今集以降の和歌は、初句や三句の奇数句で句切れのある歌が多く、五/七五/七七と「七五」のリズムが強調されて、「七五調」と呼ばれます)
五七調の和歌は、五音という軽い上半身を、七音という重い下半身でしっかりと支えるので、歌体が安定し、堂々とした力強い響きをもたらします。
七五調の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流麗な流れの良い歌になります。

「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような場合があります。

1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の項目で調べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本質的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「詠嘆の助動詞」です(「助詞」ではない)。

2、係り結びの結んであるところ。
係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ...続きを読む

Q正岡子規「くれないの二尺のびたるばらの芽の~」の情景はいつ頃を指していますか。

 正岡子規「くれないの二尺のびたるばらの芽の針やわらかに春雨の降る」の情景はいつ頃を指していますか。
 季語で見ると春雨で春、しかしバラの季語は夏でまだ芽であるため、春雨は梅雨を表し6月中頃ではと思いますがどうでしょうか。

Aベストアンサー

これは、まさに「芽」でしょう。
木々の芽吹くときです。病床にある子規がバラの新芽の生命力の強さに憧れた歌だと思います。
まさに「春雨」早ければ2月、あるいは3月の歌だと思うのが妥当です。
「くれないの」というのは、バラの花ではなく、芽吹くときの先が赤くなることを指しています。或いは、子規自身が吐血したのかもしれません。
いろいろと想像力をたくましくすることが、詩歌の鑑賞には必要でしょう。

Q短歌の鑑賞文を書くのですが、アドバイスください。

                   
円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

という短歌なんですが、まず鑑賞文ってどういう感じで書けばよいのでしょうか。

とりあえずなんとなく書いてみたのですが、自分で読んでも変だと思うのですw
アドバイス貰えたら嬉しいです↓

なにかしら生き物が濡れた状態だと、哀れな姿に見えるものです。
しかし水中の金魚は、ひれを揺らし優雅に泳ぐので、決して哀れだとは感じさせません。
しかし作者が金魚を掬いあげたとたん、綺麗だった赤いひれが和紙に貼りつき、
のたうつ金魚を見て哀れだと感じ、初めて濡れているのだと感じます。
金魚が水の外に出たとたん、私たちが受ける印象は一転するのです。

Aベストアンサー

 短歌から推測される、詠まれた時の情景・心理なども説明したほうがいいんじゃないかな、と思います。

 質問者さんもお気づきのようですがこの歌は、おそらく金魚すくいの時に詠まれた歌であり、金魚すくいが行われるのは縁日など、とてもハッピーな雰囲気、雑踏の中で行われます。

 そんな中で掬った後の金魚の姿を見て、詠み手はがく然とするわけですので、詠み手の心理を鑑賞するのはもちろんですが、それだけではなく、1匹だけ掬われた金魚の「思い」を、人間の楽しい雰囲気・雑踏などと対比して推測してみると、もう少し深みのある鑑賞文になるかもしれません。

 詠み手自身も、金魚の思いに想到して、歌を詠んだのかもしれませんし。

 例えばそうすると、「濡れる」とは、単に金魚の体が水に濡れているということだけではなくて、詠み手は金魚がべつなものに濡れていると感じたのかもしれないと想像する余地も出てきそうです。
 

Q若山牧水 白鳥は・・の訳について

白鳥は「哀しからずや」の「哀しからずや」はどう訳せば良いのでしょうか。
できれば、入試問題的な解答をいただきたいのですが。

Aベストアンサー

 
  牧水の元の歌はひらがなだたような気もするのですが、漢字で「哀」を使っていたなら、それは「悲」の場合の「かなしからずや」とはニュアンスが違います。そもそも、同じ「かなし」が、何故、「哀し・悲し・愛し(かなし)」に漢字で書き分けるかと言うと、元の言葉に複数の意味・ニュアンスがあって、それを表現するための工夫で、自覚的に文章を書いている人は、それぞれに意味やニュアンスを区別して使っているはずです。
 
  「悲哀」は、「かなしみ」ですが、「悲痛+哀切」というような感じで、決して、「かなしい+かなしい」の二重重ねではないはずです。(悲哀、悲痛、哀切で、人によって把握が違うかも知れませんが、明らかにニュアンスが違っています。みな、同じ「かなしい」ことだと言えば、乱暴でしょう)。
 
  しらとりはかなしからずや → 白い鳥は、悲痛ではないのだろうか
  しらとりはかなしからずや → 白い鳥は、哀切ではないのだろうか
 
  これは、意味やニュアンスが違っています。「悲痛」というと、しらとりを見て、心が、どういう理由か「痛む」という感じで、かなり感情で辛いものがあります。「哀切」というと、心に痛みがあるかも知れませんが、それを詩的に受け止めるというか、ある程度客観化し、距離を置いた感じがわたしにはします。(悲痛は、「私が悲痛」で、哀切は、「何かが哀切」です。大ざっぱですが)。
 
  白き鳥よ、あなたは何と哀切なことか、空はこんなに青く、海はあんなに青いのに、空からも海からも離れ、ひとり孤独に漂っていることか。

  (そのように、わたしの心も、哀切のなか、漂泊の思いに満たされる……)。
 
  これは、わたしの解釈ですが。
 

 
  牧水の元の歌はひらがなだたような気もするのですが、漢字で「哀」を使っていたなら、それは「悲」の場合の「かなしからずや」とはニュアンスが違います。そもそも、同じ「かなし」が、何故、「哀し・悲し・愛し(かなし)」に漢字で書き分けるかと言うと、元の言葉に複数の意味・ニュアンスがあって、それを表現するための工夫で、自覚的に文章を書いている人は、それぞれに意味やニュアンスを区別して使っているはずです。
 
  「悲哀」は、「かなしみ」ですが、「悲痛+哀切」というような感じで...続きを読む

Q啄木の短歌の「そ」の意味

石川啄木の有名な短歌に
 ふるさとの訛(なまり)なつかし
 停車場の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
というのがありますが、「なまり」と訳される「そ」は、
どのような漢字なのでしょうか?

Aベストアンサー

この場合の 「 そ 」 とは 「 それ 」 の意です。
「 あれ 」「 これ 」「 それ 」 の 「 それ 」 です。
あえて漢字で書けば 「 其れ 」 となります。

Q与謝野晶子 石川啄木 の短歌を口語訳してください

みだれ髪の
「そのこ二十 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな」

石川啄木の
「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」

この短歌の口語訳を至急教えてください。明日発表しなければいけないので、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

その娘は二十歳。くしけずれば烏の濡れ羽のように輝くその黒髪は、青春の誇り高き美しさの象徴だ。

故郷のお城で草原(くさはら)に寝ころんで、あれやこれやと未来のことを夢見ていた十五歳の頃がなつかしい。


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