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多くの専門家の評判は高いようなのですが、最後まで読めそうにないです。ケチをつけるつもりはありません。公平で批判的な解説をお願いします。仮に他の作家のレベルが低いとしても、これに比べて低いという事もないと思うのですが、なぜこれを専門家が選ぶのでしょう。珍しく下品さのない小説とは感じますが口汚い専門家どもが雁首そろえて貴種的作家の雰囲気に浄化されてみたくなっただけではないでしょうか。

とりあげるべき素晴らしい一文というのがありましたらご紹介ください。
古語をどんな風に使うものか、ひとつ読んでやろうと思ったのですが、古語らしいものは今のところ見当たりません。古語の例がありましたら教えて下さい。使われていると言っても、そんなに多く使われていないですよね。それなのに古語復興などとまで、宣伝されるのはなぜなんでしょう。
私としては現代文なのに、古典並みに、筋を追いにくい文章という印象です。後追い的に説明文を連鎖させて文章を作るのはいい文章とは思えないのですが。最初から五段落目あたりの登場人物を紹介するような部分は露骨に稚拙なのではないでしょうか。

目障りな程、ひらがなを使っている部分が多いと思います。そういうあんちょくが、文芸的にもおしゃれということですか。そんな小手先の表現は、専門家が絶賛する作家の文章にふさわしいものでしょうか。
「新潮・第107巻9号」からの引用になりますが教えて下さい。

(p116)
>「しかし幾億年むかしのことも幾億光年さきの場所も夢のなかではいつもいまになり、ひかりなどがのろいものにおもえる。過ぎ去った一日も百年もおなじように思えていた。いまとなってはほんとうのことかたしかめようのない記憶だった。」

書き出しからここまでの文章も上手いとは思えないのですが、専門家はどういうつもりでほめているのでしょうか。読んでみてこのひらがなはいいと思われますか。
「ひかりなどが」って、一部分を見ても、これが洗練された文章と言えるでしょうか。
これがいい文章だから芥川賞にまでなったのですよね。上記引用部分の、どこがいいのでしょうか。

A 回答 (5件)

 この質問をきっかけに読んでみました。



 古語がどうこうというのは、古語そのものを使っているというよりは、文章のリズムやひらがなの使い方が、たとえば『方丈記』あたりと近い、という意味合いだろうと思います。
 この作品自体、現在と過去の回想(夢)との境界を曖昧にして、眩惑的な効果を作り出しているのですが、現代文でありながら古典のリズムを利用しているのが、そういった作品の構造ともマッチしていると言えばそうなのでしょう。私は古典の研究をしたことがないので、そのことに魅力を感じはしませんでしたが、気にもなりませんでした。

 この作品は、夢という装置を利用して、複数の時間軸と視点を自由に行き来する技術を使っています。その上、取り立ててストーリー展開がありません。筋が追えないのではなくて、追うべき筋がないのです。
 こういう作品は普通の小説の読み方が通用しないので、たまたまこの文体と波長の合う人か、もしくはこの手の変な小説を読み慣れている読者でないと読むのが辛いと思います。カフカの『城』を楽しく読めるような、変な趣味の人でないとついていけない。

 文学をやっていて、変な小説を読める者としては、この小説を技術的に貶めることはできません。時間軸と視点移動の技術をここまで使いこなせる作家はそうはいません。

 指摘されている文章も下手なのではなくて、特に冒頭の部分は、現実と夢、現在と過去の境界で微睡んでいる雰囲気を出すために、わざと無茶苦茶な書き方をしているわけです。その部分だけ抽出すると下手なように見えるかもしれませんが、構成から考えれば必然のある書き方です。

 夢であることを強調しすぎて雰囲気を壊している箇所など、欠陥はいくつか指摘できますが、致命的ではないし、むしろ、そういったわかりやすい符丁を入れておかないと、ますますわけのわからない小説になって、読者層を大幅に狭めてしまうことになるでしょう。デビュー作の『潮流』のように。

 ただ、個人的な評価で言うなら、つまらないです。私の趣味ではない。このタイプの作品なら『アフリカの印象』という、めちゃくちゃ面白い小説がありますし(これを面白がるのは、やはり変な趣味がないとダメでしょうけど)、いっそ『城』を読んだ方がまだ楽しいです。

 なお、この小説の本質を簡単に理解できる方法がひとつあります。作中に出てくる"E2-E4"というアルバムを聴いてみてください。私の文章や専門家の解説なんかを読むよりも、『きことわ』がどういう小説であるかを明瞭に知ることができるでしょう。
 まあ"E2-E4"と比べると、『きことわ』にはグルーヴが足りないような気がしますし、気の利いたフレーズを時折挿入するなどの工夫にも欠けていると思いますけどね。読者に余計なことを一切考えさせないで、ぼーっと読めるくらいどっぷり嵌らせてくれるような、サイケデリックな工夫が欲しい。また、この作風でやっていくためには、それを会得するのが絶対条件だと思います。
 理論的に正しいだけの音楽なんて、つまらないに決まってますから。専門家(誰が絶賛しているかは知りませんが)にウケて一般読者に受けない要因もそこでしょう。

この回答への補足

回答ありがとうございます。最初から答える気のない回答者がいて、質問して後悔する事も少なくありませんが、今回、質問して良かったです。
わざわざ読んでみてくださりありがとうございます。回答者さんは専門家の方なのでしょうか。

★視点移動の技術に優れているのですか。とても関心がありますので、ぜひ教えて下さい。

具体例になる部分がありますでしょうか。


どうやら、その筋がない小説というのは、本好きでなければ、とても読めないということを実感する結果になったのですかね。変な現代クラシックを聞いていると脳みそがバラバラになりそうで耐えられませんが、そういう露骨さがないので、私にとって何が問題なのかも決められずに困っていました。
でも何だか分からなくていいわけですか。作家が伝えたい事実はない。いうなれば芸術のための文学ですかね。気分物ですかね。

おっしゃられるようにリズムが古典的という話なら(私にはピンときませんが)感じ方次第で済ませる事ができます。
ただ、それだけの事を古語復興とまで膨らませる連中はまるで参考にならない狂言者ですね。いい加減にしてもらいです。軽口にあきれて、評判の新書を読む気がうせます。
私には、一文一文がチャーハンのようにパラパラした関係に感じるのですが。つなぎのないそばをすすってもごもご状態です。

わざと破壊的な文体を選ぶというのはなんだかんだで結局、回避した件について、表現する能力がないからだと思います。作品全体をイリュージョンにしてしまえば……完全犯罪ですよ。
ちなみに芥川賞作品「乳と卵」でしたかああいうのはどう思われます。あれは俗っぽいせいか一応最後まで読めました。
変な作品が嫌いじゃないという回答者さんの口ぶりは面白いのですが、その変な作品を好む人の意見というのは客観的にどんなもんなんでしょう。そういう意見をどう思われますか。この作品はさらに面白くもない物を面白いという人向けなのではないですかね。個人的にはそういう方向で読書をすすめたくないです。自然とそうなってくるのでしょうか。


爽やかなご解説はでとても参考になりました。
ほんとうにわざわざありがとうございました。文面から真摯な人柄がつたわってきます。

補足日時:2011/07/31 02:14
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この回答へのお礼

回答No.2を頂いてからこちらに書いています。

参考というのではお礼としては弱いように思われるかもしれませんが、違います。本当に参考になります。単なる答え以上の収穫があるという意味です。
私は、回答者さんとの出会いを通じて、文学という物に初めて対面したのかもしれません。対話型質問サイトでなければ伝達不可能な事です。有難うございます。

"E2-E4"はジャンルは分かりませんが(ハウス?)、インスツルメンタルのですよね。

倒錯感を味わうための文字列だったのですか。作家のイメージや古語などのキーワードは新しい読者をミスリードしていますね。いわゆるマニアックなのですかね。そもそも芥川賞は大なり小なりそういう性質を評価する文学賞なのかもしれませんね。元来はそういうものではなかったと思うのですが、大衆小説と溝を開けんがために、努めてマニアック路線になったのでしょうね。それならばマニアック賞にした方がいいです。芥川龍之介は当時としてはそうだったのでしょうか。無関係な名前を冠した文学賞は日本語としても問題ですね。

乳と卵に対する過去投稿も拝見しました。まったく思いもしていなかった内容でした。これまた強烈に参考になりました。回答者さんの書評がサイケということはないのですよね。
私の思考回路は、えらいこっちゃですわ。久々に衝撃を受けました。この衝撃を芸術というのかもしれません。

本のご紹介にも感謝しております。読もうと思います。

私にはすぐに返す言葉もありません。少し時間を頂いてまたお礼等させて下さい。

お礼日時:2011/07/31 21:04

 視点移動技術については、小説を書かれる方なら興味深いでしょうけど、読む側にしてみれば、解説したところで「だからどうなの?」と思われるような気がします。

面白い作品の技術解説なら興味も沸くでしょうけど。まあ、とりあえず。

 この作品は、夢を見ない貴子が夢をみる話なのですが、そのための仕掛けとして、まず、現在の永遠子と過去(夢)の永遠子の視点を混濁させ、次に、貴子を視点人物にしたパートと、永遠子のパートを交互に繰り返すことで永遠子の視点の「信頼性の無さ」を貴子になじませていき、最後に永遠子から貴子への視点移動を行うことで、貴子が夢を見る、という形になっています。
 わかりやすく言えば、貴子は夢を見ないのだけど、永遠子の夢(回想、もしくは現実)の中に出てくる貴子が視点人物になることによって、貴子が夢を見る、という構造になっているわけです。

 最初の仕掛けは冒頭部分。「後部座席を確認する春子の視線を~」までの視点人物は現実の永遠子なのですが、「夢のなかでの狸寝入りなど~」あたりで、夢を見ている永遠子を客観視している永遠子に視点人物が移動しています。
 この視点が曲者で、一見非人称の視点(映画で言うカメラ)のように振る舞うのですが、実は「夢のなかで狸寝入りをしているつもり」の永遠子による一人称に近い視点でもあるわけです。
 だから、地の文がいくら「永遠子は眠ったふりを続けた」などと言っても、全く信用できない。寝ぼけて「寝てません」とか言っているような状態ですから。
 基本的にこの小説の地の文をリードしているのは、そういう状態の語り手なので、こんなものを真面目に読んではいけないのです(笑) それにとどめを刺すのが「永遠子は、隣で眠る貴子のしめった吐息が首筋にかかるのも、自分が乗っている車体をとりまくひかりも、なにもかも夢とわかってみていた」という無茶苦茶な一文。
 この一連の展開で、地の文の語り手の信憑性を無くし、その所在を不明瞭にすることで、現実と夢、夢と過去、現実と過去の混濁をさせるための仕掛けを張っているわけです。
 この辺のくだりは簡単なシステムですけど、小説の視点技術についてきっちり理解していないと書けません。

「電光掲示板に『逗子』と行き先が~」から、寝る前の貴子を視点人物にしたパートになるわけですが、貴子は「夢を見ない」わけですから、普通に現実から回想シーンへと移行するようになっています。しかし、貴子のパートと、永遠子の信頼性のない、夢なのか回想なのか現実なのか過去なのかわからないパートが交互に繰り返された後、「貴子が永遠子をみかけたのは海岸沿いの盆踊りに出かけた同日だった。当日、永遠子は自分が行ったはずのない場所で貴子が自分のすがたをみていたことが、人違いであるとは永遠子自身にも思えなかった」の一文によって、貴子から永遠子への視点の受け渡しをやり、これによって二人の視点を混濁させます。つまり、この一文によって、貴子のパートと永遠子のパートは同化して、その結果、貴子の回想は「夢」になるわけです。
 もっとも、「電光掲示板に~」から始まる貴子の回想シーン自体、「ふたりとも眠ったのかしら」の伏線の効果で、本当に寝る前の現実なのか、寝た後の夢なのかが曖昧になっており、この時点で既に仕掛けには入っているのですけどね。

 この手の技術を使いこなす作家には古井由吉がいて、「杳子」は、めちゃくちゃ巧いくせに眩惑的な恋愛小説としても読めるレベルに仕上がっています。この作品も芥川賞受賞作ですが、こちらは間違いなく日本文学史上に残る名作なので、これと比較するのはちょっとかわいそうではあります。でも、『きことわ』を無理して読むくらいなら、こっちを読んで欲しいかな。

 筋のない小説の、日本での代表作は夏目漱石の『吾輩は猫である』です。あれが嫌いなら、たぶんこのタイプの小説とは相性が悪いのだと思います。
 あれが大丈夫なら、ジョイスの『ユリシーズ』やトーマス・マン『魔の山』などを読んでいけば、そのうち耐性が付いてくるでしょう。
 これら作品は本としては分厚いですが、実際は短い話の積み重ねで構成されているので、一気に読もうとしなければ、それほど負担もかからず読めるかもしれません。

「乳と卵」については前に回答した文章が残っているので、こちらを参考に。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6372770.html

この回答への補足

回答有難うございます。なかなか先に読み進められないでいますが、rkd4050 さんの言わんとすることがようやく分かってきました。「耐性がつく」との指導は面白かったのですが、こういう精神に常ならぬ構造を持っているかのような文章を、読破できるの人は、それだけで読書の体力があると言えます。戦闘機のパイロットでないと耐えられないGが掛かっているような本です。普通なら空中分解もんです。

今回、読書とはそういう事でもあるのかと、読書の可能性を教えていただきました。
視点移動の知識は読書する人にとっても必要だと思います。この作品はまさしくその技術を楽しむ物なのではないでしょうか。それが分かっていませんでした。それだと楽しめない本ではないでしょうか。

三人称の小説は書くのに技術がいるなどと言われていると思うのですが、この小説は非人称まで入っているという感じですかね。その離れ業に成功しているのでしょうか。一文一文の日本語がまるでド素人作家みたいに読みにくい語順になっていると思うのですがそれを意図的だと評価してやるべきなのでしょうか。かなり読みにくい日本語であるのは事実ですよね。まちがっても日本語のお手本にしてはいけないものだと思います。
厄介な質問かもしれませんが、人称が分かりにくい文章において、技術がないのと、あえてそうしているのと区別する証拠になるような部分はないものでしょうか。

>「それにとどめを刺すのが「永遠子は、隣で眠る貴子のしめった吐息が首筋にかかるのも、自分が乗っている車体をとりまくひかりも、なにもかも夢とわかってみていた」という無茶苦茶な一文。」

とどめという言葉に笑ってしまいましたが、ちなみに具体的に言うと、どのように無茶苦茶なのでしょうか。

読者としては、最早この小説よりも、rkd4050 さんの解説の方が断然面白いです。


※ここに書き出し部分を引用しておきます。

「 さっきまで車内を賑わせていたたあいない会話もすでにとぎれて静まりかえっている。ひとしきりふざけあっていたが、長引く渋滞で貴子は眠ってしまった。すぐそばで立つ貴子の寝息を永遠子も聞くうち、意識は眠りに落ちこみかけていた。運転席から、「ふたりとも眠ったのかしら」と貴子の母親の春子の声があがる。永遠子はうすくあけていた目をつむる。後部座席を確認する春子の視線を瞼のうちでとらえる。目視しようのない春子のすがたをみている。夢のなかでの狸寝入りなどはじめてのことだと永遠子は思いながら、眠ったふりをつづけた。」

やはり全部駄目な日本語に思うのです。意図的ですかね。単に校正前の自然な姿なのではないでしょうか。
一文目から言葉のリズムがおかしいように思うのですが、きりがない話なので、別の部分を事上げすると
「眠ってしまった」「眠り」、「視線」「目視しようのない」などの言葉の重なりに、どうしても表現が乏しいのではないかとの抵抗感を覚えてしまいます。「貴子の母親の春子の声があがる。」とか。
幻惑的な物語を、人並みの日本語で、表現できないのでしょうか。それでこそ評価に値すると思うのですが。
慣れぬ読者としては、一つ一つの日本語につっかえてしまい、どんどん不愉快に頭が冴えてきます。倒錯にまで至りません。
飲み込めない物には、やはり噛み応えがありますね。

補足日時:2011/08/01 21:47
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この回答へのお礼

ご推薦に従い、古井由吉著「杳子」を読み始めました。こちらは日本人の文章です。読めます。
ただ難しいですねえ。イメージ作業自体は私は得意な方に思うのですが、他人であるこの作家の、非常に自我の強いこの文に対応して、イメージする作業は、文学適応力次第になって、難しいです。今度は逆に不快感もなく、先へ行こうと思えばすらすらと読み進められるのですが、結局私には何だったのか、字を読んでいるだけになってしまいます。
これは夏目漱石にもまして、なかなか話が前に進まない文章ですね。初心者の私なりに感じた文体の味を、感じたままにたとえてみると、しょう油ではなく、よく冷えた濃厚ドレッシングです。だまになっている気もします。

rkd4050 さんにお付き合いしていただいて、
非常に勉強になっております。一生見つからないはずの文学の裏道をこの二、三日で教えていただけました。今後何年ひとり読書しても、ほとんど成長しなかっただろう、と自己批判を始めてしまうくらい、収穫がありました。rkd4050 さんの当たり前は、私にとっては宝物なのです。今後ともご教授のほど宜しくお願いします。

お礼日時:2011/08/03 02:22

 そもそも芥川賞は、新人の「純文学」作品に贈られる賞です。

純文学とは、娯楽性や商業性を無視して、小説の技術的可能性を追求した(しているつもりの)作品のことです。単なる文学作品よりも「純」である分、よりハードコアなジャンルだと言えます。しかも、新人だからうまいとは限らない。むしろ下手な可能性が高い(新人の中から半年に最大2作も選ばれるのに、質を維持できるはずがない)。

 だから本当は、文学作品をいろいろ読んだ後で、新人発掘を楽しめるようになってから手を出した方がいいです。
 下手なだけなのと、難しいことに挑戦した結果、下手なように見えるのと、巧すぎて理解できないだけの区別を付けるにも、やはり良質な作品を読んで、自分の中で基準を作っていくしかありません。

 ダメな日本語だという指摘は、半分は正しいです。ただ、質問者さんがダメとする理由と、私がダメと思う理由は少しズレていると思いますが。
 この手の眩惑的な小説を書くなら、流れるような文章を書くべきです。読んでいて引っかかりを感じる文章を書くようじゃ話になりません(グルーヴが足りないとはそういうこと)。
 ひらがなを多用した小説を書くなら、谷崎潤一郎の「盲目物語」(ひらがなを多用することで盲目の「視覚」を読書感にまで再現した小説。点字を指でなぞるように読む独特の感触は、作品の内容以上に変態的)を写本して出直せと言いたい(笑)
 逆に、かっちりとした文体と視点移動による眩惑的な感触のギャップをウリにしたいなら、夏目漱石『夢十夜』あたりを手本にするべきです。

 半分正しくないというのは、あの文体こそが「現代文と古典のリズムの融合」とやらである、ということです。つまり『きとこわ』を絶賛している専門家の、最大の賛辞ポイントとなっている、らしい。
 私は古典研究をしてないので、その価値がわかりませんし、一般読者からすれば読みにくいだけですが、どうも一部の読者にとってはアレがいいらしい。単に「混ぜるな危険」だと思えてならないですが、評価基準を持たない要素については「評価できない」としておくのが、公平な批評というものです。
 この点は私も興味があるので、機会があれば古典研究をしていて、かつ現代文も読める友人に聞いてみようと思いますが。

 無茶苦茶な一文と言った理由は、三人称の語り手が嘘を吐くのは反則だからです。なのにこの語り手は、どう見ても嘘を吐いていますよね。現実の出来事を「夢とわかってみていた」と言っているのですから。
 では、これは反則なのかと言えばそうではなく、「三人称の地の文では嘘を吐かない」の原則により、この一文によって「車に乗って居眠りをしている」という、今まで現実だと思われていた世界が夢となり、夢の中で狸寝入りをしながら夢を見るという、意味の分からん構図を完成させているのです。
 一方で、この語り手が単に寝ぼけて、わけのわからんことを言っているだけの可能性も捨て切れないようにもしているわけですけどね。

 ここまで露骨に油臭い技術をむき出しで使ったら雰囲気ぶち壊しだと思えてならないのですが(だから個人的には好かない)、もともと難しい技術だから、ある程度失敗していてもマイナス評価にはならないですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。いろいろと参考になっています。いわば文学社会に欠けているので、芥川賞が純文学の短編とは知ってはいるものの、その取扱いを分かっていませんでした。あくまでもその作家に関心のなかった者にとって、新人発掘コーナーなのですね。一般世間はそういう感覚では見ていないですよね。新人に贈られる賞と知っていながら、実力の可能性であるはずが、一流文人の既成事実になっています。

古典に詳しいご友人の意見は私もぜひ聞きたいです。よろしくお願いします。

谷崎の作品など、具体的な作品のご紹介ありがとうございます。

本件の「きことわ」の読書は、質問文の引用箇所で止まっている分際ですが、
夢の中で夢を見る視点技術を使っているのですよね。冒頭の車中の場面は、夢ですよね。
夢を夢だと分かって見ることができる、一般的ではない人物が、「永遠子」なのですよね。
夢という場を借りて、分裂ぎりぎりの表現をするための物語、筋書きですよね。
時空がぐちゃぐちゃになっているようなのものが古典にもあるのではないでしょうか。さすがに現代小説では批判されるので夢の滅茶苦茶さを借りたということなのでは。

いずれにしても今のところ「古語」は見出せませんが。


これを投稿しようと思って、その前に今一度、回答欄を確認したら、回答No.4がついていました。その投稿時刻前に書き始めたお礼ですので、0時48粉ですがそのまま投稿します。

ご友人はこの作家がお気に召さない感じでしたか(笑)その方も古文は好きなのでしょうから、評論家どもの古典好きは理由にはなりませんよ。いよいよ乳と卵みたいなパターンではないでしょうか。媚を売った文章に、鼻の下を伸ばしただけ。

それよりもなによりも、いろいろとご熱心に回答していただきまして、
本当にありがとうございました。楽しくなってきました。

肝心の古典ぽいのは、どこら辺なんでしょう。奇しくも私ごときが言っていた読みにくさからくるまったくの錯覚でしょうか。古語復興は妄言ですか。どおりで日本語としてもおかしいはずです。

お礼日時:2011/08/04 00:59

 友人と連絡が取れましたので意見を求めたところ、古典の文章は技術的な意義があってああいう形になっているのではなく、読者が貴族に限られ、読み易く書く工夫をする必要がなかったから結果として読みにくくなっているだけだから、その文体をわざわざ現代の散文に取り込むことには意味を見い出せない、というような回答でした。



 つまり、読みにくい文章の真似をして書いたから読みにくくなっただけのことで、それ以上でも以下でもないようです。
 古語復興とか言って喜んでいる人は、単に古典が好きだから、それっぽい文章が出てきて嬉しくなっただけなのでしょう。個人的かつマニアックな趣味の問題であって、客観的に判断して優れている要素、というわけではないようです。ただ読みにくいだけ。
 私としても疑問が晴れてすっきりしました(笑)
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 そもそも「古語復興」という言い回しが、どういう文脈で使われているかわからないと話にならないので、実際に調べて、番組を観て確認しました。

ついでに対談も読みました。
 ……最初に確認すべきだったような気もしますが。

 それではっきりしたのですが、朝吹真理子は、現代文に古語を復興させたいという願望がある、と言っているだけで、『きことわ』で復興させたと言ってるわけでも、誰かがそういう評価をしているわけでもない、ということです。

 富岡幸一郎も、『きことわ』には「古語の響きが混じっている」としか言っていません。具体的にどこがどう古語らしいという話ではなく、雰囲気的にそんな感じがする、という程度の話。しかも、それがいいとも悪いとも言っていない。ただ、若い作家がそういう野心的な試みをしていることを評価しているだけです。

 つまり、「将来が楽しみだ」という形での評価はされていますが、誰も「『きことわ』は傑作だ」とは言ってないし、「『きことわ』は古語を復興させた」とも言ってないのです。ただ、「『きことわ』の作者は古語を復興させる野望がある」というだけの話です。

 いい加減長くなりすぎたので、ざっとまとめましょうか。

Q1.この作品のどこが古語復興なのか。

A1.朝吹真理子に古語復興の願望がある、というだけで、この作品で古語を復興させたわけではない。

Q2.どの辺に「古語の響きが混じっている」のか。

A2.主に無駄なひらがなの多用。あとは、妙に一文が長いなあとか、いつになったら主語が出てくるんだとか、変な読みにくさを感じたら、それが「古語の響き」。

Q3.それがどういいのか。

A3.ただ読みにくいだけで、いいことは何も無い。ただ「古語復興への野望」の一環ではあるから、失敗してはいるけど将来性を買う要因のひとつにはなっている。

Q4.この作品のどこが評価されて芥川賞を取ったのか。

A4.かなり難易度の高い技術を使って作品を構成している点(これは日本の古典ではなく、フランスの実験小説に近い)。難しい技術を使ったからといっていい作品が書けるわけではなく、実際、この作品では露骨に技術を使いすぎて、肝心の雰囲気を壊している。しかし、芥川賞は新人の将来性を買う賞なので、新人が高度な技に挑戦していたら、出来不出来はともかくチャレンジ精神は買う。
 古語復興への野望がどの程度評価されたかは不明。ただ、読みにくい文章が、ただ下手なのではなく、野望への挑戦の一環として行われた結果である、ということで、マイナス評価を免れた可能性はある。

Q5.芥川賞を取ったのだから、この作品は傑作ではないのか。

A5.芥川賞は新人賞であり、作品の完成度ではなく、作家の将来性を重視する賞である。芥川賞受賞作=傑作なわけではない。
『きことわ』は、作者が最近の新人の中では高度な技術への知識があり、古語復興という大それた野望を持っていて、将来が楽しみだから選ばれただけで、あれそのものが文学史上に残る傑作だ、というわけではない。

Q6.なぜ、たかが新人賞をあんなに大々的に宣伝するのか。

A6.もともと芥川賞はほとんど注目されていなかったが、石原慎太郎が『太陽の季節』で、学生でありながら受賞し、しかも内容がアレだったため大評判となり、以来、マスコミが無駄に大きく取り上げて過剰に持て囃すようになった(特に学生作家が選ばれると、決まって「石原の再来」とか言って、それだけで大きく取り上げる。どうせ連中はろくに作品を読んでないし、文学のことなんてまるでわかってない。ただ「若き天才」と言って騒ぎたいだけ)。そしてその彼は今では、古くさい文学センスを活かして審査員をしている。つまり、芥川賞にまつわる問題の元凶は全て石原慎太郎なので、文句は彼に言って欲しい(笑)

 これで、疑問の数々は解決したのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

きれいにまとめていただきまして恐縮しております。
手とり足取りのご指導で、文芸に関する常識をご教授していただきました。感謝の気持ちを表現しきれません。おかげ様で一皮向けたような気がします。

賞の選考員もスター誕生にかかわりたいのでしょうね。

「きことわ」の読書はまだ途中ですが、だいぶ読めるようになってきました。凝った構成にしているためか、慣れぬ読者にとっては前半部が取っ付きにくい小説なのかもしれません。文章と読解のテンポが合ってくるとそれなりの魅力も感じて参りました。

これからまたこのような質問をするかもしれません。宜しければまた、面倒見てやってください。
私は本の楽しみ方を初めて知り得たのだと思います。ご友人様にも宜しく。
大変ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/05 20:41

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