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西ベルリンは東ドイツの中にあって壁で守られていたので東ドイツ国民はベルリンに入ることが出来なかったのは理解できます。しかし、ベルリンを除く西ドイツと東ドイツは国境線も長く海も山もあるので脱出や移動が可能な気がしますが(壁で無く鉄条網か?)警備が厳重で脱出出来なかったのでしょうか?1980年代後半はハンガリーから脱出してベルリンの壁崩壊に向かうようですがそもそも国民が大挙して万人単位で国境線破れば取り締まれないような気がします。

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A 回答 (4件)

東ドイツ側は通行出来る場所ではベルリンの壁と同程度の警戒をしていましたし、通行できない場所は鉄条網が張られ地雷がたっぷりと埋まっていて自動で銃撃する装置が設置されていました。



以下の写真が当時の国境の写真ですが、東側が設置した鉄条網が張られ、自動発砲装置が設置され、東西を挟む立入禁止部分には地雷が埋まっています。
http://www.be21.ne.jp/pepisode189D22-281.jpg

自動発砲装置とは、地雷が埋まった無人地帯に何かが入り込むと自動的に銃撃する無人の装置です。

>そもそも国民が大挙して万人単位で国境線破れば取り締まれないような気がします。

確かに、自動発砲装置の弾が尽きて、全部の地雷が爆発し切れば、そのあとは、1万人の民衆が雪崩れ込むのを防げません。

ですが、1万人の集団の先頭に立つって事は、自動発砲装置と地雷の餌食になると言う事なので「100%の死」を意味します。

なので、だれも先頭に立とうとしなかったのです。100%死ぬと判って先頭に立つ馬鹿は居ませんからね。誰だって命は惜しいのです。
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この回答へのお礼

写真ありがとうございます。鉄壁の守りで逃げれる気がしません。ドイツ人はこういうとこまで几帳面ですごいです。

お礼日時:2012/01/11 13:22

東ドイツは西ベルリンを西ドイツ領とは認めていませんでした


東ドイツにとり西ベルリンは東西ドイツに次ぐ第三のドイツでした
(成立間もない西ドイツは東ドイツと相互承認するまでは東ドイツの存在も否定して
ドイツ連邦共和国が唯一のドイツ国家と主張していた)
従って東ドイツは西ベルリンに西ドイツ軍(連邦軍)の駐留を絶対認めなかった
東ドイツでは西ドイツに亡命することは大罪であるが、西ベルリンなら西ドイツではないから
失敗して殺されず捕まっても罪が重いことには変わりないがより軽い

西ベルリンに駐留する西側軍は微弱で有事になれば駐東独ソ連軍が圧倒出来ますが
東西ドイツ国境になると話は別で緊密で長い距離の地雷原を設置してあります

特に大戦中独ソ両国は仕掛け地雷、二重設置地雷も含め地雷敷設技術も巧みで
到底素人が突破して西ドイツに逃げ込むことは不可能に近い
ならば危険であることには変わりないがよりリスクの低くより短時間で済む西ベルリンへ逃げることを考えるでしょうね
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この回答へのお礼

東ドイツの建前と地雷の技術で西ベルリンに亡命するんですね。すっきりしました。ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/18 02:30

境界線が長いとはいえ,かなりの幅の緩衝地帯があり厳重に警戒されていましたから突破するのは困難だったと思います。

70年代後半に東西ドイツ国境やベルリンの壁を通って旅行したことがありますが,それはものすごい警戒のしかたで緊張しました。ちょっとしたミスが拘束や銃殺に結びつく可能性もありましたから。

分断されていたころは国境突破を試みた人は数多くいたし,その中には成功した人も失敗した人もいました。小型船で海から国境越えをしたというニュースもありました。しかし藻屑と消えた人たちもいたでしょうね。現在の脱北のようなものです。

とはいえ全体から見れば命を懸けてまで国境を越えようとした人は少数派でした。成功したにしても元の家族や友人とは一生会えない可能性が高かったわけですから。
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なお「ベルリンの壁」には、地雷もありませんし、自動発砲装置もありませんでした。



壁の裏側に無人地帯はありましたが、監視塔から国境警備隊が監視しているのみでした(無人地帯に立ち入ったのを発見されると監視塔から銃撃されるのは国境と同じです)

なので、東から西へ脱出する場合は、警戒が厳しい国境ではなく、ベルリンの壁を越えて脱出するのが多かったようです(そっちの方が死ぬ確率が遥かに低い)
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Q西ドイツ・東ドイツはどこで分かれていたのですか?

こんにちは。
旧東ドイツと旧西ドイツがどこで分かれていたのか知りたいのですが、私の手元には現在のドイツの地図しかなく調べる事が出来ませんでした。
どなたか、西ドイツと東ドイツに分かれていた頃の地図の載っているホームページをご存知ではありませんでしょうか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

西Berlinは東ドイツの中にぽっかり浮かぶ、西ドイツの飛び地として存在していました。
従ってkingyonohireさんのおっしゃる「東と西の分かれ目」と「ベルリンの壁」は別の場所です。でも「ベルリンの壁」が飛び地を仕切る厳然たる国境でもあったこともまた事実です。

さてご質問ですが、手許にドイツの地図があるのであればそう難しい相談ではありません。
その地図には州の区分は書いてありますか? 昔の東ドイツ地域に属する州はMecklenburg-Vorpommern、Sachsen-Anhalt、Brandenburg、Sachsen、Thueringenの5州とBerlin特別市(の東の領域)です。
旧国境はThueringen森を西に走り、Wuerzburgの北100kmくらいのところで北に向きを変え、Harz山のすぐ西を通り、Elbe川に沿ってHamburg方向に伸び、Luebeckの東でバルト海に達していました。

とりあえず、参考になりそうなページを付けておきます[1]。州ごとの特徴を日本語で説明したページですが、一番上に「地図」と書かれたリンクがあり、これを押すと地図[2]に飛びます。地図はドイツ語で書かれていますが、州の区分を見るだけなら特に困ることもないと思います。

[1] http://www.flc.u-tokai.ac.jp/german/land.htm
[2] http://userpage.chemie.fu-berlin.de/adressen/bl/bundeslaender.html

2年ほど前にドイツを訪ねた折に旧国境付近の5万分の1の地図を買ったのですが、旧国境を境に旧西地域と旧東地域で地図の記号や表記が微妙に違っていたのを興味深く感じたことがあります。(余談でした)

参考URL:http://www.flc.u-tokai.ac.jp/german/land.htm, http://userpage.chemie.fu-berlin.de/adressen/bl/bundeslaender.html

西Berlinは東ドイツの中にぽっかり浮かぶ、西ドイツの飛び地として存在していました。
従ってkingyonohireさんのおっしゃる「東と西の分かれ目」と「ベルリンの壁」は別の場所です。でも「ベルリンの壁」が飛び地を仕切る厳然たる国境でもあったこともまた事実です。

さてご質問ですが、手許にドイツの地図があるのであればそう難しい相談ではありません。
その地図には州の区分は書いてありますか? 昔の東ドイツ地域に属する州はMecklenburg-Vorpommern、Sachsen-Anhalt、Brandenburg、Sachsen、Thueringen...続きを読む

Q東ドイツと西ドイツでの価値観・国民性の違いについて

あまり歴史には詳しくないのですが、

東ドイツ=社会主義
西ドイツ=資本主義

といったイメージを持っています。

ドイツが分断されていた年月は、歴史全体から見れば僅かですが、当然、両国での教育や国民性は異なっているかと思います。

それぞれの国の教育による価値観や、国民性は、それぞれどういったものであったのでしょうか。

また、東ドイツが西ドイツに吸収されて今のドイツができたようですが、西ドイツと今のドイツの価値観と国民性には、根本的な違いはないのでしょうか。

Aベストアンサー

東ドイツ=DDR=Deutsche Demokratische Republik=ドイツ民主共和国=共産主義
西ドイツ=BRD=Bundesrepublik Deutschland=ドイツ連邦共和国=民主主義

東ドイツの教育は普通の授業と平行して、職業訓練も重要視されていました。
例えば、秋になると、農家の収穫を手伝うとか、Lehring, Geselle, Meisterと言った職人の見習い制度も重視されていました。

西ドイツでは保育園、幼稚園が不足していましたが、東では、保育園、幼稚園が充実していたようで、働きたいが、子供を預けられないといった心配はほとんど無かったようです。

西ドイツでは学校で初めて習う外国語がラテン語か英語ですが、東ドイツでは、ロシア語か英語、ラテン語でした。ですから、東出身の人はロシア語が分かる人がけっこういます。

また、東ドイツでは、SED=Sozialistische Einheitspartei Deutschelands=ドイツ社会主義統一党だけが、政党で、この政党党員の子供と、農民の子供が大学に行け、そこの党員でない人の子供は優秀でも大学に行けませんでした。

また、Abi(Gymnasiumの卒業試験)で彼らは、SEDをたたえる論文を書かなければ、大学に行けなかったそうです。

そして、例えば、農民の子が無事大学を卒業して、エンジニアになったとして、その人がSEDの党員でなければ、いくらその子供が優秀でも大学には入れてもらえない仕組みになっていたそうです。
もし、党に入っていない人の娘が優秀で、大学に行きたいのに行けないとかになると、身近な西ヨーロッパから来ている外国人とその娘が、偽装結婚して、彼の本国から西ドイツに渡って西ドイツの大学へ行くなどと言うこともあったようです。
教育自体は、西ドイツよりも東の方が良かったようです。

嘗て、東ドイツはオリンピックでメダルを多く稼いでいましたが、彼たちはSEDの格好のプロパガンダで、子供のころから、ドーピング漬けにされていた人達がほとんどで、ドイツ再統一後は大きなスキャンダルになっていました。
フィギュアースケートのカタリーナ・ヴィットはよくホーネッカーと雑誌などの写真に写っていて、プロパガンダの代表だったとも言える人です。

国民性の違いといって、バイエルン人と東プロイセン人との違いは無いと思います。ただ、地理的な関係で東プロイセンの人の引揚者が、東ドイツには多かったと思います。

東ドイツの時代は、友達や隣人がお互い見張っていて、スパイさながらの写真を撮って密告するなど、日常茶飯事、平気でやっていたようです。ですから、人を信じない人が多かったのではないでしょうか。

東ドイツでも東ベルリンでは、夜8時のARD(西ドイツの1チャンネル)のニュースが見る事が出来ました。西からの新聞、雑誌、出版物は禁止で、バナナ、オレンジ、チョコレート、コーヒーは市場にありませんでした。当時の東ベルリンのアレキサンダープラッツの喫茶店ではインスタントコーヒーで、その広場のスーパーでは、脂身の多いサラミーソーセージとラベルの貼っていない缶詰ばかりが目立っていました。缶詰は買って帰って、どうやって中身を判断するのか不思議に思ったものです。チェックポイント・チャーリーの国境を越えた東側は廃墟のビルしか見えず、人の気配が全くしない感じの所でした。

また、壁が崩壊する前、ハンガリーがオーストリア国境を開けると言った時に自分達の子供を置き去りにして、逃げた親が多くいて、壁の崩壊直後、当時のコール首相夫人が自らバスを運転して、その子供達を救いに行ったのは有名な話しです。

現在、嘗てDDRだった地方は、西よりも、目だった産業も無く、若者の失業率も高く、ザクセン州などはネオナチなどに走る若者がけっこういます。最近は親子3代ネオナチなんていうのもあるようです。

ベルリンの現在の国会議事堂内に国境線がありました。
そして、その脇に川が流れていて、鉄格子で仕切られている横に、十字架がいくつもあって、見れば、その前の年に撃たれた人のものもありました。30年前の話です。皆自由に行き来できる、いい時代になりました。

東ドイツ=DDR=Deutsche Demokratische Republik=ドイツ民主共和国=共産主義
西ドイツ=BRD=Bundesrepublik Deutschland=ドイツ連邦共和国=民主主義

東ドイツの教育は普通の授業と平行して、職業訓練も重要視されていました。
例えば、秋になると、農家の収穫を手伝うとか、Lehring, Geselle, Meisterと言った職人の見習い制度も重視されていました。

西ドイツでは保育園、幼稚園が不足していましたが、東では、保育園、幼稚園が充実していたようで、働きたいが、子供を預けられないといった心配は...続きを読む

Q壁が存在していたころの西ベルリンの人々の生活についての疑問

かつて西ベルリンは東ドイツの中の飛び地だったそうですが、西ベルリンの住民はそこから出る必要のあるとき、例えば、西ドイツ本国に行くときなど、どうしていたのでしょうか。飛行機を使っていたのでしょうか。車や鉄道を利用して、西ベルリン住民が東ドイツ内を通ることはできたのでしょうか。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

1971年のトランジット協定により西ドイツ-西ベルリン間は、航空機はもちろん鉄道・自動車などの陸路でも検問も比較的簡単で自由に行き来できたそうです。
西ドイツ・西ベルリン市民は、東ドイツ通過の際にパスポートは不要で身分証携行だけでよかったそうです。
通過の際、ビザ代が徴収されましたが、これは西ドイツ政府が肩代わりして支払っていたそうです。

Qなぜソ連は西ベルリンを東ドイツの領地としなかったのですか?

質問はタイトルのとおりですが、
普通に考えるとおかしいですよね?
西ドイツから空輸で物資を運んだり、
壁のお金も結構かかったでしょうに…
なぜでしょう?
素人なので分かりやすく説明して下さい。

Aベストアンサー

私もタダの検索結果だけですが,#1 の方のお書きの通りの様です。

 下記サイトの記載によると,『戦後ドイツの処理をめぐって結ばれたベルリン協定で,戦後ドイツは四カ国によって分割占領される事。首都ベルリンも同様に分割占領する事。』が決められていた様です。

 ・http://www.maedafamily.com/kanren/berrin.htm
   ベルリン危機

参考URL:http://www.maedafamily.com/kanren/berrin.htm

Q夫がネオナチです。

40代の夫は、いわゆるネオナチです。

もちろん結婚するまで、このような強い思想を持っているとは知りませんでした。

ヒトラーを崇拝し、自らもそのような人物になりたい。
自分の子供に、「ハイルヒトラー」と叫ばせたいと。
私もいろいろ勉強しました。
現在でも、賛否両論、喧々囂々、さまざまな解釈がされていますね。

無知なときにはただ、独裁者であることと、大量虐殺を行った人物であることしか知らず、ただ恐れていましたが、少し勉強して、彼の生い立ちや、歴史的背景などがわかりました。

私の結論は言うまでもなく、ヒトラーはコンプレックスを大きく抱えた異常者であるということです。(差別感をあのように現実化する)

どんな言い訳も、通用しないと思います。

また、形式美をたたえる向きもありますが、愚の骨頂です。

もう何年も夫を説得してみましたが、変わりません。
この際個人の思想は尊重します。

子供に悪影響を及ぼすことだけが心配でなりません。
ヒトラー崇拝の方、なぜ?どんなきっかけでそのような思想に?

教えてください。

また、同じ境遇で、子育てされた方、経験談、アドバイスなどいただきたく思います。

40代の夫は、いわゆるネオナチです。

もちろん結婚するまで、このような強い思想を持っているとは知りませんでした。

ヒトラーを崇拝し、自らもそのような人物になりたい。
自分の子供に、「ハイルヒトラー」と叫ばせたいと。
私もいろいろ勉強しました。
現在でも、賛否両論、喧々囂々、さまざまな解釈がされていますね。

無知なときにはただ、独裁者であることと、大量虐殺を行った人物であることしか知らず、ただ恐れていましたが、少し勉強して、彼の生い立ちや、歴史的背景などがわかりました...続きを読む

Aベストアンサー

ネオナチといってもいろいろあります。
いわゆる「あのころは良かった」というナチス残党組と
失業者を中心とした外国人排斥思想組、若者を中心とした白人至上主義組等ですね。

日本の場合は移民自体が少ないために外国人排斥活動は見かけませんが
若者を中心とした弱者排斥思想は日本でも同じです。いじめや浮浪者刈りは
その典型ですよね。こうして現状に対する不満を外国人や弱者にぶつけるのが
最近のネオナチであり、その大義名分がナチスの政策なんです。
なので単にヒットラーが好きという理由のネオナチは少数派なんですね。
アメリカの有名なネオナチ指導者なんて父親が黒人に殺されたからという
理由でネオナチの活動家になっただけですしね。

御主人が立派なネオナチなら華僑が経営する中華レストランや在日朝鮮人が
経営する焼肉屋への破壊活動は当たり前に実践しているはずでしょう。
そういうことをしないで家でヒットラー最高といっているだけであれば
単なる「オタク」です。心配ありません、この手のオタクはたくさんいます。

軍服を見るとワクワクしてくるというかなんというか
細かい政策云々よりもその時代に対する憧れが中心ですからね。
私の中学時代の同級生にも強烈な国粋主義者がいました。彼の部屋は
日章旗はもちろんのこと満州国の地図、軍刀をたずさえた自分の写真も
貼ってありました。

軍事関係の雑誌を見ればナチス関連のグッズを扱う業者はたくさんいます。
それだけナチス好きな日本人がいるということでしょうが、日本では
あまり外国人排斥活動は見当たりませんね。(たまに在日朝鮮人に対する
いやがらせはありますけど、リンチがあるというわけではないし)
みんな、家やサークルの中で「ハイル・ヒットラー」といっているだけの
ナチスごっこにすぎません。たぶん、女性にはこの手のマニアぶりが
理解できないでしょうが、そんなに実害はないでしょう。

子供は親だけと過ごしているわけではありません。少なくとも両親が
違う思想であれば、成長するにしたがって「アホちゃう」と思いますよ。
ただ、御主人が実際に外国人排斥に対して行動をおこしていて
外国人へのリンチをしているようであれば、それは別の問題ですが。

ナチスについて勉強されているようですが、再度、優生学について
勉強してみてください。ナチスの場合は公衆衛生学と言う場合が多いのですが
この法律を題材に御主人に同意できるかどうか、できるのであれば
堂々と選挙に立候補するように勧めてみて下さい。選挙公約には
「ハンセン病訴訟の国家賠償の反対」として。ヒットラーは権力者では
ありますが、それ以前に政治家です。彼がまともと言える点は自分の主張を
選挙で訴えて権力を握ったことです。御主人がヒットラーのようになりたいのであれば
ちゃんと政治家として活動するべきだと思います。それができないようであれば
やはり、オタクとしか言えず、心配する程のことでもないと思いますよ。

繰り返しますが、問題はネオナチとはヒットラーに対する個人的な評価ではなく、
ナチスが提出した法律、政策の問題です。ヒットラーがどいう人物であったかを
議論するのではなく、政策面で話し合った方が有意義だと思いますよ。

ネオナチといってもいろいろあります。
いわゆる「あのころは良かった」というナチス残党組と
失業者を中心とした外国人排斥思想組、若者を中心とした白人至上主義組等ですね。

日本の場合は移民自体が少ないために外国人排斥活動は見かけませんが
若者を中心とした弱者排斥思想は日本でも同じです。いじめや浮浪者刈りは
その典型ですよね。こうして現状に対する不満を外国人や弱者にぶつけるのが
最近のネオナチであり、その大義名分がナチスの政策なんです。
なので単にヒットラーが好きという理由の...続きを読む

Q加重平均と平均の違い

加重平均と平均の違いってなんですか?
値が同じになることが多いような気がするんですけど・・・
わかりやす~い例で教えてください。

Aベストアンサー

例えば,テストをやって,A組の平均点80点,B組70点,C組60点だったとします.
全体の平均は70点!・・・これが単純な平均ですね.
クラスごとの人数が全く同じなら問題ないし,
わずかに違う程度なら誤差も少ないです.

ところが,A組100人,B組50人,C組10人だったら?
これで「平均70点」と言われたら,A組の生徒は文句を言いますよね.
そこで,クラスごとに重みをつけ,
(80×100+70×50+60×10)÷(100+50+10)=75.6
とやって求めるのが「加重平均」です.

Q兌換紙幣と不換紙幣って??

高3です。
日本史の授業で今日先生が言っていた「兌換紙幣」と「不換紙幣」の意味がよくわかりません・・。
金や銀に換えることのできる紙幣、というようなことを言っていたと思うのですが、どういうことなのかいまいちイメージがわかないのです。。
こんな私にもわかるようにかみ砕いて説明して頂けませんか?
よろしくお願いします(>_<)

Aベストアンサー

 再び失礼します、No.7です。

 不換紙幣の発行理由ですが、自信がなかったので検索をかけてみたら、こんなページを見つけました。下の方に書かれています。

 このページは分かりやすいと思います。(わからない部分があれば、また補足をください。可能な限り回答します。)

 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

参考URL:http://www.findai.com/yogo/0013.htm

Q第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由は?

先日、池上彰さんのテレビ番組で「第2次世界大戦のソ連の戦死者は2000万人を超えている」「その恐怖からスターリンは、隣国を共産国にした」ということを知りました。

日本の太平洋戦争での戦死者は300万人くらいと聞いてますが、日本の戦死者と単純に比較できるのかどうかわからないのですが、日本の7倍の戦死者の数には、とても驚きました。

第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由をお教えいただけましたら助かります。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭であり戦略予備といえるシベリアの部隊はありましたが、ノモンハンのときに日本の帝国陸軍と正面衝突を初めてして大損害をうけた経験から、軽々しく欧州戦線に移動させるつもりに、ソ連軍指導部はなれなかったのです。
そのノモンハンのソ連軍総司令官が、スターリン直々に任じられたジューコフでした。

ジューコフは、

1 ソ連軍は弱い

2 だから勝つためには、敵より多くの兵器と兵士を前線に惜しみなく投入し、その重みで押しつぶすしかない

3 だから、兵士も戦車も大砲も、とにかく数をあつめる

ということを、理解していたので、必要なだけの兵力を敵がつぶれるまで投入しました。当然ながら自分より強い相手を数でつぶすのですから、犠牲はふえます。
さらに、この考えをスターリンも支持したので、党、治安組織、軍事思考、動員体制、といったソ連という国家の戦争体制そのものが、勝てるまで人命も装備も前線に突っ込むように構築され、上から下まで人命軽視というより、人命より目的達成、のドクトリンが徹底しました。目的達成が勝利なら、なおよし、です。

そのような体制のもとで運用されたソ連軍の基本的ドクトリンは、

最低でも幅50kmの線に分厚く、最低でも敵の3倍、普通なら5倍、理想は7倍の二陣の部隊を結集させ、

まず砲撃と航空攻撃だけで相手の6割に損害をあたえ、

そして第一陣が弱った敵に突っ込みその第一陣が自分の損害を省みず敵をなぐるだけなぐったら、

味方第一陣の残骸を乗り越えて無傷の第二陣が第一陣と戦ってボロボロになった敵を蹂躙する、というものでした。

装備は更新されたし、戦車・武器も疎開した工場と米英のレンドリースでそろえてはいるが、兵士の教育が低い軍隊にむずかしいことはあまりできません。字の読めない兵士が珍しくないどころか、ロシア語がわからない兵士も珍しくありません。
なので、時には下級将校は選挙で選び出され、そのような将校には反抗するものを軍法会議抜きで「処分」する権利はあたえられました。戦争をしている国家と党に異を唱える者はいらない世界です。
また、女性が前線で銃をとったり、戦車兵をやったり、戦闘機・爆撃機パイロットをしたりしたのも、ソ連軍だけでした。

この残酷な単純化となりふりかまわなさが、精鋭のドイツ軍相手に血を流しつつも、ソ連軍を勝たせたのです。

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭...続きを読む


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