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初期キリスト教の五大本山はいつ頃成立したのでしょう?

もう一つ。
ローマ帝国が東西に分裂後、東ローマは皇帝教皇主義の立場をとり、
コンスタンティノープル教会の総主教を保護指導したらしいですが、
アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの教会については
どうだったのでしょう?
もちろん、これら3教会がイスラム勢力下に入る前の話です。

A 回答 (1件)

質問が2つに分かれていますがまとめてお答えします。



まず、本山についてですが、これは司教(主教)または大司教(大主教)の
いる教会を指します。司教は教会行政の長としていくつかの教会や教区を統
括します。で、各司教は同等の立場にあるとされます。キリスト教会におい
てこのような制度ができてきたのは2世紀ごろからで五本山となったのは、
おおむね4世紀以降です。

また、コンスタンチヌス1世はキリスト教承認後にニケーアの宗教会議を主
催して教会の指導者としてふるまいました。つまり、ローマ帝国の皇帝が教
皇的な立場にたったわけです。ここでコンスタンティヌスはビザンチンに遷
都してこの地をコンスタンティノープルと改名したことを思い出してくださ
い。政治的な強者である皇帝が当然にコンスタンティノープル教会を指導し
皇帝が教皇を兼ねたわけです。ローマ帝国の東西分裂後、それぞれの首都で
あったコンスタンティノープルとローマの教会は皇帝の膝元にあって、皇帝
を教皇として活動し、他の3本山教会よりも優位になります。

5世紀末に西ローマ帝国が滅びても東ローマ皇帝はキリスト教会の保護者と
しての地位を保とうとしました。ここでローマ教会は首座権を古くから主張
していたのとコンスタンティノープルから地理的に離れていることもあって
東ローマ皇帝から比較的に独立していました。

特に726年東ローマ皇帝レオ3世がイスラム教の批判を受けて発布した
「聖像禁止令」をきっかけとして、ローマ教会は独立性を強めようとして、
フランク王国に接近して政治的な保護を獲得し代わりにカロリング朝の正
当性を認めるなどして、東ローマからの支配を脱していきます。最終的に
ローマ教会が東方教会と分離するのはartist0さんの別の質問の1054年に
なります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ではコンスタンティノープルとローマは他の3本山より優位なので、
東ローマにてコンスタンティノープルを指導すると言うことは、
それだけで他の3本山の指導者であるということと同等なのでしょうか。

そう考えれば、ローマとコンスタンティノープルの首位権を欲したのも
納得できます。

お礼日時:2001/05/08 19:52

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