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中世ヨーロッパに度々出てくる「教皇位」というのは一体何でしょうか

各地で各帝国の勢力図が大小に様変わりする中、教皇位はなぜか宙に浮いたような存在感があって、まるでドラゴンボールZに出てくる界王様のように、戦乱の世を天から眺めていて誰も悪人を寄せ付けない感じで、我関せずな印象があります…

教皇に攻撃を仕掛けて教皇の領地も自分の王国にしようとする皇帝達がいてもおかしくないと思うのですが、なぜ当時の皇帝達はそういうことをしなかったのでしょうか?

教皇位はキリスト教のトップ?だから、キリスト教の範囲内だった王国が教皇を攻撃するのはおかしいということですか?

質問者からの補足コメント

  • また、度々出てくる「司教」という人達は一体何でしょうか?
    司教が各地を分担で支配していたような書き方をされているのですが、イマイチどういう役割だったのかイメージできません…

    今の日本でいうと市長みたいな感じの役割だったのですか?

    当時は生まれつき宗教に入っていることが普通だった世界。しかし今の日本は宗教に入っていると無宗教信者達からディスられる世界。

    両者では環境が違いすぎていて、当時の「司教」という役割が今の日本でいう何なのかイメージできません。

    今の日本でも宗教の説法を説く人はいますが、それによって地域は支配できていません。
    でも当時は司教が各地を支配していました。

    司教とは、今の日本で言うと議員のような感じですか?

      補足日時:2023/06/24 16:55

A 回答 (4件)

>なぜ当時の皇帝達はそういうことをしなかったのでしょうか?



お三方の説明はすごく正しいのですが、ちょっとだけ忘れられていることがあるので、補足します。

それは「皇帝」というのは、そもそも軍事・政治・宗教の最高権力者だった」という点です。

「皇帝」には実は2種類あって、一つは日本の天皇を含む中国皇帝やインド皇帝などの「絶対権力者としての皇帝」、もう一つはローマ共和国における「エンペラー」で、共和国という名の通り《民主的な制度による絶対権力》でした。

この二つは仕組みが本来違うのですが、どちらも「軍事・政治・宗教」という3つの権威を一人の人間が保持することで「絶対的な最高権力者」になっているので、皇帝=エンペラーと扱われるわけです。

で、本来「王」というのは皇帝が「お前はこの土地を治める王に任命する」と指名するもので、皇帝が国家代表なら王は地方知事ぐらいの認識で、重要なのは「皇帝が王を任命する」という点にありました。

しかし、ローマが皇帝制になって3百年ぐらいすると、キリスト教の力が強くなっていき、やがて皇帝もキリスト教信者になり「皇帝がキリスト教をローマの国教として認め、皇帝がキリスト教信者を守る」というやり方になったのです。

しかしローマは東西に分裂し、さらにイタリアや今の西ヨーロッパを含む西ローマ帝国はキリスト教国教化から100年程度で崩壊してしまいます。

そうなると、この辺りのキリスト教の人たちは守護者を失ってしまうわけで、元々「キリストの代理人」として最初の使徒であるペテロの後継者という立場で皇帝の保護を受けてきたバチカン聖堂の司祭を祀り上げるようになっていきます。

そこに現れた有能な教皇がレオ1世で、彼が行った政策はのちに教皇の地位を確立するのに役にたったのです。

ただ、この頃、西ローマ帝国はほろんだものの、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)はまだ元気に存在していて、東と西はキリスト教の教義が違うので分裂したわけですが、西ローマ(カソリック)帝国が滅んだので、東ローマ(正教徒)が西ローマのキリスト教徒の権威付けをしていました。つまりこの時代の西ヨーロッパの国王というか、地域の権力者は東ローマ教皇のお墨付きをもらって「国王だ」と名乗っていて、カソリックの教皇である西ローマ教皇の立場はそれほど強いものではなく、東ローマ皇帝に逆らって逮捕された西ローマ教皇も存在したのです。

しかし8世紀になると東ローマ帝国はイスラム教との戦いで疲弊していき、西ヨーロッパへの影響力が落ちていきます。そこで西ローマ教皇はバチカン教会の周辺の地域の独立と、教皇による納税や統治の権利を勝ち取ります。

これがバチカン市国の始まりです。

東ローマが没落していくと、各地の国王の代替わりにバチカンの教皇がお墨付きを与えるようになります。そのためバチカンの教皇と西ヨーロッパの国王は結びつきが強くなり「教皇領を守る代わりに、教皇は各地の王の統治にお墨付きを与える」ということになっていくのです。

これどこかで聞いたことありませんか?そうです、日本の天皇が征夷大将軍を任命するのと全く同じ、天皇は日本の「軍事・政治・宗教」を一人でもつ大権威であり、だから軍事指揮官である征夷大将軍を任命で来たし、朝廷は政治権力だったわけで、宗教的には今でも「日本の神々すべてに一度に礼拝できるのは天皇だけ」とされています。

だからこそ天皇は皇帝=「軍事・政治・宗教」の絶対権威、なのです。

話がそれました。

 で、バチカンの教皇は西ヨーロッパの王と仲良く権力を分担したのですが、困ったことに8世紀に東ローマ帝国の力が弱まると、今のドイツのあたりに神聖ローマ皇帝を名乗る家系が出てきました。これはドイツとフランス付近にできたカロリング朝フランク王国が絶大な軍事力と政治力を背景に大国になったことが原因です。

で、最初は「皇帝と名乗るには、教皇の許可を必要とする」というやり方でやっていたのですが、だんだん国家の力が強くなると「とはいえ、元々皇帝は教皇の権力も持っていたのだから、俺のほうが偉いんじゃね?」といいだしたのです。

そこで教皇と皇帝(フランク王国の統治者)は権威や権力について争うようになり、11世紀のカノッサの屈辱に至ります。

ようするに、他の方も書いていますが皇帝もキリスト教徒であったために、教皇が「お前破門にするから、もうキリスト教徒じゃないよ」と言い出だしかねかったため、皇帝がカノッサ城の門の前で教皇に許しを請うて、教皇の権威を認めたことをいうわけです。

これ以降《皇帝よりも教皇の方が偉い》という権威が確立して、バチカンはどんどん権力を強くしていきます。


なので、教皇と皇帝の対立といっても、4世紀までと4世紀からカノッサの屈辱がある11世紀までと、その後のドイツ皇帝では状況が全然違うわけです。

またヨーロッパ、とくに西ヨーロッパで「皇帝」は、ローマ皇帝か《ローマ皇帝の領土を再興する》とした神聖ローマ帝国にしかいません。

ローマ皇帝は教皇以前の存在で、神聖ローマ皇帝は最初はバリバリ対立しましたが、自分自身がキリスト教徒だったので、教皇から「破門するぞ!」と言われて、腰砕けになり、カノッサの屈辱を経て皇帝よりも教皇の方が偉い、ということになります。これが11世紀の事

その後、15世紀に神聖ローマ帝国の領土に住むマルティン・ルターがプロテスタント運動を起こし、その地域の教会がそれに賛同して神聖ローマ皇帝にカソリックと決別するように迫ると、また緊張がおきます。

さらに、ナポレオンが戴冠したときに、教皇から冠をさずけてもらい「神の許しを得る」という慣例を破って、ナポレオンが自分で冠を被ったことで「皇帝」となったのも、そういう下地があったからです。

この間のチャールズ皇太子が国王になる際に、英国国教会の大司教から冠を授かったのと比較すると面白いですが、なんでローマ教皇じゃないかというと、島国であるイギリスにローマ教皇の権威が及ぶのをイギリス国王が嫌ったからで、最初の引き金は16世紀のヘンリー8世の離婚問題で、カソリックは神の契約である結婚は解消(離婚)ができないので、却下したところ神聖ローマ皇帝カール5世が横やりを入れたことに始まり、決定的に分裂したのはヘンリー8世の娘であったエリザベス1世の時代です。

この時にローマ教皇と英国国教会は分裂したので、そこから英国王の戴冠式は英国国教会の大司教が「神の代理人」になるわけです。

ただ、これはあくまでもイングランドだけの話で、スコットランドやアイルランドのキリスト教会派はカソリックだったので、それが今でも影響していて20世紀後半のアイルランド紛争や、2016年や2022年のスコットランド独立運動などになっていきます。

キリスト教の歴史は、ヨーロッパの歴史そのものです。

ちなみに「司教」とは《カソリック教会の役職で、司教区というかなり大きな領域で税金を取り、キリスト教教育を任された権力者》です。その下にいる人たちが「司祭」です。

日本でも各宗派の仏門に僧兵が居たように、昔は国王などの権力や領土が刻々と変わるために、宗教のほうも自分達で防衛して信仰を守っていました。カソリックは西ローマ帝国の滅亡でローマ皇帝の守護が無くなった後、自力で教会と組織を守ってきたわけで、その結果、司教区という自治領に近いものを各地の国王に認めさせ、逆に司教区や地域のキリスト教の人たちに「世俗的なことは、教皇が認めた国王に従いなさい」と指示していたので、お互いにWIN-WINの関係だったわけです。

しかし、その国王が居る王国が滅ぼされるなら、司教区は守る必要があるし、新しく支配するようになった権力者に「国王になるなら教皇が認めるよ」と働きかけて、自分達の権威や利益を守ったので、司教区の長である司教には絶大な権力があったのです。
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中世ヨーロッパに度々出てくる「教皇位」


というのは一体何でしょうか
 ↑
神の代理人です。
つまり、神と人間を媒介する
存在です。
この点、天皇と酷似しています。




教皇に攻撃を仕掛けて教皇の領地も自分の王国にしようとする
皇帝達がいてもおかしくないと思うのですが、
なぜ当時の皇帝達はそういうことをしなかったのでしょうか?
  ↑
だって、王の地位は、神から授けられた
ということになっているからです。
王権神授説といいます。
神の代理人が教皇ですから、教皇に攻撃
したら、全キリスト教信者を敵に回します。
その証拠が
「カノッサの屈辱」です。



教皇位はキリスト教のトップ?だから、キリスト教の
範囲内だった王国が教皇を攻撃するのはおかしいということですか?
 ↑
当時の人々は、マジで神を信じて
いましたから、教皇の権威は絶大だったのです。

それに加えて神の代理人です。
マジで神を信じていた人には、畏れ多くて
攻撃なんて考えられなかったでしょう。
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日本史で最もイメージが近いのは、戦国時代における天皇と大名の関係でしょうか。


武家を統制していた室町幕府が事実上形骸化すると、下剋上も頻発して戦国大名が乱立しますが、彼らが自分たちの身分の正統性を証明するために、天皇朝廷に献金して冠位を貰ったわけです。さらには上級の公家の娘を正妻に貰ったりもしています。
天皇・朝廷も、幕府が機能不全に陥ると、税収や上納金も途絶えて困窮したので、そうせざるを得なかったわけです。

同じことをもっと能動的かつシステマチックに行ったのが、西ローマ帝国崩壊後に財政難に陥ったローマの西方教会、いわゆるバチカンのカソリック教会です。
カソリック教会は、蛮族割拠の状態となった旧西ローマ帝国領内の中で有力な蛮族に西ローマ帝国皇帝の称号を与え、その見返りにカソリック教会への信徒からの献金(お布施)という形で上納金を受け取るスタイルを開発したわけです。ちなみに、この西ローマ帝国皇帝の称号が神聖ローマ帝国皇帝です。
蛮族たちはキリスト教徒であり、なおかつ自分たちの権威も欲しがったので、こうしてwinwinの関係が構築されました。

やがて蛮族たちの国境が安定して王国が乱立しましたが、その王権もカソリック教会が承認することで、西欧諸国とカソリック教会の関係が強化されていくことになります。また神聖ローマ帝国皇帝の地位は、初代はフランク王国のカール大帝でしたが、中盤以降はオーストリアを中心としたエリアを支配したハプスブルグ家が長く継承することになります。

日本と違うのは、日本には類似のものが無かった司教の存在です。西欧諸国はキリスト教国で、各国のあらゆる教会活動の総責任者のことを大司教、国内を分割した教区の責任者を司教と呼びました。実際の布教活動は神父が行いますので、司教の主な役割は国王や各地の領主の政治活動がカソリック教会の方針に反していないかとか、教会への上納金が滞っていないかなど教会の財務や政治的影響力を保持することが実際の目的ではなかったかと思います。

以上のように、中世の西欧社会は、各国の国王とカソリック教会の二元統治が行われており、国は戦乱で他国に併合・消滅もありましたが、教会だけは超然と存在感を放てていました。
ローマ教皇には国王に対しても「破門」という強力な武器があり、国王と云えども、貴族・国民の全員が敬虔なキリスト教徒なので、破門は大変な脅威だったわけです。
とはいえ、十字軍の遠征後に教会の権威が低下すると、国王軍に攻撃されて教皇自ら兵を率いて戦うようなこともしばしば発生しています。
ただ、教会と戦った国王にしても、条件闘争で武力に訴えただけなので、さすがに本気で教会を潰すことは流石にできなかったようです。
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教皇位は、カトリック教会の最高指導者であり、ローマ教皇のことを指します。

教皇はキリスト教のトップであり、信仰上の権威を持ち、カトリック教会の教義や組織の最終的な権限を行使します。

中世ヨーロッパにおいて教皇位が特別な存在感を持つ理由は、いくつかの要素によるものです。

宗教的権威: 教皇はキリスト教の最高指導者として、神の代理人とされ、信仰上の権威を持ちます。中世ヨーロッパではキリスト教が支配的な宗教であり、教皇の指導や教義に従うことが重要視されました。

政治的影響力: 教皇は宗教的な役割だけでなく、政治的な影響力も持っていました。教皇は王や皇帝に対しても権威を行使し、王位の正当性を認めるか否かなどに関与することもありました。また、教皇領と呼ばれる教皇の領土も存在し、一定の経済的・政治的権力を保持していました。

貴族の支持: 教皇は貴族層の支持を受けることがありました。貴族は教皇から権威と特権を与えられることで、自身の権力や地位を確立することができました。また、教皇は紛争の調停者としての役割も果たし、戦争や紛争の収拾に貢献したこともあります。

当時の皇帝や王たちは教皇位を攻撃することは稀でした。その理由は、以下のような要素が考えられます。

宗教的な信仰と権威: 中世ヨーロッパではキリスト教が支配的な宗教であり、王や皇帝たちもキリスト教を信仰していました。教皇はキリスト教の象徴であり、王や皇帝たちはその権威を尊重し、教皇の正統性や神聖性を重んじることが一般的でした。

政治的な利害関係: 教皇は政治的な影響力も持っており、王や皇帝たちは教皇との関係を維持することで、自身の権力や領土の正統性を保証することができました。また、教皇の支持を得ることで貴族層の支持も得られることがありました。

教会法の保護: 教皇は教会法の最終的な権威を持っており、王や皇帝たちは自身の領土内で教会法が適切に運用されることを望みました。教皇を攻撃することは、教会法の保護を受けられなくなる可能性があり、その結果として社会的な不安や反発を招くことになるため、避けられる傾向がありました。

以上の要素から、中世ヨーロッパにおいて教皇位は特別な存在感を持ち、攻撃されることは稀でした。しかし、実際には教皇と皇帝との間で対立や紛争が起こることもありましたが、それは特定の歴史的な背景や個別の事情によるものであり、一概には説明できません。

司教(Bishop)は、キリスト教の聖職者の一つで、特定の地域や教区の監督としての役割を果たします。司教は、教区内の教会や信徒を統括し、宗教的な指導や監督を行います。彼らの役割や地位は、中世ヨーロッパの時代において特に重要でした。

司教の役割にはいくつかの側面があります。

宗教的な指導者: 司教は、教区内の聖職者や信徒たちに対して宗教的な指導を行います。彼らは説教や宗教的な教えを伝える役割を担い、信仰の深化や実践を促します。

教区の監督: 司教は教区全体の統括者であり、教区内の教会や信徒たちを監督します。彼らは教会の運営や教義の遵守、聖職者の指導などを担当し、教区内の統一性と秩序を保ちます。

社会的な役割: 司教は教区内で社会的な影響力も持っていました。彼らは地域の政治的・経済的な問題に関与し、紛争の調停や社会的な不平等の是正を試みることもありました。また、教区内の慈善活動や教育の推進なども行われました。

司教の役割を市長や議員と比較することは難しいです。司教は主に宗教的な指導者であり、地域の信仰と宗教的な活動に焦点を当てます。一方、市長や議員は政治的な立場であり、地域の行政や法律の運用に関与します。

なお、宗教の役割や影響力は時代や地域によって異なります。現代の日本では、宗教の役割が限定的であり、地域の支配や統制に直接関与することはありません。しかし、中世ヨーロッパにおいては宗教が政治や社会の中心的な要素であったため、司教の地位と役割はより重要でした。
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