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 現実の《わたし》なる人格とは別に そんなものがあるのですか?

 わたしには 考えられません。まったく知りませんでした。(ちらっと耳にしたようには思いますが 堂々とそういう見方が あたかもジョウシキとなっているかのように話をされたところから 尋ねています)。

 そんなことを言うなら 電話しているときと 手紙を書いているときと 面と向かって話しているときとは それぞれ互いに人格が違うことになるのではありませんか?

 いったいどうなっているのでしょう?



 
 別の人格などは無いという立ち場で 納得の行くまで問い返しをおこなうことになると思いますが よろしくお願いいたします。

 質問者と同じく 無いという立ち場の方は 無いよと言って このようなことが話題ないし問題になるのは どういう事情なのかを ご存じでしたら おしえてください。

A 回答 (73件中31~40件)

たいそう盛り上がっていて楽しく拝見させていただいております。


すでにほとんどのことが語りつくされているような印象ですが、肝心のところですれ違いがあるようなもどかしい印象も受けたりします。
私はぼさぼさ様のご卓見に共感を受けたりしておりますが、ぶらじゅろんぬ様の”人格”の概念がわれわれの考えている人格と少なからず異なっていることがその原因のひとつなのかとも思いますがどうでしょうか。
普通ひとの社会人格は戸籍上の名前と外観で規定されますが、ネットの場合はバーチャルなネームのみで無に近く、まったく異なっています。そういう意味ではネット上の人格は非常に希薄なものです。
そういった人格概念をブラジュロンヌ様は持っておられないようです。

あくまで世界にひとつのブラジュロンヌ=戸籍上の肉体を持った、たった一人の人間 をご自身の人格だ、その使いまわしの完全な分身が電話にも現れネットにも出現するのだと規定されておられるのでしょう。
これもひとつの考え方ではあろうと思います。たしかにその人格が現にネットで饒舌な発言を重ねておられるのですから、間違いではありません。

しかし、われわれは、ネットに現れているブラジュロンヌ様の、われわれが感知しうる全情報をもって氏の全人格だとは規定できないと考えているのです。それはきわめて不完全な情報(これがネット人格といわれるものの実体でしょう)なのであり、他にも、そのご尊顔、ご家族などなどもっとたくさんの氏に関わる人格の断片が(隠されて)あるはずだと考えているわけです。
氏は、おそらく、ネット上でも自身のすべての人格をさらけ出しているつもりだ、隠しているつもりはない、と仰りたいのでしょうが、われわれが感じる限り、生身の氏とじかに会って、ご家族ともどもとお付き合いしない限り、やはり全人格を感じることはできないのです。
少なくとも、氏におかれましては、一般的な人格の概念としてのそういった考え方にも共感していただきたく思うものです。
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この回答へのお礼

 ぼさぼささんにお応えしたことは分かっている。問題は それでも《ネット上から受け留める人格》は それだけでその人を信用するというわけには行かない。そういう実践的な問いが残っている。というところにありましょうか? それは そうです。
 
 こまあすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 つまり 《ネット人格》という別の人格はないという理論上の内容は分かった。けれどもだからと言って ネット上から判断する人格が そのまま本人の人格だと言い切ったり受け留めたりするわけには行かない。なぜなら せいぜいが部分人格を見ているだけだということだから。

 と質問者も言っていますよ。
 わたくし自身の場合にしても いくらネット上とネット以外とで 人格が何ら変わるものではないと言っても そのネット上の文章で判断せよと言ったって どだい無理であると。
 そう言っていますよ。ただの主観を説明したに過ぎないものを信用できるわけがないと。



 もしすでに実践上の問題に入るとしますと こうです。

 わたしの言うのは 人間としての存在にかんする前提として人びとが暗黙の内にでも取り決めたことつまり公理 この公理から始めて いくつかの定理ないし理論をみちびき出し そこから 実際の思想にまでおよぶといった全体としての自己表現 これは その思想や理論として一人ひとりが捉え 互いに活かして行けばよい。ということです。《だれだれの思想》というふうに――そんな看板を立てて――捉えることはないと。

 そうは言っても確かに自然科学の認識とちがって 人間存在や社会にかんする理論や思想は 誰れもが その内容を一様に捉えるかと言えば そういうわけには行きません。それはそれが出来るのは それこそ《公理》くらいです。しかもこの自由なら自由という公理でさえ その実践上のこととしてはやはりさらに 人によってその認識や応用の仕方が違って来たりします。

 ですから たとえ同じ思想や政策であったとしても 一人ひとりその実践にあたっては手法が違って来るということがあります。ハバツが出来上がります。そういうときには 誰々の思想だとか政策案だとか言ったりすることもあります。
 
 でも店をかまえるわけではなく 看板を立てるまでにも行かないでしょう。つまりあくまでその中身を みなで検討しあって つくりあげて行けばよいし それを実施していくことになる。でしょう。

 あらためて省みるなら ネット上の文章からは その理論としての内容は分かったとしても この実践のことつまりその本人の実際の手法のことなどが分かるわけがない。こうなります。
 ということは ネットの世界はそういう段階でも舞台でもないからですが ひょっとすると――初めに問うたように―― こまあすさんは それでもすでに《実践》の段階に入ったというご認識でしょうか?



 どうなりましょうか。
 言えることは 同じ理論・同じ思想を持った場合でも おそらく手法の違いによって いくつかのグループに分かれるでしょう。そして出来るだけ 思想の内容を修正しつつ展開することに意を用いて あとはいくつかの手法どうしが集まって互いに話し合うということになろうかと思います。グループの指導者は 誰が成ってもよいというかたちですすめればよいのではないでしょうか。

 手法は おカネという飴と圧力をかけてねじ伏せるという鞭とを駆使するような・人に有無を言わさない手法でなければ よろしいでしょう。そのあと残る手法の違いにかんして それぞれのグループの指導者は 当番制がよいでしょう。もろもろのグループをまとめる指導者は 当面は 選挙によるのかも知れません。
 (当面はと言うのは 社会の成り立ちや仕組みを作り直す過程においてということであり その仕組みが 人びとののぞむように行動しうるかたちに整ってきたら その当面を脱するという意味です)。


 でも質疑応答の場は あくまで理論や思想の問い求めが その成すべきことです。限界があります。その意味で 人格は 部分人格だと見られても仕方がありません。


 話は 違っていませんでしょ?

お礼日時:2012/03/19 10:17

NO.31 です。


まことに失礼いたしました。既に人格論議では合意を見、それを超えて、その先を進めておられたようです。先の小文は読み流していただきたく。
確かに、ネットでのここのような掲示板などでの自由な議論は、その主題の範囲で基本的な立場をお互いに認め合うという前提に立つ限りにおいて十分に成立するものであり、ネット人格云々というような問題は考える必要はないはずです。
それは匿名同士だということを別にすれば、生身の人間同士のサロンでの自由な会話とまったく変わらない快適な場が持てるはずであり、それが本来の人間同士の心のふれあい、通い合いになるはずです。仰るように、すでに実践の段階に入ったことはまちがいないでしょう。
上記の意味においてブラジュロンヌ様に全面的に賛同いたします。
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この回答へのお礼

 うわぁっ 泣けちゃうなぁ。


 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 


 ホンネを語るとしますとね。
 このような話し合いが わたしは 哲学カテと言ったら ただちに出来て どんどんその先へとすすめて行けると 初めてここに参加したとき思ったものです。
 五年六年かかりましたでしょうか。
 
 おかげさまで フランス野郎たちも もう猛威を振るうというわけには行かないでしょう。峠は越えたか または見えたと考えます。
 それにしても 昔のアラシは 素直だった。おまえなんか 出てけ! とまったくストレートにののしっていました。ここへ来て 《押し籠もり》が出現しています。(前からありましたが そう認識することにしました)。受信拒否組です。

 まぁ でも ぼちぼちまいりましょうか。


 橋下徹が われわれの露払いになりましょうか。
 民主党は だめでしたね。でも まだましかも知れないですかね。自公では もう気味が悪い。いいこと言っても 気持ちが悪い。
 それにしても 年金までヤラレて おカネは足りないわ 人は少ないわで ときは満ちて来たでしょうか。 まだまだでしょうか。

 ときにかなうものは みなうつくしい。


 お粗末でした。

お礼日時:2012/03/19 21:16

 >おかげさまで フランス野郎たちも もう猛威を振るうというわけには行かないでしょう。

峠は越えたか または見えたと考えます。

私は複数形の一人ということになりそうです。またこうやって当てつけと侮辱を行う訳ですね。やれやれ。かくも大掛かりな憂さ晴らしが必要とは、ご老人の僻みに呆れつつも、御愁傷様とお伝えしておきます。

ちなみにネット人格は、あなたがご自身が顕著な例であると、私はずっと思っていました。どういうことか。あなたはまず、やたらと引用が多い。これはネットの議論でなければできないことです。それから私と話しているときに、人格がしばしば崩壊しますね。アナウンサーになってみたり、超人になってみせたり。聖人のようなことを言ったかと思えば、僻んだお爺さんになったり。坂本龍馬風の土佐弁になってみたり。丁寧な口をきいていたかと思うと、突如、「ざけんな」などと叫んだり。

これらの実例は、いちいちあげてみせる必要も無いでしょう。しかし、あなたにしてみると、仮にお会いして話していたとしても、同じように、人の言葉を一々引用するのでしょう。また突如、ぶっ壊れたり、多重人格になったり、粗暴な口をきくのでしょう。挑発し、突如、ストリップしてみせろ、などというのでしょうね。
よろしいでしょう。あなたの振る舞いの数々が、ネットならではの遊びを行う人格だと思っていたのは私の誤解であったという訳です。全部、ご自分自身の日常の姿であると。

しかし、・・・ネット人格といった方が、まだマトモな方であるという解釈ができたかもしれません。私に対する憂さ晴らしの一環なのでしょうが、こうやって自分で自分の墓穴を掘っても、あまり意味が無いと思えます。

ちなみに私はネット人格ですよ。どこの世界に、二千字前後も自分の意見をだーっと他人に向けてまくしたてる人がいるものでしょうか。またクドクドと引用する人間がいるでしょうか。ネットの特性を生かして、それにあわせて投稿しています。しかしこうなると、本来の私の姿と外れて、非常に嫌みな人間と映ることもあるでしょう。仕方の無いことです。そうした開き直りを込めて、ネット人格と割り切っています。

この回答への補足

 ☆☆(No.27お礼欄) ~~~~
  ● 心や知性の主体の所在を考えるとき、それがひとの側(人の境界の内側)にあるとか、頭蓋骨の内側にあるとか、或いは大脳皮質の中にあるとかでも構いませんが、そんなふうにどこかに境界線を引くことはできないだろう、という程度の意味です。
  ☆ 《主体》の意味を明確にしておけばよいのではないですか?
 たとえば 構造主義は あくまで社会的な人間の関係が或る種の仕方で言えば《主体》なわけです。言いかえると 《無主体》説です。《主体なき過程》というふうに。
 これは 網あるいはネットワークを例にとれば わたしの考えですが 網の結節点をないがしろにしているというものです。つなぐ線やひょっとすると何もない網の目を重要視しているかも知れませんが 結び目については放ったらかしです。つまり この結節点が 一人ひとりの《わたし》です。そしてこの意味で と同時にわたしはとにもかくにも《考える》というよりは《思う そして 意志する》ゆえに 《主体》です。
 《なぜそう考えるのか?》や《なぜそうしたのか?》の問いに答える(つまり答責性を有する)のは つなぎの線でもなければ網の目でもなく 結び目を成す存在であり この存在でしかないからです。

 むろん 網のつながり全体が 環境でありその世界の中にわたしは位置しており ここで《人格形成》がおこなわれます。
 《境界線を引く》ことが目的ではなく 説明責任を負う行為の発信元を明らかにするためです。そのように言うときには けっきょく大道は無門なりのごとく 外壁はむしろないですよ。
 別の質問では 世界は地で われはそこに位置づけられている図である。人がそれぞれ図である。ならば みな地続きであるのではないか? と問うています。そういうことですよね?・・・でも 意志および行為の主体は 存在します。ということになりませんか?
 ~~~~~~~~

 ★ それから私と話しているときに、人格がしばしば崩壊しますね。アナウンサーになってみたり、超人になってみせたり。聖人のようなことを言ったかと思えば、僻んだお爺さんになったり。坂本龍馬風の土佐弁になってみたり。丁寧な口をきいていたかと思うと、突如、「ざけんな」などと叫んだり。


 ☆ 人格を何か枠組みのある固まったものと勘違いしている。外延はいくらでも いろんなかたちであり得ます。自己形成体であり 過程であり動態であり 相手との関係において網の目の意味をも読んで 臨機応変に振る舞うものであり けっきょくすべてを引き受けている人格は 何にでもなりましょう。


 ガミガミ電波ならぬバイタ電波を しきりに受けていた。
 これは 横に近づけば どんな場所でも起こりますが 特にはバスのような或る種の密室において起こりやすい。

 違法電波ゆえに やめなさい。と指摘すると ええっ? と言った顔をして どこかよそへ顔を振り向ける。
 一群を成す第一波において 初動の波は見逃しますが 固まったかたちになったときには 上の指摘をするわけです。

 やがて 情況が静まったころふたたびやって来ます。第二波です。この場合はかなりおのれの意志をも固めてはっきりとしたかたちで 念力を込めておとづれて来ます。
 ほろびなさい。と指摘します。こんどはあからさまに ドキッとしたようです。顔をよそへ振り向けるなどということはしません。いったい何が起こっているのかと怪訝そうに考える顔になります。

 〔ちなみに この《ほろびなさい》を この質疑応答の場でも言いますが ここではさすがにそのままにはしておけず 《ほろびて 古き人を脱ぎ あたらしい人を着なさい》と説明を入れてやります。語弊があるでしょうから おとなしく言います。

 もうこの場では どうしても言えなかった第三弾が じつはさらにあります〕。

 第三波がやって来るのです。この場合は 相当の決意を持っています。ウソではない。ホントウだと言いたいのでしょう。念力も 半端ではありません。
 そこで 《永遠の火の中に行きなさい》と言ってやります。これで たいていは 電波がやみます。

 仮りに――ときどき――第三波の名残りがさらに来たときには さすがに弱まっています。デンパがです。放っておいてもよいのです。実際 取りあわないようにしていれば もうそれ以上は来ません。


 中で 特殊な場合がありました。一回ないしその気(け)のあるものを入れて二回ほど。
 途中で――第二波の途中で―― 声に出た言葉で 《いいぢゃない。減るものではないでしょうに》と言います。《ねぇ。いくら? いくら出せばいいの?》と言って来ます。
 《そうさなぁ。GNP の一年分でいいよ》と言ってやります。それでおしまいになります。
 当時は GDP ではなく GNP でしたが 300兆円ほどでした。

 これらすべて 《人格の外延》だとすれば そうとなります。

 いちいちこのサイトでの事例を並べなくても 現実ではもっとすごいことが起こっています。
 ということを知るとよいかも知れません。知らなかったほうがよかったと言うかも知れませんね。
 

補足日時:2012/03/20 13:48
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この回答へのお礼

 ★ ~~~
 論理的な思考が無くても、ものを知らなくても、意見を表明する権利はあると言えます。素人でも発言してよいのが民主主義です。知識があるものが封殺するということはよろしくないのです。・・・

 したがって、私は対話する相手を選ぶことにしています。私が何かいうことで、意見を封殺してしまうような相手ならば、私は中身のあることを言いません。
 ~~~~~

お礼日時:2012/03/20 12:15

おやおや、私の投稿を一々チェックしているのですか。

引用しているように、要するに、あなたのことを話し相手と私は見なさなかったのです。あなたも同様であるということのようです。そういうわけで、お互いに一切関係なく、ここのサイトを楽しみませんか? それが普通の大人の振る舞いだと思うのです。あなたが、いつまでも僻みっぽく、他人を誹謗していることをいぶかしく思います。
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ブラジュロンヌさん、さて補足を読みました。

応答してきているようなので、私も簡単にお答えしておきます。

>人格を何か枠組みのある固まったものと勘違いしている。外延はいくらでも いろんなかたちであり得ます。

まず、あなたがいっているものは、人格でも何でも無いようです。人格に関するあなたの意見からは、自己を律するという観点が抜けており、したがって「人」格と、人であると限定する必要がないように思えます。あなたのいっているものは、赤ん坊や動物でも持ちうる意識であって、広い意味での「自我」とでも呼ばなければならないようです。
ことによったら、こうした広いものを「人格の外延」と表現なさるのかもしれませんが、外延まで含めたら、「格」はもう解体してしまっていて、別の擁護を当てはめた方が良いでしょう。
さて、次に電波のお話。私は正直、何をいっているのかつかみかねています。

>ガミガミ電波ならぬバイタ電波を しきりに受けていた。これは 横に近づけば どんな場所でも起こりますが 特にはバスのような或る種の密室において起こりやすい。

バスでその電波を受けていた? 私と関係あるお話なのですか? 私がこのお話から思い浮かべたのは、パナウェーヴという宗教団体のお話ですが、あなたは彼らと同様、電磁波に敏感でらっしゃるのかもしれません。お気の毒様です。

ともあれ、ネットにおいては、私がその電波の発信源だとでもいいたいようですね。やれやれ。私からしてみると、ガミガミ電波の発信源は、あなたなのです。私は嫌なので、あなたをブロックしました。すると今度は、私に直接電波を送るのではなく、当てつけの質問を大量に立てることで、電波を送る手だてをあなたは思いつかれた。その証拠に、No23のお礼欄に、本音として、フランス野郎を退治してやろうという気持ちがあったという旨が書かれています。私からすると、大変、迷惑ですよ。「滅びよ」とはもうしませんから、私の迷惑にならないことをお考えになってくださいませんか。私自身は、自分の質問欄で、ブラジュロンヌ君のいっていることは大間違いだ、とも何ともいっていません。何も言及しないように努めていますよ。

私のことを「押し籠もり」と表現なさっていましたが、私から見ればあなたは、「押し込み」です。説明の必要もありませんが、無理矢理入ってきて、アラシを行う方のことです。「家に入れないぞ」とがんばると、「入れろ、入れろ」と大騒ぎなさる。私としては、そういう方は迷惑ですので、今後、私に関わろうとしないでください、と改めて強く抗議申し上げます。

>知らなかったほうがよかったと言うかも知れませんね。

確かに、お互いに知り合わなかった方が良かったかもしれません。ゼフィルスさんなるご友人ができたのですから、私のことは放っておいて、新しいご友人を喜ばせる問いでもお考えになって、楽しくお過ごしになったらどうでしょうか。
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この回答へのお礼

 訪問者のみなさんに書いているのだけれど。

 たしかに何か書いておくことは おそらく必要なのであろう。白紙との違いは 大きいという単純な理由。




 ○ 人格の外延

 《外延》という意味を取り間違えているため 話になっていない。


 あとは訪問者のみなさんが 全体を見渡せるように書いたというのみと確認しておく。

お礼日時:2012/03/20 21:08

失礼、変換ミスがありましたので。



>別の「擁護」を当てはめた方が良いでしょう。

正しくは「用語」です。
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ブラジュさんこんばんは。

(といった挨拶はふだんあまりしないのですが)

>ぜふぃるすさん サンキュウ。

事情を良く知らない相手に対する、この媚びよう。
あまりにも情けなすぎるじゃありませんか。
それほどご自身の言動に自信が無いのでしょうか。それだけならまだしも、

> ひとつは わたしも 売り言葉に買い言葉で いろいろと返していますので そういうところをほじくりたいもののようです。

ときたもんだ。
しかつめらしくおっしゃっていますが、【誰が最初に売ったのか】ということが大事ではないですか?
(たぶん)彼女がブロックしたのが最初だとして、【なぜブロックしたのだろうか】という点について全く考察がなされていない。
これはブラジュさんご自身に問題があった、と考えるのが正当ではありませんか?
真摯な議論を標榜なさるのであれば、この点について明確に説明できるはずです。
ブラジュさんはわたしを見くびっていると思いますが、これが全ての根本ですよ。
この点について明確な答えがなければそれまでの人物であったと見なすことにしましょう。
太鼓持ちにはなりたくないので、詭弁を弄さず素人にもわかりやすい回答ができるか否かでブラジュさんの誠意を測らせていただきます。

ここで、#36さんへの横レスを挿入させていただきます。
>>ガミガミ電波ならぬバイタ電波を しきりに受けていた。これは 横に近づけば どんな場所でも起こりますが 特にはバスのような或る種の密室において起こりやすい。

バスでその電波を受けていた? 私と関係あるお話なのですか? 私がこのお話から思い浮かべたのは、パナウェーヴという宗教団体のお話ですが、あなたは彼らと同様、電磁波に敏感でらっしゃるのかもしれません。お気の毒様です。

これは、むしろ非常にわかりやすい症例と考えます。
とはいえ、おそらく、という注釈つきにならざるを得ませんが、つまり、ブラジュさんには、過去に「バイタ」と呼ぶべき女性が存在したと捉えるのが自然だと思います。
これも一種のコンプレックスと言って良いと思いますが、つまり彼の中で錯綜が生じているということが容易に推測されます。
以前にも触れましたが、あなたとその昔の(たぶん)彼女は【本質的な部分で】共通点があるのですよ。
あなたに対する憎しみに満ちた表現は、昔の彼女への代償をあなたに支払わせようとする彼の無意識が働いていることになります。
似ていなければ払わす意味がありませんから。
つまり昔をやり直したいという願望のひとつの表現の仕方でもあるでしょう。
ストーカーのごとき付きまといもこれでご納得がいくでしょうし、彼も冷静に省みれば気づいてくれるものと思います。
あなたが絡めば絡むほど、忸怩たる思いを持ちながらも一種の満足感を彼は得ているはずです。
その意味で、絡んであげるのは一種の人助けと言えるでしょう。
  
横レスはここまでです。
ついでですから、もう少し申し上げますが、
ブラジュさんともあろう人が、喧嘩と泥試合の区別がついていないんじゃないですかね。
他人には批判するなら根拠を示せ、と口をすっぱくして言うわりには、自分の都合が悪くなると捨て台詞か暴言の言いっ放しです。
恥ずかしく思いませんか?
まさか、捨て台詞や暴言にまで対等な返答を期待している、というわけではありませんよね?
そこまで他人に甘えているわけではないでしょう。
であれば、その態度を改めるか、または、徹底的な対話こそが重要という看板を下ろすか、どちらかにしてもらえませんか?
  

この回答への補足

 No.39補足欄は このNo.38補足欄に書き込もうとしたものです。
 場所を間違えました。

 ぜふぃるすさん 変な書き込みと感じられたと思います。すみませんでした。


 こういうことがあるぞと わたしも思わせぶりなことを はこぶるさんに言ったものですから それを言っておこうと思っての書き込みでした。場を間違えてしまいました。

補足日時:2012/03/21 09:36
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この回答へのお礼

 これは まづ話し合いをする態度ではないですね。よってごあいさつをしません。


 (1) ☆☆ >ぜふぃるすさん サンキュウ。
 ☆ この場合の投稿にはわざわざ 《ご回答をありがとうございます》と述べるまでもないと思ったまで。


 (2) ★ 〔* けんかを〕 【誰が最初に売ったのか】ということが大事ではないですか?
 ☆ 大事であるもないも わたしはいちども自分からけんかを売ったことはありません。どの事例かを示せばよいのではないですか。

 (3) ★ (たぶん)彼女がブロックしたのが最初だとして、【なぜブロックしたのだろうか】という点について全く考察がなされていない。
 ☆ この《彼女》とは誰のことか? 明らかにしてください。その場所もです。

 (4) ★ ブラジュさんはわたしを見くびっていると思いますが、これが全ての根本ですよ。
 ☆ 前回のやり取りの最後のほうの途中から こわれたと思った。それだけ。

 (5) ★ つまり、ブラジュさんには、過去に「バイタ」と呼ぶべき女性が存在したと捉えるのが自然だと思います。
 ☆ 話の筋が違うと申し上げておきます。つまり
 
  【Q:男と女】( noname#80116 は わたくし・ぶらじゅろんぬです)
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3689191.html

 にそうではない種類の女だったと明かしています。それが出て来るのは途中あたりからですが 初めから読んでもらったほうが 分かりよいでしょう。
 ですから その推測を前提にした議論は ぜんぶ的外れです。

 (6) ★ 〔* わたし=ぶらじゅろんぬが さいころクンに対しておこなう〕ストーカーのごとき付きまといもこれでご納得がいくでしょうし、彼も冷静に省みれば気づいてくれるものと思います。
 ☆ わたしは すでに方針を明らかにしたように誰に対してもブロックをおこなっていませんが あちらはわたしをブロックしています。その状態で いったいどういうふうに《ストーカーのごとき付きまとい》をおこなうのでしょう? 

 (7) ★ ブラジュさんともあろう人が、喧嘩と泥試合の区別がついていないんじゃないですかね。
 ☆ この命題(判断)については ふたつの応答があります。
 (あ) もし区別をつけるべきだというのならば どこでどのようにしてわたしが区別をつけられずにいたか それを例示しなければ話は成り立ちません。

 (い) 《喧嘩と泥仕合》の区別をつけないどころか 《おまえを消すぞ》という脅しをも引き受けて話をつづけています。あるいは No.33の補足欄に書いておいたように 《人格の外延――外延ですよ 外延――》としては 相手に応じてしかるべき言葉による表現をも用いるし 用いて来たと言っています。泥仕合であっても 存在を愛するという前提があるかぎり しばらくは相い応じるはずです。
 
 すなわち《区別がついていない》のではなく ついていても 相手の境地に応じて必要不可欠だと判断するかぎり 屑のごとくなってでも 対応します。必要ないと見たならその瞬間に止めます。

 (7-1) ですから
 ★ 自分の都合が悪くなると捨て台詞か暴言の言いっ放しです。
 ☆ の内 《暴言》は使っています。相手と同じ目線になることが必要だと思えば そうします。
 けれども 《捨て台詞》は 記憶がはっきりしませんが どうなんでしょう。わたしの心つもりとしては そんな言い回しを使う気はありません。そして この捨て台詞の場合は相手に応じて使うというものでもないと心得ています。だから たぶん使っていないと思いますが これはいま定かではありません。
 例をしめせばいいのではないですか?

お礼日時:2012/03/20 21:55

ブラジュロンヌさん、まず外延について、少し分かりにくい表現をしたと思うので、補っておきます。

私の話は取り合わないとおっしゃるので、あなたのためというより、全体のためですが。外延とは考察対象に概念を適応することですので、解体も何もあったものではないと思うかもしれません。だが、裏を返せば、不適切な考察対象を外延だと称せば、もとの概念そのものが根底から壊れるのです。要するに外延と含めてよい範囲を規定していないので、あまりに野放図な議論にしかなっていない、と指摘しているのです。結局、ブラジュロンヌさんの議論では、動物の自我が人格とどう異なるのかが、わからない。またご本人の振る舞いも、人間的だとは感じられない。したがって、そもそも人格という概念そのものを破壊している、と伝えたのです。
私の抗議の方については、白紙ですね。都合が悪くなると、これですか。やれやれ。私もこういうときに、あなたの決め台詞をまねして、人間以前の存在であるブラジュロンヌよ、滅びて生まれ変われ、などと言って差し上げるのが良いのかもしれませんね。しかし、どうも大江健三郎の「新しい人」のパクリかな、という程度にしか、あなたの言葉は思っていませんが。

ハコブルさん、ありがとうございます。バイタ的とは、vitalか何かの電磁波の用語だと思っていましたが、「売女」的ということでしたか。こうした語の選択に、彼の人生が透けて見えます。しかし、もういいでしょう。彼にしてみると、聖なる恋の思い出と私が重なっていたのかもしれません。ところが、私は全然別の人間であった。そこで、彼は八つ当たりを私にしているのでしょうし、自分の希望と異なったが魅惑されて仕方ないという意味で、「売女」と私のことを呼んだのでしょう。
私としては、彼の恋の想い出に関連するような記述を並べて、いくらも彼の心をえぐることはできます。ブラジュロンヌさんご自身が張っているリンク以外に、実は他に例があるのです。しかし、七十にならんとする老人が心に秘めている聖なる思い出を汚すのは気の毒です。ハコブルさんのお話には同意しますが、ここでやめておきましょう。それにブラジュロンヌさんは、おそらくは、その方に誹謗中傷されて、じっと耐え忍んだ経験があるのかもしれません。私に対して誹謗し、音を上げさせることが、実は彼の思惑に適っているのかな、とも思えました。ブラジュロンヌさんを喜ばせても仕方ありませんから、放っておくことにしたいと思います。

ゼフィルスさんの方ですが、事情は一切、考慮しないということのようですね。ご承知と思って言いませんでしたが、他のユーザーのことを質問欄で問題にするのは違反なのです。したがって、誰がはじめに問題を起こしたかと言えば、ブラジュロンヌさんと言えます。私としては、No23のお礼欄に抗議したということです。事務局に通報するということもあり得たかもしれませんが、彼を監視して、すべてを通報する訳には参りません。それに「当てつけ」という行為は、証拠が出てこないものです。言い逃れをされて、当人が反省するということもありません。No23のお礼欄は、その明白な証拠であり、現場を押さえて抗議することが、効果的と考えたのでした。
しかし、お話を斟酌すれば、抗議するのではなく、普通に通報した方が、マナーに適っていたのかもしれませんね。それは失礼しました。だが、これは当局に通報すれば、おそらくは質問欄そのものが削除の可能性さえある違反です。せっかく参加なさったのですから、ゼフィルスさんもお嫌でしょう。私もそれは行き過ぎかと思います。当てつけではあるに違いないが、他の参加者はそういうつもりが無いのでしょうから、私としては熟慮した上で、ご当人に抗議するという形をとったのでした。

私としては言うべきことはすでに述べたのですから、あとはブラジュロンヌさんが良識ある行動をとってくださるものと期待して終えようと考えています。
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この回答へのお礼

 ★ 私としては、彼の恋の想い出に関連するような記述を並べて、いくらも彼の心をえぐることはできます。ブラジュロンヌさんご自身が張っているリンク以外に、実は他に例があるのです。
 ☆ これは 思わせぶりであることが いちばん いけません。はこぶるさんがやきもきするでしょう。
 明らかにしておくべきでしょう。

 わたしはそれを思い出しません。


 これだけは 事実に基づこうとする叙述のようです。


 あとは いちゃもん・いいがかりのたぐいでしょう。

 
 あとは

 ○ 外延

 の議論 これは聞いてあきれますが これでも妥当性のある話に聞こえるだろうと踏んでいるようです。言いかえると 訪問者のみなさんは この程度で丸め込めるという腹づもりのようです。




 ☆☆ もう猛威をふるうこともないでしょう。
 ☆ といったことが 吹き飛ばされてしまいそう。

お礼日時:2012/03/20 23:14

・・確かに私自身も、自分の守備範囲外のカテに


<素人同然で>
参加させて頂いていました事については、百も承知ではあったのですが。
なるほどその様な事情もお有りだったのだと言う事ですね。

重々、承知させて頂きました(笑)。


しかし何事も、初めての事と言うのは知らないことが多いものですね。

今回、私は、実はほとんど勢い任せでこの質問に入らせて来て頂いた訳なのですが・・、

これはこれで大変、勉強になりました(笑)。

やはり人生何事も、日々
<精進>
だと言う訳なのですね。
ご教授頂き、どうも有難う御座いました。


・・今度こそはしくじりませんからね(笑)。

それではまた。
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この回答へのお礼

 説教までしてしまい お恥づかしいところです。

 でも 実情だとは思いますので 当分は こういうスタイルで このカテは行くのではないかとは思います。


 ていねいにご返事をいただきました。 
 ありがとう。

お礼日時:2012/03/20 23:16

#38です。



あれこれ瑣末な箇所を突いても、それこそ泥仕合になりますし、他人様の恋愛感を拝聴する趣味もないので、そういうことは避け、極力要点のみに絞って申し述べます。

> ☆ 大事であるもないも わたしはいちども自分からけんかを売ったことはありません。

なるほど。
つまり、事柄の認知に関して若干のずれがあるということなのかもしれません。
むしろ、喧嘩を売っていないスレを挙げることが難しいぐらいじゃないですか。
否定されるかもしれませんので、念のため補足しておきますと、相手に喧嘩を売らせるような言動をなさっている、と申し上げたほうがわかりやすいかもしれませんね。
これなら自覚がおありでしょう。
それ自体が悪いことだと言ってるわけではありませんよ。
むしろ大いに喧嘩は奨励するという立場であることは兼ねてから申しあげているとおりです。
しかし、くどいようですが、ブラジュさんを嫌がってシャットアウトする相手までを追いかけて喧嘩の続きをやらなければ気が済まない、というのはいかがなものか、と申し上げているわけです。
この一点です。
そんなに難しいことですか?
口幅ったく言ってみれば、コミュニケーションの美学というものを全く欠いた姿勢とはお感じにならないのですか?
と申し上げているのです。
小学生の喧嘩じゃないんですから、あいつがああ言ったから俺だってこう言ってやらなきゃ気が済まない、というのはどうなんですかねえ。

> (6) ★ 〔* わたし=ぶらじゅろんぬが さいころクンに対しておこなう〕ストーカーのごとき付きまといもこれでご納得がいくでしょうし、彼も冷静に省みれば気づいてくれるものと思います。
 ☆ わたしは すでに方針を明らかにしたように誰に対してもブロックをおこなっていませんが あちらはわたしをブロックしています。その状態で いったいどういうふうに《ストーカーのごとき付きまとい》をおこなうのでしょう? 

すでに上で述べましたが、何をやった、かにをやったは関係ありません。
ブロックしたということで十分意志は表明しているじゃありませんか。
ネガティブキャンペーンだって立派なストーカー行為ですよ。
そんなこともわからんようになっちゃったのかなあ。

> (あ) もし区別をつけるべきだというのならば どこでどのようにしてわたしが区別をつけられずにいたか それを例示しなければ話は成り立ちません。

簡単ですよ。
ネガティブキャンペーンを張ることによって、自分をブロックした相手を執拗に非難し続ける。
これは、区別をつけられていない、と言われてもしかたないでしょう。

> けれども 《捨て台詞》は 記憶がはっきりしませんが どうなんでしょう。わたしの心つもりとしては そんな言い回しを使う気はありません。

そうですね。
ブラジュさんが質問者という立場がほとんどですから、回答者がブラジュさんの気に入るような回答をしない限り暴言を吐き続ける。
回答者が君子として立ち去れば、最後の暴言が捨て台詞という位置づけになる。
こういった構図になると思います。
「結果捨て台詞」と表現してもいいかもしれません。
捨て台詞を吐いて自分から立ち去ったことはない、ということをおっしゃっているのだと思いますが、このようなわけで、本質的には同じ意味になるでしょう。
まあ、どうでもいいことですが、ついでに。
    
補足も拝見しましたが、先方は謝罪していますよね?
喧嘩も厭わないほどの論議こそが哲学の本懐である、という筋を通すおつもりなら、こうした泥試合になる可能性は当然想定済みでしょう。
その結果として、ブロックして交流を絶ちたいという表明がなされる場合もあるでしょう。
すまなかったという謝罪に至る場合もあるでしょう。
いずれの場合も受け入れるべきだと思います。
そんなに難しいことは言っていないつもりなんですが。
  

この回答への補足

 けっきょく No.38の嫌疑は どれもこれも すべて例示無し 証拠無し 根拠無し。
 恥づかしみを知りなさい。




 きちんと文脈をおさえて 一つだけでいいから 例証してみなさい。あなたの言っていることは いっさいありません。

補足日時:2012/03/21 15:55
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この回答へのお礼

 ですから わたしの行動はすべて――すべてです―― 受け身からのものです。

 それを外して そのあとの行動をうんぬんしている。そういうことです。
 今回うかがってみれば ぜんぶそうです。

 決してわたしのほうから 何かを仕掛けるということは いっさいありません。



 ★ 補足も拝見しましたが、先方は謝罪していますよね?
 ☆ 謝罪していますか?

 別にそのことをとやかく言うために 例示したのではありません。

 謝罪の精神が たしかに字面では 最近の文章にも現われている。こうも言えるようです。
 といった問題を提出しています。

 つまりは では その二年前の謝罪事件と今回の《謝罪の精神ないし 反省の心》の文面とのあいだは どうだったか? という意味です。欠席裁判を二回を初めとして すべて事実を曲げた中傷を書き続けています。それに抗議するわたしの文章が 付きまといだとあなたは言うわけです。

 だから ひとつだけでもいいから しっかりと文脈を捉えて これこれこうだと例示したらいいぢゃないですか。わたしが仕掛けたことなど決してありません。
 例を出してから デカい顔をして ものを言いなさい。

お礼日時:2012/03/21 15:51

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