A 回答 (8件)
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No.8
- 回答日時:
mitsugu様、こんばんは
例えば、ですが、「何かをしよう」と思ってもですね、実行力に欠けるという場合、いわゆる「未遂」に終わるということが、あると思います。
>「自由は、因果的な決定性がないことを要求しない」
「1+1=2だ」ということが無ければ、「数学」というものは成立しない、ということですかね
No.7
- 回答日時:
「自由は因果的な決定性がないことを要求しないどころか、適切な形の因果的な決定を必要とする。
因果的な手続きに従わないならば、行為の成就どころか行為そのものがが実行できない」...というのは、どこから引き出してきた表現なのでしょう。表現をした人のことがわからないと、その一部を抜き出した言葉だけから想像すると、元の表現の意図を誤解してしまう危険が大きくなります。
できれば、出典や表現者を明らかにする補足をしてください。 また、質問者の質問歴やプロフィールが非公開なので、質問文の疑問点を推定するのにも、誤解が大きくなる危険が高くなります。
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それでも、誤解の高い危険を承知の上で、「自由は因果的な決定性がないことを要求しないどころか、適切な形の因果的な決定を必要とする。因果的な手続きに従わないならば、行為の成就どころか行為そのものがが実行できない」の意味を推定すると、以下のようになります。
1)書き換え
「自由は、因果律の存在を前提にすることによって、自由は存在が可能になる。しばしば、自由は自由自在というイメージで誤解されて、AならばBになるというような因果関係に基づく固定的な決定性は、自由には本質的にはそぐわないように思われることがある。しかし、{(決定論と結びつく因果律)がないこと}を自由は要求しないどころか、自由は(適切な形の因果的な決定)を必要とするものなのです。例えば、{スイッチをONにすれば照明がつくという因果関係を利用して、暗い室内を明るくする目的でスイッチをONにする}という行動を見れば、{因果関係を引き起こす行動をとれば、室内が明るくなるという理解基盤の上に立っているからこそ、暗い室内で困った時にスイッチを探しONNにしている}ことがわかります。これを逆の方向で言い換えれば、{因果的な手続きに従わないならば、行為の成就どころか、行為そのものが着手できない、いやその以前にスイッチを思いつくこともなくなる}、これは因果律を知っているから、因果律を利用できることを知っているから、自由な意思を持つことができる」
2)決定論と自由意志の両立とはどういうことでしょうか?
本人が「これこれ(甲)の状況下にあって、あれこれ(乙)の状況が生じれば、こういう(丙)状況になるはずだ」という因果関係についての認識を持っているから、その本人は、{(丙)を期待する場合には(乙)の状況をつくり出そうとし}、{(丙)を避けたい場合には(乙)の状況ななるのを防ごうとする}
決定論と自由意思は両立しないものではなくて、決定論の認識を持っているからこそ自由意思は存在しうる。
なお、、決定論の認識は、正確であること、誤りでないこと、誤解のないことを問題にしない。本人が、「(A,B,C,,,)の条件が整えば、(こうなる)可能性が高い」と思い込んでいることで十分である。
3)具体的な例
状況:友人が70km/hの速度で運転する車で、私は助手席にいる。車は、空いている長い下り坂にかかった。この坂の下りポイントでスピード違反のねずみ取りがされていることを先ほど私は見かけたことを思い出して、「この先の下りでねずみ取りをやってたゾ」と友人に言った。
【友人はそのまま走り、下りでスピードが80km/hになり、捕まった。⇒友人の自由意思の結果である可能性が高い】
【アメリカ人の友人はそのまま走り、下りでスピードが80km/hになり、捕まった。⇒友人の自由意思の結果である可能性は低い。ねずみ取りとか、80km/hはヤバイということがわからなかった可能性が高い】
因果関係を認識していてこそ、自由意思は成立する。因果関係を認識していない状態では、同じ行動をとったとしても、自由意思とは言えない。
No.6
- 回答日時:
環境は過去から未来へ継続的に流れ、その中に二次的に
意識が生じている、という素朴唯物論的な考えは捨てるべき。
全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づき、
無限につめ込むと存在確率の山が平ら=無と等しくなる。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、
認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は
光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、
自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのだ。
換言すれば、「感受表面(現在=光速(0))からの自我仮説(経験
=過去=超光速(虚数)=時間軸)と時空仮説(予測=未来=光速下
(実数)=時間軸)の相補分化」という事である。
その相補的不確定性に基づく、「現在からの過去と未来の
対発生」において、過去は確定性(因果律)、未来は可能性
(自由)であって、それを連続体として1つの原則で捕らえる
必要はない。
No.5
- 回答日時:
こんにちは。
○ 自然史過程をひとは超え得ない。
ということではないかと思います。
1. 自然史過程は いくつかの必然性のからみ合って進められる世界全体としての過程である。
2. そこには 直接的な原因(=《因》)と間接的な(環境としての)原因(=《縁》)がある。
3. このとき 直接の原因となる行為は たしかに個々の人間の意志による行動であるはずだ。言いかえると 間接の原因も そのように個々の人間の行動から始まってそれらが関係し合い錯綜してからみ合ったその結果が その縁じたいになっているはずだ。
4. だが そうだとしても この人間のおこなう行為としての原因が そのままその意図し目指す結果を生むとは限らない。一般にそういうことになる。
5. 何故かと言えば これも一般に初期条件が ゼロではないからである。過去の諸行為の錯綜関係を受け継ぐかたちで 与件となっているから。これらを考慮に入れたあとでも 人間の思うようにはならない。歴史の狡知(?)
6. よって 人間の意図や意志のままにならないという意味で自然史過程として歴史を見る。
7. 自由ないし自由意志は この世界史の過程に棹差すものと思われる。
★ 適切な形の因果的な決定を必要とする。
☆ というときの《決定》について なかなか読み取れません。しっくりとくる解釈が成し得ていません。いまのところ。すみません。
No.4
- 回答日時:
以前にブログにかいたものが参考になるかもしれません。
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法理を求める欲
欲(EX.ダイエット)には単純な欲と法理を求める欲がある。
単純な欲に基づけばおよそ失敗し
法理を求める欲に基づけばおよそ発見の喜びとともに成就する。
では、なぜ成就するのか?
それは、私たちが因果によって制約された存在であるからである。
つまり、法理とは因果の異なる表現であるといことです。
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私たちは誰もが自由意志を目指そうとしますが
その希望とは逆に制約が増え、あげく自由意志さえも放棄してしまいがちです。
なぜそうなるかを考えると、私たちが因果=法理=法則によって成り立っていることを忘れることに一因があることがわかります。
逆に言えば、私たちを制約する因果の特性を理解し整理して行動すれば、自由意志が活きる隙間が生まれるということです。
ちなみに、NO.1と2の回答もこれらと矛盾するものではないのですが、言葉にするのは難しいのでまとまれば後日回答したいと思います。
No.3
- 回答日時:
勝手に考えました。
間違っているか、正しいかは解りませんが。
自販機があります。
百円を入れれば、ジュースが出てきます。
コーヒーでもよいのですが、私はコーヒーが
嫌いなので、ジュースにしました。
この段階では私の行動は自由です。
つまり、百円入れるか、百円で何を買うか、という
自由意思が存在します。
その自由意思に従って、百円を投入すればあとは
定められた因果の流れに従って
(これを電気的にはシーケンスといいます)
つまり、決定論的にジュースが出てくる訳です。
1,このように、自由は因果的な決定性がないことを要求しない
のです。
2,シーケンスという適切な因果の設定がなければ
ジュースは出てきません。
つまり、私がジュースを飲むという行為の成就が
出来なくなります。
No.2
- 回答日時:
つづき
人間を進化とともに構築された因果関係反応プログラムとすれば
プログラムが動くには外からデータが入ってこないといけないわけです。
因果関係反応プログラムには因果関係が予測できるデータしか入れては駄目ですから
そういうものには意思が働きようがないのでは?
No.1
- 回答日時:
推測なので、そのつもりで参考にしてください。
因果関係というと時間的なものをイメージしますが、空間的を通しての相互依存関係も因果関係となります。
まず時間的な因果関係から見ていきますと、
りんごを食べる→おいしく感じる というが予測できなければ意思が生まれせん。
また、「食べる」とはどういうプロセスなのかが分からなければ行動もできません。
また、因果関係の連鎖の塊であり筋肉を使わなければ手を使って食べることができません。
これに反論して、本能的行動というものを持ち出しても、本能も進化における因果関係の積み重ね(学習)であるため同じことです。
次に空間的な因果関係を見ると
食べる私とりんごの相互の関係が理解できないと食べるという行動に結びつきません。
結局、過去の本能や学習を信用するか、実験的行動を起こして因果関係を調べるかしないと行動すらできないということです。
つづく
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