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「物の哀れ」(もののあわれ)とはどういう意味でしょうか?
ネットで調べてみたのですが、解説を読んでもしっくりと理解できません。
ご教示のほどよろしくお願いします。

p、s、
まだ、「物の哀れ」の意味も理解できていませんが、今の世の中には無縁だから理解できないのかな、と思ったりしています。

A 回答 (7件)

ものを物と書くと不適切かも知れませんね。


ものに対応してうらというのもありますね。
どちらも接頭語ですよね。
これらは学、理論というより当時の方の感情や心のあり方、感性ですね。
だから私達もその中に浸るしかないのですね。その状況がなんとも感じられるというくらいですね。
表現できないから、もの、そしてあはれなんでしょうね。
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blue_laceさん、こんにちは。



回答ではありません。ごめんなさい。

>まだ、「物の哀れ」の意味も理解できていませんが、今の世の中には無縁だから理解できないのかな、と思ったりしています。

こんな歌もあります。

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮

誰にでも、どこにでも、いつの世にも存在し得るものではないか・・・なんてね。

失礼しました。ひっこみます。。。
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日本語の「もの」は物と者両方の読みとして当てられています。

これは偶然ではないと考えます。
昔の日本人は物には精神が無いとは思っていなかったのでしょう。
ものとは個としての存在という概念なのだろうと思います。そしてそこに精神が宿るのだと。
一個二個と数える価値もないほどつまらない存在、ものになっていない存在、は「物の数にも入らない」のでしょう。まだちゃんとした精神が宿っていないのです。

何かに直面して、人間がおのれを個としての存在と自覚する、元に戻ることのない大きな時間の流れの中でただ一個の限りある存在のひとつだと自覚する瞬間が時々あり、また見ている物にそれを感じる、それが「もののあはれ」なのではないでしょうか。
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伊勢松阪の国学者、本居宣長が提唱したことですね。


小林秀雄が本居宣長について書いたのがあるから、ご覧になってはどうでしょう。

こういうサイトも見つけました。
http://www.norinaga.jp/009/
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 哲学が「人の意識や感覚」を反映したものと理解するなら、「文学」はその表象形式の一つとして具体的な表現となります。


 こうした観点からは「文学」が「後づけ」的な存在である、とされるのは文学の名誉を守りたい者の立場としては少し悲しいものがあります。
 さて「もののあはれ」ですが、本の題名は忘れてしまいましたが、元々は「あぁ、我は!」から派生した詠嘆や叙情の概念と説明されていたことを記憶しています。
 愛らしいもの、美しいものなどに接した時、それが永劫に続けばよいものを、やがては朽ち果ててしまうことへの感慨が美意識として言葉に表現されたものと僕は理解しています。
 こうした「感覚」はシャンソンのような詩の世界にも多く見られます。もっとも日本を含む東洋の物の考え方としては「流れに身を委ねて生きる」のが自然と考える傾向もあり、そうしたことを背景にして文学を読んだりすると「無常」の考えが色濃く反映されてしまうとも理解できますが、人間が「自らの意思に従って生きる」との西洋的な物の考え方からみればそれは限りなく不自然と映ります。
 文学ですから、それに対しての読み方は読者の心境や価値観により「これが正しい」などの読み方はありませんが、少なくとも作者の思いを共有する姿勢だけは大切であると思います。「文学すること」は「イメージすること」です。少しだけ想像をたくましくすることで「私に似ている」と共感できる部分も必ずあるはずです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

哲学・文学は、人そのものを表現したもの、ということでしょうか?(人にそなわっているものを、表現(言語他)で認識すること?)
ならば、「もののあはれ」という感覚は、私を含めて人が先天的にもっている、ということですか。(私のどこにあるのかわかりませんが)

時に、沸き起こる感情は曖昧模糊として、言葉にできないもどかしさを感じます。(ただのボキャ貧ですが)

それで、たとえば外国の方に「もののあわれ」を説明しようとしたら、どんな説明をすればいいのかな、と悩んでしまいます。

支離滅裂な悪文をお許しください。

p、s、東洋と西洋の対比はおもしろいですね、ただ、普段の考え方はどちらかというと西洋です。
たとえば、東北大震災が起きたことにたいしては東洋ですが、これからいかに進むべきかについては西洋です。
なぜなら、あんなことは2度といやだからです。

お礼日時:2012/04/25 17:57

難しいですね・・・。


仏教的な解釈から言うと「無常観」でしょうか?
人は生まれたその時から死ぬことが約束されています、
これには誰も抗う事が出来ません・・・。

今一つは、哀れを感じることの出来る感受性。
例えば貴方が進む道に一輪蒲公英が咲いてるとしましょう。

踏み潰していく人もいるかも知れません・・・。
あるいは、けな気に頑張っている・・と感じる人もいるでしょう。

私は後者が「物の哀れ」なのかなと思います。
たしかに今の世の中は殺伐としております・・・。
でも、人間の本来持っている感受性はそれに左右されない・・
そう思いたいですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
この質問のカテゴリを決めるとき、ライフにしようか、文学にしようか迷いました。
学問・教育・文学のイメージは後天的に強制される感じがします。

>でも、人間の本来持っている感受性はそれに左右されない・・
>そう思いたいですね。

私もそう思いたいです。

お礼日時:2012/04/25 09:32

 


 序破急 ~ やまとごころのふるさと ~
 
 一 序の巻
 
── 日本文化にも二つの原点がある。それは「記紀」と「万葉」だ。
 万葉は「沿=自然」を、記紀は「革=歴史」を伝えている。
 ともに、現代に至るまで継続している点で、諸外国に類を見ない。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6255101.html (No.3)
 沿革 ~ 記紀万葉(ききまんにょう)~
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4864108.html (No.3)
 
 二 破の巻
 
── 仏教の「生きとし生けるもの」は、人間だけではなく、すべての
生物が、けなげに生きながら「輪廻転生」する風情を尊いと観たのです。
 このような文学的感傷が、とりわけ日本において進化したのでしょう。
(略)
 みずからの心の深淵を覗きこんだ者は、虚しさに堪えられないのです。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4478342.html (No.1)
 感情移入 ~ 古代の科学から中世の詠嘆へ ~
 
 三 急の巻
 
── もののあはれ・をかし …… 紫 式部《源氏物語》本居 宣長・説
 秘すれば花・時分の華   …… 観阿弥《花伝書:風姿花伝》
 侘(わび)・寂(さび)  …… 岡倉 天心《茶の本》
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3194038.html (No.6)
 古典語:Japan Classics
 
 四 余の巻
 
 もののあはれは、「物の哀れ(もののあわれ)」とは読み書きしない。
 むしろ「者の淡れ(ひとのあはれ)」と表わしても通じるはずだ。
 雪が降って梅が咲き、桜が散る風情は、万物流転の感傷的観照である。
 
── ふるさとよ、美しい土地よ。この世の光をそこで初めて私が見た
その国は、私の眼前に浮かんで常に美しく判然と見えている ── 私が
そこをたちいでた日の姿のままに。《ヴェーゲラー宛 18010629 書簡14》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/40 …
── ロラン《ベートーヴェンの生涯 19650416 岩波文庫》P25-70
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「『もののあはれ』こそが日本の代名詞だ」という内容のインターネットの記事を見て、質問させていただきました。
まだ、よく理解できていませんが、「者の淡れ」という言葉には何とも言えない感情がわきおこりました。

ただ、私のなかでは、文学の域を出るほどではない感じです。

お礼日時:2012/04/25 09:16

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