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如何に至徳の人でもどこかしらに悪いところがあるように、 人も解釈し自分でも認めつつあるのは疑いもない真実だろうと思う。.

夏目 漱石

この言葉の特に後半の意味を教えていただきたいです!

A 回答 (3件)

No.2です。



リンク先の原文を見ればわかるように、この部分だけを取り出して「名言」とするのは無理がありますね。

この「ように」は婉曲な表現です。
例えば、「以上のような次第です」「間違っているように思います」の「ような・ように」と同じでこれを抜いてしまっても文章の意味は変わりません。
本来推定の意味の「ようだ」を入れることによって話者の断定をやわらげる言い方です。(「ようだ」で辞書を引いてみてください)。また語調の整えの場合もあるでしょう。

もしこれを格言とするなら
「いかに至徳の人でもどこかしら悪いところがある」
としたほうが良いと思いますが、今日的には当たり前過ぎて名言としての効果が無いように私には見えますし、前記の講演の(文学論の)文脈として観ないとあまりおもしろくもない、誤解の余地のある文章ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

丁寧に回答してくださってありがとうございました!

おしゃる通りですよね。頭の悪い僕にはそれでも十分ですけどね!

お礼日時:2012/06/28 21:47

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/756_1 …
漱石の「文芸と道徳」という講演の書き起こしですね。

江戸時代の道徳と明治44年当時の道徳観を比較して、浪漫主義の文学と自然主義の文学をそれになぞらえた講演のようですね。(初めて読みました)

前後を読んでみると、引用されている文章の意味は単に
「どんなに徳の高い人でもどこかしら悪い所はあるのだと他の人も解釈(=理解)しているし私もそうだと認識している」
という意味ですね。
「いかに至徳の人でもどこかしらに悪いところがあるように人も解釈し、自分でも認めつつある」のです。
上のように「あるように、」の読点は取ってしまったほうが意味が通じやすい。
ともかく、質問にある文章の後半(読点以降)は前半と切れていないように読むということです。


なお引用された文より前で「江戸時代はどこかに理想の・完全な至徳の人が存在して居ると考えてそれに近づかなければいけないと考えていた」と延べています。
引用された文より後では、その完全ではない人間、道徳的存在ではない人間を理想とは切り離してえがくのを自然主義の文学とし、ある倫理観や理想が先にあってそのために書く面のあるのを浪漫主義の文学として論じています。
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夏目漱石の何かの書籍中の一文か、それとも格言めいたものの一節かしりませんが。


思うに前半は、徳の備わった人でもどこか悪いところがあるということでしょう。
後半は、「至徳の人」と「凡人」を比較したものかと思われます。
「至徳の人」も探し回れば悪いところがある。
「凡人」も悪いところは自分でわかっていて、自覚しているというのが真実ということでしょうかね。
「不徳の致すところ」という表現がありますが、
誰にでもそういうところはあるのだと漱石は自戒的に言っているのではないでしょうか。
至徳の人でも悪いところがあるのだから、まして我々凡人なら尚更であろう、
というような意味に受け取れます。
勝手に解釈してみますとだけれど。
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