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私は高校で合唱の歌い手をしています。今年度から指揮者の先生が変わり、合唱経験のない(アマチュアオーケストラに所属)先生が新指揮者になりました。
彼女は国語教員なのですが、部員に詩の解釈の重要性を説き、それを半ば強制してくるのです(作詞者の著書を読ませ、その感想を提出させたり、絵を描かせたり…本番の1週前にです)。そして終いには、彼女自身の詩の解釈を半強制的に歌に反映させようとする。部員一同、ウンザリといった感じです。

そこで質問です。合唱表現ということにおいて、詩の解釈を深めるというのはどの程度有用なのでしょうか。それよりも、楽譜に描かれている音楽にアプローチし追求する方が余程効率的で、具象的、かつ歌い手の意志統一に繋がるのではないでしょうか。作曲家は既に詩を解釈した上で楽譜を書いている訳ですから、歌う側の人間が敢えてする事ではないと思います。
木下牧子氏のサイトにも、「詩の解釈を深めすぎるよりも、作曲家の意志(=楽譜の指示)を尊重して欲しい」という旨の事が書かれておりました。
合唱表現に関わる方々はどのようにお考えですか?

A 回答 (4件)

>合唱表現を作る過程として、詩の解釈と楽譜の再現のどちらを先にすれば良いのでしょう。



どちらが先が良い、ということはありません。
同時進行でも良いです。
詩やその世界観を学習することで歌のヒントを得られたりしますし、
逆に歌っているうちに詩の解釈が深まることもあります。
その積み重ねで合唱を作り上げるのが理想じゃないかな、と私は思います。

>詩を深読みして憶測・推測が入り込むよりは、詩の読み込みもそこそこにして(決して詩を軽視するわけではない)、あとは音楽表現に重きを置く方が好ましいと思うのですが、間違ってないでしょうか?

憶測、推測。あまりにも作詞者や作曲者の意図からかけ離れていたら問題ですが、
何も考えずに歌うよりははるかに良いです。
「私はこのように解釈しています。こんな風に感じています。あなたはどうですか?」
というような姿勢が、歌うという行為には大切だと思います。。
必ずしも全員で解釈を統一する必要はありません。
大事なのは、何かを思って歌うこと。
そこそこのレベルということでしたら、そのあたりを意識して歌ってみたら随分と変わると思いますよ。
ですが、もちろん音楽表現も大切です。歌を歌うためには、いろいろな準備がいるのです。

「春に」の件は、仰る通り寺嶋さんのものです。
どの点が違うと言われても…まるっきり違いますね(笑)
木下版のように気持ちよくは歌えません(笑)
しかし、歌における言葉というものをすごく大事にして作曲なさっています。
彼の曲の多くが、そのようなスタンスで作られています。
音源が出ているかどうかわかりませんが、たまに歌っている合唱団を見かけるので
是非聴いてみてください。木下版のイメージで聴き始めるとギャップがありすぎて、おもしろいですよ♪

長くなってしまいすみません;
あくまで、私個人の考えです。
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合唱は門外漢なのですが、詩吟をやっている者から一言。



詩吟の場合も、漢詩の意味をよく知ってから、吟ずるように言われます。のどかな情景詩、戦に臨む心情を詠った詩など、いろいろあるからです。
しかし、素人には、詩吟の節なんて同じに聞こえますが、その詩に合った節まわしをつけているものです。この頃は、意味を理解してから吟ずるより、節回しから、なるほど、こういう詩なんだ、と理解していくようにしています。それの方が、意味の理解も早い。

歌だって、同じことが、否、それ以上のことが言えるでしょう。詩吟は漢詩というものがもともとあって、それを日本語読みして、節回しをつけたものですが、歌の場合、歌にするために歌詞を作り、歌にするために曲をつけたものがほとんどでしょう。歌詞のことも重要ですが、詩吟における漢詩より重要度が低い。
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こんにちは。


合唱をかじっている者です。


詩を解釈するだけでは歌えません。
やはり楽譜を読み解いて作曲者の意思を汲み取って
とにかく実際に歌う練習をしなければ
演奏自体にはつながりません。

ただ、詩を解釈しなくても歌を歌えてしまうということに
「歌」というものの危険性があります。
気持ち良く歌っているだけなら詩はいらないのでは?
誰に、何を伝えたいのか?これは大事だと思いませんか?

歌に詩をつけたものならまだしも、
詩に歌をつけたものであれば
その詩や作詞者について勉強するのは当り前のことです。
詩を理解しているのとしていないのでは
演奏がかなり変わってくるのですよ。

しかしもちろん、基礎的な歌唱力がなければ
結局うまく歌うことはできません。
皆さんがある程度のレベルまで達している方たちなら
その国語の先生のご指導は適切ですが、
歌の練習が不十分なままで詩の方ばかりを
重視するのは適切な指導とは言えませんね。
もしかしたら合唱指導に自信がないのかもしれませんが…

ちなみに木下牧子氏、説明不要のヒットメーカーで
私も彼女の曲は大好きですが、
ご本人のお言葉にもあるように詩を重視した作曲をしていません。
それについて他の作曲家から批判もあります。
彼女への批判の意を込めて、別の作曲家が
全く雰囲気の異なる「春に」を作曲したりしています。


とにかく、歌そのものを理解するという意味で
詩の解釈は怠ることはできません。
歌の練習をさせてもらえずうんざりするかもしれませんが、
それでしたら自主練を行うなどで補いましょう。
本を読んで感想を書いたり、絵を描いたり。
そういうことに心から楽しんで取り組めば、
歌う時の表現の幅も広がりますよ!

頑張ってくださいね!

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
歌い手のレベルですが、コンクールでの講評を拝見する限り、ある程度聴けるレベルにはいるのかなと思います。ただ20人足らずの合唱団なので、安定感には欠くと思いますが…。

合唱表現を作る過程として、詩の解釈と楽譜の再現のどちらを先にすれば良いのでしょう。前者であればその初手は詩をよく読み込む事ですし、後者であればまずはHumや母音のみで歌って流れを掴み、そこに詩を乗せてやるということになりますよね?こう考えたときに、果たしてどちらを先にするのが好ましいでしょうか。

もう一つ、詩を深読みして憶測・推測が入り込むよりは、詩の読み込みもそこそこにして(決して詩を軽視するわけではない)、あとは音楽表現に重きを置く方が好ましいと思うのですが、間違ってないでしょうか?tassotasoさんのお考えを伺いたいです。

ところで木下牧子氏の作曲でない「春に」というのは、寺嶋陸也さんのものでしょうか?これは木下版と具体的にどう言った点で異なるのでしょう?(音源が見つからないもので…)木下版のものしか歌ったことがないものですから、気になります。

補足日時:2012/08/10 18:36
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詩の解釈を深めるというのはどの程度有用なのでしょうか。


作曲家は既に詩を解釈した上で楽譜を書いている訳ですから、歌う側の人間が敢えてする事ではないと思います。
「詩の解釈を深めすぎるよりも、作曲家の意志(=楽譜の指示)を尊重して欲しい」という旨の事が書かれておりました。


■「作詞・作曲」の両方やっている立場からなんですが。。。
「歌」というものは、「詞」と「曲」の両者が、「合体して、一つ」になったとき、
全部が表現されるようにできています。

逆にいうと、「詞だけ」では、50%の表現しかなされていない。「不完全」な表現です。
要するに、残りの50%は、「曲」の部分に、主に「感情」が表現されています。

なので、「詞だけ」で、100%。解釈しようとすると、「憶測」することになります。
場合によっては、「誤認」する場合もあるわけです。

やはり、「感情」の部分は、「文字・詞」では、表現しにくいものです。
微妙にニュアンスになればなるほど・・・

ですので、私の意見ですが、「詞」を分析し解釈することは、必要なことですが、
先に記したように、「詞」は、「50%」しか表現されていません。

ですので、「詞だけで」、無理に100%解釈しようとすると、「憶測・誤認」に至る恐れもあります。
やはり、「詞」は、アバウトでよく、また、「一つの解釈」に統一する必要はありません。

仮に、恋愛の歌であれば、「彼氏・彼女」は、「各自」思い描く、人それぞれの
好きなタイプをイメージすればよく、「統一(同じ)」する必要はありません。

「歌」とは、「歌い手」もイメージしながら、歌いますが、
「聞き手」もイメージします。

しかし、「★同じイメージをする必要はありません」。
「歌い手は、歌い手のイメージ」。
「聞き手は、聞き手のイメージ」を、
別々に、個々にすればいいのです。
決して、「1つに、統一」するものではありません。

長くなりましたが、解釈は、深めることは重要ですが、
「完全に解釈する」。「一つの答えを出す」
ような解釈は、どうかと思います。

結論をいいますと、私も、takoi424さんや、
「詩の解釈を深めすぎるよりも、作曲家の意志(=楽譜の指示)を尊重して欲しい」
に同感ですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。作詞作曲の両方をされている方からのご意見、大変参考になります!

お礼日時:2012/08/10 07:09

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