
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
クリスチャンです(-Д-)ノよう
カソリック、プロテスタントと行ってますが
説教の時、羊発言は御言葉としてありますが
そういや、羊発言は、牧師さんも神父さんも言わないな~偶然だろか
ただ、牧者と言う思想は、プロテスタントだけでなく
聖書に書かれている思想なので
どちらも、多少は持っていますよ
またカソリックは、神父と言っても、それは一般的な、分かりやすい言い方で
司教、大司教な・・まぁ法王など、ほんとは色々あるんですよ
たしか、神道の人を全部、宮司さんと言ってはいけない!
・・と聞きましたが、そういった感じです、宮司さんは、一番偉かった・・かな
ああ!聖書の言葉で、神父さんや牧師さんが自発的に使うものではないんですか。
お互い同じ聖書を元にしているなら、御言葉としては使うこともありますよね。
そういえば、カトリックの階級みたいなのを否定して発生したのがプロテスタントと聞いたことがあります。
回答ありがとうございました。

No.5
- 回答日時:
こんにちはです。
皆さんの投稿なされた回答を読み、疑問に思うことがあったので、あらためて投稿します。
☆☆☆
異教徒であろうが、敬虔なクリスチャンであろうが、神の代理人とされるローマ教皇であろうが、
神の眼から見れば、へ~きで、神の教え・摂理に反する《迷える小羊》ではないのでしょうか。
ルカ十五章から例を出します。
放蕩息子のたとえです。
父親の財産を半分わけ与えられた息子(弟)は、父親(父なる神・子なる神イエス)のもとを去って放蕩のかぎりを尽くす。そして、その財産をすべて使い果たして困って、父親のもとに帰る。父親に謝罪した。父親は、何もなかったように、以前とかわることなく、それを優しく向かい入れる。
その時、父親と同居し父親に尽くしてきた、もう一人の息子(兄)は父親に対してクレームをつけたでしょう。これは、ヨブと同じ過ち、《神を非難する》《神と論ずる》という過ちを犯す。実はそれ以前にも息子・兄は《過ち》を犯しつづけていた。ただ、兄はそのことに気づかなかっただけ。なのに、父親は優しく接していた。。。。
つまり、もう一人の息子・兄(ユダヤ教徒orキリスト教徒)も、平気で神の教えに背くし、現に背きつづける《迷える小羊》なのではないでしょうか?
なので、
クリスチャンも「自分は《迷える小羊》でない」なんて思ては、まずいんじゃないですか~。
その時点で、もはや、
神の教え、キリストの教えに背くことになるのでは?
《傲慢》の罪を犯すことになったりしないのですか~
さらに例を上げます。イエスが捕まり、十字架にかけられる前に、
=====
マルコ伝14:27
イエス、弟子たちに言ひ給ふ。『なんじら皆つまづかん、それは「われ(父なる神)羊かい(イエス)を打たん。されば、羊(イエスの弟子たち)散るべし(※)」としるされたるなり』
=====
イエスの弟子たちは「たとえ、あなたと一緒に死ぬことになっても、絶対にあなたを否定しない」と反論した。もうこの時点で、イエスの弟子たちは既に《迷える小羊》状態。《散る》以前に《迷える》子羊です。さらに言えば、ずっと《迷える小羊》であった。
なので、
《迷える子羊》同士が、「己れも《迷える小羊》であること」を自覚し、お互いを《迷える小羊》と呼び合おうが、それは《傲慢》にはあたらないんじゃないですか。
自分は《迷っていない羊》あるいは《羊飼い》《牧童》《牧者》と思うことこそ、《傲慢》になるのではないでしょうか。
=====
(※)ザカリヤ書13・7
「…我が牧者 我が伴侶(とも)なる人を攻めよ。牧者を打て しからば その羊散らん…」
我が牧者:新バビロニア王・ネブガトネザル
牧者:ユダヤの王・エホヤキム
羊:エルサレムの民・ユダヤ人(の有力者)
この予言は、紀元前597年におきたエルサレム陥落とその後のバビロン捕囚の予言とされています。
旧約聖書で《牧者》が地上の王、《羊》がその領民をしめしていた好例になるので、この質問に直接は関係しませんけれど、参考になればと示しました。
☆☆☆
キリスト教(プロテスタント?)では、
”全ての人間は神の子”
と言っているんですか?
これでは、全ての人間は《神の子》であるイエスと同じ存在ということになりますよ。
たかだか《土の塵》から創造された人間が《イエス》と同じ存在?
だとしたら、神父さんや牧師さんが信者さんを《迷える小羊》と呼ぶどころの騒ぎではないと思うのですが。。。。
神イエスの弟子という意味で『神の子』という言葉を使っているのならば、話は別ですけれども。。。。
そんな畏れ多いことを口にして、いいのかなぁ~
父権的な教権組織カトリックでは、プロテスタントと違って、カトリックの聖職者と信者を横並び的な存在とみなしていないじゃなかったかな。
カトリックの信者さんたちは、敬意と親愛の念を持ち、ローマ教皇をパパやVater、Fatherと尊称する。ローマ教皇は、信者さんを「我が子」と思う。《あなた》あるいは《あなたたち》と呼びかけないときは、信者さんを《我が子》《息子(たち)》《娘(たち)》と呼ぶんじゃなかったかな。
神父さんも、《父》という文字がついているでしょう。英語ではFather。ラテン語だとPater。
なので、神父さんも、原則的に、信者さんを《兄弟》や《姉妹》と呼ぶことはしないんじゃないですか。信者さんに呼びかけるときには、《あなた》、《息子》、《娘》、《我が子》とか呼ぶんじゃないですか。
でも、どっかで《我が同胞(はらから)》と呼ぶのを聞いたような、聞かなかったような。
実際のところ、どうなんでしょう?
「ハハハ、異教徒の僕には分からないや」と笑って、ごまかす。
カトリックの信者さん、神父さん、この質問に回答を寄せてくれないかな~
☆☆☆
質問に
☆よく聞く「迷える子羊よ」と信者を羊と言い換えるのは牧師だけなんでしょうか?
とあったので、
《プロテスタントの牧師さんがそう呼ぶ》
という前提のもとで、#No.1では、
ならば、神父さんも、「そう呼ぶこともあるのでしょう」と答えたました。
実際に、神父さんが信者さんに面に向かって「お前たち、《迷える小羊》よ」と語りかけることは、ないと思います。
そう呼びかけるときには、
そこには、何か深~い宗教的な意味が込められていると思います。
そして、その神父さんや牧師さんも《迷える小羊》の中に入っていることを自覚して、あえて刺激的なその言葉を使っているのではないでしょうか。
☆☆☆
クリスチャンではない人間の世迷い言です。。。。
No.4
- 回答日時:
神父と呼ばれている人は使わない言葉ですか?
○根本的に勘違いしているようですね。
ルカによる福音書
第15章(CHAPTER 15)
4.「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
この意味はね。「百匹の羊を持っている者」がイエス、つまり牧童ですね。九十九匹の羊が牧童の管理する羊、つまり従者(信者)のことですね。では迷える羊とはですが、信者ではない人のことですね。
これは、伝道の勧めの話なんですよ。
だから、神父も牧師も信者を「迷える羊」とは決して言わないんですよ。
「迷える羊」とは信仰を持たない人のことですね。信仰を持たない者が迷える羊ですから牧師や神父は伝道して、首に紐つけて教会に引っ張ってこないといけないんですが、救済力のないキリスト教会では無理ですね。
まあこんな質問がでるようですからみな迷える羊ですね。
なるほど。
本当に迷える子羊という意味なんですね。
確かにすでに信仰を持っている人は迷っていないはずだし、それを持ってない人は道しるべもなく迷っているという形になります。
信者でも生活の中で迷うことがあれば、「迷える子羊」と呼ばれるものだと思っていました。
回答ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
神父に関してはどの様な表現を使っているのかは知りませんが、牧師自身の言葉として、信者の事を「迷える子羊」とは言わなかったと思います。
少なくとも、私は聞いた記憶が御座いません。
何故なら、主の御立場から見られた場合には、牧師自身もまた1頭の羊に過ぎない訳ですから、人間が他人に向かって「人間よ」等とは言わない様に、牧師も信者に対して「羊たちよ」と語りかけるのは不自然だと思います。
又、羊の飼主と羊飼いはどちらも人間ですから、ある意味対等の立場という事になります。
一方、人間を比喩的表現として「羊」と言う場合には、その飼主は天にまします父なる神という事になりますから、牧師や神父を羊飼い扱いするという事は、たかが人間に過ぎない牧師や神父の事を神に比肩しうる存在と見做す事になりますので、それは神を冒涜する行為であると言えるかもしれません。
人間を比喩的表現として「羊」と言う場合、主イエス・キリストが羊飼いに相当します。(因みに、ローマ法王は、聖書の記述を根拠として、主の代理人としての権威を主から授かっているとされています)
牧師が信者の事を呼ぶ際には、全ての人間は神の子である事から、男性に対しては「兄弟」、女性に対しては「姉妹」と言う表現を使います。
多分、神父の方でも信者に対しては兄弟や姉妹、あるいはそれに類する表現を使っているのではないかと想像します。
やはり、子羊というのは聖書の中の言葉だけのようですね。
イエス・キリストならともかく、その導きにある人間同士で上下関係つくるとおかしなことになります。
ワシが聞いたのは、聖書を読み上げている時の言葉だったのかもしれません。
回答ありがとうございました。

No.1
- 回答日時:
こんばんはです。
☆☆☆
カトリックのミサに出たことがないので、推測になりますけれども、
カトリックの神父さんも「迷える子羊よ」と言うんじゃないですか。
プロテスタントはカトリックから分派した宗派ですので。
羊は《人間》、羊飼いは《キリスト》の喩えでしょう。
カトリックの教会は、イエス・キリストから地上の人間を教導する《権威》を与えられているということになっているんで。
☆☆☆
そもそもは、
羊飼い:地上の王
羊:人民
の意味なんですよね。
で、これはユダヤ・キリスト教というよりは、
その先行文明である《メソポタミア文明》、バビロニアの考え方なんですよ。
地上の王は、シュメル・バビロニアの神《エンリル》から支配権を与えられ、
人民である羊を率いる。
そんな感じの考え方です。
キリストは、本来、救世主ではなく、地上の王という意味です。
そこから、《羊飼い》と《羊》という表現・発想が生まれたのではと思います。
☆☆☆
カトリックの信者でないので、間違っていたら、ごめんなさい。
って言うか、僕は、クリスチャンではないので。ポリポリ。
なるほど、地上の王でしたか。
それがなぜ羊飼いに例えられたのか興味がわきますね。
羊飼いが多い時代だったのかも。
回答ありがとうございました。
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