「お昼の放送」の思い出

奈良朝における、駅鈴の保管と運用方法を教えてください。

駅鈴は中務省が管轄、保管していますね。主鈴が責任者です。駅鈴が省に保管されることについては、運用上理解できます。いろんな国に伝達するためにも、駅鈴はひとつやふたつではないでしょう。

ところが、駅鈴は、内廷、天皇の手元にもある。平安期でも、温明殿に、節刀などとともに保管されています。
仲麻呂の乱の発端、孝謙上皇は、淳仁天皇から玉璽と駅鈴を奪います。仲麻呂の息子がそれを奪い返そうとして、箱を抱えたところを射殺されている。抱えるくらいの大きさですから、たくさんの駅鈴が入っていたとは思えないのです。

中務省にある駅鈴と、内廷にある駅鈴、この関係が、さっぱりわかりません。
天皇の手元にあるのは、実際に運用する駅鈴とは違う、中務省へ駅鈴使用を命令するといった、特別の駅鈴だったのでしょうか。

よろしくお願い申し上げます。

A 回答 (3件)

「駅家」自体は地方の政情報告を届ける、ないし緊急命令伝達などの特別な状況下において使用できる、政府の施設ですよね?そして駅家の管理そのものは兵部省が受け持っています。

そして実際の運営は国司という事なんですね。

そして問題の駅鈴ですが、中務省におかれるものは、基本的に”公務である”ことを確認し発給するためにおかれていたものでしょう。ですから内廷にある駅鈴は基本的に緊急用でしょうし、仲麻呂の変のケースであれば、仲麻呂の謀反に備え、考謙上皇が淳仁天皇の許にあった鈴印の回収をはかります。これは皇権発動に必須の鈴印の掌握ということで、つまるところ組織伝達のラインをおさえる動きですから、あくまでも”鈴印”ということで玉璽と駅鈴のセットがなければ意味をなさない。逆にいえば内廷にそのセットがなければ緊急時の情報伝達はできないわけですから、中務省とは別に内廷にて管理する鈴印というものはあったのでしょうね。
そして全ての駅鈴を奪取しなくとも、玉璽と駅鈴のセットさえあれば、皇権発動には支障がないのでしょうから。
全ての駅鈴を管理下においても、玉璽がなければ、命令そのものを発令できませんし、玉璽だけを管理下においても駅鈴がなければ命令伝達できないですから。

そう考えれば、鈴印は人一人が持ち運べるといった記載も理解できる気がするのですが。
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この回答へのお礼

shirokuro1533さま


>内廷にある駅鈴は基本的に緊急用
>玉璽と駅鈴のセットさえあれば、皇権発動には支障がない
>鈴印は人一人が持ち運べるといった記載も理解できる

ああ、わかりやすいご説明、感謝です。

質問をアップしたあと、時間を置かずに教えて下さいまして、本当にありがとうございました。

お礼日時:2012/10/07 00:22

再度の回答で失礼します。


質問者様があえて「内廷」「外廷」といった使い分けをしてくれたのは、そのニュアンスを伝えるためだと理解して回答していましたし、質問者様がご指摘の「内廷」をそのまま内裏と理解するわけではなく、それこそ具体的な内裏をふくめて、内廷と通用される天皇の身の回りという事なのだと思います。そして大内裏の中のお話ではないことは、冒頭より中務省の管理の他の内廷の駅鈴といった設問からも想像して回答していました。

そのような前提に立ち、「仲麻呂の変」の成り行きを見てみますと

天平神護元年8月の仲麻呂の兵備についての記事や、天平宝字8年の記事などのように、仲麻呂の謀反に関わる密告が次々と寄せられた結果、ついに9月11日に法華寺にあった考謙上皇は少納言・山村王を遣わし、中宮院の許にあった鈴印の回収に乗り出すということですね。
それが端緒となり、それらに対する迎撃のため、仲麻呂は中宮院で勅旨の伝宣にあたっていた久須麻呂を動かし守りに入る。対する山村王もそのような動きについて、物部磯浪を遣わし考謙上皇に事の次第を報告。考謙上皇もただちに坂上苅田麻呂らに出動要請、そして彼らの手により久須麻呂を射殺。それに対して仲麻呂も中衛府の兵を動かし応戦。中衛将監・矢田部老が紀朝臣船守を射殺、再び鈴印を手にするといった事件です。
最終的に一連の騒動から、仲麻呂は公然と謀反を起こした形となり、考謙上皇により官位を奪われ氏姓をはじめ職分や功封の雑物など、全てが没収されたといった流れです。ここで気をつけたいのは、結果としては鈴印は仲麻呂の手に落ちるといったところでしょうか。

いずれにせよこの反乱は、あくまでも淳仁天皇の身の回りにある鈴印をめぐっての争いであるという事ですね。そして質問者様を混乱させたのは、ここでは単に駅鈴を奪取するといった具合に、中務省に兵を進める場面が出てこない。「では天皇の身の回りにある駅鈴は何か特別な意味があるのかしら?」といった疑問なのだと思います。

僕も前回の回答では言葉足らずだったかな?と思いつつ、質問者様の理解力にお任せして、簡単な回答をしてしまいましたが、仲麻呂の変の中でも、特に鈴印の争奪といった争いは、物理的な鈴印のありかたではなく、観念的な鈴印のありかたをめぐる、政争の延長線上にある争いであったことは言えるのかな?と思います。

つまり、天皇の身の回りにある鈴印に象徴される皇権発動の権利を、いかに自派に取り込むか?といったことが、同変に関わった双方における目的だったのだと思います。ですから中務省にある駅鈴は一顧だにされなかったんですね。

そのようなことから内廷にある鈴印は、権威の象徴といった意味も多分にありつつ、具体的な使用方法として緊急用に天皇の意思で運用することができるといった、具体的価値も有しており、それはやはり、質問者さまがご指摘のように内廷に存在していたという事だと思います。
そのような理解があれば、平安期の温明殿に、節刀とともに安置するという管理の仕方も理解されると思うのですが。
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この回答へのお礼

shirokuro 1533 さま


繰り返しての御回答、ありがとうございます。

はい、前提として、おっしゃるように考えておりました。

学術論文ではきっと違うのでしょうけれど、一般の書籍では、「中宮院で淳仁の手元にあった駅鈴を奪った」という、続日本紀の簡単な記述をそのまま踏襲しているだけ、それで疑問が湧いてきました。

>中務省にある駅鈴は一顧だにされなかった

天皇の手元にあった駅鈴とは、平時のものではなく、緊急に超法規的処理をする事態、具体的には兵馬の大権にかかわるものでなかったかしら、と推測したのです。
天皇と上皇の権威、権力は拮抗していたけれども、孝謙上皇は兵馬の大権を掌握していなかった。だから事を起こすにあたり、真っ先に鈴印を天皇から奪う必要があったのではないか、と。

初めの御回答で、そのあたりのこと、きっちりおさえて説明して下さっていたので、わかりやすかったです。

>内廷にある鈴印は、権威の象徴といった意味も多分にありつつ、具体的な使用方法として緊急用に天皇の意思で運用することができるといった、具体的価値も有しており、それはやはり、質問者さまがご指摘のように内廷に存在していたという事だと思います。

得心がいきました。いわば下級機関である中務省に、天皇の大権であるところの鈴印が保管されているとは思えなかったのです。
わたしの設問のしかたがまずくて、みなさまにお手間をとらせてしまいました。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/08 00:11

奈良時代ならば、養老令で確認すると、公式令では次のように決められています。


http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro21c.h …
<諸国給鈴条>
諸国に鈴を給付するにあたっては、大宰府に20口。三関及び陸奥国に各4口。大上国に3口。中下国に2口。三関の国には、それぞれ関契〔げんけい〕を2枚給付すること。いずれも長官が管理すること。いなければ次官が管理すること。
<車駕巡幸条>
車駕巡幸がある際、京師(京域)に留守番する役所には、鈴契(駅鈴と関契)を支給すること。量の多少は随時量って支給すること。
<給駅伝馬条>
駅馬・伝馬の給付は、みな駅鈴(駅馬の利用資格証明)・伝符(伝馬の利用資格証明)の剋数(刻み目)の数に依ること。{急用であれば1日10駅(約30里×10=300里=約159km)以上、緩い用事であれば8駅(約30里×8=240里=約127km)。帰還の日に事が緩い場合は6駅(約30里×6=180里=約95km)以下。}親王及び一位に、駅鈴10剋、伝符30剋。三位以上に、駅鈴8剋、伝符20剋。四位に、駅鈴6剋、伝符12剋。五位に、駅鈴5剋、伝符10剋。八位以上に、駅鈴3剋、伝符4剋。初位以下に、駅鈴2剋、伝符3剋。みな位階に応じた剋数の他、別に駅子を1人給付すること。{六位以下は、事状に応じて増減すること。必ずしも数を限定しない。}駅鈴、伝符は、帰還到着して2日以内に(京ならば太政官の少納言経由で中務省の主鈴に、諸国ならば長官に)送り納めること。
 
駅鈴は、中央から駅使を派遣するときに持たせる以外に、各地の役人が中央に公務出張するときにも携行するので、あらかじめ各地に給付するものでもあるのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%85%E4%BD%BF
 
駅鈴を出庫や入庫などの出納業務をする中央の役人は主鈴で、大主鈴・少主鈴ともに定員2名。中務省の職員です。大主鈴は[正七位下]、少主鈴は[正八位]です。
http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/o_shou_na …
 
駅鈴が地方にも配られていたので、(平安時代ですが)郡司に盗まれる(奪われる)こともあったようです。http://www7b.biglobe.ne.jp/~inouchi/hyouinyaku.h …
駅鈴を使用する目的の一つとして、地方で一大事発生時に早く中央に知らせることもあったと思われます。
http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro21c.h …
駅鈴は、大宰府20個、三関及び陸奥国に各4個、大上国3個、中下国に2個づつ配られたので、隠岐国にも2個残っていたのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%85%E9%88%B4
http://www.rundoki.com/okiietoekirei.htm
 
はんこについては、
内印(=[天皇御璽]の印、三寸四方)は、五位以上の位記及び諸国に公文書を下すときに捺印。外印(二寸半四方)は、六位以下の位記及び太政官の文案に捺印する。
内印を管掌しているのは、太政官の少納言局の少納言定員3名です。詔勅宣下を担当し、内印・鈴・伝符を請進し、飛駅の函鈴を進付し、外印(=官印=太政官印)を管理していますが、どんどんと重要度が下がる役所です。
http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/o_kan_daj …
 
淳仁がいたところが中宮で、内裏、平城宮の中です。
孝謙がいたのは法華寺で内裏平城宮の外、東です。
http://www1.kcn.ne.jp/~watblue7/tenpyo/shiseki/h …
太政官も中務も、役所なので、平城宮の中にあります。
http://www1.kcn.ne.jp/~watblue7/tenpyo/shiseki/h …
http://www1.kcn.ne.jp/~watblue7/tenpyo/shiseki/h …
内印、鈴も、平城宮の中のこうした役所の中で保管されていたのでしょう。
天皇の住まい(寝所)の中や朝堂に保管していたということはないと思います。
「奈良朝における、駅鈴の保管と運用方法につ」の回答画像2

この回答への補足

7735468さま

わかりやすいサイトをいろいろご紹介いただいて、ありがとうございます。
養老令についてのサイト、知りませんでした。助かります。

続日本紀巻二十五にこういう記載があります。

九月乙未

高野天皇遣少納言山村王。収中宮院鈴印。

孝謙上皇が少納言山村王を遣わして(淳仁天皇のいる)中宮院において鈴印を回収した。

という意味だと思うのですけど。

補足日時:2012/10/07 19:48
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この回答へのお礼

ごめんなさい、お名前を間違えました。

moto koukousei さまですね。

上記の續日本紀は、天平宝字八年、孝謙天皇の宮廷クーデターの記載です。

聖武天皇が称徳天皇に位を譲った後、玲印(玉璽と駅鈴)は光明皇太后が預かり、それが淳仁天皇に渡されていたようなのです。
それで、この駅玲と、中務省で保管される駅玲との関係、それらを含んだ駅玲運用の概括が知りたかったのです。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/07 21:52

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