マンガでよめる痔のこと・薬のこと

私の質問に興味をお持ちいただき、ありがとうこざいます。
精神的に強くならなきゃ!と多くの人は考えます。しかし、ここでいう強くなるという言葉は、具体的に何をどう変えるのかを漠然としか示していないように見えます。
私は考えました。強さとは優しさのことだ。醜い自分をどれだけ愛せるか。醜い他者をどれだけ許せるか。
違うでしょうか?
まあ、どれだけ愛せるかというのも漠然とした言い方ですが。笑

A 回答 (13件中1~10件)

概ね同感ですが


「愛せるか」と言うと誤解を与えるような気がします。
「許せる」というのも「許さない自分」というものが存在しており、しっくりこない。
私ならば「ありのままを認められるか」と言うでしょう。
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私は優しいと言われますが 全然強くはありません。



タフとか 根性が在る人と言うのは 自分の信念を曲げない人ですねえ

人に圧力を受けても変節せず どうにも成らなくなって死ぬまで

出来る事をし続ける 最期の最後まで信念を貫く

そしてその信念が殆ど間違っていない

その様な人ですね 精神的に強いう人と言うのは。

私はもうめげそうです。
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全ては科学だとは思うけれど、根本的には全てが霊的


な事だろうと、、

> 私は考えました。強さとは優しさのことだ。

いや?、これはほぼ困難な事のようだけれど、自身の自己意識を
非常に注意深く観察し、油断なく向かい続ける姿勢が大前提で、

後は霊的な事の具体的な理解(本物の)の上乗せ(自己意識への
上乗せ)だろうと

> 醜い自分をどれだけ愛せるか。醜い他者をどれだけ許せるか。

愛と許しというのは、全てが、充満という大本の存在の天界内に
於いての、天界の御体自身の表現であるという事などの、(主に
間接的な)自己確認の上で理解されるべき物だろうと、、

つまり、正負・美醜問わず、自分も、どのような相手も、天界の表現物
である事を知ると(確認すると)、高次元の存在達が、どのような表現物
に対しても、親しみ・慈しみを感じるという事に出会う訳で、、
これらの理解というのが、愛と許しの本質だという事のよう

> 精神的な強さとは、優しさのこと

一般的にいうと?、、精神的強さとは、大前提の完成への歩みを
続ける事であるといえるだおうと、、
そして霊的世界にまで理解を広げると、様々な霊的能力を獲得し、
経験を積み、恐れる物がなくなる、という事などが、精神的強さ
といえるだろうと
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量子論的世界像において、有限な性質(存在)は、認識される


事において派生している事が明らかとなっています。
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に
詰めこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、
認識体の仮定断面(認識可能性=感受表面)の運動を想定すれば、
相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用
パターン=仮説的時空への無の射影)の向うに、自己の補完
(相補的不確定性=不確定性原理)としての宇宙を認識するのです。

その結果として認識の深まりに応じて、「宇宙の起源としての自我
仮説」「自己存在のための必要としての環境性」「自己の生命性の
環境的延長(社会的助け合い~物理的相補分化)」としての他我化
(博愛)は必然となるのです。
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強くなければ生きていけないという、死に対する本能的・無意識的な反応だと思います。

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強さとは、やさしさ。


そこは同感です。

ただ、醜いものを愛するというのは、違うかな?

醜い権力みたいなものと戦う強さ。
そして、弱者へのやさしさ。

これがコインの裏表の関係だから、強さはやさしさなんだと
感じます。

人に迷惑をかけるものとは、断固戦います。

というのが、ぼくの好きな考えです。
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>私は考えました。

強さとは優しさのことだ。

どう考えようと貴女の自由ですが、強さと優しさは別のものです。

精神的な強さは、自分にとっての物事の優先順位を間違えない所から来るものであって、優しさとは関係がありません。
ヒトラーの崇拝者で忠実な部下だったヘルマン・ゲーリングなどは精神的に強い人であったことは間違えありません。

どう考えようと貴女の自由ですが、まずは真実をキチンと見ることができるようなってから自己主張された方が良いと思います。
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精神という形のないものの強弱をどう測るのかは考えてみると奇妙な話です。



>醜い自分をどれだけ愛せるか。醜い他者をどれだけ許せるか。

自分とは何か
これも哲学上のお題目としてはよくあるものです。

私の車は私か?
私の家は私か?
私の服は私か?
私の体は私か?
私の命は私か?
私の性格は私か?

そう考えると醜い自分は私でしょうか。
人間の精神はあらゆるものと一体化したがります、
私は日本人、私は実業家、私はキリスト教徒・・・
この一体化の強さが一般的には精神の強さとされるものだと思います。
精神的に強い人は頑固という側面を持つのもそのためだと思います。
精神が傷つくという表現も実はこの一体化された対象の損傷なのではないでしょうか。
自分の持つ私というイメージと一体化しているがためにイメージの損傷が自分の損傷と同義になるのではないかと思います。

精神的な強さの一端は概念との一体化率とその概念の強度だろうと思います。
例えば『神』との一体化はより安定した精神を作れると考えるのは無理もない話です。
ただ、これだけだと単に偏狭で頑固なだけの精神となってしまいますので、
質問者さんのいう優しさが必要になるわけです。
じゃあそれはどう実現されるのかと言えば一体化をやめるかイメージ作りをやめるかという事になると思います。
自分を日本人と呼べば自分を韓国人と呼ぶ人との軋轢は避けられないでしょう。
自分を何かの概念と一体化しなければ相手がどうであろうと理解は進むと思います。
自分は別の何かと一体化しつつ他者のそれを受け入れることができると思う人も多いでしょうがそれは無理でしょうね。
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精神的強さとは、艱難辛苦に遭遇してもくじけない


ということです。

その強さが、優しさとして出ることもある、という
ことであって、
強さ=優しさ 
ということではないと思います。

艱難辛苦に遭遇して、耐えて乗り越えてきた人間は、
おうおうにして、優しい人格が構築されることもあるよ、
というだけでしょう。

”醜い自分をどれだけ愛せるか”
    ↑
ナルシストですか?

”醜い他者をどれだけ許せるか。”
    ↑
これは優しさかもしれませんが、強さとは違うように
思えます。
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本当の優しさは、つらい経験を(沢山)積んだ人がそれに負けずに(精神的な強さを持って)それを乗り越えた時に相手のことを思えるようになった時がそうだと思います。



優しい人は世界中に沢山いますがどこまで優しくなれるかはその人の育った環境によると思います。
質問者の方のお考えもその通り、強さだと思います。 実行しようとするときに変動(動揺)はあると思います。 その動揺、葛藤を経験することが何にもしないよりは 強さとやさしさの源となるとおもいます。
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