初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

自転車で江戸時代の朝鮮通信使が通った道をたどってみたい、と思っています。で、日本側の道はいろんな本が出ているので大体わかるのですが、韓国側の道って大概大雑把で、トレースできるほどの資料が見つからないのです。もしわかったら、教えてください。もしくはそういう研究をしている先生がいたら教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

「大概大雑把」の程度が?ですから、


無駄情報に過ぎないかもしれませんが、
未読ならば下記URLなどを御一読いただければと思います。
(残念ながら原の資・史料、記録など典拠元が明らかではありませんが…)
既読ならば笑って許して下さい^^

・「日韓共同遺産としての朝鮮通信使遺産の保存活用/三宅理一」
『人間生活学研究 第18号/藤女子大学/2011年3月』(19-24頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110008752405
<2/6> ※<2/6>下部に複数経路図あり、但し地名表記は下記URLと異同あり。

漢陽(ソウル)から出発したのは三使(正使・副使・従事官)を中心とした100人程度で、
残りの人員は各地から集められ、釜山に集合したものと考えられている。
下行(漢陽から釜山)にあたっては、始めは幹線である嶺南大路を用い、
途中で東寄りとなって安東、慶州を通過するのが一般的であったが、
これは守令による通信使への接待等の公的行事をこなすことが理由であった。
逆に、上行(釜山から漢陽)では、蜜陽、大邸、尚州を通る通常の嶺南大路を基本としたが、
正使、副使、従事官が異なった経路を取り、分散的に帰京していたことがわかっている。

(金聖雨『朝鮮通信使の漢陽─釜山間派遣経路及び経過都市』、
「2004韓日国際学術発表歴史都市会議─朝鮮通信使の道」釜山・密陽、
2004年4月30日、5月1日、pp.2-8)


・「「朝鮮通信使」と日韓交流400年/文慶喆」
『東北文化学園大学総合政策学部紀要 6(1)/2007年3月』(55-65頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006486501
<6/11>
朝鮮通信使は、ソウル(当時は漢陽)を出発し、釜山までの陸路を2ヶ月で行った。
ソウルから釜山までの主な経路は、次のようであった、

◇漢陽─◇陽才─◇龍仁─◇竹山─◇龍安─◇忠州─◇安保─◇聞慶関門─
◆幽谷─◆安東─◆醴泉─◆義城─◆新寧─◆永川─◆慶州─◆蔚山─
◇東來─◇釜山

途中、忠州、安東、慶州、釜山の四ヶ所では盛大な宴会が催されたが、
各地域の負担が大きいことから後には釜山だけに制限した。
また、以上のコースが一般的な交通路だったが、蜜陽での宴会の記録から

─◇聞慶関門─◆大邸─◆蜜陽─◇東來─◇釜山

を選んだ時もあった。

以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

ありがとうございます。街と街の間の旧街道筋までわかるものを希望していますが、そもそも集合場所が釜山だったのは初めて知りました。それだけでも一歩前進です。

お礼日時:2013/08/04 19:53

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