限定しりとり

藤圭子さんが飛び降り自殺されました。私がいつも自殺のニュースを聞いて感心(?)するのは、よく自殺する「勇気」があるな、ということです。
だって、
(1)電車に飛び込んだり、高いビルから飛び降りたりするのは「怖い」ですし、
(2)自分の身を傷つけるのは「痛い」ですし、「苦しい」ですし、
(3)自分の惨めな死/死体を他人に見られるのは「恥ずかしい」ですし、
(4)死ぬと何もかも終わってしまうのは「寂しく」て「残念」で「未練」が残りますし、
第一
(5)死ぬよりも、たとえ、のんべんだらりであっても、生きる方が「ラク」だと思うからです。

私は、カトリック信者で、自殺を絶対否定する立場ですが、そういった信仰や信念の以前に、「だって自殺って怖いし、苦しいし、嫌じゃん?」という生理的忌避感があります。
ですから、武士の世の中で、たとえ自殺(切腹)をしなければならない状況であっても、自分には出来るかどうか自信がありません。

(私の過去問)
もし切腹せよと言われたら出来ますか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6937308.html

自殺される方には、上記のような恐怖感や生理的忌避感はないのでしょうか?
それともそうした感情が全部麻痺してしまうものなのでしょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

こんばんは



叔父、父、母、同級、俺が30になるまでに続けて・・
十数年の欝との闘病で去年、子供を残し妹が
他界しました。・・・

よくないさ

でもね、見捨てられたんじゃない

今生きてる俺たちが

見捨てたんだ、苦しさに気づけず

それが現実・・・・

そんなふうに思いたくないって思っているだけ

君も俺も

今49だよ

忘れたくても忘れられ無い

忘れようと努力しているのに

良くないなんて解っている

感心?簡単に言ってくれるな。よ。
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この回答へのお礼

前に書かれた回答が削除されてしまいましたが、めげずに再度回答頂き、有難うございました。
確かに、そうした辛い目に合われた方、身近に当事者がおられた方には、返す言葉がありません。
自殺はよくない・・・とか理屈ではわかっていても、「止むに止まれぬ」事情でそういう事態に立ち至ってしまった辛さ、救えなかったもどかしさ、悲しさ・・・その他いろんな感情がないまぜになって、あなたを苦しめているのだと思います。

家族・地域・政治・行政或いは宗教・・・などの役割は、自死者や遺族など辛い立場にいる人たちに少しでも心を寄せ、陰ながらサポートをすることだと思います。(他の回答とそれらへの私のお礼・補足、特にNo.16さんの補足の欄を借りてあなたの前の削除回答に向けたお礼や、No.12さんへのお礼で宗教の役割について書いたものをご覧下さい。)


No.16さんへの補足欄では、「No.17のSさんとNo.19のNさんに「幻のベストアンサー」を差し上げることにして、この後質問をクローズすることに致します。」と書きましたが、そのうちのお1人であるあなたのもうひとつの回答がここにありますので、その心からの叫びに答える意味で、前言を翻し、ベストアンサーを差し上げることにします。

お礼日時:2013/09/06 22:35

おはようございます。



私の考え方も貴方の考え方に近いです。ただ、質問内容には問題がありましたね。貴方も反省していらっしゃいますものね。

自殺者は、自己中心でしか物を考えられなくなってしまった病気を持っている人です。精神の病気です。
その家族は、自分にとって不利益と思える人に対しては、無神経で無関心なだけなのでしょう。
変化に気がついても自分の生活が一番ですから。見たくない、気にしたくないですよね。


自殺する人も自殺された家族もお互いに無関心だったと言う事です。お互いを思いやる、優しさがなかったということです。

私が檀家になっているお寺の住職が言っていました。「自殺者は二度と光を見る事は無いでしょう」。

どういうことか分かりますか。訂正や削除された回答者。本心で思います。命を語るのは、いい加減にして下さい。

私達は生きる事だけ考えればいい。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。

私の質問に理解を示して頂き、有難うございました。

おっしゃっている意味わかるような気がします。
確かに、自殺者や遺族にも、周りが見えなくなっている所はあるかもしれません。
その分、今回のような無神経な質問に対して「何を言ってるんだ!」という反発を食らったのもうなづけます。
ただ、そうした彼らの攻撃的な「反発」が、彼らの「不幸」から来ていることにも目を向ける必要があるように思います。

不幸に見舞われたり、弱い立場にいる人々から、そうでない人々に対する「反発」は、彼らの「辛さの叫び」であり、「幸せへの希求」であると考える必要があるのではないでしょうか?
彼らほど不幸ではない、弱くもない、まだ余裕のある人々は、彼らの攻撃的な「反発」に腹を立てず、彼らの叫びに耳を傾け、その辛さに寄り添うべきではないでしょうか? たとえ、その実体験を理解することが難しくても・・・。

尚、住職さんが言われた「自殺者は二度と光を見る事は無いでしょう」というお言葉もわかるような気がしますが、No.12さんへのお礼と補足に書いたように、宗教家はただ突き放すだけでよいのでしょうか?
宗教の役割は、こうした弱い立場にいる人に少しでも光明をもたらすことではないのでしょうか?
その点を確かめたくて、この後明日になるかと思いますが、新しい質問「宗教家は、自殺(自死)をどう考えているのか?」をアップしたいと思っています。

お礼日時:2013/09/06 22:07

確かに貴方の言ってるように 何故痛くて見苦しいのに自殺するのか疑問に思う一般人は少なくありません。

てか それが生き物の生きたいと思う生存本能があるのです。

自殺する人の理由は様々ですが、だいたいの理由は 壮絶なイジメ 暴力 羞恥攻撃が関係していて、相談する相手もなく、孤独になります。 それが長年続くことにより生存本能が抑制され、初期として生存本能はあるものの放心状態になって苦痛を和らげることを学びます。そうしないと苦しいからです。それでも暴力が続く場合やはり身体にダメージを与えてしまいます。そうなると死にたいということが本能になってしまいます。何故かというと もう体がこれ以上我慢しても死に近づいていく。だからこれ以上傷口を広げないよう自殺を選ぶのです。それは無意識です。

ただそこで 自殺をためらうのであれば生存本能はまだあるということです。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。

詳しく「死にたくなる」気持ちの動きを教えて頂き、有難うございました。
そうした辛いことが長年続くと、生存本能が抑制され、放心状態になって苦痛を和らげることを学ぶということですが、そうしたことはありうるのかな、とは思いますが、実体験がないので仲々理解できません。
でも、そうした心の動きがありうるのだということを知り、自殺者や遺族の心に寄り添うことは出来ると思います。

大変わかりやすい回答で、ベストアンサーの候補とも考えられますが、今回は、自殺者の身近におられ、そうした「止むにやまれぬ」辛さを経験された回答者様の迫真の回答に差し上げることにしましたので、ご容赦ください。

お礼日時:2013/09/06 21:45

自殺を未然に防ぐ手立てなど、本当にあると思うのですか?


身近にいる人でさえ防ぐことが叶わないことなのに。
こんなところで、質問提議して、一体何になるのでしょう?
「気持ちを逆なでしてしまった」と、いうのは、私の前回答を理解して頂けていないと思い、再度回答します。あなたの質問文の中には、愛情が感じられないんです。興味本位と、とれるような内容文が多く見られ、読むだけで心が痛くなるんです。以前「切腹」について、質問もされたんですよね。死について興味があるだけではないのですか?この回答も編集、削除されるでしょうが、あなたが本当に「配慮が足りなかった」と思うのであれば、この質問自体を削除してもらって下さい。「題名」事態に傷つく方もたくさん、おられると思います。私は、この質問文を削除して頂くように、メールを送りましたが、私の回答文が編集されたり、他のまともな事を書き込みした方の回答文が削除され、ここの、規則、規約に対して、疑問を強く感じています。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。

前のNo.8のご回答が大幅に編集されてしまったのに、再度の編集/削除の恐れずご回答頂き、有難うございました。
おっしゃりたい気持ちはよく伝わってきます。
身近にいても救うことが出来なかった悲しみともどかしさ、辛さが切々と伝わってきます。

ただ、表現方法がまずかったことは申し訳ないと思いますが、「こんなところで、質問提議して、一体何になるのでしょう?」というご意見には賛成することは出来ません。

興味本位に質問した部分は反省しますが、自死者や遺族の悲しみや辛さは、皆で共有してこそ、そうした不幸に至らないための方策の立案や動機づけに結びつくのではないかと思います。

お礼日時:2013/09/06 21:24

 



殆んどの人は、精神的な不安や苦しみによって、抑うつ状態になり、

恐怖感は消えているか、恐怖感は薄れています。或いは発作的です。

この回答への補足

お礼が大変遅くなり失礼しました。

やはり、精神的な不安や苦しみによって、抑うつ状態になると、恐怖感が消えるか、薄れていき、発作的に死を選ぶことがあるのですね。前のお礼でも書きましたが、こうなると「自殺」というよりも「自死」という感じなのかもしれませんね。理屈はわかりましたが、なったことがない人には、到底理解しにくいでしょうね。

補足日時:2013/09/06 21:08
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この回答へのお礼

すみません。補足に書いた通りです。

お礼日時:2013/09/07 11:44

私も自殺するのは怖いです!


生きる方が幸せだと思います。
自殺は罪だと思っているので罪を犯したくはありません。
神様から無償の命を与えられたことにも感謝しています。

命ほど大事なものはないと思っています。
自殺するなんて勿体無いと思いました。
あんなに素敵なマンションにも住めて夢のような暮らしを捨てるなんて勿体無いと思いました。
不満を、もたない生活が大事だと思いました。

この回答への補足

この後に3つの回答(No.17, 18, 19)がありましたが、削除されてしまいましたね。この場を借りて一言・・・。
今回は本日(9/6)現在、24の回答が寄せられましたが、その内、実に6件の回答が削除され、1件に大幅編集がなされるという異常事態となりました。元はと言えば、私の質問文に「勇気」や「感心」など、不適切な表現があったのが原因と深く反省しています。

3つの内の2つはSさんからのもので、Sさんの回答はNo.10に続いて、3つとも全部削除されてしまいましたが、多少口は悪くても、おっしゃりたいことは十分伝わってきました。要は、「福島の酪農家が「原発さえなければ」と書き残し自殺したことをどのように思うのだろう。この酪農家の奥さんがどんな思いでこの期間を過ごしてきたか・・・ということに思いを致す必要があるのではないか。・・・」ということで、誰も死にたくて死んだわけではないんでしょうが、「止むに止まれぬ」思いに心寄せる作業が必要なのではないか、という痛切な思いを訴えておられました。その回答の削除後再度寄せられた「YESマンの回答を望んでいるのかは知りませんが。削除となった回答内容そのものは間違っていなかったはず。結論として一度自殺した方の遺族に会って話が聞けたり・・・するといいのでは。」という当たり障りのない回答まで削除されてしまい、正直不可解に思っています。

又、もう一つのNさんの回答は、「・・・身近の親しい大事な人達 俺には居るんだぜ、くやしい、哀しい、苦しんでんだよ」と痛切に訴えられ、息が詰まるような悲しみを覚えました。

こうしたことから、今回は、上記のNo.17のSさんとNo.19のNさんに「幻のベストアンサー」を差し上げることにして、この後質問をクローズすることに致します。

皆さん、削除された方も含め、多くのご回答有難うございました。
併せて、再度無神経な表現を使ったことをお詫びします。
本Q&Aから私が学んだことはとても大きかったことを記し、心からお礼を申し上げます。

補足日時:2013/09/06 21:03
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。

「怖い」・「生きる方が幸せ」・・そうですよね。それが普通の感覚だと思うのですが・・・。

まあ、「自殺は罪」、「神様から無償の命を与えられている」と言う感覚は、信仰のない人には理解できないかもしれませんね。説明するのも大変ですね。

しかし、少なくても、生命の誕生に際しては、男女が交わり、何億という精子と卵子の中からたったひとつの組み合わせが結びつき、生命になるんだということ、又、人間と言う生命体は、又々何億と言う細胞から構成されているんだということをもう一度認識すれば、我々が如何に奇蹟的に「生かされている」ということに感謝の心が芽生え、自ら命を絶つということが如何に不遜かを思い知るのではないかと思います。

お礼日時:2013/09/05 23:47

そんな恐怖を感じる部分が麻痺してしまったのでしょうね。



切腹は酒を飲んでからすることもあったし、生贄なんかは薬物漬けにしてから行うというところもあったようです。

鬱病なども自死を抑制する脳の部分の機能が著しく低下するそうです。

いじめや失恋、事業の失敗などで精神的に大きくバランスを崩す人もいらっしゃいます。
精神のバランスを崩した結果、自殺を抑制したり恐怖を感じる機能も低下してしまう方もいらっしゃいます。


藤圭子さんは生前違法薬物使用の噂がありました。
薬物使用によっての転落事故とも思えます。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。

鬱病や精神のバランスを崩した結果、自死を抑制する脳の部分の機能が著しく低下することがあるのですか?

薬物の乱用もそういうことを助長するのですね。

お礼日時:2013/09/05 23:36

 たぶん、今私は自殺をすると成ったら出来ます。

ただし、その衝動を抑えていますが。

 実は死に対する恐れが無いのです。生きていないと駄目だという理由は沢山ありますが、それが足止めにも成らないほどに。
 ただ、私は神様にしろ、仏様にしろ、生きていろと言われて居るから残っていると思って居ます。死の覚悟はあります。いつ死んでも良いと。でも、事故にしろ、病気にしろなんとか乗り越えているのはその証だと思って居ます。

 死を迎えらるほど、死に関する事を考えてきたかな。生きる目的を考えると分からなくなるけど、死ぬという当たり前の事は誰にも来ることだと考えると、どのように死ぬのか考えると、むしろ生きている事が楽じゃないかと感じる事もあります。

 それに、一度自然と車に向かって体が動いたこともあります。でも、恐怖とか無いです。助かったときに恐怖を感じたぐらいですね。頭の中が悩みとか何もかもが失っていた状態に近いかなと。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。

死に対する恐れが無いというあなたの感覚を私が共有することは大変困難です。
しかし、神仏が生きていろと言うから生きている、という感覚は信仰心のある私には容易に理解できます。
生きることはそれだけエネルギーのいるものなのでしょうか?
私が果たしてそれだけ、真剣に「生」と向き合っているかは、疑問です。
私はただ、死ぬよりも生きている方が楽だな、と思っているのに過ぎないのですが・・・。

お礼日時:2013/09/05 23:32

自殺するのを「勇気」って言ってるのに違和感があります。



生きる方が余程勇気は必要です。
死ぬのは逃げでしかありません。

まあ、親のスネをかじって怠惰に生きている人には勇気は必要ないかも知れませんが・・・
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。

死ぬのが怖い私にとって、自ら死を選ぶのは「勇気」以外の何物でもないのですが、
皆が皆そうした感覚を共有するわけではないことを、私は今回のQ&Aを通じ思い知りました。

お礼日時:2013/09/05 23:24

カソリックの方だそうですね。



では、『人はパンのみにて生きるものにあらず』という意味を考えていただければそれが回答になるのではないかと思いますよ。

つまり、肉体の痛みや生存本能よりも強い絶望が人を死に追いやるのではないでしょうか。


クリスチャンの方にとって自殺者はまるで神意に背く娼婦『マグダラのマリア』です。

だけど、ナザレは「マグダラのマリアに石を投げられる者のみ投げよ」と言った。
そして誰一人投げられなかったと聖書には書いてあります。



あなたは投げられたのですね。

この回答への補足

誠心誠意深く考え、カトリックのスタンスを説明したつもりですが、やはりどんなにカトリックの自殺者や遺族に対する対応が変わったと言え、根本には「自殺は他殺と同様、生命をないがしろにし、神を冒涜する行為である。」という思想は変わらず、その点は妥協の余地がないように感じます。

わずかに自殺者が救われるとすれば、ここに書いた通り、
(1)精神的病などにより認識能力を欠いている場合と
(2)自殺行為(飛び降りなど)の最中に悔い改める場合など
が考えられると思いますが、結局、宗教は自殺に冷淡であり、やはり、死んだ者は救われない、
という基本線は何ら変わらない気がします。

果たしてこれでいいんでしょうか?
本質問後締め切り後、一両日中に、
「宗教家は、自殺(自死)をどう考えているのか?」
という質問をし、この点を質していきたいと思っています。

補足日時:2013/09/06 21:36
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。

「あなたは投げられたのですね。」というあなたの痛切な問いかけを見て、私は我が身を見つめ直し、又、宗教者、特にキリスト者の近年の「自殺」に対する考え方について調べてみようと思い立ち、以下の「変化」に至る経緯を知ることが出来ました。

1.キリスト教では、他殺・自殺を問わず、「生命を司る神に対する重大な反抗である」という理由で「大罪」と見なしてきました。そのため、長年、自殺者の葬儀は断られ、墓地も少し離れた所に埋葬させられるなど、公然と「差別」してきました。

2.しかし、日本でも、毎年のように、非常に多くの(平成9年ごろまでは毎年約2万人、その後は毎年約3万人)自殺者が出ている状況を見るにつけ、「弱い人々に寄り添うべき」立場にある宗教が、ただ「裁き手」として、自殺者を断罪しているだけでは、益々人心は離れるばかりだということに気が付いたのでしょう。

3.その結果か、少なくてもカトリック教会については、近年「自殺」に対する考え方・対応が昔と比べ、大きく変化したきたようです。
 1983年に発布された教会法典からは、自殺者の被埋葬権剥奪についての規定が削除され、いつ頃からかはわかりませんが、教会は、これまで「自殺者に対して、冷たく裁き手として振る舞い、差別を助長してきた」ことを認めた上で、深い反省の意を表し、「これからは、神のあわれみとそのゆるしを必要としている故人と、慰めと励ましを必要としているその遺族のために、心を込めて葬儀ミサや祈りを行うよう、教会共同体全体に対して呼びかけていく」こととなったようです。

4. 教会は、「自殺」の中にも、そこに至るまでの次のような様々な事情があることに気が付いたようです。
(1)背景には、生活苦やうつ病などの精神的病のように、様々な「止むに止まれぬ」事情があり、そうした「人生の障害」を取り除き、改善できるよう支援することこそが、教会のひとつの使命であることに気が付いたようです。
 又、多くの自殺者は「自殺を止めてほしい」或いは「生きたい」と願っていることも多く、教会が役に立てることも多い。
(2)極度の精神の病や限界を超える苦労などにより、ほとんど認識能力が失われ、「引き込まれるように」死を選んでしまう人も多く、そうした人達の責任能力は問えない。こうした死は、もはや、主体的に自分を殺す「自殺」ではなく、無意識に死を選んでしまう「自死」という言葉が当たり、「罪」とは言えないかもしれない、ということに気が付いたようです。
(3)その人が本当に救われたかどうかは神のみが判断されることであり、人間が軽々に判断することではないので、教会として裁くことはしないことにしました。
 例えば、明らかな飛び降り自殺をしたとしても、落下の途中で心から悔い改めたら、神が許してくれない訳がない。
 イエスが十字架上で亡くなられる時、隣の十字架上の大盗賊が罪を心から悔い、イエスに許しを求めた時、イエスが快く許した例もある。

5.人間は弱く罪深い存在であるが、その弱さ、罪深さを認め、神に許しを請えば、誰でも許してもらえる、だからご回答のように、姦淫(今でいう「不倫」)の罪で捕まった女を石打ちにせよと、迫る民衆に対して、『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』(ヨハネの福音書8:3~7)とイエスが言ったのに対して、一人去り、二人去り、最後に全員が去って行ったように、人間だれしも、人を公然と裁く権利はないのだということをもう一度認識する必要があることを、教会も再認識したのだと思います。
(尚、質問者様のように、上記箇所に登場した「娼婦」をマグダラのマリアと同一視する説もありますが、どうもこれは別人のようです。)

6.最後に、現在、カトリック教会が関与している自死者の遺族に対するサポートの例として、東京四ツ谷のイグナチオ教会やカリタスジャパンが中心になって運営している、「いのちを守るプロジェクト」・「自死遺族の会」や「虹の会」を紹介しておきます。

http://www.caritas.jp/japan_news/no_106/04.html
http://www.pauline.or.jp/eventandstudy/20130918i …
http://www.youtube.com/watch?v=8AQJcjTNHos&featu …

お礼日時:2013/09/05 23:20

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