性格いい人が優勝

藤圭子さんが飛び降り自殺されました。私がいつも自殺のニュースを聞いて感心(?)するのは、よく自殺する「勇気」があるな、ということです。
だって、
(1)電車に飛び込んだり、高いビルから飛び降りたりするのは「怖い」ですし、
(2)自分の身を傷つけるのは「痛い」ですし、「苦しい」ですし、
(3)自分の惨めな死/死体を他人に見られるのは「恥ずかしい」ですし、
(4)死ぬと何もかも終わってしまうのは「寂しく」て「残念」で「未練」が残りますし、
第一
(5)死ぬよりも、たとえ、のんべんだらりであっても、生きる方が「ラク」だと思うからです。

私は、カトリック信者で、自殺を絶対否定する立場ですが、そういった信仰や信念の以前に、「だって自殺って怖いし、苦しいし、嫌じゃん?」という生理的忌避感があります。
ですから、武士の世の中で、たとえ自殺(切腹)をしなければならない状況であっても、自分には出来るかどうか自信がありません。

(私の過去問)
もし切腹せよと言われたら出来ますか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6937308.html

自殺される方には、上記のような恐怖感や生理的忌避感はないのでしょうか?
それともそうした感情が全部麻痺してしまうものなのでしょうか?

A 回答 (18件中11~18件)

切腹について考えましょうかね。

自殺ではありませんけど・・

切腹の殆どは「扇子腹」というもので、扇子を小刀にみたて腹にあてるのを合図に首を切り落とすものでした。西洋のギロチンと似ています。ただ、ギロチンのように確実に一瞬で首を切り落とすには、それなりの剣豪でなければなりません。因って、介錯する人物を切腹する本人が指名することもあったとか。新撰組の山南は扇子腹を嫌ったと伝えられ、介錯は沖田だったそうです。

切腹は武士にとって名誉な死に様でした。時代の刷り込みというのはあります。
同じく特攻があります。お国とは、愛する家族です。
それを守るために、敵艦に突っ込む様は現代のアメリカ寄り思考の方々には理解できないことでしょう。

くだらない縛りに追い詰められる方々がいます。しかし「くだらない」と言えるのは恵まれた状況下にあってこそではありませんか。

どうせ死ぬのであれば、痛みや恐怖などは一瞬で終わらせたい。そう考えたときもありました。

この回答への補足

この場を借りて、削除されてしまったNo.9さんとNo.10さんにもお礼を言います。

いずれも、身近に亡くなられた方がおられたか、そうでなくても絶望のふちにいる方を見ていて、ひとごとと思えない、そこに持ってきて、私の質問が、まるで茶化しているように聞こえて、不快感を覚えられたのだと思います。

自殺(或いは自死)と言う問題は、当事者や家族でしかわからない、部外者が軽々に批判すべきではないのかもしれません。一方、部外者から見れば、なんでそうなるの?という疑問が強く、それを直接、刺激の強い表現で質したのは、短慮だったと思います。自殺に同意することは出来ませんが、これからは、自分と違う世界におられる方々の気持ちにも寄り添い、じっくり急がずに勉強していきたいと思います。

補足日時:2013/08/29 22:42
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この回答へのお礼

国や藩や家/家族を守るため、或いは、名誉を守るため、納得して死んでいった先人が日本には沢山おいでになります。その人たちの犠牲の上に日本の今日の繁栄があった、いう側面も否定しません。国を始めとしたコミュニティや周囲の人間関係を重視し、自分の思惑よりも周囲の空気を優先し、「恥」の文化に生きてきた日本人は、「生」に対して以上に「死」に対しての美学があり、これが自殺を時として否定しない気風につながってきたのかもしれません。

一方、キリスト教文化に裏打ちされた西欧文化では、他殺にせよ自殺にせよ、神から頂いた「生」をないがしろにすることでは同じであり、「罪」に値するという考えが濃厚です。こちらにも、コミュニティや家族に対する愛がない訳ではありませんが、先ず生きるに当たってのベースは「個」であり、他人の思惑は二の次という考え方が主体だと思います。

私は、年齢を重ねるにつれて、恵まれた環境にあることもあってか、後者の考えに傾きつつありますが、日本人の感性や美学にも理解を示すことを忘れず、今回頂いた色々なお叱りも糧にしながら、改める所は改め、生きていきたいと思います。

お礼日時:2013/08/29 22:01

こんばんは



自殺には。。。本人にしかわかり得ない、事情があるでしょうし、他人が、周りでとやかく、言う事ではなく、自分の命を懸けて(かけてはいけない、事を前提に)そんな、行動にいたった。。。という事。


あかの他人では、到底わからない事ではないですか?
自殺した人の気持ちなんて、本人以外にはわかり得ない事だと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。
少しご回答の文章が編集されてしまったようですが、これは私が指摘したのではなく、管理人さんがされたようです。
前回答へのお礼にも書きましたが、「勇気」とか「感心」といった言葉を使ったのは、軽率だったと反省しています。当事者や家族の皆様にとっては、筆舌につくしがたい気持ちがあるのだと思いますが、そういった気持ちを逆なでしてしまった感は否めないようですね。

興味本位のマスコミと同じような対応で、不愉快だったというお気持ちは重く受け止めるべきだと思います。一方で、自殺のメカニズムを純粋に知り、何とか未然に防ぐ手立てにならないかという率直な目的もありますが、今後は表現方法に留意したいと思います。
申し訳ありませんでした。そしてご教示有難うございました。

お礼日時:2013/08/28 21:56

故人の御遺族が、当サイトを閲覧するとは思えませんが、関係者各位の心情に配慮した表現を心がけたいものです。




私の身内に自死未遂者がいます。
ある身近な人間の死を自分の責任と思い詰めたことが起因だったようです。

その行為に係わる、本人の証言は以下の通りです。

『自分や自分の周りの物事を、何もかも消滅させたい衝動に駆られた。』
『自死行為によって、哀しむであろう人々の存在や心情には、想いが及ばなかった。』
『自死行為による痛みや苦しさや寂しさや恐怖を想像することはできたし、実際、行為に及ぶ際には自覚したが、その諸々を乗り越えれば、自分は楽になれるという誘惑の方が強かった。』

身内は、一命を取り留めたあとも、何度か死に急いでは、病院を騒がせる日々を繰り返したものです。
私たち家族は、生きた心地がしませんでした。

そんな折、私が主治医から受けた言葉は、概ね以下の通りです。

“今の世の中、死ぬ方法はいくらでも見つけることができるし、ほんの5分、ひとりになれる時間を確保するだけで、その目的を簡単に達成できてしまえる。本気で死のうとする人間を制止することは誰にもできない。あなたがた家族にできることは、ただひとつ。訃報を聞いたとき、その現実を受けとめる覚悟を、日頃から持ち続けること。”

身内が完全に立ち直るまでには、数年の月日を要しました。

身内のみならず、何名かの自死志願者の証言を伺って感じたことですが、自死を好んで選ぶ人は、「生への執着を払拭した自分自身」に、己の自尊心を託す傾向が強いようです。
「生への執着」を、「報酬(カネ)への執着」と置き換えると、自死志願者の心理をイメージしやすいかも知れません。

社会的影響力の少なくない著名人の不審死は、(それが自死であろうとなかろうと)公表された時点で、一般人への反響が懸念されます。

私自身は、不審死に対し、「御冥福をお祈りいたします」という言葉を発する感性が信じられません。

本質疑のように、「自ら生命を捨て去る行為は決して美化されるべき性質のものではない」ことを、強調してみせる機会を持つことも大切ですね。
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この回答へのお礼

冒頭でご心配されたように、この後のお二人からもお叱りの言葉を受けており、本質問も含め、重く受け止めております。軽率に興味本位でこのような質問を出したことが悔やまれます。

いつも大変誠意のあふれた回答をされる上に、この度はより一層気の重い処を押して、ご親切な回答恐れ入ります。

当事者の心理状態、家族の気持ち、主治医の経験に基づく示唆など、全て大変参考になりました。

一方では、本質疑の有用性も擁護して頂き、少し救われました。
自死者や家族の心情に心寄せることも必要なのかもしれませんが、やはり自殺はよくない、ということもしっかり声を上げて主張しつづけることも重要ではないかと思います。

お礼日時:2013/08/26 21:03

【自殺に至るまで】【自殺を実行するまで】には、相当な諦めや無気力などの状態なのだと思います。


『死に対する恐怖』より『生きていても辛さと無気力』が日々、増すのだと思います。
従って、『生きる』より『死ぬ』を選ぶのかと思います。
『勇気』とは違う種類の決断の意志だと思います。
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この回答へのお礼

後のお礼にも「おわび」とともに書く予定ですが、やはり「勇気」という言葉は確かに不適当だったと思います。失意の日々の中で、どんどん諦めや無気力の状態が進展して、良心や判断力や感情が失われていき、死に引き込まれていくものなのかもしれませんね。
以前、次の質問もあり、回答の中に、「勇気とは別物」という回答もあり、そうなのかな、と思い始めました。
自殺は勇気?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3866432.html

お礼日時:2013/08/26 19:36

「怖い」とか先のことを考えていられるのは余裕があるからでしょう。


自殺する人は、もう精神状態は正常ではありません。
だから、怖いとか苦しいとか考える余裕がないのです。

逆に、自殺を思いとどまった人の談話などを聞くと、
家族のこととか、何か一瞬でも「死」以外のことが
頭をよぎったら、思いとどまっていることが多いですよ。

この回答への補足

この後にNo.5さんの回答がありましたが、削除されてしまいましたね。この場を借りて一言・・・。
今回は本日(9/6)現在、24の回答が寄せられましたが、その内、実に6件の回答が削除され、1件に大幅編集がなされました。元はと言えば、私の質問文に「勇気」や「感心」など、不適切な表現があったのが原因と深く反省しています。

ただ、No.5さんの回答は「相当な苦しみや衝動や偶然が重なったり相まったりした時、人は死を選ぶかもしれない。そうした心情を仲々理解するのは難しい。・・・」といったごくまっとうなもので、私は正直なぜ削除したのかわかりません。ご趣旨はしっかりと心に留めようと思います。

補足日時:2013/09/06 20:41
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この回答へのお礼

確かに、「怖い」とか先のことを考えていられるのは余裕があるからだと思います。
何か一瞬でも「死」以外のことが頭をよぎったら、思いとどまっていることが多いというのもわかります。
そういうことがよぎらない精神状態になってしまうメカニズムが、実感していないので、当然ながら理解不能です。理解する必要もないのかもしれませんが、素朴に疑問に思ってしまったのが、本質問を出した理由なのですが・・・。

お礼日時:2013/08/26 19:15

私も同感です。

生きるのが辛いって時期はありましたが、死ぬのは痛いし怖いし家族を悲しませる事はできないと思いました。

所詮、私はその程度って事です。自殺を完遂する人はそんな諸事情は無視できるほどに絶望し、死ぬ事しか希望を見いだせないんだと思います。そういった絶望的体験をしてない人間に想像できる心境ではないと思います。

切腹も、武士として生まれ育ってないので出来ません。安楽死でお願いしますw
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この回答へのお礼

私の挙げたような「諸事情」も無視して、自殺を完遂できる人は、それこそ、相当の「切迫状況」にあるのでしょうね。そこまでの「生に対する苦痛」を味わってはいない私のような部外者には、想像がつかないのかもしれません。
しかし、このサイトを見ても「死にたい」と漏らす人が多く、そこまでの状況なのか、私には本当に理解できません。たとえ「何もかも嫌になっちゃう」状況で、生きていることが辛くても、只今この時、「死」を選んでしまう「勇気」を私は持ち合わせませんし、仮に一万歩譲って「死」が最善の選択だったとしても、私だったら、一日、又一日と「勇気」を持てずに、結論を急がずに、モラトリアムに生き続けていきます。

私も所詮「その程度」の人間です。

お礼日時:2013/08/25 17:25

自殺未遂の経験があります。

紐をドアノブのところに引っ掛けて首括りました。
意識がないとこで見つかったので生き延びました。

そのときは嫌なことがあり、過度に興奮していて、部屋中ガッシャンがっしゃん当たり散らして、
あーこれ今から片付けるのかー、やだなー、死のうかなー。
という感じで。

僕の場合は、怖いとかそういう考えが浮かぶ余地がなかったです。
別のことで埋まってた感じがします。嫌で嫌で仕方ない、とか、耐えられない、とか。そういうのは全然なくて、ほとんどその場のノリで、偶然タイミングを合ってしまったみたいです。
そういう人もいるのかも。

今は1度失敗したからか、ものすごく怖いです。もう嫌です。
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この回答へのお礼

経験者から話を聞けて参考になります。
なるほど・・・そういった恐怖感や忌避感情も浮かぶ余裕がないほど、切迫した状況なのですね。
色んな状況が重なる時、「その場のノリ」や「タイミング」や「勢い」で突き進んでしまうものなのかもしれませんね。
そして一度経験したからこその「怖さ」も理解できるような気がします。

お礼日時:2013/08/25 16:49

死ぬ「勇気」と生きる「勇気」を比べたとき


生きる「勇気」の方が、その人にとっては恐怖感などが
大きいからなんではないでしょうか。?

私は無理ですが・・・
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この回答へのお礼

早速回答有難うございます。
一刻も生きているのが「恐怖」というのは、まさに「呼吸困難」などで「今にも死にそうだ。」という「死に対する恐怖」以外に、私には考えられません。確かにそういう苦痛の極みに達すれば、「もう早くラクにさせてほしい」という状況になるのは理解できます。

しかし、それ以外に、切迫した「生に対する恐怖」というのは、私には実感できませんし、そこまでの苦痛の経験はありません。自殺を考える人は、そこまでの「限界的状況」にあるのかもしれませんね。

お礼日時:2013/08/25 16:46

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