一回も披露したことのない豆知識

37歳男です。

息子(中学2年)が命の価値について悩んでいます。どう諭したらいいのか大人としても悩んでいて、アドバイスをいただければと思い、投稿しました。

先日、公園で生きた猫が何者かによって火を点けられて殺害されたというニュースがあり、息子はそれを見てショックを受けたようです。ところが、その日の理科の授業でカエルの解剖実験があったそうなんです。猫は可哀想と報じられるのに、どうしてカエルはいいのか、頭の中がグチャグャになってしまったようです。
生きたまま粘着シートで捉えて動けなくし、餓死するまで放置する残虐な殺し方のゴキブリホイホイがなぜ合法で、生きた猫に火を点ける行為がなぜ違法なのか、ゴキブリの命と猫の命は何が違うのか、私に問われ、答えられませんでした。ゴキブリが害虫であるならば、猫は魚を盗み食いしないのか、など、理詰めです。

感性の鋭いこの時期にどう教えていいものか、思い悩んでいます。危険な思想を持たれそうで、参っています。

識者の方、ゴキブリの命と猫の命の価値の差異を解いてください。または、同価なのであれば、それなのになぜゴキブリの命は軽んじられるのか、解いてください。よろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

「必要悪」ですよ。



食物連鎖にしかり
命は、命の上に成り立っています。

無益な殺生を悪とし
必要悪は、悪とせずです。
    • good
    • 0

あの~、それってお父さんが「諭し」たり「教え」たりしなくちゃいけないことなんですかね。



まず、「危険な思想を持たれそうで」というところが気になりました。もしかしたら「生きものの命を平気で奪ってしまい、果ては人を殺すことをも何とも思わない人間になってしまうのでは」とご心配なのでしょうか。それはないでしょう。そういう人は「思想」を持っているわけではなく、殺したいという衝動が抑えきれなかったり、相手を傷つけることに快感を覚えたり、他者の気持ちなんかどうでもいいとしか思えなかったりすることによってそのような行動をとるはずです。あなたのお子さんはそういう人ではなさそうですよね。お父さんが質問に答えてくれなかったからといって殺人鬼のような人間になることは考えられません。

また、生きものの命を奪うことが許されるのか、ある生きものの命は奪っていいけれどある生きものを殺すのはいけないということについてきちんと線引きができるのか、という問題については万人共通の答えなどないでしょう。
有害か無害かで決める、などという安易な結論では息子さんのいう「猫だって魚を盗み食いしないのか」に答えられないし、生きものの命を奪うことはすべて悪だということになったらシマウマを食べるライオンだって悪だということになってしまいます。
以前、ある生物学の研究者の著書を読んでいたら、動物実験、特に動物の命を奪うことになる実験について「そういうことをしていいのかという倫理的な問題がありますが、この点についてはここでは触れないでおきます」と書かれていました。専門家でもこのことについては結論が出せないのです(そのことについてこのようにきちんと断りを入れるところが誠実だと私はこの著者を評価していますが)。
そのような問題に対してあなたがこういう場で「識者の方」に「解いて」もらおうと思ってもそれは難しいことだと思うし、たとえあなたが納得するような答えをここで得られたとしても、それをお子さんに「諭し」たり「教え」たりしてそれがお子さんの心に届くかというとそれも疑問です。もしかしたら「オヤジどこかで仕入れてきたようなことを並べてるな」と見抜かれてしまうかもしれませんよ。

ただ、そういう難しい問題についてお子さんが悩み、考えようとしていることについては評価してあげてもいいのではないでしょうか。「そんなことどうでもいいじゃん」という子の方が多いでしょうし、それはそれで悩みが少なくて楽ですが、あなたのお子さんのように深く考えたり悩んだりできるからこそわかってくることもあるわけでしょうし、そういう感受性を持っていることがこれからの彼の人生をより豊かなものにするようにも思えるのです。
もちろん、一人で悩み続けていないで自分の意見を身近な人に話してみることも大切でしょうし、他者の意見も聞き、それを参考にして更に考えを深めていくことも重要でしょうが、繰り返しになりますけどお父さんに諭されたり教えられたりすることに意味があるとはとても思えません。

私があなたのお子さんだったら、私があなたにしてほしいことは以下の三点です。
まず、私の話を聞いてくれ、一緒に考えたり悩んだりしてくれることです。どこかで聞いてきたような安易な結論で私を「諭し」たり「教え」たりしようとせずに。
それと、考えすぎて精神的にしんどくなったときに私を思いやってくれ、いたわってくれ、よりそってくれることです。
もうひとつ、「危険な思想を持たれそう」などと心配せず、私を信頼してくれることです。

母親に比べ父親は「理詰めできちんと教え、わからせてあげたい」という気持ちが強くなりがちですが、そこはちょっと抑えていただければと思います。

以上ですがいかがでしょうか。
    • good
    • 0

これは簡単な話ですよ。

色々な問題がごちゃ混ぜになっているので問題が分かりにくくなっているんですね。生命の価値と人間の暴力性とは別の問題です。

(1)まず、どんな命にも価値があるのは当然です。価値と言っても、金銭的な差異という意味ではありませんが。

猫でもゴキブリでも人間でも、この世界に存在する全てのものには人知を超えた「不思議さ」が宿っています。神秘、無知のヴェール、般若心経の「無」でもそれは表現されていますね。

全ての存在には神秘性や不思議さが宿っています。であるからこそ価値があるのです。あるものの本質は不思議さや神秘性に包まれていてその全てを理解することができないことが、あらゆるものに価値があるということを証明するのです。

ですから、人間でも虫でもどんな生命にも存在そのものに大変な価値があるのです。その価値の意味とは、地球が誕生して現在までの46億年、生命が誕生して38億年の長い期間に渡って一度も途切れることなく生命のバトンを引き継ぎ、永続させて来た歴史そのもの、その物語に価値があるということですね。

(2)次に人間の暴力性についてですが、人間には暴力性が「ある」のです。人間以外の動物にも当然暴力性はあるのですが、人間は道具を使って殺しを行うのでこの地球上で最も凶暴な生命であるとされています。最新の原爆は(地形にもよりますが)直径20キロの範囲を殲滅させることができますね。

人間の暴力性の根源は、農耕、言語、家族愛にあると分析されています。農耕は格差を生み、言語は嘘を生み、家族愛は偏狭な幻想を生み出します。原因が分かっていても、それらを捨て去ることは人間には不可能です。これらのキーワード、人間の暴力性は、人間がこの世界を征服し、人間だけに都合のよい世界を作り出すことを増進させる力の源になるものですから、人間から暴力性が無くなることはありませんし、恐ろしい暴力性が宿っているからとても人間らしいとも言えるのです。

(3)人間に限らず、この世界のあらゆる生命には「公正さ」を求めるという本能を持ち合わせています。これは裏返せば公正では無いものが本能で分かるということでもあります。

本能の領域に起こることを人間が躾けることは出来ませんが、人間は理性を拡大させることによって本能の支配から脱却することができますね。例えば、生殖行動は本能が求める行動で、本能に従えば、あらゆる可能性を模索することはある意味生命体としては正しい行動です。しかし、人間には結婚をしたら浮気をしないと言ったことを選択することができます。

本能の領域から逸脱するには、あらゆる知識に触れる必要があります。あらゆる知識は極端な二元論から人間を救う唯一の道です。ゴキブリを食べる文化もありますからね。

極端な二元論に陥るのは知識が不足していることが原因です。学びを続けてもなお好奇心を持ち続けること、想像力を養い続けることへと導くことが大切であると思います。
    • good
    • 0

人間だけですよね、命に上下や価値をつけるのは。


日本だけで毎年十万を超える犬や猫が殺処分されてるのに、ペットショップでは何十万も値段が付けられて売られている。

おそらくこれに対し正しい答えはありません。
例えていうなら善にも悪にもよりきれないひじょうにふわふわしたあやうい世界になってると思います。

これは私が幼児にする話ですが、参考になれば使ってください。

毎日食べるごはんって何だろう?
そう、生きてる命だよね。
ハンバーグは牛さんと豚さんだし、野菜も生きて頑張って大きくなったもの。
じゃあそれを食べるのは悪なんだろうか?
おなかが空いて死ぬまで我慢するのが正しいことなのかな?

人は勝手にルールを作ったけど命には絶対破れないルールがある。
それは命を奪いつづけないと生きれないルール。
決して破れないんだ。
だからごはんを食べる時に必ずこうしよう。
手を合わせて「いただきます」と。
いただきますというのはご飯を用意してくれた人へのお礼、そして食べるためになくなった命への感謝と供養の儀式。
ごちそうさまもおなじこと。
必ず忘れないようにしてね。

正直わかってくれる子は多くないです。
でもわかってくれる子がいるなら話す価値はあると思っています。
そして食事による奪命こそ人間の原罪であり、きちんと考えていることが一番原始的で根本的な倫理道徳である、それが私の考えです。

クラスで育てた豚を殺して食べるという話がありましたが、それも何かの助けになるかもしれません。
    • good
    • 0

ある生き物の命を重く感じるか・軽く感じるかは人それぞれだとおもうのですが…



人を殺したりしちゃいけないのはルールだからでしょ、単純に。
その国や自治体のルール(法律など)違反をしちゃいけない。
ただそれだけ。

「植物や牛豚にだって命はある。それを毎日、食している。」
そんな繊細な感性になってしまったら神経失調になっちゃいますよ。

質問の「どう諭すか?」ということに対しての私の回答は、
世の中の最低限の決まり・ルール・法律をきちんと教える
ということだと思います。
    • good
    • 0

教員です。



私個人の考えは、#1の方の回答に近いのですが…

回答を求められているというよりは「子どもへの接し方」を問われているかと…

中学2年生って、一番、「物の善悪」と「世の中の不条理」に敏感で、でもあまり深く考えているわけではないので、「短絡的に大人を批判」する年齢と言えそうですね。

まず、お子さんが「猫とカエル」のダブルスタンダードに悩んだわけですよね。

では、お子さん自身は「猫」に対してどう思ったのか、「カエル」に対してどう思ったのかを確かめてはいかがでしょう?

その上で「どうして、ほとんどの人が『猫は可哀想と報じられるのに、どうしてカエルはいいのか』と思うのか、わかるか?」と聞かれては?

>頭の中がグチャグャになってしまったようです。

グチャグチャのままでもいいので、お子さんなりの言葉にさせてください。

そこを、しっかりと掘り下げることで、お子さんなりの「価値観」が見えてくるかも…

お子さんが「ゴキブリの命と猫の命の価値が、同価値だ」と思うのならば、あえて否定する必要はないのではないでしょうか?

「そうか。君はそう思うのか」でいいと思うのですが…

そこで「お父さんはどう思うの?」と聞かれたら、あなたの考えを言って「君と同じ」でも「君とは少し違うが」でもいいので、互いに価値観を尊重する姿勢を見ればいいのでは?

親から「自分の価値観を尊重されて育った子」が「自分の快楽のために、相手を滅ぼしてもいい」などの「危険な思想」には嵌らないと思いますので…

ご参考までに。
    • good
    • 0

はたしてそれに正しい回答を出来る人がいるのでしょうか?


誰にとっても、永遠の課題、難しい所なのではないかと思います。

例えば、昔あった生類憐みの令なんかはまさに息子さんのように考えだすと止まらないような法でしたが、あまりにも条例が多岐にわたったため、悪法としても知られてましたね。

命は皆尊重されるべき、ともありながら、魚や虫も殺してはいかんとか、かといって殺したり傷つけたりすれば人のほうが死罪や流罪になったり。

世の中は弱肉強食で、本来ならば、自分が生きるべき必要な分だけ狩って食べるために殺す、自分の子供などを守るためにやむを得ず殺す、など、不必要に殺さない野生の動物というのが一番自然の姿であり、理にかなっているように思います。
自分のためだったり、便利さや快適さを追求するあまり必要でないものまで殺してしまうのは人間くらいかもしれませんね。(まあ野犬とかは例外ですけど)それは、決してほめられたことではないし、本来はそれではいけないんだなという気持ちは根底にはもってなくちゃいけないんだと思います。
食べるために殺す肉や魚に対してはこの限りではないと思いますが、やっぱり最低限の食ではなく、美食をもとめるために多種多様にわたる動物に手をだしているのも人間ならではだと思います。

でも、ゴキブリや蚊やハエと、犬や猫の命を比べた時に、どう違うのかっていうのはやはり難しい問題だと思います。
たとえ前者が害虫であっても、後者が害にならないってことはないわけで、先にあげたような法令がはびこった時代には野良犬が人を襲ったり、食べ物を荒らしたりしても罰したり退治したりすることも許されず、無法地帯みたいになっていたわけですから、犬猫が必ずしも害がないわけではないわけですよね。

ただ、今の時代、猫や犬はやはりそれなりにペットなどとして人の管理が行き届くことが多く、明らかに人の手の及ばないようなものではないからなのではないでしょうか。
逆にゴキブリや蚊とかは人になつくわけでもないので、人が管理しようと思ってもコントロールのしようがないっていうのもあるかもしれません。
結局は生態系の一番上に君臨している人間の勝手な主観でしかないのだと思います。

自分たちにとってかわいらしい存在であるか、見た目にも不気味で気持ち悪い存在であるか。
それは勝手な言い分で、本当はいけないことなのではないかなって思います。
カエルの解剖も同じで、本当は死んだカエルを手に入れるのが一番残酷でないのだと思いますが、カエルを飼って死ぬまでまって解剖っていうのも難しいんでしょうね・・

医療を発達させるために、マウスで実験するのも同様。
人の命のためにマウスをつかっていいのかっていわれたら本来はそれがいいと思ってはやはりだめなのだと思いますよ。

そういうことを踏まえたうえで、親として正しい回答ができることが大事なわけではないと思います。

私なら「お母さんもわからない。本当はダメなんだと思うけど、人間って勝手ないきものなのかもね。そういう気持ちは大事にしないといけないと思う」と自分の考えを言うと思います。
大事なのは正論を子供に教えることではないし、この問題に関して正しいこたえなんて出ないと思いますよ。

他の人もいってますが、殺人をしたから死刑にしていいのかっていうのと同じで。

そう思うんだったら、なるべく殺さないようにできるといいよね、みたいな話をしたっていいと思うし、ゴキブリだって蝿だってクモだって、殺さないで家から追い出す選択肢もありますよね。
私も、可能な時はハエタタキで殺さないで窓から追い出すときもあるし、クモに関しては殺すのがしのびないこともあって、つぶさなくて済む時はなるべくティッシュにくるんでドアの外にぽいってしています。
そういう姿を子供に態度で見せることもいいのかもしれません。

なんでもむやみに殺していいってことじゃないよね、と。

親子でどうなんだろうね、ってわからないことを話し合うことが重要なんだと思いますし、親でもわからないものはわからない、って言っていいんじゃないでしょうか?
    • good
    • 0

動物保護法の範囲内か、否か。


のように法律を利用して直球勝負するか。

または、愛を与える命か、否か?でいくか。

それを、大人になるまでの宿題にするか?

私達個々の受け取り方、考え方に大きく左右されますから
スカッーと解くことは、できないと考えています。
私の子供は、水族館の魚達はそこを海だと勘違いしているから
海にいる魚も、水族館にいる魚も違わない、どちらも同じだ。
みたいなことを言う私に似たバカですから、質問者様の環境が
うらやましいです。
    • good
    • 0

確かにゴキブリ、ネズミ、蚊、ハエの類は、人間に害をなすものとして「駆除」の対象になってますね。

それから、保険所でも毎週何頭もの犬猫が殺処分になっている現実もある。「可哀そうだから」という理由で考えると、ミルクと果物や野菜で生きるベジタリアンになるほかないですよね。

ほかにもあります。
人は殺人犯を追って捉えて裁いた結果、犯人を死刑にしたりする。やる事は同じ「他人の命を奪う」という行為なのに、一方ではいわば殺人が正義の名のもとに正当化されている。更にその死刑制度の後ろ盾とも言える国は、他国との戦争で兵士たちに大量殺人を犯すことを正しい行為だと強いたりもする。まったく、変な話ですよね?
歩いていてアリを踏み潰してもさして気にもされないけれど、アリの巣を壊して遊ぶ子供は「可哀そう」って咎められる。植物を育てつつ雑草は駆除するなんて「依怙贔屓」もありますし、ほんと人間なんて自分たちの都合で見方を変える理不尽な暴君です…。
更に不思議なもので、スリッパで叩いたり殺虫剤を撒いてゴキを殺すのは気にしないって人でも、生きているのを捕まえて足を1本1本もいで、羽と触覚を引き抜いて、腹に針を刺して…なんていたぶる殺し方は悪趣味だと嫌悪感を覚えるのが普通ですよね。


結局、「問題の捉え方」がポイントなんです。

太古の昔より、人は獣や魚を狩って命を繋いできました。このため、社会的に「生き残るために他の命を奪う」ことは多くの人間が共有する、いわば原罪として認知されています。またその一方で、『快楽・愉しみのため』なんて理由で命を奪ったり、弱者をいたぶって殺したりというのはNGとされています。
これは他者の命を奪うという行為に何らかの歯止めが無ければ、常に生命が脅かされることになって人は安心して生活が出来なくなってしまうから。それを避けるために死刑制度などの「ルール」を定め、国などの権威でもってそのルールが守られる社会を保証しています。自分の命を守るという気持ちでもって他者の命を奪う事への歯止めとしているわけで、それは矛盾というわけでは無いでしょう。



生徒が愉しみでカエルの命を奪うという事は勧められたものではありませんが、リアルな知識と経験を得るという大義名分の前にはカエルの命を奪うという罪が許される。
ところで、それは誰が「許す」んでしょう?先生? 社会? 神様仏様?

…誰でもないですよね。罪が消えるわけでも無くて、単なる「錯覚」。つまり自分の心の問題であることに気づくと思います。
更にいえば命の価値なんてものも錯覚にすぎず、誰かと誰かを比較できるものでもない。どれだけ重要とされる人の命であれ、それを奪うことが他の誰かの命を救う事に繋がるかもしれない。命として何が重いかはたかが100年しか生きられない短命な人間が安易に判断できるものではあり得ないのです。例え地上から人間が一人もいなくなったからといって、地球が無くなるなんて事は無いはずですしね。

カエルの命を奪ったことに罪悪感を覚えるならば、その分代わりに得た知識と経験を大事にして行くことができます。それが命を繋ぐってこと。カエルの命もただ無になったわけではなく、息子さんという存在を通じて未来に繋がっていくわけです。
息子さんもいずれ他人の命を救う立場につくやもしれませんし、カエルを滅亡から救う時だってやって来るかもしれません。

ともかく、命に大きさも重さはなく、比較できる価値も優劣もない。ただ命はそこにあり、いずれはこの世から失われるもの。しかしそこに命が無ければ次に続く命という可能性は生まれ来る事がない。だからこそ全ての命は尊い物であり、無下に扱ってよい物ではないのです。



う~ん。やはりキッチリまとめられないですねぇ。
愚拙も悟りを得るにはまだまだ修行が必要って事です(^^;
    • good
    • 0

面白い、質問だね、


単に命だけであればね、、、、。付加価値を考えないとね。意味わかるかな。

1gの砂と、1gの金と、1gのダイヤモンド、みんなただの鉱石でしかありません。

0円と、4000円と10万円から100万円、位、付加価値が違うのです、

その違いがわかるなら、ゴキブリ、カエル、猫の違いがわかるでしょう。

彼に、それら、全部を、触ったり
可愛がりたいなら、自己責任で、どうぞ、と教えればいい。どれか一つでも、嫌だ、と思うなら、それが、害虫でしょう。

ちなみに、日本では、人間自体の生命の値段は、3000万円です、さらに、学歴、家柄、などで、付加価値がつきます。

医師などなら、4ー5億円。もし、タマタマ、マイケルジャクソンんを事故で、自動車で轢いちゃったら、100億円くらいか、いや、1000億円位、請求されるかも。そおいうことでござんす。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!