次の議論をめぐって問います。
▼ (ヰキぺ:ニヒリズム) ~~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%92% …
§ まえがき
( a ) ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism / 独: Nihilismus)とは、
この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。
( b ) ニヒリストは概して以下の論点を強く主張している。
上位の支配者、創造主の存在を示す理にかなう証拠はない、「真なる道徳」というものは存在しない、世俗的な倫理は実現不可能。よって我々の存在には結局真理はなく、好まれる行動など存在しない。
§ 1 概要
( c ) ニヒリズムという語は、・・・今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときが多い。
( d ) 心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。
1.何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。
( e ) ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Q‐1 《永劫回帰》などは あり得ないと思うのですが 納得できる説明がありますか? 同時に《超人》についても同じ問いを 問います。
Q‐2 ( d-2 )で《仮象》と言っていますが 経験事象としての世の中が移ろいゆかざるを得ない無常の世界であることは分かっています。いまさら《イツワリ・無価値》というのは どこかおかしい。《空観》というのは ごくふつうの世界観なのであって この世界が《仮象》であることは 分かっています。
ゆえに 《自ら積極的に「仮象」を生み出し》という考えは 根本的におかしいのではないか? それともどういう意味がありますか? すなわち《いま起きている現実における仮象と向き合って 一生懸命に生きる》のであって いちいちわざわざあたらしく仮象を《生み出す》こともない。と考えるからです。
Q‐3 《何も信じられない》( d-1 )という自己表現は 意味がないのではないか?
なぜなら 経験事象については あくまで《考え認識する》のであって 思考に非ずとしての《信じる》という表現を用いるのは 自己矛盾であると考えられるから。
つまりは すでに見たように 世の中は 《仮象》だと見ているのだから。
Q‐4 《 d-2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方》 これは そのような《ニヒル》にむしろ価値を見い出すと言っているのであるから 価値の無という意味での虚無志向ではないはずだ。積極的・能動的だというにしろ ニヒリズムという用語は あやまっているのではないか?
世の中は《無価値》だとは けっきょくのところ 言っていない。ことになるにもかかわらずです。
Q‐5 《人間の存在には意義、目的、理解できるような真理・・・がない》( a )というのは これも表現としておかしい。つまり 意味がないのではないか?
この世の中には 科学的な事実認識を採り入れた主観真実はあるが 絶対的な真理などは人間には分からないのだから この命題は 分かりきっていることである。それをいちいち《主張して 哲学的な立ち場》だとするのは 阿呆らしくないか?
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
お久しぶりです。
正月休みは山にこもってのスキー三昧で(酒屋ない,テレビ写らない,インターネット来ていない,帰りのバスもない(^^;))、やっと下界に戻って来ました。[再考:神は死んだか?]の#1さんほどではないですが、ニーチェの言説にはやはり、歴史的文脈は無視できないと思います。
中世ヨーロッパの思想および神学においてギリシャ哲学は、無視しえないまた、無意識の土台になっていたという事実は賛成してもらえると思うのですが、その一つがイデア論です。
極端に言えば、超歴史的で超地理的な普遍的真理なり真実を最初から想定していた、という事になると思います。この伝統の中には純粋理性を唱えたカントもいます。そして人間は、イデアそのものは見られないが、その歪んだ像「仮象」を見る事はできると・・・。
これは結局、全面的な素朴実在論で、実際には観念論と紙一重だと思えます。思考したり感じたりするものは全て、現実にどこかに存在するのだと。それは別世界かも知れないが。
どこかで書きましたがニーチェは、典型的な西欧的理念型モデルのタイプです(注:西欧的理念型モデルはウェーバーの理論にはありません)。しかし個人的な理由から、それを超克しようとしました。精神は中世的なままで。
(神が定めたような)絶対的な真実や真理は、確かにあなたの言うように、知りえるか知りえないかさえわからない事です。ニーチェはそこで、そんなものは無い!、と判断したのだと思います。それはイデア論の否定です。これはニーチェの判断です(神は死んだ)。
その結果を、ニーチェは中世そのものの言葉で語り出します。
> 2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。
上記の趣旨は、(仮象という言葉を使っていますが)雑多な現象の集積である現実世界を体系づけるという意味において、私は創造主であると読めないでしょうか?。これは超人と言うにふさわしいものだと思いますが、そのような行動が可能な根拠は、神が死んだからです。カントも似たような事を言いましたが、先験的理性形式は、神が与えたものでした。この差は大きいと思います。
上記のような言説は、論理的分析では矛盾していたり無意味かも知れませんが、歴史的文脈を考慮すると「とても気持ちが良くわかる」一文にならないですか?。ニーチェは中世の言葉しか使えなかったんですよ、きっと・・・。
一方ウェーバーは、明らかに中世的貴族主義的残照を受け継いだ人で、二人とも当時ヨーロッパ最後進国であったドイツに前後して現れた人達です。ウェーバーの言説にも、歴史的文脈を無視して言葉だけ取り出すと、現在では危険思想につながるものは多々あります。学問価値自由論などは、その典型です。
二人とも当時ヨーロッパ最後進国であったドイツにおいて、「近代人の理想を一つを中世の言葉で」語ろうと努力したのではないのかな?、と自分は思っています。ニーチェは、ウェーバーの言う「認識の木の実を食べてしまった」一人であった、と自分は思います。
全く対照的な二人ですが、そこに時代を感じます。
しばらくぶりですね。ご回答をありがとうございます。
歴史的な時代背景を捉えると 植民地をつくることは黙認されており 売春は合法的であった。というような議論とは ちと違うでしょうか。
★ 歴史的文脈
☆ ですね。
ご主旨は けっきょく次のように受け取りました。そこにこちらからの批判点もふくまれています。すなわち重要ですので長く引用しますが:
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それはイデア論の否定です。これはニーチェの判断です(神は死んだ)。
その結果を、ニーチェは中世そのものの言葉で語り出します。
> 2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに
考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、
一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、
積極的・能動的ニヒリズム)。
上記の趣旨は、(仮象という言葉を使っていますが)雑多な現象の集積である現実世界を体系づけるという意味において、私は創造主であると読めないでしょうか?。これは超人と言うにふさわしいものだと思いますが、そのような行動が可能な根拠は、神が死んだからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ もしこういう・みづからの意図をも伴なう世界観をニーチェは提出したのだとすれば それに対しては次のように問い返して 批判を差し出すことが出来ると思います。すなわち
○ ぢゃあ 神をふたたび復活させればいいぢゃん。
これです。なぜなら 《私は創造主であると読め》るのなら そうなります。まったくはっきりしています。
要らぬ二番煎じを提出しただけではないでしょうか。
あぁ
★ 上記のような言説は、論理的分析では矛盾していたり無意味かも知れませんが
☆ とことわり書きがありました。
ちなみにもしニーチェに同情するなら わたしなら あまりにもクリスチアニズムのオシエを中心とするナラワシ(エートス)が 堅苦しく まるで世の中は自由が成っていない こんなんでは 人びとは息苦しくてどうしようもない状態にある。これを一点突破するにはうんぬんと考えて 神は死んだと言うなり 超人を考えつくなりしたのではないか。とは思います。
つっぱねたカッコウのままにて。
No.4
- 回答日時:
〈CREATIO EX NIHILO〉思想の成立
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/medieval/j/c …
アウグスティヌスの「無からの創造」論
http://jsmp.jpn.org/jsmp_wp/wp-content/uploads/s …
少し検索しただけで読んでいないけど、
ニヒリストとは、アウグスティヌスではないか?
という疑問。
無からの創造を逆転させると、
もともと世界は無、という思想になるのではないでしょうか。
ここらへんがキリスト教がニヒリズムといわれる原因なのだろうか。
そして、キリスト教といっても、無からの創造を成立させたのが
アウグスティヌス。
つまり、アウグスティヌスはニヒリストということになる。
すると、神がいたからこそ、ニヒリズムになった、とかいう意見もわかるような。
ご回答をありがとうございます。
資料について取り敢えず議論になると思われる箇所までを読んで――そしてそれは 数ページのみなのですが―― 応答します。あとは あらためてしまいまで読んで 応答すべきことがあれば 補足欄にておこないます。
○ 〈CREATIO EX NIHILO〉
については なあんだ そんな簡単なことかとあきれ返られてしまうほどの・そして一見するときわめてずるいとさえ見られてしまうような答えがあります。
○ 《非経験の場》:有無を超えたところ。
として《無 nihil 》と言っていると読む捉え方。
→ 有無が生じた。時空間が出来た。つまり経験世界の誕生。
☆ すなわち 岡野論文では 次のくだりを引いて捉えます。
▲ (岡野昌雄:アウグスティヌスの「無からの創造」論) ~~~~
――「創世記』第1章1節の解釈をめぐって――
II 3 ( p.43 )
「無からの創造」を, アウグスティヌスは,
( a ) 「汝が存在し給うて,他のいかなるものも存在しなかったが,
その無から,汝は,天と地とを造り給うた。」
と表現している。端的に, 即ち, 或いはこの仕方で或いはかの仕方でというのではなく,常に同じ仕方で変ることなく存在するといわれるのは, 神以外にはない。他の存在するといわれるすべてのものは,存在する限りに於て, この神によって存在するのであり, その存在を神に負うているのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ( a )の引用文について 次のように考えられる。:
・ 《汝が存在し給うて,他のいかなるものも存在しなかった》:
これが 《非経験の場》のことだと読む。
・ これを《無》とは言っている。ただしそれは 経験事象として
の有無を超えた場としてのナゾのことを指して言っている。
どこまでも 《非経験の場》です。次の図解をしめします。
○ (非経験の場⇒ 非思考の庭) ~~~~~~~~~
非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)
_______________________
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
________________________
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
拍子抜けでしょうか。
No.3
- 回答日時:
No.2の者です。
> 《言葉の問題だ》ということが 《世界の答え》ですか?
> つまり
>
> ○ ニヒリズムにそもそも意味があるのか?
>
> に対する答えだということでしょうか?
これに対しては、ニヒリズムそのものに対しての答えであると述べました。
最初の質問者様のWIkipediaの出典によりますと、
>この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。
とありますが、私個人として、確かに、意義や目的が存在しないと考えています。それを決定づけるのは客観的立場です。このニヒリズムという主張自体、客観性がない限り成立しないでしょう。というか、人に客観を持つことができるのか甚だ疑問です。できたとしても、それは想像の中で、です。だから、ニーチェは外界を知らないと述べているのです。同様に、「客観」という言葉を「意識的な中で」という意味を持たせない限り、ニーチェの主張は一意的に正しくないでしょう。
別に、「ニヒリズム」という思想自体がくだらないというつもりはありませんが、(というのも私も以前ニヒリストであったかもしれないからである)その客観性を説明せずに主張するというのは、あまりにも愚かです。そして、古代哲学も関連して、そのような不備は多々見られます。
★Q-1について
私たちがこの世に存在している限り、不可能です。しかし、私たちが無限的な存在になろうとするなら、可能です。(しかし、未来のことなど誰も知りはしないのです。)
そして、無限的存在になり得た時点でそれを神と呼びます。しかし、盲点として、神自身もそれを得たかどうかの確証を得ることが不可能であることです。ここで、矛盾が生じます。
ならば、私たちに残されたのは、創造性の中で、世界の原理を変えることなのです。宇宙人とかそのようなことが一時的に話題(今でも)になっていましたが、それは、「世界の原理」を変えてしまったためです。しかし、世界の原理を変える以前に来てしまった彼らは、元の世界(未来)に戻ることなど不可能であるのです。これによって、∞という時間が生じます。
★Q-2について
単に、世界を破壊したいという邪心です。(やや語弊がありますが)ニーチェは古代哲学を勉強していくうちに、世界の存在性に気付いたのです。この世には、様々な価値観が渦巻いているでしょう。価値観は、分散し、世界のフラクタル構造を生み出します。それとも、それ自身をあなたは知覚できませんか?ニーチェは、想像性に富んでいたのかもしれませんね。また、世の成功者は、これをうまく使っていたりします。(能動的ニヒリズム)
★Q-3について
これも、心理学を深く学んだ人でなければ、到底不可能なことです。例えば、フロイトの精神分析学などを勉強なさればよろしいのではないでしょうか?大事なのは、多角的に成立する事象を考えることです。正直、この「何も信じられない」という言葉には、言葉の認識の違いから来ているとしか言いようがありません。また、これは、現代におけるいわゆるニートや引きこもりのことです。これを客観的(彼の主観から)に言い表した結果です。
★Q-4について
その通りです。ニーチェ自身、世が虚無であることを述べていません。むしろ、彼が言いたかったのは、世の無常とは逆のことです。なぜ、彼がそのような思想をもってしても打たれ強かったのかを考えれば容易に想像できます。これを一言で言い表すとしたら「価値観に溺れる」ということです。
★Q-5について
>絶対的な真理などは人間には分からないのだから この命題は 分かりきっていることである。
なぜわかっているのですか?あくまでも、客観に立てない時点で、あなたは生命の一つに過ぎず、証明すらできないのではないでしょうか?確かに、科学的には、宇宙法則はすべて同じように見えると言われています。でも、これは間違いです。科学者と同等の知能がない限り、視えるのは制限された“一部の”法則です。さらに、生物学的に異種間では、この世に対する認識(いわゆる感覚器官のこと)が違うではありませんか。もし、これを自明とするならば、全ての生物に同じ「とき」、「くうかん」が流れていることがわかっていなければなりません。他の生物について、わかっているような気になっていると思いますが、それは「目」を通してです。他の生物の声について、わかっているような気になっていると思いますが、それは、「耳」を通してです。そして、私たちは、人間としての器官を使って物理法則が確かであること(正確には違う)を確かめていますが、11次元でうごめいている宇宙なんて微塵も知られないのです。そして、仮に解き明かしたとしても、言葉としてつきまとうのは、「人間として」ということです。これから考えると、「神のみぞ知る」という言葉は正しいですね。ただ、私たちが神であったならば、途端に成り立たなくなりますよ。
最後に「自発的対称性の破れ」について説明しておきますが、これはヒッグス粒子が途端に出現してしまうというものです。(そして空間を埋め尽くし、電子の動きを妨げます。)粒子にしてみれば、とっても困ることですよね。(粒子が進むという目的をもっていたならばであるが。)つまり、宇宙が生まれた最初の目的と現在の目的は全く違うものになってしまうものになっているのです。そして、それ自身が世界を見事に複雑化させたのです。(最初に複雑化させようなんて目的はなかったはずです。)生命も、自己複雑化を取り入れていますよね。これも、それに由来します。だからこそ、私たちは存在するのです。
また、これによって、私たちは分散し、様々な目的を持つことが可能になったのです。これを善とするか悪とするかは完全に主観に基づきます。
ご回答をありがとうございます。
★ ニヒリズムそのものに対しての答えであると述べました。
☆ 了解しました。
★ 別に、「ニヒリズム」という思想自体がくだらないというつもりはありませんが、(というのも私も以前ニヒリストであったかもしれないからである)・・・
☆ これにつきましては ニヒリズムは 往復切符の往きだけを言っている・見ているものだとわたしは考えます。
( f ) ニヒリズムに落ち入るそのときには 往復切符のことなどは思いも寄らないでしょうが 思想として見るなら 片道切符だけの思想であって それ自体としては意味を成さない。こういう見方をしています。なぜならもし世界は虚無だという見方でよいと判断した場合には そのニヒリズムなる思想にかんしてはニヒル(虚無)ではないと見たことになるからです。
★ Q-1について:・・・私たちが無限的な存在になろうとするなら・・・
☆ これについて 経験合理性による説明がなければ ついて行けません。
★ Q-2について
☆ これは 《いちいちわざわざあたらしく仮象を〈生み出す〉こともない》だろうにというのが 批判点です。
★ Q-3について
☆ 《何も信じられない》( d-1 )という自己表現は 社会的な経験事象について《信じる》という言葉を使うのは あり得ないと言っています。
★ また、これは、現代におけるいわゆるニートや引きこもりのことです。
☆ これについては
【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~
( a ) KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。
( b ) ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というふうに見ています。
★ Q-4について:その通りです。
☆ これは 上の( f )で触れました。
★ Q-5について ~~~~~~~~~~~~~~~
>絶対的な真理などは人間には分からないのだから この命題は 分かりきっていることである。
なぜわかっているのですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ もし分かったなら その分かったものは《絶対》ではないからです。もしくは 分かったというその人が 《絶対》としての存在であることになるからです。いづれもおかしい。
★ 最後に「自発的対称性の破れ」について説明しておきますが・・・
☆ ありがとうございます。けれども たぶん問いとは別であるように思います。
このように今回も反応します。
No.2
- 回答日時:
言葉の問題です。
むしろ、それが世界の答えではないですか?
もともと、世界は高次元的な存在ですし、かの物理学では11次元という見方が正しいという推論もありますよね。
考えてみれば、言葉を作ったのは私たち人間ですし、その「目的」や「真理」という定義も人間が自ら決めたものです。(さらに言えば、神の啓示を無視したともいえます。)そのような言葉を使って考えるから訳の分からないような答えが出るのだと考えれば、納得がいくのではないでしょうか?
私の持論として、そのようなニヒリスト達は、単なる主張をしたかったわけではなく、絶対的な善に対して、否定をしようとしたのではないかと考えています。対照的なものは必ず同時に存在しなければならない、と。こう考えると、その人自身が発した考えがニヒリズムではなく、物質的な存在として、「ニヒリズム」的なものが操っていたのではないでしょうか?(ちょっと考え方が壮大すぎるかもしれない・・・)それは、いわゆる反比例のようなものです。正の方向にエネルギーが増すと、負の方向にもエネルギーが増す事と同じです。(ここでは正負を使って表現しましたが、実際はそのような区別など無いでしょう。よって、対照的な事象は同一事象とみて取れます。)
故に、言葉で定義(私たちの五感)しようとすれば、両者が存在するのは必然的ともいえます。
しかし、ニーチェ自身はあなたが述べたような事を人々に考えとして持たせようとしていたのでしょうか?そうだとするなら、ニーチェが実に可哀想ですね。(あまりこの表現もよくない・・・?)外界を知らなさすぎです。
全ては、「無」であるから存在するのです。
例えば、「矛盾」という故事成語がありますね。
「楚人に、楯と矛を鬻ぐ者あり ・・・・・(以下略)」
実際、この言葉が説明しているのは、単に「矛盾している」ということだけです。
ニヒリズムであれ、同様です。
つまり、単に「無」を主張しているだけであるので、それを踏まえると、あなたはニヒリズムの真意をくみ取れていないような気がします。
あなたの述べた「空観」というような言葉もあなたにとっては悲観すべき言葉なのかもしれませんね。
要は、言葉に対する認識さえ変えてしまえば、こちらの勝ちという話なんですね。(勝手に勝ちになっていますがね)
あなたは、「虚無」という言葉に騙されかけているのです。
「虚無」というのは、決して悪い言葉ではありません。
もちろん、その言葉を使うたびに、私たちになんとも言えない「廃墟感」が押し寄せます。
それは、私たちがその言葉を使っている時だけに起こり得る事です。
それ以外は何も不便ないでしょう。
私が言いたいのは、有意義な言葉の使い方をしろという事です。もちろん、哲学者に対してもです。
そして、真理の矛盾が存在している限り、世界に意味が生まれます。いわゆる、自発的対称性の破れでしょう。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~
言葉の問題です。
むしろ、それが世界の答えではないですか?
~~~~~~~~~~~~
☆ 《言葉の問題だ》ということが 《世界の答え》ですか?
つまり
○ ニヒリズムにそもそも意味があるのか?
に対する答えだということでしょうか?
★ ~~~~~~~~~~~~~~
もともと、世界は高次元的な存在ですし、かの物理学では11次元という見方が正しいという推論もありますよね。
考えてみれば、言葉を作ったのは私たち人間ですし、その「目的」や「真理」という定義も人間が自ら決めたものです。(さらに言えば、神の啓示を無視したともいえます。)そのような言葉を使って考えるから訳の分からないような答えが出るのだと考えれば、納得がいくのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ちょっと待ってください。
★ 訳の分からないような答えが出る
☆ のだとすれば そう言えばよいわけです。こんなくだらぬ思想を考えたことを 世界はわざわざいちいち時間を割いて構っている。そのこともくだらんわい。と言って済ませればよいわけです。
何も《言葉の問題》だという必要はないのではありませんか?
きちんと定義した場合には それなりにまともで妥当な議論が出来ます。それが出来ていないので 問題にしています。
★ 私の持論として、そのようなニヒリスト達は、単なる主張をしたかったわけではなく、絶対的な善に対して、否定をしようとしたのではないかと考えています。
☆ 申し訳ないが このご見解も意味がありません。
○ そもそも《絶対》を人間が否定してもあるいは肯定しても そのまま何の痛痒も感じずに 絶対は絶対のままでいる。それが 絶対であり 神です。
と考えなくては おかしいのではありませんか?
★ 対照的なものは必ず同時に存在しなければならない、と。こう考えると、その人自身が発した考えがニヒリズムではなく、物質的な存在として、「ニヒリズム」的なものが操っていたのではないでしょうか?(ちょっと考え方が壮大すぎるかもしれない・・・)それは、いわゆる反比例のようなものです。正の方向にエネルギーが増すと、負の方向にもエネルギーが増す事と同じです。(ここでは正負を使って表現しましたが、実際はそのような区別など無いでしょう。よって、対照的な事象は同一事象とみて取れます。)
☆ もしそうなら 世の中の価値を否定することも 肯定することも いづれも同じ内容を持つということになります。つまり それなら こういう議論をすることすら 意味がなくなります。
★ 故に、言葉で定義(私たちの五感)しようとすれば、両者が存在するのは必然的ともいえます。
☆ これも 違います。よ。
☆☆(【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8423513.html
(その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。
10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。
11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。
12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。
13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。
14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このように 《悪》は存在しません。存在するのは 人間でありその意志行為であり それとしての《善》です。この善を損なう行為またその結果の状態が 負の善であり これを便宜上としてだけ《悪》と呼ぶに過ぎません。悪は それとして独立したモノがあるのではありません。
決して《存在》として 相互に正負の対称的なものごとがあるわけではありません。
★ しかし、ニーチェ自身はあなたが述べたような事を人々に考えとして持たせようとしていたのでしょうか? そうだとするなら、ニーチェが実に可哀想ですね。(あまりこの表現もよくない・・・?)外界を知らなさすぎです。
☆ いえ。そんなことは どうでもよいことです。ニヒリズムには そもそも意味などはあるのか? と問うているだけです。
★ 全ては、「無」であるから存在するのです。
☆ これは 仮説でしょうか。論証が俟たれます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
例えば、「矛盾」という故事成語がありますね。
「楚人に、楯と矛を鬻ぐ者あり ・・・・・(以下略)」
実際、この言葉が説明しているのは、単に「矛盾している」ということだけです。
ニヒリズムであれ、同様です。
つまり、単に「無」を主張しているだけであるので、それを踏まえると、あなたはニヒリズムの真意をくみ取れていないような気がします。
あなたの述べた「空観」というような言葉もあなたにとっては悲観すべき言葉なのかもしれませんね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 空観については長くなるので措いておきますが ニヒリズムの真意については
▲ ( d-2 )・・・自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度
☆ これを 取り上げています。
これが
★ 単に「無」を主張しているだけであるので
☆ と言えましょうか。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
要は、言葉に対する認識さえ変えてしまえば、こちらの勝ちという話なんですね。(勝手に勝ちになっていますがね)
あなたは、「虚無」という言葉に騙されかけているのです。
「虚無」というのは、決して悪い言葉ではありません。
もちろん、その言葉を使うたびに、私たちになんとも言えない「廃墟感」が押し寄せます。
それは、私たちがその言葉を使っている時だけに起こり得る事です。
それ以外は何も不便ないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 意味が取れません。
★ ~~~~~~~~~~~~~
私が言いたいのは、有意義な言葉の使い方をしろという事です。もちろん、哲学者に対してもです。
そして、真理の矛盾が存在している限り、世界に意味が生まれます。いわゆる、自発的対称性の破れでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ???????
No.1
- 回答日時:
「絶対的な真理などは人間には分からない」というのは、
「存在を絶対的に確定しようとすると、無限不確定性に
発散する(=無に還元される)」という事だ。
「真理は無い=本質は無に還元される」という意味では、
ニヒリズムは、「意味が無い=意味があると錯覚しない」
というだけの意味は「有る」。
「無いとは分らない事が有」なのだからして。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~
(あ) 「絶対的な真理などは人間には分からない」というのは、
(い) 「存在を絶対的に確定しようとすると、無限不確定性に発散する(=無に還元される)」という事だ。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ この(い)は 成り立たない推論ですよ。もしくは 問い求めているものが別だという話になります。
すでに《真理ないし絶対》についての命題(判断・定義)を提出するその時点で
★ 絶対的に確定しようとすると
☆ というように《絶対的に》という概念を用いてしまっているからです。
おそらく
★ 無に還元される
☆ というときの《無》についても 前もって・もしくは同時に 定義をしておく必要がありましょう。
*
ですから くわしく述べる必要があるとすれば
○ 絶対的な真理などは人間には分からない
のではなく そうではなく
○ 絶対としての真理は 人間には分かるか
分からないかが分からない
となるはずです。
その意味で 《不確定性》の考えを持ち出すことには いくらかの関連性があるとは考えますが それでも
★ 存在を絶対的に確定しようとする
☆ というときの《存在》は 人間から見てのそれ(一般にモノという存在)であり あるいはもっと言えば 《人間であるわたし》が認識しようとしているそれのみを言っていると考えられます。
そこでは それだけだと 《絶対》の問題は素通りしてしまっていることになりましょう。
(このくだりは 余計なことかと思いますが 念のために添えました)。
*
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
(う) 「真理は無い=本質は無に還元される」という意味では、
(え) ニヒリズムは、「意味が無い=意味があると錯覚しない」というだけの意味は「有る」。
(お) 「無いとは分らない事が有」なのだからして。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (お)は 経験思想としては 仮説ですね。言いかえると 《非思考の庭》においてヒラメキとして得た観想をそのまま推測として提出しておられる。つまりは 先ほど出て来た《無》の定義の問題になるはずです。
ですから (う)=(え)も まだ定まらないという受け取りになります。
(う=え)の結論は いくつか定義し論証することによって明らかにしなけれならない概念があると考えます。
(か) そもそも《真理》とは何を言っているのか。これが 互いに共通の理解に立っているか まだ分からない。
(き) 《本質》あるいは《無》についても おなじようです。
(く) 《真理は無い》と《真理は それが何であるかが分からない》とは 同じ判断ではありません。後者が 共同化されうる主観ではないかと言って 問いを問うています。それについて触れられていないのは 残念です。
(け) ★ 「意味が無い=意味があると錯覚しない」
☆ ということと
▲ ( d-2 ) 自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度
☆ とは 同じではありません。
この( d-2 )および( d-1 )を批判の対象にしているのですから その点について触れたあとに 《少なくとも これこれのことは言える》といった議論をするのが ふつうです。
(こ) しかも その《少なくとも これこれのことは言える》というその中身は
☆☆ Q-2 ・・・・すなわち《いま起きている現実における仮象と向き合って 一生懸命に生きる》のであって いちいちわざわざあたらしく仮象を《生み出す》こともない。と考えるからです。
☆ という批判点をないがしろにしています。《仮象と向き合って 一生懸命に生きる》のは 《仮象に〈意味があると錯覚し〉ている》という批判点なのでしょうか?
つまり ニヒリズムでなくても(ニヒリズムを標榜しなくても) 《もし意味がないことならば 意味があると錯覚することはない》と言えるはずだからです。
(さ) というより 《現実の世界のものごとが 意味があると見る場合と意味がないと見る場合との互いに相い容れないかたちで対立するふたつの立ち場に区分している》ことのほうが マチガイでしょう。ヰキぺの解説では そうなっています。つまり ニヒリズムと称する思想は そのような二項対立の見方しか出来ないと思わせるようなしろものであるという問題です。
(し) 同じくだりでは けっきょく
★(え) ・・・・だけの意味はある
☆ というのは たたき台の提起した論点と同じことを言っていますから その点について触れられることをおすすめします。
すなわち:
☆☆ Q‐4 ・・・世の中は《無価値》だとは けっきょくのところ 言っていない。ことになるにもかかわらずです。
☆ という論点と同じことを言っているのですから
質問者の側も けっきょく《真理》から始まって用語の整理や定義をおこたっていると言われても仕方のない問い方ですが その間隙を縫ってご自身の立ち場やその主張をうったえるというのは これもいかがなものかと思いました。残念ながらニヒリズムについて問い求めるという問題に向き合った思惟であるようには 受け留め得ませんでした。どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。
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