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40歳独身女です。

人間関係でも恋愛でも、自分に酷いことをした相手を許せずに、たとえその後に優しくしてきたり、その前に仲良かった人でも許せずに、関係を断ち切ってしまい、今では友人と呼べる人はいないし、恋人もできません。

悪いことをしたのだから許さなくてよい、自分に合う人はどこかにいて出会うはずだからと考えても、もし出逢わなかったら、孤立したままで悲しいですし、

許して関係を築くべきとしても、心の中では傷や怒りが消えずに我慢したまま付き合うのも不幸ではないかと思います。

極端な例だと、何か犯罪をしてきた相手は許さなくてよいですよね? 自分に辛く惨めな想いをさせた相手は許すべきなのでしょうか?

と考えていくと、人と場合によりけりなのかとは思いますが、どこまでを許して付き合っていき、どこまでを許さずに厳しい姿勢をとるべきなのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

私も同じです! 


なぜ自分の周りには人が少ないのか、
かつては自分には許す心、寛容さが欠けているせいではないかと考えたこともありましたが
今は逆に、寛容すぎて人にうまく線引きできてなかったのでは、と思ってます。
相手に失礼な言動があっても、その場の雰囲気を悪くしたくないという気持ち、
自分の感情を出したくないという気持ちが働き、
言うべき時に言うべきことを言わず、流していたら、相手を増長させてしまって、
気がついたらどんなわがままを言ってもいい人、失礼なことをしてもいい人
として扱われていた苦い辛い経験が、私はあります。
人間、何歳だろうとどんな立場だろうと礼儀正しい人ばかりじゃないんですよね。
ちゃんとした大人であっても、対応によっては、
人に赤ちゃんがえり(?)させてしまうんだなあと思いました。
そして、赤ちゃんがえりしている人の言動は見苦しいものです。
私は基本的に礼儀正しく人に接するのですが、
たまに、どうしても過ぎるわがままをしてくる人やずるい人に対しては、
動物と一緒と思って、びしっとそれを指摘したり図星をさすことにしました。
そうすると不思議なもので、失礼なことをされなくなりました。
ふわふわした人から、ふんわりおっとりした中にもぴりりと毒がある人
と周囲の評価も変わりました。
質問者さまがそういうケースかどうかはわかりませんが、
思い切ってどこかで線引きをしてみたらいかがでしょうか。

許すって気持ちは自然とそういう心持になるものであって、
「許さなくては」と理性でなるものではないのではないでしょうか。
許せるかどうかは、自分がこうむった被害やキズの程度にもよりますが
質問者さまは、自分に、辛く惨めな想いをさせられた、ということなので、
それが「まあいいや」と思えるくらい、相手が真摯に謝罪してくれるとか
償ってくれたり、被害をフォローしてくれるのでなければ、私だったら許せません。
相手は一度、質問者さまをひどい言動で傷つけ、信用をなくしているのだから
また一から信用を築きなおすしかないのではないでしょうか。
私は距離を置いてていいと思います。
もし、相手が関係を築きなおしたい程に大切な相手なら、
勇気を持って、相手の心に切り込んでみることをおすすめします。
それとともに提案なのですが、行動範囲を変えてみてはいかがですか?
長く仕事をして同じところで暮していると意外と行動範囲は決まってくるもの、
新年度になったことだし、新しく人と出会えるところに出入りしてみてはいかがでしょう。
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この回答へのお礼

体験談をお話しいただきありがとうございました。会参考になりました。仰られるように、ときには人に厳しく接する姿勢がなかったと思いますので、これからはピシッと言うときには言うようにしたいと思います。

お礼日時:2014/04/07 19:44

40代女です。



許す必要はないんじゃないですか?
それよりも、今までのようなトラブルにならないように気をつけて、これからの人間関係を良いものにしていった方が幸せになれると思います。

>極端な例だと、何か犯罪をしてきた相手は許さなくてよいですよね? 
>辛く惨めな想いをさせた相手は許すべきなのでしょうか?
私はまさにその極端な例で、子どもの頃は両親から虐待され、大人になってからはパートナー達から暴力をふるわれたりストーカーや恐喝を受けました。

私は相手を許してまた付き合うことはしませんが、同じ被害に合わないために、これから関わる人とうまくやっていくために、今までの自分の人間関係の病理を知ろうとしました。
そうやって自分と未来を変えることに意識を集中させているうちに、だんだんと過去や相手への執着が薄らいでいきました。

それは良かったのですが、ある日、私は古くからの友人達に甘えられていることに気付きました。
恵まれた環境の友人達には、苦労している私は頼もしく思えたからかもしれません。
その甘えは自己中心的な言動になってきたので嫌気がさし、私は距離を置きました。
以前の私なら、両親やパートナー達との関係がそうだったように、不満を持ちながらなかなか離れられず、衝突を繰り返し、最後に大きなトラブルになっていたかもしれません。
そうなる前に自分から去れたのは、過去を客観的に分析できていたからだと思います。
不思議なもので、古い関係を手放したら新しい出会いがあったので、私はそちらに期待しています。

相手を許す基準を考えても、なかなか答は出ないと思います。
それに悩むよりも、まずは苦しみを乗り越えて生き抜いた自分を評価し、大らかな気持ちになって下さい。
そして余裕が出てきたら、未来を良くするために過去の人間関係を検証してみて下さい。

孤独に負けて、違和感を持った相手なのに受け入れてしまう弱さがあると、これからもあなたを利用したり傷つける悪い人につけこまれるかもしれないので、気をつけて下さい。
人に媚びずにどーんと構えられるようになったら、良いご縁が巡ってくると思いますよ。
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この回答へのお礼

自らの体験をお話いただきありがとうございました。「まずは苦しみを乗り越えて生き抜いた自分を評価し、大らかな気持ちになって下さい」、そうですね。今まで卑屈になっていましたが、それだけ苦しんできた自分は強くもあるのだと大きく構えて余裕を持つよことも大切ですね。、

お礼日時:2014/04/05 22:54

恐らくはじめの時点で人を許しすぎてしまうのではないでしょうか。


だから横柄な態度になって許せない事までしてくるのだと思います。

>自分に辛く惨めな想いをさせた相手は許すべきなのでしょうか?
こんな人と付き合ってる人なんていませんよ。
友達が欲しいのに他に友達ができないとか、離れると酷い仕打ちが待ってるから離れられないって人くらいではないでしょうか。
もうちょっと適当な付き合い方ができるといいのだと思います。
お金がなければ生きていけませんが、友達がいないと生きていけないなんて話は聞いた事ありませんから・・
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この回答へのお礼

「恐らくはじめの時点で人を許しすぎてしまう」、さっき考えていたことです。「友達が欲しいのに他に友達ができないとか、離れると酷い仕打ちが待ってる」っていうもの思い当ります。でも、どうしてそうなってしまうのか、普通に対人関係が築けたら良いのに…。不明です。

お礼日時:2014/04/05 18:52

ご両親については、いかがですか?


許したり許されたり、関係は良好ですか?

友人も恋人もいなくて、生きづらさを感じていらっしゃる原因はどこにあると思いますか?
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こんにちは。



許そうとしていないのに、許すことを考えるから、苦しくなるし、その余裕のなさが普通の人を遠ざけ、余裕のない人を引き寄せている、だからますます利用された感がつのってくるしい、という悪循環なのでは、と思いました。

同年代の主婦ですが、質問主さんのような独身の友人知人がいます。確率傾向の問題なので、質問主さんにあてはまるかどうかはわかりませんが、、、

友達が多く恋人も途切れないか結婚が早い人の傾向として、こんなのがあります。
・ひどく利他的である
・損得を考えずまず行動する
・じぶんの利益より、弱者や社会全体の利益を考える
・許す許さないの前に、じぶんがしたいいことは忘れ、他人がしてくれたいいことは覚えている
・許す許さないの前に、じぶんがかけた迷惑は覚えておき、他人から被った迷惑は忘れる

逆をいうと逆だってことじゃないでしょうか、、、

人をどこまで許すかにこだわっている状況、そのものが、問題なのであって、まず、人がどれだけこれまでじぶんを許してくれていたかを考えるとか、これからじぶんがどう人の役にたつかを考えていると、「じぶんが人を許せるか」は、「結果として」あとからついてくる、ってことなんじゃないでしょうか。
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 許すも許さないも、人間はそんなにえらくありません。



 自分を傷つけた人を許すことは、非常に難しいことです。頭では判っていても、なかなかできることではありません。しかし、許すという行為でさえ、実は、意識の奥に多少の横柄さを含んでいるのです。「許すか許さないかは、完全に自分の選択にかかっている。今回は、許してやるから、ありがたく思え」と、人を裁く神にでもなったような気になり、相手を見くだしていると言えなくはありません。
 「他人のあやまちを許せない」という人にかぎって、自分のあやまちには目をつぶり、簡単に許してしまうものです。人間は、一生かかっても、完璧にはなりえません。死ぬまでが修行といえます。つねに自分をかえりみて、反省し、向上しようとつとめていれば、他人を批判する暇などないはずです。
 人を裁くという行為は、神や仏にしかできないことです。許すも許さないも、ありません。そういうものを超越した、新たな境地を切り開きましょう。あなた自身のために。
 自分を傷つけたのも人間ならば、喜びを与えてくれるのも人間です。これまで、怒りで目がくらんで見えていなかった、人の優しさ、温かさに触れることができるでしょう。

 
 どんなに親しい友人や恋人でも、100パーセント信頼するのはよくありません。信頼は98パーセントにとどめておきなさい。

 「相手を100パーセント信頼する」という、一見「美しい」心の裏には、「万が一にもその信頼が裏切られるなどということは、あってはならない。相手は、私の信頼に絶対に応えるべきだ」と押しつけるごう慢さも潜んでいます。
 誰かまわず信頼すればよいというものではなく、誤解を怖れずに言えば、相手によって「この人は、どれくらい信頼できるか」という値踏みをしてもよいのです。「人を信じることは美しく、疑うことはみにくい」という類型的な観念にとらわれなくてもよいのです。信じるか信じないか、ということよりもっと大切なことは、「自分の責任において、自分の頭で判断する」ということです。
 裏切られて憎むくらいなら、はじめから「信頼している」などと気取ったことを言うべきではありません。「たとえ裏切られても、自分の意志で信頼していたのだから、後悔はない」と思えてはじめて、「信頼」と呼べるのです。
 仮に相手が過ちを犯したとしても、「それを許す気持ち」のために残りの2パーセントはとっておきなさい、ということです。
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この回答へのお礼

自分にも悪い部分はあり、人を傷つけることもあるのだから、人を許そうと思ってはみても、なかなか…。

お礼日時:2014/04/05 15:08

心の中では許していないが、表面上は何事もなかった(許した)かのように付き合う


という選択肢はありませんか?
どちらかというと大人って、そんなものかなぁと思ったりもします。
そうして何事もなかったかのように関係が続くうちに、最初は絶対的に許せなかった出来事も少しずつ許せたり、「絶対」の部分が弱くなっていく場合もあります。
そのような表面上だけの付き合いを続けるうちには、相手がそういう態度・行動を取った意味も考えられるようになったりします(自分も冷静になる時間が取れる)
その部分が弱くならず、許せない気持ちがより強くなるのなら、関係を断ち切っても良いのではないでしょうか?
「許せない=関係をすぐ断ち切る」ではお考えの通り、人間関係が続きませんし広がりませんから。
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この回答へのお礼

表面的に付き合えればいいのですけれど、今の私はできません。そうやって表面的にも許していると、ずっと傷つけられることが多いです…。

お礼日時:2014/04/05 15:04

「情けは人の為ならず」という言葉があります。

最近はこれの本来の意味が逆転していて、特に若い人たちの間では「他人に情けをかけることは甘やかすことになるのでよろしくない」という解釈が普及しているそうです。
本来は、「人に情けをかけることは、その人の為だけではなく、自分自身の為でもあるんだよ」という意味です。

今から2000年くらい前のイスラエルで、革命的な教えを説いた人が現れました。その人は、「ベイベー、愛だぜ」と言い出したのです。「右の頬を打たれたらよ、左の頬を差し出してやれよ。上着を奪うなら、下着も与えてやれよ。許そうぜ、愛し合おうぜ」と言い出したのです。それの何が革命的だったのかというと、それまでの預言者(神様の言葉を伝える人)は「神様は怒ってらっしゃるぞ。今に怒りを浴びて、地獄に落とされる」といっていたのです。それが、「神様はお前たちを愛してるんだよ」と言い始めたからです。「お父さんはな、子供たちが悪いことをしたらとても怒るけど、でも子供を愛しているだろ。同じように神様もお前らを愛してるんだよ」と言い出して、彼は神様のことを「アバ(父ちゃん)」と呼びました。

普通の親は、子供を愛しますよね。でもそれは子供がいいことをしてくれるから愛しているのではなくて、子供の存在そのものを無条件に愛しているわけです。愛って、究極的にはそういうものなのです。

もちろんその人は、うっかりそんなことを口にしてしまったがために、どえらい代償を払う羽目になりました。自分を磔にする十字架を背負わされて、処刑場まで晒し者にされたのです。弟子や仲間はみんな彼を裏切って逃げてしまい、彼はひとりで打たれ、バカにされ、罵詈雑言を浴びせられました。愛はあまりに無力だったのです。
ただ彼は、最後の最後まで愛を語り続けて、愛の名の下に死んでしまいました。やっぱり愛は現実の力の前にはあまりにも無力です。
しかし無力なまま死んだ彼は、それがゆえに人々の心に永遠にその姿を焼き付けました。その後、お弟子さんやらいろんな人の前に現れたともいわれますが、以来ずーっと世界中の人々が「愛ってなんですか?赦すってそう簡単にできるもんですか?」と問いかけながら生きているのですよ。

さて、冒頭の言葉に戻りましょうか。情けは人の為ならず。情けをかけることは、人の為だけではなくて、自分の為にもなることだということです。質問者さんはいってみれば今まで人に情けをかけなかったわけです。自分を裏切り、傷つけた奴を許す理由は何もないからです。しかしその結果がどうなったかと思えば、情けは人の為ならずという言葉の意味も考えさせられることになるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

う~ん、よくわかりません。

お礼日時:2014/04/05 14:31

酷いことのラインも人それぞれなので、本当に絶対許せないくらいの人であれば無理に許す必要は全くないと思います。



ただ質問者さんの場合それによって孤独が辛いということなので、ジャッジラインを考え直したほうがいいかもしれないですね。

強すぎるこだわりで自分を苦しめすぎるっていうのは、結局自分に対して酷いことをしているってことですし…

例えば、自分の命が危険に晒されたときにその人が手を差し伸べてきたら…と考えてみて、そいつに助けられるくらいなら死んだほうがマシだと思うか、手を掴みたいと思うか…

後者だと思うなら、今のうちに許してもいいんじゃないかな?と思いますが、どうでしょう。
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この回答へのお礼

なかなか面白い例えですね。でも死にたくないので、誰の手も取ってしまいそうです。

お礼日時:2014/04/05 12:50

>極端な例だと、何か犯罪をしてきた相手は許さなくてよいですよね? 


>自分に辛く惨めな想いをさせた相手は許すべきなのでしょうか?

「罪を憎んで人を憎まず」といいます。
できるだけ許容範囲を広げていくことが貴方の人間力を高めていくことになると思います。
どっかかりとして、
「己の欲せざるところ他人(ひと)に施すこと勿れ」
から実行して下さい。
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この回答へのお礼

「己の欲せざるところ他人(ひと)に施すこと勿れ」って、自分の望まないことを人にはするなってことですか? 自分はそうやって生きていますけど、そうしてくれない人に害を被って許せないのですが・・・

お礼日時:2014/04/05 12:00

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