これまでで一番「情けなかったとき」はいつですか?

何かの職種、身分で官給品の制服はありましたか。
御家人に支給(官給)した黒っぽい羽織は色あせていても古着屋で高く売れた、と聞いたことがあります。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

御質問内容と近似の事例としましては、下記などが浮かびます。



(1)・GoogleBooks『徳川将軍家のブランド戦略:第1巻/安藤優一郎』
「将軍の影武者は六百人いた!?」
http://books.google.co.jp/books?id=mOh7AwAAQBAJ& …

上記「御徒(士)」につき他の記録・資料へのアプローチを試みてみましたが、
あまり芳しくなく辛うじて下記などに辿り着きました。

(2)〇『江戸叢書:12巻.卷の貳/江戸叢書刊行会編/江戸叢書刊行会/1916-1917』
「青標紙 前編」(※大野広城<1788~1841>編)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912969/110
<110/305>(39頁)
一 羽織袴 羽織は足利家の時道服と云物有、其丈短くして胴ばかりに着之、
 此一名を羽織と云、帶をしめずしてはをり懸て着す故の名也、
 昔は常に着せず旅行抔(※など)に風を凌ぐ爲也、今は羽織と云もの禮服の様になれり、
 又役羽織とて役服となれり、遠 御成の節御徒組頭茶縮緬單羽織萌黃紐也、
 御徒には平生共黑縮緬の單に茶紐也、御小人目付御玄關番中の口番、黑絹無紋の袷羽織、
 御小道具組頭には萌黃縮緬の單也、御中間御小人の類黑絹の單也、
 扨(※さて)平生着用の品身分によりて遠慮の品あるべし、尤四季の相當あるなり、
 又綿入に紐丸打單には平打を用ゆ、…(中略)…
 扨(※さて)風割羽織は騎馬以上着用すべきもの也、
 袴の地相何と云ふ定なし、…(以下略)…

(3)〇『古事類苑.官位部21/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』
「官位部六十九 徒頭」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897658/102
<102/120>(1139頁)
〔吏徴別錄 上 布衣以上〕御徒頭○中略 万治三(※1660)年庚子十二月廿八日、
御徒廿組、 合六百人 如(L)例三年に一度宛、羽織可(L)被下旨被(L)仰(=)出之(-)、

(1)では「…、毎年一着ずつ新品が支給されたが、…」と記述されている一方、
(3)では「…如(L)例三年に一度宛、…」とあって、
残念ながら万治三(※1660)年頃の「三年に一度」と「毎年一着」との経緯は不明です。

続きまして、アプローチの過程で下記(4)(5)の記述に出会しました。
断片情報に過ぎず又曖昧ではありますが、「日光山御社参に際し、
諸組の役羽織は新規には渡さず在来の物を用いること、
損じた物は見分の上で渡す」との趣旨から想像しますと、
下記の「諸組」がどの範囲までを指すか定かではありませんが、徒士に限らず、
複数の職分の役人に対し、元々役羽織が支給されていたとも読み取れます。

(4)〇『古事類苑.服飾部4/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』
「服飾部十三 羽織」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897858/31
<31/102>
〔享保集成絲綸錄 十四〕享保十二未(※1727)年八月
日光山御社參被(L)遊付而左之書付渡之
一諸組役羽織等新規ニ相渡不(L)申候間、在來相用ひ可(L)申候、
 損じ候分は、見分之上相渡し可(L)申候、
  但御徒以下行列之分は、合羽脚半相渡可(L)申事、

(5)〇『国史大系.第13巻/経済雑誌社編/経済雑誌社/明治37.1』
「有德院殿御實紀 卷廿五 享保十二年八月」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991120/453
<453・454/641>(894頁下段~896頁上段)
○十八日日光山供奉の輩を命ぜらる。…をはじめ。布衣以下の諸士…
…來年御參の時。諸組の羽織有來りしを。そのまゝ用ひそこなひしばかりは下さるべし。
徒士より下行列のもの合羽脚半を下さるべし。…(「日記」※江戸幕府日記)

最後に「御徒(士)」以外の役人に関しましては、
下記(6)など如何でしょうか?

(6)〇『東京市史外編.第四 天下祭/東京市役所/昭14.3』
「第四章 山王祭及び神田祭」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1239856/93
<93/146>(158・159頁)
參考
大正初年まで生存した町奉行與力の古老佐久間長敬の手錄した雜稿に、
年寄同心出役之覺の内に、神田祭禮見廻町内固メ出役及び祭禮見分天王祭禮出役の二項があつて、
解説は附してないが、祭時年寄同心が檢分を行つたことは明かである。
他に山王祭神警出役といふ項があり、これには與力同心順番に奉行から命ぜられて、
祭禮行列の前後を固める、與力は拾貳人の供を具して、禮服著用騎馬にて出で、
同心は官より支給の禮服(羽織帷子袴)著用で出役する、
通行中妨害するものを防ぐのが任務であると記してある。
外に三天王祭出役もあつてこれは同心の任務であり、矢張途中の妨害を防ぐを目的とする。
佐久間氏手錄は幕末まで實行したことを心覺えに記したものである。

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

いつも丁寧なご回答、真にありがとうございます。

生地がよいので染め直しできるから、古着屋で高く売れたという話を確かめたくて質問しましたが、ご回答で十分納得できました。
やはり、御家人層には羽織などの官給品があり、そして、職種・役職によって色で識別していたのですね。
数多くの資料(江戸叢書・古事類苑・国史大系・東京市史外編)に当たって下さったのですね。
感謝の気持ちでいっぱいです。
大変お手数をお掛けしてしまって、申し訳ございません。

「山王祭及び神田祭」はとても面白かったです。
他の資料もゆっくり読んでみるつもりです。

お礼日時:2014/07/03 21:55

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