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日本語を勉強中の中国人です。人は良いところと悪いところを両方持っていると思っています。結局、この人は良い人なのか、悪い人なのか、それぞれどれぐらいのパーセントを占めることによって自分のなかで結論を出すのでしょうか。

以前、ある人に「あなたはいい人ですか」と聞いたら、あなたにとってのいい人はどんな人なのかと聞き返されたことがあります。

また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (7件)

私に取って良い人とは


法律は勿論モラルも守り親切心のある人です。
その上、趣味も合えば言う事ありませんが
そんな人は滅多に居ません。

質問文はへたな日本人より自然です。
質問文では難しいでしょうが
後、そこはかとないユーモアや味が加われば最強だと思います。
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この回答へのお礼

ご丁寧に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。質問文へのアドバイスにも感謝いたします。頑張ります。

お礼日時:2014/08/10 11:05

sobatya様、こんにちは。




「善悪」というのは、よく聞くようですが、

「良悪」とは、初耳でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。あなたはいい人ですね、あなたはいい子ですねと言うのですけど、あなたは善人ですね、あなたは善子ですねとも日常で言うのでしょうか。そういう意味での「いい」で、極人間味のある日常的な言葉のつもりでした。善人はかえって皮肉のように聞こえませんか。

お礼日時:2014/08/10 13:09

 こんばんは、夜分に失礼します。


>ある人に「あなたはいい人ですか」と聞いたら、あなたにとってのいい人はどんな人なのかと聞き返されたことがあります
 これは普通の考え方です。別の質問でもお話ししましたが、言葉は「定義する内容」を必要とします。貴方が聴いた「いい人」の「いい(良い)」がどの様な内容が具体的に相手に伝わっていなければ、会話の内容もすれ違うだけになります。
 一言お断りしておきますが、これは決して人種差別やヘイトスピーチの意味で言っているのでありません。日本語でも英語でも他のフランス語やドイツ語でも「言葉の意味内容」を伝えることが、言葉を遣うとの意味であって、この辺が中国の方には少し理解しづらいのかもしれません。
 どうも何か中国の感覚がそのままに海外でも通用するかのような感覚をお持ちであるならば、そうした部分から考え直していかなければ、外国語を学ぶことの本意とは離れてしまうともいえます。

 さて本題に戻りますが、「人には良いところもあれば悪いところもある」、これは至極当然の話ですね?。けれどもそれを数値的な基準に従って区分することもおかしな話です。良いところもあれば悪いところもあるとのことですから、それが何対何の比率で判断できるかなどとの基準を設けることは無意味な話になります。
 そして日本にも「痘痕も靨(あばたもえくぼ)」などの諺があり、これが意味するのは、恋に陥っている時には如何に相手が不細工な顔の造作であっても、一向に気にならないことの比喩として使われます。
 同じ様なニュアンスの言葉は中国にもあり、かつて鄧小平が用いた「黒い猫でも白い猫でも、鼠を獲る猫が良い猫だ」との言葉と同じです。これは「一口に猫といってもいろいろな性格の猫がいる」との一般論を提示した後で、更に「黒い猫もいれば白い猫もいる」として条件を少しずつ限定させていき、その中で「良い猫とはどの様な猫を指すのか」との説明をしている形です。

 言葉には必ず意味がある、こうした「言葉の本質に関する部分」をもう少し重点的に学んでいただきたいと存じます。
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この回答へのお礼

ご丁寧に教えていただきありがとうございます。参考にさせていただきます。

お礼日時:2014/08/10 12:58

こんばんは、淡雪さん。




>人は良いところと悪いところを両方持っていると思っています。
:あなたはそう思うということですが、それは正しいのですか。
あなたにとって美しい部分と醜い部分、あるいは、
あなたにとって好ましい部分と嫌な部分、
とは区別できているのでしょうか。



>あなたにとってのいい人はどんな人なのか
:と訊かれたとき、あなたはどのように答えましたか。


誰かが【わたしにとって】【(都合の)悪いこと】をしたり言ったり
することはあると思いますが、だからといって
【その人自体】が【悪い】ということにはなりません。


【ひと】に【あいだ】と書いて【にんげん】と呼びます。
己との間を誤ることがあるし、他人との間を誤ることもある、
さらに、自尊心があるなら過ちに気づくこともできる、
というそれだけでしょう。
自分が【(都合が)悪かった】場合もありますし、
相手が【(都合が)悪かった】場合もありますし、
誰も悪くなかった、誰のせいでもなかった、という場合もあります。







わたしがあなたにとって【(都合が)悪い】ことをしたからといって
あなたがわたしに謝罪を求めることができなし、
あなたがわたしにとって【(都合が)悪い】ことを言ったからといって
わたしがあなたに懺悔を強要することもできないのと同じでしょうね。


>それぞれどれぐらいのパーセントを占めることによって
>自分のなかで結論を出すのでしょうか。
:あなたは人を裁くことができるほど偉いのですか。


それから、通常「パーセント」ではなく「パーセンテージ」といいます。
それでは。



                                    
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自分の話を理解してくれた、自分を受け止めてくれた、困っている時に助けてくれた、自分の悩みを理解して、いいアドバイスをしてくれた、といった時に、「ああ、いい人だなあ」と僕は感じます。

逆に、相手に対してそういう態度をとった時、「いい人ですね」と言われたことがあります。
「いい人ですか?」と聞かれて、「そうです」と答える人は、かえって信用できません。
パーセンテージが決まっているわけではなく、二十歳を過ぎたら、法律違反をしない、と誓っている人がほとんどですので、悪い部分は、どんどん小さくなっていきます。悪い部分といい部分は、状況によって、大きさが変わるものです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。少し違うように感じましたが、参考にさせていただきます。

お礼日時:2014/08/10 12:53

「良い人なのか、悪い人なのか、それぞれどれぐらいのパーセントを占めることによって自分のなかで結論を出すのでしょうか。



という質問に対して?と思ったのですが、パーセンテージを決める「良い」「悪い」の指標は何なのか?というご質問というように解釈しました。

パーセンテージでいえば、たとえばアンケートのように条件があってそれに○か×かをつけていけば当然「いい部分」が多ければその人は「いい人」逆もまた同じいう結論がでます。

また「この人は」という主体が分からいのですが…自分が直接対峙する相手を見たときの相手への評価。それとも第三者が対峙する相手を見たときの評価。というようにいずれも考えられます。

「人は良いところと悪いところを両方持っている」というのは、量的なパーセンテージで分けられるものではなく、質的なものです。そしてその性質は、相手の長所短所と対峙する人間それぞれが決めることでしょう。その決定は、関係性によりけりです。

たとえば仕事場では深い心の交流が要らない。表面的にうまくやっていけばよいという考えの人なら、仕事の遂行において協力し合える関係を求めるでしょう。
落ち込んでいるとき、下心あっても慰めをもらったとき、その人はいい人に映る。
誰かに恋心を抱いているとき、誰かがあいつは辞めろと言われても「アバタもエクボです。
生涯のパートナーに求めるのは「真にいい人」です。上滑りの関係で必要とされる親切よりも真の信頼関係が第一条件です。
だから人それぞれ、関係性や環境によって良い人、悪い人の条件は違ってきます。

他者が、とある「いい人」について抱いたものは印象でしかない場合もあります。
実際「悪い部分」が他者に影響を与える方が多いことが「いい人」の隠された部分であるのなら、他者が勝手に抱いた「いい人」のイメージは覆ります(親密になる関係においてはもろに影響を受ける)。

つまり「いい人」というのは都合がよい人であり、誰にとってもいい人である場合、もしかしたら「悪い人」なのかもしれません。

犯罪者の近隣住民へのインタビューではよく「いい人だと思った」「あんなにいい人が信じられない」という典型的な発言が放送されますよね。
近所とは表面的なあたりさわりのない付き合いをしていたということが垣間見えます。
これは加害者と被害者が親密な関係ゆえ、事件が起こった場合のことですが。

私個人としては、自称「自分はいい人」だと嘘ぶく人の方が信じられます。逆に「あの人はいい人だ」と言われる人は表面的な付き合いの方が多いのではないでしょうか。実際身近にいる人間を観察したうえでの私の考えですが。
偽善者は数え切れませんが、偽悪者なんてみたことがない。そのくらい「善」に対して欺瞞を抱く人間が多いかと思います。

最初の印象でパーセンテージが高い場合でも、付き合いを深めたらその割合が逆転するということも当然、あります。その逆もまたしかり。

つまり「いい人と悪い人」という評価は偏見と言い換えることもできます。それが差別につながっていく。

ですから「いい人」になる、またはそう見られるというのは「事」によって違ってきます。

性善説を取る場合「だれしもが良いところがあり、悪いところは後天的なものだ」という考えです。性悪説の場合「人間は生きていく過程において悪いところを直し、良い人間になっていく。それが成長である」という考えだと私なりに思っています。

前者の場合なら、人類皆兄弟の感覚でしょうし、ある意味仕合せな人です。後者なら傷つくことも大いにあるけれど、客観的に人を見れます。

でももしかしたら、相対的に対峙する相手については、意外とパーセンテージで分けてしまっているのかもしれません。人生は思い込みがすべて、ですから(笑)
まあそれはレッテルともいえますが、相手の意外性をどれだけ受け入れるかによって、評価もまた左右される。
自己の長所、短所を自分で評価する場合はパーセントで仕切れるものではなく、混沌とした自分という存在における自我を感じるはずです。それはその人の成長過程や、環境、社会との関係性において変化していくものだと思っています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。参考にさせていただきます。難しいですね。申し訳ないのですが、いい人はなぜ誰かにっとての都合がいい人になったのかよく理解できませんでした。

お礼日時:2014/08/10 12:50

ケチな人ほど、他人をケチだと批判します。


良い人ほど、自己批判します‥‥というか自己批判
できない人が悪に走ります。
自己評価は、その人の価値より、自分への甘さや、
他人への寛容さを表していると言えるでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。参考になりました。申し訳ないのですが、最後の一文は少し理解できませんでした。自己評価は自己批判のことでしょうか。そうでしたら、他人とは関係なく、自分への厳しさだとこのように捉えております。

お礼日時:2014/08/10 12:39

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