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先にコミュニケーションにおける断絶ついて質問をしたものです。この問いから議論を派生させてみたいと思います。一言でいえば、人を怒らせる行為はコミュニケーションの一環と見なしてよいか?というものです。

そもそもコミュニケーションにおける断絶とは、多くの場合、怒りを伴います。予期せずして相手を怒らせてしまった場合、通常、やり取りはここで頓挫し、断絶のきっかけになることもあります。ところが、あらかじめ、人を怒らせるつもりであるというときは、まったく別です。人を怒らせることもコミュニケーションの一端であり、予測済みです。

私はその好例として、一つのお笑いを取り上げてみたいと思います。少し前に、お笑い芸人らが「人を怒らせる方法」というコントを連続でしていました。その中心的な位置にいた碑文谷潤という架空の人物です。彼は学者という役柄ですので、理屈をこねます。それによれば、コミュニケーションには二通りあり、気持ちのいいものだけではなく、怒らせるという裏の側面があるのだそうです。一般の人は、前者のやり方ばかりを考え、後者の可能性を有効活用していない、というのです。以下は公式サイトです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/angry/



おそらく見たことがない方も多いでしょうが、「人を怒らせる方法」で検索すれば、Youtubeに動画があります。基本的にお笑いですが、面白い問題を提起しているように思うのです。すなわち、あらかじめ相手が怒るということが織り込み済みであるのなら、怒らせてしまったとしても、そこでコミュニケーションが断絶することはありません。その先を続けていくことができます。すると、怒りを織り込んだ上でコミュニケーション術を考えるのなら、断絶を根本的に解消できるのではないか?とも思われてくるのです。

こうした発想は、一つの詭弁でしょうか? お笑いならではの冗談にすぎないでしょうか。確かにコントの中には悪質なものがあります。しかし、お笑いということがご不満であるのなら、別の例を挙げることもできます。花魁の手練手管のように、わざと相手を怒らせて、自らの望む方向に誘導するという会話術は昔からあったといえるでしょう。また高度な交渉技術においては、わざと相手を挑発し、ミスを誘うこともあるでしょう。スポーツの試合では、しばしばそうしたことがあります。

このようにコントというフィクションの世界のみならず、広がりが他にあるとした上で、次のように、問いをたてさせてください。
(1)あなたの考えるコミュニケーションの定義とは何ですか?
(2)上記の定義に照らすと、相手が怒る、相手を怒こらせるという行為はどのように位置づけられますか?
(3)怒りが織り込み済みであるという、挑発行為を伴うコミュニケーション術は、新たな可能性の模索だといえますか? それとも、単なる詭弁ですか?

様々な意見があると思いますので、私自身の手では「コミュニケーション」という語の射程を敢えて定義しておきません。この問いの核心は(1)をどのように答えるかにかかっていますが、単に「情報交換、transmission」という字義的な意味だけではなく、人との交流全般を示すニュアンスと受けとって、ご自由に展開していただけたらと考えます。

なお、少しお礼が遅れるかもしれませんし、簡略的にコメントさせていただくことがあるかと思います。あらかじめお詫びしておきます。

A 回答 (4件)

難しい質問で多くを要求しているのに、自分は遅れたり簡略なコメントを主張し、まさに”怒りを産み出す”ような、コミュニケーションだな・・・と思いました。



(1)コミュニケーション=自分と相手の関係をどうとらえるか
(2)一つの手段
(3)新たな可能性の模索でもなく、詭弁でもなく、一つの手段

この回答への補足

失礼、誤字がありました。

>感知×→関知

です。私の質問の意図を汲んでおこたえてくださった訳ではないな、という意味です。

補足日時:2012/03/11 03:04
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>まさに”怒りを産み出す”ような、コミュニケーションだな・・・と思いました。

承っておきます。人によっては、一時間以内に四千字近いお返事をくれる方もいるので、そうした方を想定した上で、私はそれはできませんよ、と述べておいたのでした。

その他については、質問にお応えにならず、コミュニケーションはあくまでコミュニケーションであって、感知しないというお答えと読みました。おそらく難しかったのでしょう。

お礼日時:2012/03/11 03:01

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7351808.htmlでの#8で回答させていただいた者です。
前回での定義を少し変えてみます。

コミュニケーションを、「双方向的な【知的な】情報伝達で、【意図的に】繋がり合おうとする【情動】が背景にある場合。」と考えています。

さて、前回のお礼欄で、
>>>
>「「相手を知っている私」を知っている私」・・・」と無限の自己言及に代表される不完全性定理へとスパイラル

そのスパイラルが起きる前の段階で、私は歯車を止められるようです。いや言い換えますと、おっしゃっている意味がその後、理解できませんでした。どうやらご回答の理屈ですと、そのスパイラルがすべての仮想を成立させるための条件になっているようですが、もう少し、その詳細を教えていただけないでしょうか。

最後に、コミュニケーションには二通りあり、知と情動があって、知の方は分断する性質があるというご指摘は、その通りだと感じました。しかし、

>「知」の外部にあると「知」自身が認識しているわけです。

これの意味が分かりませんでした。先のスパイラルと関係ありそうですが。

<<<
と、ご指摘いただきましたが、今回の質問そのものが、上述の意味を知る上での取っ掛かりになるのではないでしょうか?
上記認識にて、少しばかり食い違う点があるので、先に修正させていただきます。

>>>
コミュニケーションには二通りあり、知と情動があって、知の方は分断する性質がある
<<<
とは考えておりません。冒頭述べましたように、「知・情・意」を含む総合的なやりとりです。「知」のみでのやり取りは、機械同士が【状報】伝達・通信するのと同等と考えます。
※ここではあえて「情報」ではなく「状報」という用語を用います。
http://www32.ocn.ne.jp/~env_info_math/yamasita-d …

しかしながら、コミュニケーション(ないし情報伝達)において、最終的に共有されることは、言語的・表在的な知的側面で「共有され、汲み取られ、残りやすい」ものであり、背景にある個々の「意志・情・思い」は、相互に共有化されるとき、すなわち共通認識として明文化されるときに排除されやすいものとなるでしょう。それ故に、私の先の回答を「コミュニケーションには二通りあり、知と情動があって」と誤認されるのだと思います。

さて、「わざと相手を怒らせる」というのは、「相手の反応を予測する(先を読む)」ということであり、「想像・空想にて相手の近未来を知的に把握する」ということでもあるでしょう。相手の「情動」を知的に絡め取ることができる場合にのみ、(知的・意図的な)「わざと」が可能になります。

先読み、深読みの典型的なものとして「将棋」などに代表されるゲームがあります。「将棋」の場合、相手の年齢や技量に応じて、「わざと」負けることも時に為されます。また、賭博として禁止されている賭け将棋などでは、最初「わざと」負けることで、大金をせしめるといったことも行われていたようです。
(先の回答での「無限の自己言及へ繋がる」とは「際限のない先読み・深読み」に相当します。)

また「わざと」のつもりが、「想定外」へと繋がったり、「想定外」だったことが結果的に「わざと」のように思われたりすることもあり得るでしょう。
すなわち、知的な予測が裏切られることをも(知的に)想定しなければなりません。いや、わざと「想定しない」ことを選択する場合もあるでしょう。

「何をどう選択するのか?」の背景には、知的な思索だけではなく、自身との繋がりの強い他者への思いが影響しているかもしれませんし、自身の情が背景に隠されているかもしれません。逆説的に、それらが全くなければ、コミュニケーションを行おうとする情動・意志すら生まれ得ないかも知れません。

この回答への補足

【締めるにあたって】
みなさま、どうもありがとうございました。早仕舞いですが、今回の問いは、あまり上質でなかったと思います。悪い冗談という指摘がありましたが、やはりそうかな、と私自身感じました。私自身が、挑発されるとやはり嫌な気持ちになるからです。そうした中、おつきあいくださり、感謝いたします。

補足日時:2012/03/12 00:06
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この回答へのお礼

ありがとうございます。全部が分かったとはいいがたいのですが、以下の一節が特に重要と思われました。

>コミュニケーション(ないし情報伝達)において、最終的に共有されることは、言語的・表在的な知的側面で「共有され、汲み取られ、残りやすい」ものであり、背景にある個々の「意志・情・思い」は、相互に共有化されるとき、すなわち共通認識として明文化されるときに排除されやすいものとなるでしょう。

私は以上の文章を次のように理解しました。伝達されるものには二通りあり、それらは、
・情動
・情報
であるが、情動の方は捨象されてしまう。とはいえ、情動は確固として存在するものであり、忘れてはならないーーこう考えると、情動の一つとして怒りを考慮に入れることは、至極当然のことである、とも言えそうです。上記の理解でよろしいとしたら、私としては、新しい枠組みが見えてきました。

私としては、喜びや楽しさという積極的な情動が考慮に入れられることは当然だと思っていました。その一方、怒りという否定的な感情を織り込むということは、珍しいことのように思われたのでした。しかし争いごとや闘争をもコミュニケーションの一環として捉えるのなら、その動機に怒りがあり、これを考慮に入れることは当たり前すぎるかもしれませんね。

お礼日時:2012/03/11 06:07

1,お互いに情報や記号などを交換し合うこと、と定義します。



2,相手が怒るのはコミュの結果です。
 コミュとは別の問題です。

3,怒ると人間の本性が出ます。
 さすれば、本性を交換し合うコミュが可能となります。
 インタビューアーの中には、わざと怒らせて、本性を
 引きだそうとする人がいるという話です。
 だから、詭弁ではありません。
 新たな可能性でもありません。旧知の手法です。
 


「お金がなくても持てる理想とは?」
で、答えようと思ったところ、締め切られてしまいました。
それで、この場を借りて一言。

”この数値から判断すると、お住まいは持ち家でしょうね”
  ↑
はい、そうです。しかし、その前は1DKの公団住宅住まいで
月3万の家賃でした。
その時は、年80万の支出で暮らしていました。

それから。
私は、昔はヒドイ貧乏を経験して、それでこうなってしまった
のですが、ヒドイ貧乏でも耐えられたのは、夢があり理想が
あったからです。
それがなかったらくじけていたでしょう。
お金が無ければ理想や夢を持てない、というのは
間違っていると思います。
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この回答へのお礼

いつも、ありがとうございます。

>インタビューアーの中には、わざと怒らせて、本性を引きだそうとする人がいるという話です。

土門拳が谷崎を怒らせて写真を撮った話が有名ですね。しかし、あまり一般的なコミュニケーションの方法ではないと思います。少なくても私にしてみると、突然、侮辱されると、困ったな、と思ってしまいます。

>ヒドイ貧乏でも耐えられたのは、夢があり理想があったからです。

そうでしたか。どういう夢があったのか、伺えるものなら、伺ってみたいものです。

お礼日時:2012/03/11 08:27

前回はグローバル批判へ無理矢理ロジックを展開していって


失敗してしまいました。

コミュニケーションは迷宮へのアクセスだろうと思います。

ちぐはぐなやりとりは、どんな効果をもたらすかという続きになるかもしれませんが。

三谷幸喜監督の「12人の優しい日本人」では随所にそれがでてきます。
そして、どこにたどりつくかもわからない迷宮に迷い込んでいく様がユーモラス
に描かれているのですが。
例えば、有罪か無罪かという問いに、優柔不断な主婦の陪審員が「ムウザイ」と
答えにならない、子供のいたずらのような返答をする。
それを聞いていた側がいらっとする場面があります。
無罪か有罪か聞いているのに「ムウザイ」なんて答えはありえないじゃないかと。
コミュニケーションがいつもロジカルに明確な答えを出すとは限らない、という
効果には、この人はいったい何を考えているんだとか、そのように答える訳は何
なのだという、やりとりの中の言葉には直接には現れていない幅のある関心をも
たせています。そしてそんなちぐはぐなやりとりが、12人のアイデンティティ
をしだいに鮮やかに映し出していくということに成功しています。つまり、
「こんな感じの人なのね」という愛着のようなものが見ている側に生まれます。

曲解というのは、「ライムギ畑」のように思春期的な見方でとらえると何だか
息苦しくて、切ないものにもなったり。
こんな風に見方を変えてみると、なんだか楽しいものにもなるようです。

どちらにおいても、それはやっぱり迷宮への入り口のように思えます。

(3)に関しては、ちょっと悪趣味な冗談のようにしか思えませんが。
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この回答へのお礼

ハートマインドさん、どうもありがとうございます。前回は半端なところで締めてしまい、失礼いたしました。今回の質問は、改めて考えてみると、悪趣味ではあったな、と反省を込めて思うところです。最初は良いアイディアだと思ったのですが、どうもそうでもないな、とあとで思われてきました。

さて、三谷幸喜のおなし、面白く読みました。私も彼の間合いが、好きであったりします。冗談なのか、本気なのか分からない、というあたりが人物の描き方に厚みを出しているように思います。三谷幸喜で有名と言えば、田村正和の古畑任三郎ですが、この演出もまた、そういうキャラクターと言えると思います。嫌で身勝手な上司なのか。それとも、きちんとものを考えているのか。どちらでもない、中間の人間だと私は思います。まさに、ムウザイ的な存在と言ったらよいでしょうか。結局、現実の人間は、多分にムウザイ的であるように思います。それを白黒つけるのは、見た人間であって、当人ではない訳です。

他人と接することは、迷宮ではあると思います。しかし、それをめんどくさがらず、楽しめたら良いな、と私は思います。

お礼日時:2012/03/11 22:29

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