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勝負に礼儀は必要か?

僕はいつも思う。
例えば甲子園で試合が始まるときに「お願いします」と
お互い頭を下げる。
一見すがすがしいようだが、いったい彼らは、これから何を
するつもりでいるのだろうか?
人並みの青春を棒にふってまで野球に賭けた、その成果を
だす大事な勝負ではないのか?
それなのに「お願いします」などと敵に媚びて何事なのか!

マンガ「空手バカ一代」で、敵(南波5段)の門下生が、この
マンガの主人公の飛鳥拳に、悪たれをついたときのことだ。

敵の門下生 「あんたは礼儀ができてない、宮本武蔵を見習え!」
飛鳥拳 「武蔵とて、若き日は勝つことを第一義として考えた。」
「斬られて死に、ケンカでのされて、何の剣ぞ!なんの空手ぞ!」

飛鳥拳のいうように、勝つことが一番大事なのは言うまでもないが、
日本人は礼儀を重んじるあまり、勝敗を軽く考えているような気が
するのですが、どうでしょうか?
そしてだいたい勝負に礼儀など必要なのでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

りんさん。

こんばんわ。


>勝負に礼儀は必要か?
:この、タイトル、だけに対する回答ですが、
(つまり質問文とは関連付けませんが)

勝負に礼儀(manners)は不要だと思います。
「勝負」に必要なのは
規則(rule)だけでよいと思います。
自分の持っている力を出し切ること、
だけ、に、集中し、
(あくまで規則内で)それ以外の雑念を、
つい、忘れてしまうのが、当然で、必要かと。
「勝負」ですから。


ちなみに喧嘩には礼儀が必要かもしれない、
ような気がします。




質問文中で、例として使われている
スポーツについては、
気が向いたらまた何かしゃべりにきます。
とりあえず思ったこと書きました。



それにしても。

たとえ負けたとしても、
頑張ったのだからよろしい、
頑張ったことに価値がある、
というようなノイズ(?)には、

うんざりします。




今、娘と息子がオセロの「勝負」してます。
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日本の伝統なら、礼儀は必要とされています。


日本の伝統では、勝負の勝ち負けは二の次だと考えるからです。
一番大事なのは、自分を鍛え、己にかつ生涯の精神修行の一つだからです。
ですから、両者お互い尊敬しあうことが大事だと考えます。
今でも剣道や相撲は、勝っても喜びを見せてはならないし、ガッツポーズをしてはなりません。
現在は国際化のもとで、日本の伝統が薄くなりましたから、ただ勝てばいいという勝利至上主義的側面がどんどんでてきました。
柔道は、礼儀はうるさいですが、国際大会で、ガッツポーズしてもよくなりました。
野球は、半分伝統が残っているということでしょう。
球場に入るとき出るときは球場に対して一礼をします。
相手に対しても礼をします。これは本来の伝統の名残です。
ですから、野球は指導者によります。勝利至上主義を前面にだすのか、勝利と同時に精神修行の場と捉えるのか。
少なくとも負けても相手に悪態をつく人は日本には少ないと思います。
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>勝負に礼儀は必要か?


ルールの範囲の外(上)には、何にも要りません。

剣道でも柔道でも相撲でも、それらの武道が発生した頃は、みんな殺し合いでした。
礼儀もヘッタクレもありません。
原始剣術の時代より少し時代が進むと、それらの術を教える師匠とか先生とかいう人が出てきました。
自分は勝負しないで、弟子からお金を取って、それで食べて行くという人達です。
これらの人は、自分は痛い目をしたくない、しかし気分よく儲けたいという気持ちがあります。
実技ばかり教えていては、すぐに弟子に遅れを取るようになりますから、実技以外のことを教えなければ格好がつかなくなります。
そこで出てきたのが、それぞれの武道の理論(奥義、虎の巻)と礼儀作法です。
先生も弟子から敬ってもらわないとやっていけませんから、「師を敬え」なんてことが礼儀作法の第一番目に入ってきます。
武道もどんどん理屈ばり、形式ばってきます。先生も大層立派に見えるようになりました。
学問でも何でもそうです。難しそうな言葉を使って、人々をケムに巻くような手合いは、
本当の実力に?がつきます。(*^^*)。
ということで、礼儀作法という奴は先生のご都合でできたものですから、勝負とは関係がありません。

荒木又右衛門の「鍵屋の辻の決闘」を読んでいると、本当の勝負とはこういうことなんだなということがよくわかります。
日本の一般社会、スポーツや武道の世界を見ると、プレーできない先生の数が多いこと多いこと。
これじゃあかんと思います。
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勝負としてのスポーツの目的は何だろうか、と考えてみます。


その名のとおり、力量・技量で相手に勝つこと、だというのがまず浮かびますし、それに違いないでしょう。
では、「力量・技量で相手に勝つこと」の目的は何でしょうか。
最も重要なのは、(観客ともども)闘争本能を昇華的に発散させることにより、カタルシス効果を得るためだと思います。

ご存知でもありましょうが、カタルシスとは、浄化・昇華作用といったような意味で、本能(この場合は闘争本能)を、代償的行為によって発散させるものです。
闘争行為そのものではなく、代償的行為とする必要があるのは、やはり、人間が本能だけでは生きられないような仕組みに生まれついている(生まれついてしまった)せいではないか、と思います。
極端な例を挙げれば、相手を死に至らしめて勝負に勝ったとしても、決して満足できるような脳の仕組みには、基本的になっていないのだろうということです。

ただ勝つだけではなく、力量・技量を、あくまで(野暮ったい言葉ですが)人間的に発揮する必要があるわけです。
ところで、、「力量・技量で相手に勝つこと」の目的として、人間の能力の限界に挑むことによって、人間の可能性を追求し、それを(観客ともども)追体験、あるいは実感する。
ということもあるはずです。
【存分に】能力を発揮するためには要らぬ規制はないほうが良いわけで、それが一種のまどろっこしさにつながるのだと思います。
「要らぬ規制」とはルールのことですが、これを遵守することは、先にあげたような、もうひとつ重要な目的のためには欠かせないものでしょう。
このルールに従って勝負すること(あるいはそれを宣言すること)が、礼儀と呼ばれ、それは、本能を超越して人間として闘うことを再確認させる方法なのだと思われます。
    
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>勝負に礼儀など必要なのでしょうか?


基本的に必要だとは私も思いません。勝つためには勝つために考えられるあらゆることをしてもよいし、しなくてもよいことは当然しないで良いとそのひとが考えるのは単純な常識です。礼儀が勝つために障害になるとその人が考えたら、はしょってしまう事態だってありうるでしょう。これがひとつの前提です。

もうひとつの前提は、勝負というものが単なる勝負ではなく、人間同士が、人間社会の中で行うという形式を取る場合、勝負の結果は当事者同士のみで決定されるものではなく、その周囲の人間社会が結果を認めることではじめて”正式な”勝負の結果が定まるという性格をおびることです。そして、この前提は多くの場合上記のシンプルな前提よりも重視されます。公式試合とかいうものはすべてこういうものになっています。

勝つために有利になると考えられることも、それをすること、あるいは勝つためにそれをしないことによって逆に負けと判定されるのなら、それはもはや”正式に”勝つためには有害になります。人間社会でなされる多くの競技、試合はすべてこういった種類のもの、詳細なルールや陰湿なタブー、そして更に膨大なマナーと呼ばれるものなどでがんじがらめに縛られ、それを厳しく監視する専門人員をはじめ、マスコミ記者や多くの人間たちが眺めるなかできわめて注意深く遂行されるのが普通です。それがために多くの場合勝負はあじけない人工的なものになり、勝負のありさまを見に来たのか、TVゲームのような虚構を見に来たのかわからないという状況もあることは事実でしょう。真の勝負をみてみたいと私はかねがね考えていますが、ま、無理なことかもしれません。

ご参考まで。
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<喧嘩や戦争>と<試合>は種類が違う。



奴隷制度も、勝ったものが負けたものの自由を奪い支配するので、礼儀なんてもんは存在しない。
勝った側が負けた側を家畜のように使おうと、命を奪おうと、相手を自分と同じ人とはみなしていないので、他の人の奴隷を殺しても、器物損壊程度の賠償で済んだわけです。

現代のペットを殺した人は、器物損壊とされますよね。


試合ってのは技を競う芸術のようなもので、芸術を披露するにおいて、礼儀は必要なわけです。
喧嘩や人殺しじゃなく芸術作品なので。

試合ってのはルールがありますよね。
例えば殴り合いのボクシングでも、相手をそのまま殴ると危険なので、ダメージを緩和するグローブをつけて、相手に致命的ダメージを与えず技を繰り出すということをしますよね。
ボクサーがグローブ無しに人を殴れば死にます。

だから舞踏家は相手を致死させる技能を持っているので、絶対に喧嘩しちゃいけないんです。
殺してしまうから。

股間蹴飛ばしたら、相手は悶絶して試合にならないので、急所は駄目ってルールがあるわけです。

それ以外に締め技で、一定時間以上ほどくことができなければ、有効 とすることで、相手が窒息死しないようにルールを設けているわけです。
あるいは骨折させるようなことをしては駄目 とか。

喧嘩や殺人目的じゃなくて、試合は持っている技を競い合うので、相手に対する礼儀は必用なんです。
こちらも礼を尽くすので、あなたも礼を尽くして全力で戦ってくださいね、と技を競い合うので。


武士道ってあるじゃないですか。
武士の情けとかって結局 人としての礼儀みたいなもの。
強いものが弱いものに情けをかけるというのは 人としての礼。

強いものが弱いものに礼を尽くさない集団は、弱いものを存在させない あるいは 自由を与えないってことになり、歪んだ社会になる。
ともすれば、やられた側が自由を求め支配する側を倒してしまう。
強いものと弱いものが共存できない殺戮の世界になる。
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一流ほど自分の至らなさと弱点を把握し、格下の相手からも学ぼうとしますから自然と礼儀を大切にするのだと思います。



また、勝つことを第一義にするから、自らを低いところにおいて油断無きよう戒める。
その戒めが周りから見れば礼儀正しさのように見えるということもあると思います。
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勝ちさえすれば良いと言う状況は、たった一つしかない。

それは、相手を殺すことです。それ以外は、勝ちさえすれば良いと言う訳には行きません。
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必要です。

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無条件の殺し合いなら礼儀は不要だが(礼儀を守ったために


死んだんじゃ浮かばれない)、「勝負」といっても、ルールを
守った「競技」であるなら、礼儀は『ルールを守るぞ』という
確認として重要である。
なぜなら、「ルールの範囲で戦う」といっても、ルールには
書いていないがルールの精神には反するという行為は無数に
あるからだ。

「ルールに従って戦う」というのと、「ルール違反をとられ
ない範囲で戦う」というのの間には、かなりの開きがある。
スポーツであれば、いわゆる「スポーツマンシップに則り」
というものであるし、将棋においても、僕の得意な口三味線
(「あ、この手じゃ、逆に攻められるとヤバいかぁ」とか
独り言を言って、相手の攻めを誘ってハメ手に陥れる)は、
大いに非難される行為なのだ。
スポーツ等で礼儀を重んじられるのは、日本だけの事ではない。
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