プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

コミュニケーションとは、一般的には、他人をよく知り、仲良くなることを目的としていると言えます。しかし、私はコミュニケーションにおいて、常々、一つの矛盾を感じています。それは、話し合えば話し合うほど、お互いの溝が言語によって明晰になり、その溝の乗り越えがたさが浮かび上がっていくというものです。

仮に全く同じ考えの人がいるのであれば、溝など生まれないかもしれません。だが、人間とは、それぞれが異なるものです。全く同じ人間などいないと言い切った方が、現実的であるでしょう。しかし、そうであるとするのなら、コミュニケーションとは、いくら友好関係を築くという目標を掲げていたにせよ、その一方で、双方の相違 を確認するという作業を伴っているのです。そしてコミュニケーションをすればするほど、相違点が明らかになり、乗り越えがたい溝が、より露わになってきます。結局、最後は断絶に向かっていきます。

断絶、とは言い過ぎかもしれません。理屈の上では、溝の形が明らかになれば、溝を埋める方策について議論することができる、と言いうるからです。しかし現実には、多くの人が、相手に対して、自分の意見に同意するか・否か、を突きつけるものです。そして同意しないと述べるのであれば、失望の意を露にします。感受性が違った、方向性が違った、センスが違う--いろいろな言い回しがありますが、言わんとすることはただ一つです。「あなたは私とは違う」。
しかし「あなたは私と違う」など、全く当然のことで、コミュニケーションをとる前から分かりきっていることです。すると、わざわざコミュニケーションという労をとって確認するだけ、くたびれ損の骨折り儲けです。これほど、ばからしいことはありません。そして、この考え方に即せば、コミュニケーションを多くとった人ほど、周囲との断絶がより露わになって、他人より数倍も孤独になるということが言えるでしょう。となれば、コミュニケーションなどとらない方が、利口なのではないか?という疑問が浮かびます。実際、人との交流は腹六分目くらいで止めておけ、という言葉もあります。

さて、ここで質問です。
(1)「あなたは私と違う」ということが明らかになった後、単なる「断絶の確認」ではなく、別の発想が働き、有益な展開になることが、ごく稀にせよ、あるのでしょうか?
(2)(1)についてYesであるとするのなら、どのような要因によるとお考えですか? その可能性のある相手はどのようにして見分けますか?
(3)コミュニケーションとは究極的には、どのような行為なのでしょうか?

※なおこれは、私個人の相談ではなく、コミュニケーション一般について思想的に考えようとする問いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (15件中1~10件)

そもそもコミュニケーションとは道具の一つでしょう。


道具によって何かが発見されてそれがどうにもならないからと言って、道具であるコミュニケーションを責めるのは筋が違うんじゃないでしょうか。
自動車が光の速度を超えられないからと言って直列4気筒ガソリンエンジンが無意味な機械というわけではないでしょう。

貴方が問題にしているのはコミュニケーションですか?
それとも他者との間の溝ですか?
何が目的で何が手段でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。面白いお考えですが、明瞭ではないと思います。言葉はコミュニケーションを行うための道具にすぎない、だからコミュニケーションがうまくいかないからといって言葉を責めるのは筋違いである、とおっしゃるのなら意味は通ります。しかしコミュニケーションは道具にすぎないとおっしゃることは難しいでしょう。

お礼日時:2012/03/09 16:13

(1)きっとあると思います。


(2)もともとの目的が他者性のとりこみだから、そのまんまが答えですが、
 断絶という経験もまた同じ、だけど見分け方は見当もつきません。
(3)やっぱり一義目的は他者性をとりこむなんだろうけど、
 仲良しになるも快楽的副産物としてありでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ハートマインドさん、ありがとうございます。「他者性の取り込み」ですか。簡潔なご回答なので、想像力を働かせて展開することをお許しください。

私は「取り込み」という表現から、自分では生成できない栄養素を、食事によって補っているようなイメージを想起しました。なるほど、自分一人では内向的になってしまう人も入れば、極端にハイテンションで傲慢になってしまう人もいるものです。それを抑えてくれるには、他人が必要だったりするものです。

人それぞれ、必要な「他者」は異なるでしょう。あるAという人は、Bという人にとっては薬になるが、別のCという人には毒にもなってしまう可能性もあります。他者性の取り込みには、毒と栄養の二つがあるということです。

え?なんですって? 見分け方は見当もつかない?
いえいえ、毒と薬の区別は大切なことですので、見分けなくっちゃ!

お礼日時:2012/03/09 18:10

>コミュニケーションとは、一般的には、他人をよく知り、仲良くなることを目的としていると言えます。



違います。この前提が間違っています。

「お互いの意志疎通を図る」
「互いの意図を出来る限り相手に理解して貰える様に尽力する」
「相手の意図を出来る限り誤解・曲解なく理解する為に尽力する」

のがコミュニケーションであり、「一般的には、……、仲良くなること」が目的ではありません。

互いを正しく理解し合った結果、「仲良くなる」事もありますが、「相容れない」事もあります。

しかし、「前者は『コミュニケーションが成立した・上手くいった』で、後者は『コミュニケーションが成立しなかった・上手くいかなかった』なのだ」と考えるなら、それは誤りです。

貴方の書かれている事柄(しかし、私はコミュニケーションにおいて~~~という疑問が浮かびます)は、実は

「コミュニケーション不全」
「コミュニケーション不足」
「人生経験不足」
「思考の視野狭窄」

こそが原因で起こりがちな発想で、

「他者と適切なコミュニケーションが取れない人」
「思い込みが激しい人」

が陥る思考です。


さて、貴方の質問についてですが、

(1)「ごく稀」どころか、「しばしばあり得る」事です。

(2)所謂「コミュニケーション能力・技術」よりも、「一個人の性格や、その人が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を最大限活かす意志があるか否か」ですかね。

「頭が悪いのに、『自分は賢い』と思っている人」
「他人より楽して、他人より良い思いをして、他人を見下し馬鹿にしたい人」
「努力不足なのに、望んだ結果を得られない事に不平不満を持つ人」
「すぐ『どうせ……しても無駄・骨折り損』と、逃げを打つ人」
「協調性が無い人」
「物事を客観的に判断したり理解したりする事が出来ない人」
「思考が偏狭な・視野狭窄な人」

等は、「自分(の存在、考え、意見、立場、目的等)を全肯定されるのだけが望み」で「どんなに正しくても、此方の話を聞くつもりがない」人なので、意志疎通は難しいですね。
話の持って行き方が全く無い訳ではありませんが。

(3)先に書いた通り、

「お互いの意志疎通を図る」
「互いの意図を出来る限り相手に理解して貰える様に尽力する」
「相手の意図を出来る限り誤解・曲解なく理解する為に尽力する」

事だと思います。

この回答への補足

失礼、目的語が抜けていました。

>心理的なうがたれようと、うがたれまいと、感知しない、というご回答だと読みました。

正しくは、

>心理的な溝がうがたれようと、うがたれまいと、感知しない、というご回答だと読みました。

補足日時:2012/03/09 19:23
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほど、コミュニケーションは仲良くなることが目的ではない、したがって、コミュニケーションの結果、心理的なうがたれようと、うがたれまいと、感知しない、というご回答だと読みました。一言では、仲良しクラブを作りたい連中は未熟であるとおっしゃりたいようです。

では、成熟していると自負するあなたにとってコミュニケーションとは何なのか。相手が役に立つ能力を潜在的に有しており、自分のために働いてくれたら、それでよいというお考えのようです。例えば以下の一節。

>所謂「コミュニケーション能力・技術」よりも、「一個人の性格や、その人が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を最大限活かす意志があるか否か」ですかね。

私は「活かす意志があるか」という一節に注目しましたが、これは要するに、あなたの役に立とうという意志があるかということですね。自分の役に立てばよい。そうでなければ、そのように使役するとも続く一節で述べていると読めました。なかなか覇王然としたお考えです。勝手な憶測ですが、どうやらあなたは、人を使うお立場にいらっしゃるようですね。コミュニケーションといったにせよ、上司と部下のやり取りを念頭に置いてらっしゃるのでしょう。
しかし私の質問は、 もっと幅広いものであって、友情、恋愛、愛情など、仕事以外の関係をも含んでいます。というわけで、あなたのお話は仕事の場合を考えるにあたっての参考にさせていただくことにしましょう。

お礼日時:2012/03/09 19:21

それはその通りです。



貴方と同じ考えを。木村拓哉主演のドラマ「CHANGE」で同じような事を言っていました。


木村拓哉の役は元教師なのですが、その中で、生徒が言い争いをしたらしいです。そして先生としてはまずは「話し合おう」と言う。そしてその先にあるのは、「分かり合える」と言うかと思いきや、「自分と他人は違う人間なんだ」と分かると言いました。

同じ人間だからと思うから、「アイツだけ抜け駆けして」とか「アイツは非常識だ」など不満が起こる。でも自分と相手は違う人間なのだからそれは区別して考えないといけない。

違う人間だからこそ、「どのような言葉を使えば相手に伝わるか」などを気にしないといけない。





と言うようなことを言っていましたが、全部貴方の言った主張と同じです。



(1)「あなたは私と違う」ということが明らかになった後、単なる「断絶の確認」ではなく、別の発想が働き、有益な展開になることが、ごく稀にせよ、あるのでしょうか?



ずいぶん前、兄の結婚式の際、その妻の母親がとてつもなく拘りがある人だったので破談になりそうになりました。例えば、結納は本来、嫁を物として扱い、その物を夫の家に結納する事だから、家の娘はモノじゃないので断わるとはっきり言われ、その瞬間とても悪い関係になりました。

確かに結納は本来そう言うものでしたが、今は習慣的に行われている何も意味の成さないもので、そんな言い方をされるのは非常に腹立たしい。他にもかなりもめるような事がありました。当初は相手も同じ日本人と思って「非常識な人だ」と母親は思っていました。(悪いですがその人は本当に非常識です)

しかし、このまま兄夫婦の仲を両者の親によって嫌な感じで結婚式を迎えるのも良く無いと言うのと、その辺から「この人と自分は違う人間だ」と気付き始め、それに気付いてからは自分の中の「常識」は捨てて、相手のフィートに立って考えるようになりました。



そう言う割り切りのお陰で、今では母親と兄嫁の母親の関係は良いものになっています。


「違う」と言う事が分かる事は、コミュニケーションをする上で重要です。そして違う事が分かれば、その対策が出来るので、コミュニュケーションを円滑にする事に役立つでしょう。


>全く当然のことで、コミュニケーションをとる前から分かりきっていることです。すると、わざわざコ
>ミュニケーションという労をとって確認するだけ

何が違うかはコミニュケーションをとらないと分かりません。
それと対応によって埋められる壁と埋められない壁があります。埋められない壁の人とは付き合うのをあきらめたほうが良いでしょうが、そうでない場合は埋められるなら埋めたほうが良い。かもしれない。

それもコミュニケーションをしないと分からない事です(貴方が、相手の眼を見ただけで、その人の人格や隠された人間性を見抜く強力な審美眼の持ち主であるならば、そのような面倒は不要です。そう言う人は世の中に稀にいると思います)





(3)コミュニケーションとは究極的には、どのような行為なのでしょうか?


究極を言うと、効率的、かつ非暴力的に社会を構築するのに必要な唯一の手段。でしょうね。
だから、こんなに普及しました。

しかしそれが、相手と仲良くする手段に用いられるとは限りません。非暴力的に侵略(個人の場合も該当する)する手段にも持ちいります。

この回答への補足

【締めるにあたって】
今回の問いは、コミュニケーションという語について、様々なイメージがあるということに驚かされるという結果になりました。コミュニケーションとは、
・情報伝達行為にすぎない(transmissionの意味)
・コミュニティーを築く(語源学の影響か。No 14のお礼欄参照)
が、大体の皆さんのご意見だったでしょうか。私としては後者の意味をふまえた上で、これを噛み砕いて「仲良くなる」と表現したのでした。
最初にコミュニケーションという語を定義してから始めればよかったかもしれませんが、辞書の中身を並べ立てては、興もそがれるでしょう。衒学的になることを恐れて、省略してしまいました。 これが逆に、不明瞭な結果を招いてしまったかもしれません。お詫びいたします。

しかし、ここの問いで聞いているのは、コミュニケーションとは何か?というだけではありません。コミュニケーションが他者との共通点communを探る行為であるといったにせよ、その反面、共通ではない点が当然ながら発生します。そのときに、どのようにして生産的な関係を築くことができるのか?と問うているのです。いろいろなご見解がありました。
・コミュニケーションをするまで違いも分からないから、結果的に断絶になったとしても、仕方ないことである。
・コミュニケーションとは自らを知る為に行うものなので、関係が破綻しても、自己を知るという意味でのメリットがある。
これらは、言ってみれば、「仕方のないことじゃない?」というご回答です。だが、私としては、コミュニケーションが相手と結びつくことを目的としていながら、結びつけないという結果に陥ってしまうという矛盾を重く考えていただきたかったのでした。この点に触れてくださったという意味で、この回答をBAに選びました。
断絶を認識したなら、逆に開き直って、相手の領分を侵さない形で交流ができる、というご意見だと思います。キムタクがドラマで既に語っていたことだそうで、私は後で見てみたいと思います。さぞ熱いのでしょう。

ちょっと早じまいすぎるかもしれません。私から話をふっておいて、閉じてしまうとは失礼なことで、ハートマインドさん、ごめんなさい。また再訪問してくださるかもしれないというCiaopolpoさん、ごめんなさい。 しかし、この問いそのものを、また練り直して別の問いとして出直した方が、建設的かとも思ったのです。

皆様、ご参加、ありがとうございました。

補足日時:2012/03/10 17:53
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。そうですか、キムタクが。いや、念のために言いますと、私は知りませんでした。しかし 我が意を得たりといってよいと思います。今度機会があったら、観てみたいと思います。

>「違う」と言う事が分かる事は、コミュニケーションをする上で重要です。そして違う事が分かれば、その対策が出来るので、コミュニュケーションを円滑にする事に役立つでしょう。

おっしゃる通りですね。私もこの人は合わないな、と思った相手ほどうまくいくということがあります。全く異なる人間と認識するので、何を言われても全く気にならないし、相手の行動パターンを超然と見越す余裕さえ持てることがあります。

>それと対応によって埋められる壁と埋められない壁があります。埋められない壁の人とは付き合うのをあきらめたほうが良いでしょうが、そうでない場合は埋められるなら埋めたほうが良い。かもしれない。

それもコミュニケーションをしないと分からない事です(貴方が、相手の眼を見ただけで、その人の人格や隠された人間性を見抜く強力な審美眼の持ち主であるならば、そのような面倒は不要です。そう言う人は世の中に稀にいると思います)

審美眼ときましたか。以前、美についての問いをあげていたことがありますが、それを知ってのことなのでしょうか ・・・(笑)。私自身は、経験上、人間には類型があるような気がしています。厳密に何タイプあるなどと体系化している訳ではありません。しかし、ちょっとした癖から判断し、「ひょっとすると、これはまずい相手だな」と思うと、まずくなる前に、逃げることにしています。動物的防衛本能というところでしょうか。

>究極を言うと、効率的、かつ非暴力的に社会を構築するのに必要な唯一の手段。でしょうね。
だから、こんなに普及しました。

しかしそれが、相手と仲良くする手段に用いられるとは限りません。非暴力的に侵略(個人の場合も該当する)する手段にも持ちいります。

なるほど、「手段」とおっしゃる。No1の方の見方を補ってくださったように思います。社会を構築するという目的があって、その一手段としてコミュニケーションがあるとお考えである訳です。
しかし非暴力的に侵略するとは、どういう意味ですか? 侵略という行為そのものが既に暴力的なので、これが非暴力的という意味が、今ひとつつかめませんが。物理的な暴力を振るわずに、という意味でしょうか。しかし、そうであるとすれば、言葉の力を少し軽く観ていることにならないでしょうか。言葉でグサリとさすこともできると思うのですが。

ともあれ、どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/03/09 19:39

コミュニケーションてのは、お互いに情報などを


交換し合うことでしょう。

そして、コミュニケーションの目的は他人を知り
仲良くなることだ、ということではないですか。

しかし、コミュニケーションの目的をそう断言
することには疑問を感じます。
事実、個人主義を採る欧米人は、人は理解し合えないのは当然だから
紛争に備えて、ルールを定めておこう、と考える
そうです。

ま、それはともかく。

(1)「あなたは私と違う」ということが明らかになった後、単なる「断絶の確認」ではなく、別の発想が働き、有益な展開になることが、ごく稀にせよ、あるのでしょうか?
   ↑
外国人とつきあうと、こういうことがあります。
外国人だと違いがクローズアップされるからでしょうか。

例えば中国人です。
靖国で論争したのですが、中国人は戦死した人を
祭ったり拝んだりなどしないそうです。
それで、日本人の靖国参拝は、中国にたいする嫌がらせだと
感じるんだそうです。
これじゃ話し合っても無駄。
突っぱねるか無視するか、の解決方法が見いだせます。

又、中国人の学者が指摘していましたが。
靖国を非難するんじゃなくて、日本みたいに
そういう施設を造って参拝することをやれば、日本人のような
団結力が醸成できるだろう、と建設的な考えが・・。

ODAなどもらっても、中国人はどうせ計算尽くでやっている
に違いない、と考えますので、廃止、という有益な・・。



(2)(1)についてYesであるとするのなら、どのような要因によるとお考えですか? その可能性のある相手はどのようにして見分けますか?
   ↑
風土や歴史の違いでしょう。それは日本人同士でも程度の差はあれど
同じだと思います。
日本人同士だと難しいかもですね。


(3)コミュニケーションとは究極的には、どのような行為なのでしょうか?
   ↑
人間は、組織で動くしかない動物です。
その組織形成の大前提として、コミュニケーションは必須でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。人は理解し合えないから、ルールを決めておく、ですか。確かに社会の秩序はそうやって保たれていますね。しかし、ヘキュウさんの中国人蔑視には、何とも暗澹たるものを感じます。違いを数え上げれば切りはない。しかし、違っていて当然、というべきでしょう。だが話の流れからすれば、ヘキュウさんは相手が異質であると認識しても、友好関係を築こうという方向であるように斟酌しておくべきでしょうか。中国人の学者のご友人もいらっしゃるのでしょう。違いを認識して驚く一方で、他方、つながれる側面もお感じなのでしょう。どうぞ、後者の方も強調して論じていただきたいものです。

お礼日時:2012/03/09 20:41

私は、長文や長話が苦手です。

言っているうちに途中から論点がずれて
しまうのです。簡潔に言い過ぎると舌足らずになりそうで心配でもあるのですが
矛盾していますかね。

質問者の矛盾点に関しては多少異論がありますが、それは触れないようにします。

(1) 「あなたは私と違う」=「断絶の確認」が理解出来ませんが、思考や嗜好は
     違うのが当然で断絶ではなく「断絶の距離の確認」がコミュニケーションの
     大切な部分だと思います。違いの原因が感性や経験の違いか知識の違いか
     見る角度や表現の違いかそれを擦り合わせるのが大切な行動です。
     それは、有益な展開として歓迎致します。

(2) (1)で要因も回答済みでしょうかね。質問者の言う「断絶」の距離を修正しょうと
    考える方は可能性のある相手と考えます。
    「リンゴを語る時に外皮の色を言うか果肉の色を言うか」が誤解や断絶の確認なら
    美味しいや匂いが良いはコミュニケーションで断絶の距離が埋まります。

(3) コミュニケーションは相手を理解するもので拒否は判断がするものです。
    思考を語るのがコミュニケーションです。それ以上でもそれ以下でもありません。
    アイコンタクト、表情や態度、行動はコミュニケーションの技法ですが
    言葉にはかないません。

コミュニケーションの前提が違っている様に感じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。長文が苦手とおっしゃるので手短に書きますが、「擦り合せ」ができればそれにこしたことがないのです。しかし、それができないこともあると言えませんか。私の意図しているのは、リンゴのどこを問題にしているかという単純な問題ではありません。同じものを前にしていて、根本的に考え方が違う場合にどうするか、ということです。私に遠慮なさらなくて結構ですよ。

お礼日時:2012/03/09 20:48

No.3です。



先の回答に対するお礼等から、

貴方が盛大な勘違いをなさっている様なので、補足します。

>では、成熟していると自負するあなたにとってコミュニケーションとは何なのか。

この後の、

>相手が役に立つ能力を潜在的に有しており、自分のために働いてくれたら、それでよいというお考えのようです。

これが、「私の回答に対する、壮大な勘違い」です。
(或いは「貴方にとってのコミュニケーションの『真なる』目的」ですか)

>所謂「コミュニケーション能力・技術」よりも、「一個人の性格や、その人が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を最大限活かす意志があるか否か」ですかね。

この部分は、

「『相手との意思疎通を図る際に』一個人の……最大限生かす意志が『一個人本人・その人本人に』あるか否か」

という意味ですよ。

つまり、

「他者との意思疎通を図る際に、自分自身の性格、自分自身が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を、最大限活かす努力を自分に課す」

という事です。最初から、こう書けば誤解が生じなかったですかね。


>これは要するに、あなたの役に立とうという意志があるかということですね。
>自分の役に立てばよい。そうでなければ、そのように使役するとも続く一節で述べていると読めました。
>なかなか覇王然としたお考えです。

これが「勘違い」「読み違い」なのです。

「自分の持てるもの・自分の中にあるものを最大限使って、相手との意思疎通を図り、共通理解を目指す」

この位噛み砕いて書けば、ご理解頂けますか。

>しかし私の質問は、 もっと幅広いものであって、友情、恋愛、愛情など、仕事以外
の関係をも含んでいます。

そうでしょう。それも踏まえて回答しました。

「他者との意思疎通を図る際に、自分自身の性格、自分自身が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を、最大限活かす努力を自分に課す」

「自分の持てるもの・自分の中にあるものを最大限使って、相手との意思疎通を図り、共通理解を目指す」

という、「他者との意思疎通が上手く行く為の、自分自身の中の要因」を、

貴方が『勝手に』「自分が利用価値があると思う、他者の能力」と読み違えた為に、伝わらなかった様ですが。

友情、恋愛、愛情、仕事のいずれでも、

「相手との意思疎通を図り、共通理解に至る為には、誠心誠意、全力で、自分の持てる全てを以って相手に向き合い続ける」

のは、当たり前の事です。だから、

>あなたのお話は仕事の場合を考えるにあたっての参考にさせていただくことにしましょう

「貴方の勝手な解釈(誤解・曲解)」のものではなく、

「他者との意思疎通を図る際に、自分自身の性格、自分自身が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を、最大限活かす努力を自分に課す」

「自分の持てるもの・自分の中にあるものを最大限使って、相手との意思疎通を図り、共通理解を目指す」


「相手との意思疎通を図り、共通理解に至る為には、誠心誠意、全力で、自分の持てる全てを以って相手に向き合い続ける」

という、「私の回答の真意」の方を参考になさって下さい。

「貴方の様に」、「人は他者を利用する事ばかり考えている」という発想では、友情、恋愛、愛情と同じく「仕事も」上手く行きませんよ。



貴方自身の事を憶測すれば、貴方こそが、

「所詮、人は他者を利用する事しか考えていない」
「だから、他人とコミュニケーションを取るのなんて無駄な事なのだ」

という「歪んだ固定観念」をお持ちなのではないですか。

だから、私の文章の「何処にも書いていない」ものを貴方の頭の中で追加して、

「『相手が』役に立つ能力を潜在的に有しており、『自分のために』働いてくれたら、それでよいというお考え」

と思ったのだろうと推察しました。




>「一個人の性格や、その人が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を最大限活かす意志があるか否か」ですかね。

ここで「自分(自身)の・自分(自身)が」ではなく、「一個人の・その人が」と表現したのは、

「自分自身の『特異な・特別な・個人的な』要因ではなく、『一般的な』要因」

という意味合いを含ませる為です。

「その人が積み重ねてきた……最大限生かす意志が『その人に』あるか否か」

と書くと、くどい表現になるかと思い省略したのですが、

「貴方と意思疎通を図る」には、「略さず、全て書く」事が大事だった様です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

補足回答をありがとうございます。

>「人は他者を利用する事ばかり考えている」という発想では、友情、恋愛、愛情と同じく「仕事も」上手く行きませんよ。

そうでしょうね。失礼ながら、仕事にせよ、なんであれ、私はあなたがうまくいっていない方だろうと思っていました。有り体に言うと、参考にしますという言葉は、お礼欄である以上、体裁を整えるために書いておいただけです。誤解と強調なさるので、結構だな、と感じました。さて、本題。

>その人が積み重ねてきた……最大限生かす意志が『その人に』あるか否か

要するに、双方が相手に自分を理解してもらいたいと望み、そう努めるということでしょう。しかし、あなたはコミュニケーションとは友好関係を築くことではないとおっしゃいましたね。だとすれば、そもそもコミュニケーションしたいという気も起きないと私には思えます。こういう意味で、私はあなたのおっしゃることに中身があるように感じられないのです。

お礼日時:2012/03/10 04:50

(1)と(2)について


「違う」というのは当然だとしても「何が違うのか」について明確に理解することは大切なことです。それを「大切なことだと思わない」とうそぶくにせよ、少なくとも「知ろうとした」という行為を否定することはできません。その行為によって「未知」のものが「既知」へと変化します。
ただし、「完全に既知なるもの」には到達不可能です。「「相手を知っている私」を知っている私」・・・」と無限の自己言及に代表される不完全性定理へとスパイラルしていくからです。

「人智」なるものは、そういった「無限」という概念をも扱いうるがゆえ、現実から乖離した仮想的なものへと容易に移りゆきます。「共感する」や「共通認識を持つ」ということも、本質的には「仮想的」なるものかもしれません。

しかしながら、少なくとも具体的な事物ではない「共感」とか「共通認識」とかいった概念については、(仮想的に)知的に共有可能です。でなければ、そういった「概念」すら生じなかったでしょう。知的に共有可能なことについては、そのように「仮想的な」範疇を含んでいるからこそ成立しうると「知っている」のであれば、生じうる問題を相互に回避したり、上手く扱うことができるかも知れません。そういったことは「ごく希に」ではなく、日常茶飯事に皆が行っている事でもあるでしょう。

ようするに「絶対的に共有しあえない」からこそ、「共有し合いたい」といった願望(思い、情)が芽生えうるのだと思います。あるいは「助けたい」とか「して欲しい」とか「分かち合いたい」とかいった情動が生じうる相手(そうして自己、さらに両者の関係)が必要不可欠な要因といえるでしょう。

(3)について
上述のように、コミュニケーションは「知」(言語)のみで成立するものではありません。仰るように「知」は事物を明確化し分断します。相互に求めようとする心の働き(情・意)も大切な要因です。心を単純に「知・情・意」と分けて理解しようとすることも「知」による分断のひとつですが、そのように分断されて理解したつもりになっている「情」や「意」といった概念ですら、「知」の外部にあると「知」自身が認識しているわけです。
そうして、それらはバラバラに分断されているわけではなく、統一的に「わたし」とか「こころ」とかを形作っているわけです。
「違い」を知的・幻想的に認識することで「境界」が生じますが、本質的には、ありとあらゆるものは、何らかの関連性を持って繋がり合っています。完全に「孤立」するものはあり得ません。
「相互に繋がり合っている」ということは、静的には成立し得ません。「関連性という繋がり」は一方的であれ、双方向的であれ、なんらかの動的な流れが付随します。
そういった「流れ」を「意図的」に行うのかどうか(意図的と捉えるのかどうか)によって、それを「コミュニケーション」と呼ぶのかどうかが決まるのかも知れません。

この回答への補足

誤字がありました。申し訳ありません。

>最後に、コミュニケーションには二通りあり、知と情動があって【地】の方は分断する性質があるというご指摘は、その通りだと感じました。

括弧でくくった箇所ですが、「地」ではなく、「知」です。

補足日時:2012/03/10 06:29
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。動機という重要な点について触れてくださいました。仮に相手と結びつきたいという強い同期があるのなら、結果がどうであれ、そうする他なかった、と開き直るべき問題かも知れません。

とはいえ、私は「完全に知っている」という段階は、他者に対して訪れることはないと考えています。なぜなら、完全に知っているのであれば、それはもう、「他」というくくりではないからです。したがって、

>「「相手を知っている私」を知っている私」・・・」と無限の自己言及に代表される不完全性定理へとスパイラル

そのスパイラルが起きる前の段階で、私は歯車を止められるようです。いや言い換えますと、おっしゃっている意味がその後、理解できませんでした。どうやらご回答の理屈ですと、そのスパイラルがすべての仮想を成立させるための条件になっているようですが、もう少し、その詳細を教えていただけないでしょうか。

最後に、コミュニケーションには二通りあり、知と情動があって、地の方は分断する性質があるというご指摘は、その通りだと感じました。しかし、

>「知」の外部にあると「知」自身が認識しているわけです。

これの意味が分かりませんでした。先のスパイラルと関係ありそうですが。

お礼日時:2012/03/10 05:01

>自分一人では内向的、傲慢になる



あれ?どちらも他者とのやりとりがなければ、そういう風に感じられない気がする
んだけど。
直接指摘されるなり、相手が外向的で思いやりのある人だったら、それに比べて
と感じるわけだから。

毒と薬の例えは面白いと思ったけど
毒は確かに体に良くないですが、今の自分には毒なのかもと知ることができるし、
何故毒の様に感じたのかとか、もしかしたら自分も誰かにとって毒になってるの
かもとなんて考えるきっかけにもなるわけで。
断絶の経験もそんな意味合いがあるんじゃないでしょうか。
相手を知って、自分を知るみたいな。
少なくとも、もし全く違いがないと、なにも新しい発見はないということ
にならないでしょうか。
恋愛などの距離がつめた関係の場合程、自分の嫌な面ばかり感じてしまいますから
エネルギーを温存とのかねあいで距離間のペース配分は必要なんだろうけど

昔入院してた時、カロリーを消費させる為に本を読むのがあんがい有効だと思った
ことがありました。体の内側に嵐を起こさせるにも、物理的な栄養が必要なんで
しょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

>あれ?どちらも他者とのやりとりがなければ、そういう風に感じられない気がするんだけど。

どうもハートマインドさんのご回答を読んでいると、全くの先入観なしに、相手と何が起きるかという予測をいっさいすることもなく、とにかく交際してみると書いているように読めるのです。食べてみるまでは何も分からない。そういうことでしょうか?

しかし食べ物の比喩を展開すると、人間はもう少し、慎重ではありませんか。毒キノコとマッシュルームの区別は、見ればつくでしょう。そして、今日は少し酸っぱい果物が食べたいなと思えば、手当り次第に周囲のものを口に放り込むのではなく、イチゴとか、パイナップルなどを選んで口に入れる訳です。

とにかく口に入れてみる、ということはないのじゃないでしょうか?

お礼日時:2012/03/10 05:16

二ヶ月ほど前に、貴方の街、パリを訪ねました。



夫と娘でおいしい食事をとっていると、隣に座っていた男性のカップルが、フランス訛りの英語で(!?)ニューヨークにいたときに会った、”馬鹿なアメリカ人の女達の話”を延々と続けています。

これは、何かの罠かも知れないと思ったけれど、ルーブルのピラミッドを望むレストランだし、まぁ、客質はそんなに悪くないと確信して、思い切って斜め向かいに座っている彼を、じっと見つめて、にっこり笑ってみました。

”あぁ、もしかして、アメリカの人ですか、これは、悪い話を聞かれたな”、”ユダヤ人のジョークを飛ばしていたら、ユダヤ人と喧嘩になったことがあるんだよ~”などと話を変え、アフリカの貧しい国で育った生い立ちやら、なにやらかにやら、夫や娘も交えて、三十分ほど話して、またそれぞれのテーブルでの会話に移りました。

お隣では、”ダンサー達のほとんどノイローゼの体の鍛錬の様子”の話題で(英語で)盛り上がっていました。なぜうちの娘がパートタイムのバレリーナだとわかったか、不思議でしたが、もう、彼らと会話をする気もなかったので、そのままになりました。

これが、貴方の街の、見知らぬ人と話し始める会話のきっかけだとしたら、精神的に疲れることでしょう。こういう質問をなさりたくもなるというものです。

これは3)の答えでして、

a)見知らぬ人と、袖すりあうも他生の縁、と言葉を交し合うこと、或いは、食事やパーティの間の暇つぶし。

b)親しい人との関係を深めてゆくための、ほとんど唯一の手段。

c)団体同士で、自分のところに有利になるようにすすめてゆく交渉手段。

2)としては、私の場合には、自分に必要な情報を得るために、お話をすることが多いので、情報が得られなければ、他の人にあたってみる、ということになります。

1)ご質問の趣旨とは違うかもしれませんが、私は日本の外交について、少し疑問に感じていたことがあったので、ここで、書いてみます。

例えば、アメリカですと、欧米ではイギリス、中東ではサウジアラビアが同盟国です。ですから、何かことを起こすときには、必ず同意を得ています。911の時にもサウジアラビアがNO,といえばイラクへの侵攻はなかったでしょう。一応同盟国を作っておいて、他の国々とも親しくしてゆこう、という姿勢です。

日本で鳩山さんが中国よりの外交を始めた時に、それまでの同盟国であったアメリカと距離を置いて、中国の歓心をかおうとしていたように思うのです。中国はそれをうまくかわしたので、結局アメリカとも中国とも、離れ離れになってしまいました。それが、狙いだったのかもしれませんが、本来なら、アメリカと良い関係を築いておいて、一方、中国とも親しくしてゆくのが、普通ではないか、と疑問に思ったものです。

なぜなら、コミュニケーションをとる目的は最終的には、利益を得ることだからです。

すみません、途中ですが、でかける時間になりました。
またあとで、再訪できるかもしれません。とりあえず、今日はこれまで。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

楽しいお話をありがとうございます。そうですか、クリスマスの休暇をパリでお過ごしになった。ルーヴルですか。美術館には私もよく足を運びます。ボードレールはセーヌ川を挟んで、ちょうどあの向かい側にすんでいたのですが(つまりオルセーの横)、そういう意味もあって、私はよく行く場所です。バレエということなら、ガルニエ宮などにもいらっしゃったのでしょうね。

おっしゃるお話は、実に日常茶飯事です。ここは見知らぬ人がいたら、面白そうだから話しかけてみるという都市です。お返しにと思って雑談を披露する次第ですが、例えば、私は人と連れ立って歩いていると、「カップルなのか?何語で話しているのか?結婚する気はあるのか?」など、ちょっと普通では聞かれないことを見知らぬ人から聞かれたりします。また別では、一度、クリスマス直前でふられたという見知らぬ方が、路上で私に絡んできて、「東洋人の異性を紹介してくれ」といってきたことがあったものです。三十分ほど話を聞いて慰めて、やって終わりました。大都市とはいえ、下町的な要素が残っているような印象です。

さて、なぜ、私がこの質問をしたのか?と間接的に問うてらっしゃるようです。いえ、私はパリの特性は、むしろ気楽だと思うのです。パリくらいオープンだと、一度失敗しても次がある訳ですから、かなり楽に話すことができると思います。しかし、閉鎖社会ですと、一度失敗すると、大変な事態を招くことがあります。私が念頭に置いているのは、むしろ、後者の日本の場合です。

>コミュニケーションをとる目的は最終的には、利益を得ることだからです。

これはおっしゃる通りですね。その場限りの楽しみ、長期的にみた経済的な利益など、「利益」の中身は様々あります。どのような利益があるかについては、すでにabcと書いてくださった通りです。ただなんにせよ、不毛な関係になるのなら、逃げておきたい訳です。問題はこの「利益」をどのように設定するか、にかかっていますね。過剰な期待をすると、大体はよいことになりません。おそらく鳩山さんは、中国側に足下を見られたのでしょう。

お礼日時:2012/03/10 06:07

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す