マンガでよめる痔のこと・薬のこと

私は昔から哲学的なことに興味が有り、よく考えていました。
そして最近は、人間はとても精巧な機械で、全ての思考や反応、感情でさえも諸条件から機械的に算出されるのではないかと思うようになりました。(また、それと同じように世の中の全てが機械的に成り立っているのではないかとも思っています)
諸条件と言うのは、目に見える物見えない物、今の科学では分からない物も含めた全てです。
要するに、人間に自由意思はなくて、人間が自分の思考や選択だと思っている物も、順を追った機械的な反応のようなものではないかと思っているのです。
また、そう考えるとその機械的な人間だったり機械的な世界を作った創生主もいるのではないかと思えてしまいます。
創生主といっても、宗教の中での神様ではなくて、作られた立場の人間では知ることのできない、意思を持った何かということですが・・・。

以上のようなことを考えているのですが、科学的な知識や哲学的な知識がないため、この考えがどれだけもっともらしいかも分かりません。
科学的にこの考えは間違っているのでしょうか?
また、哲学の中では今まで同じようなことを考えた人もいると思うのですが、その考えがどう扱われてきたのか、またそういったことについて書いてある本など教えて頂けるとありがたいです。
さらに、回答者様がこのことについてどう思うかも教えて頂きたいです。
お願いします<(_ _)>

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A 回答 (17件中1~10件)

人間もそこいらに転がっているちいさな石刳れも形を持った物体ですから、複雑さに違いがあるだけで、石だって原子の単位から観察すればずいぶん複雑ではありますが構造物としては生物に比べて単純ですので機械とはいえません。


その点で植物くらいになれば一種の工場だというひともいますので立派な機械、構造体、システムです。つまり人間も自然が生んだ形のあるものであれば、恐ろしくふくざつなものではあっても、結局は機械の一種だろうと私も考えています。
人間が機械ではないと考えるひとたちの根拠は人間には精神が備わっている、これは機械とはいえない別次元のものだということですが、今あるコンピュータが機械にソフトがそなわって自在に自立して動き出しているのを見ると、やはり人間もロボットの高度なものではないかと思いたくなります。実際人間にもいろいろあって昔から傀儡のようだといわれた人間はたくさん居ましたw。
つまり「自由意志」というのは一種の空想のようなものかも知れないのですね。あるといえばあるし、ないといえばないかもしれない。でもその議論と、世界は未来まですべてが決定していて、誰もその運命を変えることはできないというような考えがそれに関わってくるわけでもないと私は思います。なので、機械と人間が同じ次元に居ても、特に造物主とか神とかを必然だとは私は思いません。
私が厄介だと思うのは、体とこころ(精神)の関係が、単にコンピュータとソフトの関係にとどまるのではなく、心がある意味電磁気的なもので、単純に個々の生体内での神経構造的なもの(機械)ではなく、電波のように空間を解して影響を与え合っている可能性を完全に否定できないということです。影響を与えている可能性のある場所が世界の果てにあるという可能性も現状では完全否定できませんし、そこに精神心霊論者がつけいる場所があり、心霊的有機体の存在を無視できない面もあるということでしょうか。もちろん、そういうものが存在したとしても、単に人体が放送発信局だったというだけであることだっておおいにあるし、あってもそれだけに過ぎないだろうと私などは思っているのですが。
いずれにせよ心の解明それ自体の困難さは単なる人間の脳の膨大さ、複雑さに因っているだけなので、いずれ近いうちに解明できるはずだと思います。

ご参考になれば。
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 精神活動はその形成過程を考えると、機械的に算出されるものではなく、不確定な要素を必然的に内包しているものだと思います。

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科学的には、妥当な思考とは言われないだろうと思います。


「科学的に間違っている」という具体的な意味が判然としませんが、「考え方が、論理的、実証的で、系統立っている」とも「考えの検証が自然科学の方法に合っている」とも思えないので、科学的には妥当な推論とはならないでしょう。
 
「人間はとても精巧な機械で、全ての思考や反応、感情でさえも諸条件から機械的に算出される」とした場合、同じ高校の三年生100人、同じ大学の同じ専門の三年生30人が、同じような論理科学的なテーマについての論述レポート4枚を読んで、そのレポートの内容の妥当性などを800字で記述したとして、どの程度似た状態の収束をするのかを想像してはいかがでしょうか。とても精巧に出来ていてすべての思考を機械的に行っているのであれば、ほとんど同じことになるでしょうが、実際にはそのようなことにはなりません。中学や高校の理科や数学の授業を受けての理解状況、応用力もずいぶん違います。少なくとも、個人差が大きいこと、精巧で機械的な処理をしているもののやることとはとても結論づけられないです。
個々人で思考や反応が違うこと、認知能力、記憶力、総合力、運動能力、運動視力、聴力、体力までずいぶん違います。
「人間はとても精巧な機械で、全ての思考や反応、感情でさえも諸条件から機械的に算出している」ということを立証するのは、統計的にみても無理です。立証できないし、証拠となるものを示せないのであれば、科学的ではないです。
サイコロを振って色々目が変わってでて来て、次に出る目を推定する方法がない場合には、機械的に目がでるとは言いません。 街路樹の木々も枝の出方、葉の付き方はそれぞれの木で違います。生命現象というか、生理現象と環境のバランスが造った造形というか、言い方は様々ですが、機械的に枝の出方が決まり、機械的に葉が広がり、一本の木が今の形になるとは言いません。 
自由意志というのは、意思のある面を強調するときの言い方と考えて良いでしょうか。自由でない意思というのは、出発点と考えるものが他からの強制であったり、環境の制約で、当人として(本当はそうしたくないが、止む得ずにある条件下で自分なりの思考をしているというメタ認識をしている)ことを示しているのでしょう。同じような状況でも、自分がその選択をしているという意識が少しでもあるならば、本人の自由意思でやっていると考えて良いのではないでしょうか。 わかりにくいことなので、例を挙げます。 ある女をとても好きになり気になってしょうがない状況にあって、自分で決断して女をつけ回り、ストーカをやり、覗きもやったという場合、本人がやろうと思ってやっているなら自由意思です。本人はやりたくないが、妄想と幻覚で背後霊に脅されてやりたくないのに女をつけ回り、ストーカをやり、覗きもやったという場合は自由意思ではないのです。当人が自分で選び取った思考や考え・行動だと思えば、自由意思です。 起きていよう、目を覚ましていようとしているのにいつの間にか意識が遠のき眠ったような状態になったのは自由意思ではないです。自由意思とは何かを考える場合、自由意思であること、自由意思ではないことのいくつかの例を自分で考え出して、自由意思とはなにを示す言葉として自分は使ってるのか、自分の言葉の意味を明確にすることも大事だと思います。 哲学書で自由意思についてかいてあるものを読んでも、それは自分が考えている自由意思とは違うものになってしまう可能性が高いです。
 
「人間が自分の思考や選択だと思っていても、順を追った機械的な反応のようなものではないかと考える」ことは可能なことが多いです。 映画や演劇の脚本家、演出家、役者、カメラマン、音楽家は、観客がどう反応するかを過去の経験やノウハウを駆使していて、多くの人がその制作側の意図に乗っかったように反応することが多いです。 心理学の研究が可能なのも、ある条件であると統計的にある傾向が現れるという事実に基づいています。 そして人気のアニメや映画、ドラマに一層人気が高まり、多くのファンを集めるのも、流行のファッションや大衆運動の高まりがあるのも、そうした影響が多くの人間の行動や思考傾向、好みに現れることが高いからです。
思考や反応、感情は諸条件に強く影響されます。それだけでなく、呼吸を10分も止めると死んでしまうとか、ある種の物質を飲めば興奮する、興奮がおさまる、ある種の光や音、振動を加えると不安や恐怖を起こすという場合もあります。気圧が40気圧になっても、0.1気圧になっても、そこまで変化する過程でも、生物には色々のことが起きます。
ですが、1000人、10000人が同じ条件でほぼ同じということは通常の条件変化ではあまりないことです。バラツキが大きすぎて、とても精密はないです。思考や感情に関しても、認知や感覚に関しても、個人でずいぶん違います。同じ個人でも、いつも同じではないです。 諸条件から機械的に算出されるという説明は、その諸条件と結果をそれなりに100人、1000人に適応出来る程度に具体的に説明できないと、納得を第三者から得られる科学的なものにはなりません。 仕組みそのものあるいは状況と結果のセットを具体的に説明・解明できない場合は、それは仕組みではないです。 もちろん機械的にとも言えません。 仕組みも不明確で、状況と結果のセットもはっきりしない場合は、機械的な世界を作った創生主を想定するのは無茶な思考、幻想としか言われなくなってしまいます。
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人間は機械よりはるかに複雑ですから、機械的というよりは、オートメーションであると言った方が、私にはしっくりきます。

しかし、人間がオートメーションだとしても、その人間は悩むものであり、その悩むという事実が、オートメーションたる人間と、世界の間に、埋め難い溝があることを証しているように思います。もし、この世がオートメーションであり、人間もその一部ならば、悩みなどなく淡々とした生き方となるはずでしょう。ですから、オートメーションであり、しかも、自由度を持ったオートメーションと言うべきなのではないでしょうか。
そして、その自由度故に悩みや選択が生じる。そして、それが生きているということであり、ここに創造主なるものを想定し、もしその視座で語るならば、人間と世界は、「作っている途中」と言えないでしょうか。
そのように考えました。
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人は結構単純なところがありますから。


そう思うのはにべなるかな。
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知識がないから、どういう扱いなのかはよく分かりません。



経験から思ってる事は、それほど機械的ではないのかも です。

心の中のこの部分は、全くマシーン的だな、と思ったことはあります。
この部分は、人の話を聞いて、今後の為にはこの表情をすべき、どんな言葉をかけるべきと判断し、行動します。
そしてその部分は、感情の部分は全く役立たずで意味がなく邪魔な部分と思っています。
泣いたり怯えたり楽しくなったり嬉しかったり(共感したり思いやったり何かを美しいと思って止まったりする部分も含む)、騒がしいばかりで何も出来ない 隙あらば蹴落として表に出ないようにしたい と。
でも最大の理由は、”理解できないから”
私(それらを内包し 見、考え、思う全体)は、世の中のサイコパスというものは、人格がこの部分しかない人なのかとも思いました。

ですがこの部分も、やたらと分析ばかりする部分も、(その部分が持ってる)感情無しには判断がつかない

分断される事があり、内部で争う?事がある以上、全くマシーン的なばかりではないような気がします。
ふり幅とどこが強く出るかが人や状態や環境によって異なりすぎ過ぎる。バランスの取り方が変わる。
感情によっての引っ張られ、嵐、混迷… このどうしようもないものがマシーンであることを邪魔し、足を引っ張る。
これこそが緻密なマシーンの部分だという事も可能でしょうが…どーしてもそうは思えない!!

ので、それほど機械的ではないのでは と思っています。
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>科学的にこの考えは間違っているのでしょうか?



はい。

間違っています。

ただし、ゴットフリート・ライプニッツという科学者(1716年没)が活躍していた時代には、多くの科学者が貴方と似たような考えを持っていたようです。

現在の自然科学では「確率過程」というプロセスが重要視されており、これは、一定の確率で次の事象がおこるプロセスです。サイコロをふって6の目が出る過程は確率過程ですね。

ありとあらゆるミクロの現象は確率過程を無視する事ができません。
社会生活で、宝くじを買って億万長者になる過程も確率過程と考ええることができます。


確率過程に加えてもうひとつ理解しておきたいのは、20世紀の後半になってイリヤ・プリゴジンという科学者が解明した散逸構造の「不可逆過程」です。
なかなか難しいのですが、自然界や生物が機械とは全く違うということは理解できるようになりますので、一度調べてみてはいかがでしょうか。

入門としては「混沌からの秩序」という名著がありますので、ご一読あれ。
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可能性はあるけど、それがわかった所であまり意味は無いでしょう。


言いたい事はわかりますよ。
例えば親鳥がせっせと自分を犠牲にして巣のひな鳥に餌を与える行為が人間から見ると子を思う親の気持ちになるけど、実際は単純に本能的な反射行為でしかないって事ですよね。
だから、托卵なんて行為が通用する…。

確かに人間もこういう本能的なかつ反射的な行為の集合が感情と言うものに見えるだけかも知れません。
では逆にロボットが単にプログラムの条件であたかも感情があるような表現をする…これを見てロボットに感情が無いと誰が言えるでしょうか…。

あるかないかという判断を行うなら感情や意識と言うものに対して明確な定義が必要になります。
人はまだこの定義を明確には持ってないと言う事です。
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「新時代とはなんのことなのか理解できませんでした。

どういう意味なのでしょうか」
    ↑
意味も何も・・・本来イエスキリストがしなければならなかった事が途中止めになってたのを 新しいキリストが全て成し遂げただけ・・

判らない人は その電車に乗ってるだけで目的地まで行けるので無理して知らなくて良いです

解かってる人が汗水流して頑張ってますから・・・・・
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>全ての思考や反応、感情でさえも諸条件から機械的に算出されるのではないかと思うようになりました



仮にそうだとしても自由意思は否定できないと思います

まず、機械的に算出されるという仮定は意思がどのように働くかを説明するものであって
それは意思が存在することと矛盾しません
ここで言う意思とは我々がなにかをするときに必要な心の働きのことで、仮定を用いれば
機械的に算出する働きが意思に相当すると考えられます

そして、意思が機械的であるならそれは自由意思であると言えます
なぜなら機械的であるがゆえに他者から意思への介入を受けないからです
つまり機械は決まった動きしかしませんから仮に創生主であっても
機械的意思を操ることはできません(できたら機械的という仮定と矛盾します)

ですので自由意思はrurubesanさんの仮定をしても存在します
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