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親鸞について読んでいたら、「横超」という考え方を目にしました。

仏教で悟りを求めて、修行をして、戒律を守って自分を高めて
縦に超えて行くのはイメージとしてよくわかるのですが、
親鸞の横に超えるというのは、正直よくわかりませんでした。

どなたか親鸞に詳しい方の解説をお願いします。

A 回答 (8件)

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菩提心に関する一考察
――明恵・法然・親鸞の所説をめぐって――

熊田健二

http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2 …

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法然の菩提心については、こちらにも
このpdfを貼っておきます。

バカハゲさんが紹介してくれた
選択本願念仏集十二章の箇所は
pdfの5ページで論じられています。

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この文に関する限り,法然は「善導の所釈」の浄土門に固有な菩提心の存することを認め,同時に聖道門・顕密諸宗の菩提心についても、これを全面的に否定する如き立場をとつてはいないのである。しかし同章の後段において,法然は再び菩提心否定の立場を明確にする。

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この回答へのお礼

興味深い論考ありがとうございます。
浄土系は不慣れなので、勉強になります。

お礼日時:2014/11/13 20:56

 どうも、真宗のボーズと呼ばれているものです。

今報恩講シーズンで忙しいもんで、手短に書かせていただきます。
 この横超の語の説明として親鸞聖人の文章でわかりやすいのは『愚禿抄』の冒頭の文章かと思います。とりあえず引用しますと

聖道・浄土の教について、二教あり。
 一には大乗の教、二には小乗の教なり。

大乗教について、二教あり。
 一には頓教、二には漸教なり。

頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
 一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
 二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
 一には「竪超」即身是仏・即身成仏等の証果なり。
 二には「横超」選択本願・真実報土・即得往生なり。

漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
 一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
 二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
 一には「竪出」聖道、歴劫修行の証なり。
 二には「横出」浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。

とあります。親鸞聖人は大乗仏教を「竪超」「横超」「竪出」「横出」で分類をしています。
 まず、竪横の違いですが、「竪」というのは、自力によって悟りを開くという考え方を表します。「横」とは極楽に往生して悟りを開くという事を表します。
 次に、超出の違いは、「超」は突然悟り、または悟りの世界が開かれるということです。「出」は徐々に悟りを開く、徐々に悟りの世界へ近づいていうことです。
 これを組み合わせますと上述のの四通りの悟り方があるという事になります。
 「竪超」は、何かのきっかけにハッと気が付いて突然悟りを開くこと。
 「竪出」は、長い時間をかけて段階を踏んで煩悩を消し去って、悟りに近づくということ。
 この二つを、自力の教えであるとしています。質問者のいう、

>>仏教で悟りを求めて、修行をして、戒律を守って自分を高めて
>>縦に超えて行くのはイメージとしてよくわかるのですが

というのは「竪出」のイメージかと思います。
 「横出」は、長い時間をかけて段階を踏んで煩悩を消し去って極楽浄土に近づくということ。
 このことを、他力の中の自力という書かれ方をしています。

 最後に本題の「横超」は順番に見てきたとおりの考えでいうと、煩悩にまみれているはずの人間に突然極楽往生というものがあたえられるという事になります。これは「正信偈」の中では、

煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり

とあって、煩悩を持つものが突如として仏の悟りへと導かれると説かれている部分がそれでしょう。
 このことがどのようなプロセスによって起こるかについては、『教行信証』信巻において

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。

と説かれ、横超はすべて真実の行つまり南無阿弥陀仏を称えることに集約をされているとしています。そして、親鸞聖人は私たちの称える南無阿弥陀仏を聞けといいます。

しかるに『経』(『無量寿経』の下巻「聞其名号信心歓喜乃至一念」の中)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。


私たちの称える南無阿弥陀仏は、そのまま阿弥陀仏が浄土に往生させようと働いてくださっている姿そのままであったと聞こえた時、それが信心であり、この信心が極楽往生の正因であるとしています。

 つまり横超とは、煩悩にまみれた凡夫が、南無阿弥陀仏と称える中で、自分で称えていたはずの南無阿弥陀仏が自分の声ではなく阿弥陀仏の声と聞こえたその瞬間(『教行信証』等では「信楽開発の時剋の極促」とあります)に、煩悩を持ったままで極楽往生の正因を得た姿を言うようです。


 あと、余談ですが法然聖人が菩提心を否定したという回答がございますが、これは正確ではありません。『選択本願念仏集』の中で法然聖人は、

「発菩提心」、その言一なりといへども、おのおのその宗に随ひてその義不同なり。 しかればすなはち「菩提心」の一句、広く諸経に亘り、あまねく顕密を該ねたり。意気博遠にして詮測沖邈なり。願はくはもろもろの行者、一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求むる人、おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。

と、菩提心の言葉は同じでも宗派によって使われ方が違うとしています。また、『逆修説法』の中でも法然聖人は浄土宗の菩提心について

次に発菩提心とは諸宗の意不同なり、今浄土宗の菩提心とは先ず浄土に往生して、一切衆生を度し、一切の煩悩を断じ、一切の法門悟り、無上菩提を証せんと欲する心なり。

と説いて、浄土宗には浄土宗の菩提心の考え方があることを示しています。つまり、法然聖人が否定する菩提心は「自力の菩提心」であって、浄土に往生し悟りを開こうという「他力の菩提心」は否定していません。しかも、否定というのも「往生には必要がない」という事ですのでご注意を。

 また、法然聖人の菩提心の考え方が、上述した親鸞聖人の横超の菩提心の原型であると考えられます。

 ちょっと時間がなかったので、かなりかいつまんでしまいましたがこんなところです。誤字脱字乱文はご容赦ください。
 合掌 南無阿弥陀仏
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございます。
竪のほうはわかりましたが、横は「横出」も「横超」も私にはやっぱり難しいです。

> 南無阿弥陀仏と称える中で、自分で称えていたはずの南無阿弥陀仏が
> 自分の声ではなく阿弥陀仏の声と聞こえたその瞬間
これで世界観が宗教的に転換するというのは、なんとなくわかりました。
もうすこし親鸞の著作を紐解いてみようと思います。

お礼日時:2014/11/13 20:54

敗北や劣等の苦しみから逃れる(=超える)方法に、


相手に勝つほかに、相手にしないという方法もある。
もともと競わなければ負けることもない。
ただしそれには、相手に「バ~カ!」と言われても、
『俺はバカじゃないのにバカ呼ばわりするなんて、
コイツはなんてバカなんだ』と笑い飛ばせる解脱が
必要だ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
親鸞も比叡山での京都人みたいなイヤミな世界から、
東国に引っ越して実直な農民に触れて
横に動いて世界が変わったのかもしれませんね。

お礼日時:2014/11/13 20:45

ちょっと失礼します。


親鸞は菩提心について言及しているのですね。

法然が菩提心を否定したかもしれないという話を
知ったばかりなので、意外なことばかり。
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親鸞の「教行信証」信巻に親鸞がみずから「横超」について説明しています。



「・・・・また、横についても二種ある。一つには横超、二つには横出である。横に進んでゆくもの(横出)とは、正行と雑行、定善と散善などにあたり、他力のなかの自力の菩提心である。また、横に飛び超えるもの(横超)とは、これこそ如来の誓いの力によって恵として与えられた信楽であって、これを仏になろうと願う心(願作仏心)という。この仏になろうと願う心は、すなわち横に飛び超える、大きな菩提心である。これを「横超の金剛心」と名づけるのである」

吉本隆明「最後の親鸞」の解説によれば「横超」とは、本願が成就された絶対にひとつの真実の完全円満な真の教えであって、つまり真宗である、ということです。
それに対して「横出」は「横に進んでゆく」であって、浄土に生まれんとして善に励む人々に応じた教えであって、仮の浄土である化土や懈慢界に生まれる遠回りの善である。
本願によって成就された清浄真実の浄土では生まれる人の種類や段階の差は言わない。わずか一念する間の瞬時に速やかにはやく最上の真の悟りをえる。だから「横超」というのである、と。

私もこの解説を読んでも、何を言っているのかよく分かりませんが、要するに浄土真宗こそ、浄土往生の「横超」の早道なんだ、と言っているように思えます。
なんのこっちゃ、真宗の宣伝か、と思いました。
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この回答へのお礼

親鸞はわかりにくいけど、吉本隆明もわかりにくいですからね。
2人の思考形式に似たようなところがありますね。
物事の論点をずらして、庶民ぽいところから語ってゆくような。。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/13 20:42

真宗さんのことは、真宗さんのWikiArkで調べるといいですよ。


WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/WikiArc:%E6 …

ということで、
《横超》で検索してみますと、
~~~~~
横超

 横は他力浄土門のこと。超は頓教(とんぎょう)のこと。

他力浄土門の中の頓教、他力不思議によって往生と同時に仏のさとりを開く第十八願(弘願)の法を指す。→頓教(とんぎょう)。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%A8%AA%E …
~~~~~
とのことです。

で、《弘願》で検索をかけてみますと
~~~~~
ぐがん

 広弘(こうぐ)の誓願(せいがん)の意。十方衆生を救済しようと誓った第十八願を指す。→要門 真門 (安楽集 P.269、法事讃 P.510)

 四弘誓願のこと。 (要集 P.910) →四弘誓願

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BC%98%E …
~~~~~
といったように調べることが出来ます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やっぱり第十八願も掘り下げないと
横超は理解できないようですね。

お礼日時:2014/11/13 20:39

 こんにちは。




 ○ 《横超》とは 信仰論あるいは神学というものは 入門・即・卒業であるという意味です。


 ★ 仏教で悟りを求めて、修行をして、戒律を守って自分を高めて / 縦に超えて行く
 ☆ これは 竪超(じゅちょう)と言うそうですが そうではなく《修行は さとりにとって 無関係だ(念仏は 非行非善なり)》というのが この横超だと説かれます。

 自力・聖道門に対して 他力・易行道です。


 
 ですが そういったお座なりの説明では 納得できないのではないでしょうか。出来ても その内容は 必ずしも親鸞に肉薄しがたいのではないでしょうか。

 こと信仰にかんすること あるいは 神にかんする神学というもの これらは いざ入門したときそのまま卒業である。竪超も横超もない。自力も他力もうんぬんすることもない。

 すなわち 即身成仏であり 即得往生である。

 いえいえ。この四文字熟語もあんまりさえません。

 神は――つまりこの場合は アミターバ・ブッダですが―― 神みづからのことにいちいちこだわらないで みんなの生活のこと・社会のことに自然なかたちでかかわりを持つようにしなさい。われ(つまり 神のこと)のことなど 放ったらかしでよい。・・・このように言っているということ。ではないでしょうか。


 親鸞自身が 坊主は要らない。オシエは要らない。葬式も要らない。シュウキョウは要らないと言ったのだと思います。横に超えます。
 
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この回答へのお礼

親鸞は横超に加えて、一念多念論争でも
阿弥陀様の慈悲はもうものすごく無限大で
入門即救済というような感じですよね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/13 20:38

こんにちは。



浄土真宗で使う「正信偈」の用語です。


「正信偈」
親鸞(しんらん)の著「教行信証」の行巻にある正信念仏偈のこと。弥陀・釈迦・七祖の教えを述べたもので、真宗では和讚(わさん)とともに読誦(どくじゅ)する。

デジタル大辞泉
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/13 20:33

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