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芥川龍之介さんの『鼻』を読んでいる外国人です。
いろいろな質問があります。

『鼻』には、このような記述があります。

>「禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。」
>「池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。」
>「鼻を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された。」

つまり、禅智内供は池の尾という所に住んでいました。池の尾と京都は違う所のようです。そして、「内供」というのは皇居の中に務めている僧のことですよね?「鼻」は平安時代の話のようですが、あのときの「皇居」が京都にあったじゃないですか。つまり、鼻を粥の中へ落した話は、内供の仕事場まで喧伝された、という意味ですか。

>「ところがある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者と云うのは、もと震旦から渡って来た男で、当時は長楽寺の供僧 になっていたのである。」

「内供の用を兼ねて」と「長楽寺」というところがわかりません。
「長楽寺」を調べたら、「京都市東山区にある寺」と「群馬県新田郡尾島町にある寺」が出てきました。
では、弟子の僧は、群馬県にいる長楽寺の供僧から長い鼻を短くする法を教わって、そして京都へ上って、ついでに池の尾へ内供を訪ねたんですか。
あるいは、内供と池の尾に一緒にいる弟子の僧が、ある目的のために(何のためかわからないが)京都へ上って、京都市にいる長楽寺の供僧から長い鼻を短くする法を教わって来た、という意味ですか。
「内供の用を兼ねて」の意味もわからないので、判断できません><

変な質問ですみません。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

「池の尾」は宇治です。

宇治は今と違って貴族の別荘がある、そうですね、東京と軽井沢や伊豆のような扱いだったと思っていただければ。

>内供の俗でない事を仕合せだと云った

これ以下の「内供」は、「禅智内供」のことです。
禅智内供は、おそらく位だけを得て、宇治に住んで、御用があるときにだけ宮中に召しだされる僧だったのだと想像ができます。
よって、

>「鼻を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された。」

宇治から京都の街中まで笑い話として「鼻の大きな僧侶が鼻を粥の中へ落とした」という話が伝わった、と思っていただければと思います。

>「内供の用を兼ねて」と「長楽寺」というところがわかりません。

「内供の用を兼ねて」=文中には書いてありませんが、弟子が京都へ行く必要があり
(お坊さんとして偉くなるためには、京都のお寺に行く必要があることがよくありました)
その時に「禅智内供」がたまたま京都に用事があったため、その弟子に用事を済ませてきてくれ、と命じたのでしょう。
よって、弟子が、禅智内供の用事を済ませることも含めて、「京に上った」=京都へ行ったのです。
このことから推察するに、長楽寺は群馬ではなく京都のお寺のことだと思われます。
弟子は、京都の長楽寺にいた「震旦(中国のことです)から渡ってきた男」に鼻を短くする方法を伝授されて、宇治=池の尾に帰ってきた、ということです。
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この回答へのお礼

わかりやすく解説してくれてありがとうございます。

お礼日時:2014/12/08 01:04

まず、


>「禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。」
>「池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。」
>「鼻を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された。」
から。

内供(内道場供奉)というのは、ご指摘の通り、皇居内に勤めていた僧です。
僧の中でもエリート中のエリートです。

池の尾というのは現在の京都府宇治市にある地名です。
京都の中心部である都から、ちょっと離れて住んでいたんですね。
宇治というのは昔から、貴族が忍んで出かける土地として有名でした。
寺社も数多くあり、禅智内供の寺もその一つだと考えられます。
「京都まで喧伝された」
というのは、もちろん内供の仕事場にも広まっていたでしょうが、ここではもっと広く、
「噂が京都(都)にまで届き、あちこちで知られていた」
という意味だと思ってください。
京都から離れて住んでいたにもかかわらず、京都にまで噂が届くほど有名だったわけですね。

「内供の用を兼ねて、京へ上った」
というのは、次のようにとらえてください。
禅智内供は大変地位の高い僧ですので、お弟子さんがたくさんいるわけです。
で、そのお弟子さんがちょっと都に出かける時があった。ひょっとしたら 最初から内供の鼻のことを相談するつもりだったのかもしれませんね。そこは書かれていませんが。

それならばと、禅智内供はその弟子に、~してこいと、何らかの「用事」を言いつけたわけですね。
だから「内供の用を兼ねて京へ上った。」となるわけです。
「上る」というのは、昔は都を格上のものとみていたので、そこに「行く」ときには「上る」と表現していたのです。

そしてお弟子さんは都で医者に会うのですが、このお医者さんは「震旦から渡って来た男」。
震旦というのは、今でいう中国のことです。
中国から渡ってきたお医者さんで、長楽寺の僧になっている方がいたのですね。
長楽寺は、「京都市東山区にある寺」の方で合っています。
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この回答へのお礼

わかりやすく解説してくれてありがとうございます。

お礼日時:2014/12/08 01:06

禅智内供はここでは人名として扱われています。


もちろん「内供」は宮中に務める高僧を指しますが、あるいは現役では無かったのかもしれません。
とにかく、禅智内供は池の尾=今の宇治市に居たことになっています。仕事場も池の尾です。
京の都からは20km弱、それほど離れていませんが、毎日通うには遠すぎますしね。

ですから、物語のほとんどは池の尾で展開します。

「内供の用を兼ねて、京へ上った弟子」
これは、「禅智内供に頼まれた用事も兼ねて、京の都へ行っていた弟子」という意味でしょう。
禅智内供は「内供」と呼ばれるくらいですから、今は池の尾に住んでいても、昔は宮中(皇居)に居たはずです。
つまり京の都のことも知っている。おそらくは友人知人も住んでいる。
だから、弟子が京の都へ行くと知って、何か用事を頼んだのでしょう。
誰かに手紙を渡すとか、何か買ってくるとか。(用事の内容は特に重要ではありません)

長楽寺はほぼ間違いなく東山の方です。
その医者は震旦(中国)から来日し、その時は長楽寺の僧になっていた、という事です。

弟子は、池の尾から京の都へ行き、長楽寺の医者(僧)に会って話を聞き、また池の尾に戻ってきたのです。
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この回答へのお礼

わかりやすく解説してくれてありがとうございます。

お礼日時:2014/12/08 01:05

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