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精神世界を探求しようとすると、自我と自己と云う言葉、あるいは事柄、がそれこそ真正面に立ちはだかります。

 自我に付いてはともかく、自己となると真我なんて言葉も同意として使われるようですが、この自我と自己、または真我、の違いを自己流的?に気づいたので是非を意見してみてほしく、質問します。

 自我なる物はこの肉体にべったりと張り付いて離れない心、ですが、自己・真我はこの肉体から離れた、或いは離れることの出来る、いややっぱり離れた、と云うべきか?そうした精神である、と。

 過去の哲学者たちは、こうした受け止め方をして思考していたんでしょうか。
 それとも私の"素敵な"発見・気づきなのでしょうか。

 知りたいです。

A 回答 (4件)

言葉は、何かを考えるためのツール、記録に残し後で参照するためのツール、他人と知識情報や手法、メッセージ、意向や感情などを伝えるツールです。


一つの単語でも、その使い方、使う場面、使う意図などで、意味が異なることは多々あります。
思い、葛藤している心情、考案、疑問を言葉を使って表現する場合でも、状況は同じです。
同じ発音、同じ表記をしても、使っている場面や意図、使用者で意味は異なります。
「うなぎ」でも色々の意味で使われます。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%AA% …
魚類のウナギでも異なった種類のものがたくさんいますし、食品として加工したウナギでも随分と色々の種類があります。
自我でも多様な意味で使用される単語です。自己についても同様です。真我という言葉は私が普段使っている辞書類にはないです。随分とマイナーな範囲でしか使われない単語だと思います。ヒーリングとか本当の自分とかを話題にする人の一部で使われているようですが、その真我という言葉を使用する方々が、自己や自我をどのように位置づけて固定的な意味で使用しているのかわかりません。おそらく気分的に、自己、自分、本当の自分、本当の自分に戻る、「真我が………」と使っているだけではないかと思います。
過去の哲学者たちとは誰のことかわかりませんが、有名な哲学を建てた人は、「自我はこの肉体にべったりと張り付いて離れない心のことをさす」とは考えなかっただろうと思います。それでは自我という語を使用しないと考えられない思考を示すことにならないと思いますし、自我という単語のツールとしての有用性もわからないです。
ある哲学者の思想について自分なりの素敵な発見をするのはいいですが、『自我なる物はこの肉体にべったりと張り付いて離れない心、ですが、自己・真我はこの肉体から離れた、或いは離れることの出来る、いややっぱり離れた、と云うべきか?そうした精神である』からは、一般的な用語法という範囲で「自我、自己、自分の心」の区別について素敵な発見という感じはしません。
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この回答へのお礼

元、高校生?さんには「悟性」という言葉についても聞いて見たくなりました。

この「悟性」という"哲学用語"は哲学者の間でも受け止め方に多少の違いが有るようですね。
私は今は理性を“一般的に共通の事柄に使う”のに対して悟性は“個人的な理性=個性”の反応、と見ていますがどうでしょうか。

お礼日時:2015/03/06 09:02

自覚は、肉体に付属した感覚器官に依存して生じるので、


発生時において、自己中心的な傾向を持ちます。
「肉体(物)」の感受からスタートし、「宇宙(心)」
としての自覚において、自我成立のための必要としての
環境性の自覚化(自我仮説(時間=記憶=過去(超光速))と
空間仮説(空間=予測=未来(光速下))の相補分化)は可能
になるのです(自律的生=生きること自体による充足=
最大充足)。
「自我と真我について」の回答画像3
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この回答へのお礼

psytexさんにはだいぶ前に一二度回答を頂いたことがあったように思います。
この回答も相変わらずのものですが・・・

自我仮説を"自我"、空間仮説を"真我"として解釈していいのでしょうか。
また、最大充足とは神につながる心、のことですか。
よく、愛という言葉も使われていますね。

確かに人の心は"愛"に由って、満たされた気分になります。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/06 08:31

心身二元論とか魂の概念の言い換えに読めます

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この回答へのお礼

頂いた回答はキーポイントを示して見せた、と云うことでしょうか。

なぜ心身二元論や、魂の概念につながるのか知りたいと思いました。

お礼日時:2015/03/02 00:24

めんどうな問いですねぇ。



 アートマンと言えば ふつうの生活の中で《おのれ( self )》という意味の言葉です。

 アハンというのが 《わたし‐が》という言葉です。

 アハン( aham )は アカン akan に成り得ます。母 haha ∽ kaka 嬶と言うくらいですから。

 アカン akan は アコウ akoo もしくは アゴー agoo になります。かみ‐へ(神‐戸)が カムベになりカンベにそしてさらにコウベになります。

 アゴー agoo は 母音のアが弱くなるとエゴー egoo に成り得ます。

 このエゴー egoo がギリシャ語やラテン語で 《わたし‐が》という意味の単語です。いわゆるエゴというときの元の言葉です。

 エゴー egoo から後ろの母音が落ちると eg や ek または ekh や ech にも成り得ます。
 ここから母音をさらに変えて ik や ich というのが ドイツ語などの《わたし‐が》です。
 英語などは さらに単純化して i ( I ) だけに成りました。

 イタリア語では 真ん中の -g- や -k- を落として io (イーオ)と言います。
 スペイン語では yo (ヨ)です。


 これらのアハン≒エゴーから 抽象的な概念として《わたし つまり わたしなるもの》という名詞をつくりました。つまり エゴです。これを受け容れて日本語では 《自我》としました。つまり 《わたし》のことです。

 《おのれ=アートマン》のほうは やはり抽象的な概念として 信仰における言葉に用いました。
 宇宙の主宰神ブラフマンの霊があたかも人間にやどるというようにして(想定して) その霊をもアートマンという語が意味するようになりました。日本語では《霊我や真我》と言っています。

 つまり 梵我一如――梵(ブラフマン)≒我(霊我・アートマン)の一体――というのは 信仰の問題です。

 エゴは 自我と訳そうと何と言おうと 《わたし》のことです。

 アートマン=霊我・真我は 身(感性・肉体)からも心(理性など)からも離れています。わたしは 《非思考の庭》と言っています。

 ただし たとえばヒラメキをとおして この霊我アートマンとわれの理性および感性とは つながっているとも見られています。

 つまり 人間は神とは違う――つまりアートマンは 肉からも精神からも隔たっている――と同時に その神の霊は ヒラメキをとおして われわれ人間と・つまり身の感性とも心の理性とも つながっていると想定されています。

  一切衆生 悉有仏性

 というのも 梵我一如というのとまったく同じ想定です。それは われらが存在における《非思考の庭》にて 信仰なる動態として活きていると見られます。

 こんなふうでよかったですか?
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この回答へのお礼

人間の発する声は"あ~"とか"わ~"と云うのが一番発しやすいから、その声に自分を主張する思いを込めたあたりから"言葉"が始まったのかな、と思いました。

また、ブラジュロンヌさんはアートマンと云うものは"ヒラメキ"というかたちで人の"こころ"とつながっていると云っていますが、このことは人の心に“受信する能力がある”という表現にしてもいいですね?

今は、この受信している得体の知れないもの、それが"仏性"と云われるものである、と解釈しておきます。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/06 07:56

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